7月2日(火)
木谷實という昭和の大棋士がある。
棋士としても大きな存在で、川端康成の『名人』には、世襲制本因坊の最後となった秀哉(しゅうさい)の引退碁の相手として、大竹七段の変名で登場する。
それ以上に、その門下から才能豊かな名棋士を群星のごとく産んだことで、碁の歴史に不滅の貢献を刻んだ。
その偉人の揚げ足とりをするのも気が引けるんだけど、
精魂傾けて読みふけっても結論が出ない時、木谷はよく
「百万光年かんがえてもわからない」
と言ったのだそうだ。
わざとかな、わざとかもしれないね。
「光年」というのは、「光が一年間かけて進む距離」のことだから、時間の単位ではなく距離の単位である。だから「百万光年かんがえてもわからない」は、「1キロメートル考えてもわからない」というのと同じで、本当は意味が通らない。
もっとも、考査担当者ではあるまいし、こんなのはムキになって指摘するのが野暮というものだ。
承知のうえで
「木谷先生でも百万光年、俺なんかビッグバン以来考え続けてもわかんないよ」
とダジャレていればいいのだが。
*****
こちらはちょっと悩んでしまう。
堀口大学の『母の声』
母は四つの僕を残して世を去った。
若く美しい母だったそうです。
母よ、
僕は尋ねる、
耳の奥に残るあなたの声を、
あなたがこの世に在られた最後の日、
幼い僕を呼ばれたであろうその最後の声を。
三半規管よ、
耳の奥に住む巻貝よ、
母のいまはの、その声を返へせ。
結句が特に有名である。
中学か高校の教科書で見て以来、今に至るまでしっかり覚えているのは、詩の優れていることの証左でもあるだろう。
僕は散文的な人間だが、要するにこの詩には惹かれるものがあるし、感動的だとも思う。
ただ、どうしても素直に鑑賞に浸れない、というわけは、
「三半規管」にある。
医学畑でなくとも、生物をマジメに勉強した者なら知っているように、
三半規管は巧妙にできた平衡器官であって、聴覚とは何の関係もない。
聴覚に関わるのは、詩人自ら「巻貝」にたとえている蝸牛管(カタツムリ管)のほうだ。
声を返せといわれても、三半規管としては当惑するほかないのだよ。
柔らかな詩の中に、ゴツゴツした解剖学用語を挿入したことは、詩人の工夫としてこの作品が長く注目されてきたキモの理由でもある。
そのキモに解剖学・生理学上の基本的な誤りが含まれているのは、音韻上いくらすぐれているとしてもやっぱりマズくないか。
といって、
蝸牛管よ、
では詩にならないんだろうな、たぶん。
堀口大学だけのことなら誰かが一度だけ指摘して、それと知りつつ詩を味わえばすむことかもしれない。
「百万光年」と同じことだし、切手だってエラー切手の方が値打ちが出る。
ただ、今回びっくりしたのは、「三半規管が聴覚受容器である」という間違いそのものを(たぶん)この詩から学んで、いまだに間違え続けている人の多いことだ。
論より証拠、「三半規管」でネット検索してごらん。
これは、これではいけない。
*****
最後にもうひとつ、思い出すたびに今でも複雑な感じを覚える記憶がある。
T大時代、毎年何人かの自殺者が学生の中から出た。
一学年に三千人を超える学生がいたのだから、痛ましいけれども統計上は不思議のないことだ。
確か教養二年の冬だったと思うが、法学部の学生がS池のほとりで縊死を遂げた。
遺書があって、そこに「自分の人生を関数に見たてて積分すると、その値がどうしても負になってしまう」と書かれてあったという。真偽のほどは分からないが、ともかくしばらくのあいだ話題になった。
ある日、生協で買い物をしていると、後ろの二人連れの会話が耳に(それこそ耳の奥のカタツムリに)入ってきた。
明らかにその件について話している。
「積分したって言うんだけどさ」
と、そのうちの一人。
「関数が不連続だったらどうするのかな」
相手は、困ったような苦笑で応じた。
理科系の学生たちなのだろう。
何か強く叫びたいことが胸の内に起きたが、それが死者に対してなのか、目の前の生者に対してなのか、どうにも分からなかった。
今でもよく分からない。
