散日拾遺

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夫ヨセフは正しい人・・・なので?なのに?

2013-07-29 11:53:52 | 日記
2013年7月28日(日)

毎月最後の主日礼拝は、協力牧師M先生が説教をなさる。
マタイ福音書の連続講解説教、その3回目。
マタイ1:18-25、マリア受胎の際の夫ヨセフの記事。
信徒なら誰でも知っており、説教でも繰り返し聞いている場面だが、

「通常ここは、
『夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず』
と訳します。
しかしギリシア語原典に戻って読むなら、
『夫ヨセフは正しい人であった、しかし、マリアのことを表ざたにするのを望まず』
と解すべきなのです。」

とたんに目が覚めた。
こいつは大変、微妙で重要なポイントを含んでいる。

予備知識が必要だ。
当時ユダヤの律法では、婚約中の女の不倫が公になれば、女は石打ちに処せられる可能性があった。
「ヨセフは正しい人だったので」とする通常の解釈は、「心正しいヨセフはマリアを思いやって、彼女が極刑に処せられないよう事を内密に運ぼうとした」という趣旨になる。

しかしこれは考えてみれば無理があるのだ。
「ヨセフは憐み深い人だったので」ならば、この解釈には問題がない。
けれどもテキストには「ヨセフは正しい人」とある。そこが問題だ。

この場合の「正しい」は dikaios(ギリシア文字が出せないので御容赦)、つまり神の義に関わることで、むしろ「義しい」と書くのがふさわしい。
そして、キリスト降誕に先立つこの時点で「義」とは言うまでもなく「律法の義」であるから、「正しい(義しい)人ヨセフ」としては律法に従うのが当然。
となればここは私情を抑え、婚約者に依らないマリアの懐胎を公けにすることこそ、彼に求められる「正しい」行為であったはずだ。
現代人の僕らが想定する「正しさ」とは、また違った義の論理がそこにある。
特にマタイは、旧約と新約の連続性に意を用いた福音書記者だから、「正しさ」の律法的理解に関してブレがあるとは考えられない。

しかしヨセフは別のことを考えていた。とすると、
「ヨセフは正しい人であったが、しかし」 と解するM先生の論は、もっともと思われる。
ヨセフはむしろ律法の義の要求から、彼の婚約者を守ろうとしたのだ。
彼が正しい人であればこそ、その葛藤は深いものであったはず、まして婚約者が自分に依らずに身重になったのだとすれば・・・

だけど、それで良いのかな?
疑り深いと思うのだが、読める限り自分でテキストを確認しなければ納得する気になれない。
これほど単純で明瞭な問題が、長年放置されてきたというのも不思議で。

帰宅、さっそく確認する。
あ~、ギリシア文字が掲載できたらいいのに!

当該部分の本文を強引に英語アルファベットで表記すると、
Iooseph de o anehr autehs, dikaios oon kai meh theloon ~
これは分詞構文だ。

dikaios oon kai meh theloon ~
ここを英語に逐語変換すれば、
being righteous and not willing ~
分詞構文は英語のそれと同様に多義的で、順接を表す場合もあれば逆接を表す場合もある(と文法書にある)。

どうやらマタイは、多義的な解釈をゆるす分詞構文を敢えて用いることで、ヨセフの葛藤を豊かに表現し、あわせて読者にも等しく悩むことを求めている。
そうは読めないだろうか?

そのことは「正しさ(義)とは何なのか」という根本的な問いを僕らに突きつける。
さらには、「律法の義から信仰の義へ」という福音書の中心テーマを、説き起こしていく伏線をも準備する。
だから、順接とも逆接とも特定できない表現こそが、このくだりに関しては正しい訳なのだ。

*****

試みに手許の各国語聖書が、それぞれこの箇所をどう訳しているか見ておく。

Her husband Joseph, being a rightesous man and unwilling to expose her ~
(NRSV)

Being a man of principle, and at the same time wanting to save her from exposure ~
(The New English Bible)

Joseph, son epoux, qui etait un homme do bien et qui ne voulait pas la diffamer,
(フランス聖書協会、1978版)

Josef, dem sie durch die Verlobung schon rechtsgueltig verbunden war, war ein anstaendiger Mann und wollte sie nicht oeffentlich verklagen.
(ドイツ聖書協会、1982年版)

ロシア語や韓国朝鮮語は、まだ意味を吟味できるほど読めないので省略。
でも、さしあたり十分だ。

英語は二種類とも分詞構文を使って、原文の形式そのものを踏襲する。
フランス語・ドイツ語は接続の順逆を明示せず単純に並列しているが、これが両面的な解釈を許す中立的な表現なのか、自然の流れとして順接を示唆するのかは、僕の判断を超えている。

NEB が at the same time という「注釈」を付しているように、意味を汲むとすれば「義の人であったけれども、同時に他方では」という逆接よりの解釈が適切なのだろうが、それをベタに表現したのでは、原文がわざわざ分詞構文を採用している趣旨を台無しにしてしまうだろう。
かといって、単純な並列ではいっそう原義から離れることになりそうだ。

さて、日本語ではどうなっているか。
現行『新共同訳』の「正しい人であったので」は、最善の訳とは言い難いように思われる。
ここでも