木谷實という昭和の大棋士がある。
棋士としても大きな存在で、川端康成の『名人』には、世襲制本因坊の最後となった秀哉(しゅうさい)の引退碁の相手として、大竹七段の変名で登場する。
それ以上に、その門下から才能豊かな名棋士を群星のごとく産んだことで、碁の歴史に不滅の貢献を刻んだ。
その偉人の揚げ足とりをするのも気が引けるんだけど、
精魂傾けて読みふけっても結論が出ない時、木谷はよく
「百万光年かんがえてもわからない」
と言ったのだそうだ。
わざとかな、わざとかもしれないね。
「光年」というのは、「光が一年間かけて進む距離」のことだから、時間の単位ではなく距離の単位である。だから「百万光年かんがえてもわからない」は、「1キロメートル考えてもわからない」というのと同じで、本当は意味が通らない。
もっとも、考査担当者ではあるまいし、こんなのはムキになって指摘するのが野暮というものだ。
承知のうえで
「木谷先生でも百万光年、俺なんかビッグバン以来考え続けてもわかんないよ」
とダジャレていればいいのだが。
*****
こちらはちょっと悩んでしまう。
堀口大学の『母の声』
母は四つの僕を残して世を去った。
若く美しい母だったそうです。
母よ、
僕は尋ねる、
耳の奥に残るあなたの声を、
あなたがこの世に在られた最後の日、
幼い僕を呼ばれたであろうその最後の声を。
三半規管よ、
耳の奥に住む巻貝よ、
母のいまはの、その声を返へせ。
結句が特に有名である。
中学か高校の教科書で見て以来、今に至るまでしっかり覚えているのは、詩の優れていることの証左でもあるだろう。
僕は散文的な人間だが、要するにこの詩には惹かれるものがあるし、感動的だとも思う。
ただ、どうしても素直に鑑賞に浸れない、というわけは、
「三半規管」にある。
医学畑でなくとも、生物をマジメに勉強した者なら知っているように、
三半規管は巧妙にできた平衡器官であって、聴覚とは何の関係もない。
聴覚に関わるのは、詩人自ら「巻貝」にたとえている蝸牛管(カタツムリ管)のほうだ。
声を返せといわれても、三半規管としては当惑するほかないのだよ。
柔らかな詩の中に、ゴツゴツした解剖学用語を挿入したことは、詩人の工夫としてこの作品が長く注目されてきたキモの理由でもある。
そのキモに解剖学・生理学上の基本的な誤りが含まれているのは、音韻上いくらすぐれているとしてもやっぱりマズくないか。
といって、
蝸牛管よ、
では詩にならないんだろうな、たぶん。
堀口大学だけのことなら誰かが一度だけ指摘して、それと知りつつ詩を味わえばすむことかもしれない。
「百万光年」と同じことだし、切手だってエラー切手の方が値打ちが出る。
ただ、今回びっくりしたのは、「三半規管が聴覚受容器である」という間違いそのものを(たぶん)この詩から学んで、いまだに間違え続けている人の多いことだ。
論より証拠、「三半規管」でネット検索してごらん。
これは、これではいけない。
*****
最後にもうひとつ、思い出すたびに今でも複雑な感じを覚える記憶がある。
T大時代、毎年何人かの自殺者が学生の中から出た。
一学年に三千人を超える学生がいたのだから、痛ましいけれども統計上は不思議のないことだ。
確か教養二年の冬だったと思うが、法学部の学生がS池のほとりで縊死を遂げた。
遺書があって、そこに「自分の人生を関数に見たてて積分すると、その値がどうしても負になってしまう」と書かれてあったという。真偽のほどは分からないが、ともかくしばらくのあいだ話題になった。
ある日、生協で買い物をしていると、後ろの二人連れの会話が耳に(それこそ耳の奥のカタツムリに)入ってきた。
明らかにその件について話している。
「積分したって言うんだけどさ」
と、そのうちの一人。
「関数が不連続だったらどうするのかな」
相手は、困ったような苦笑で応じた。
理科系の学生たちなのだろう。
何か強く叫びたいことが胸の内に起きたが、それが死者に対してなのか、目の前の生者に対してなのか、どうにも分からなかった。
今でもよく分からない。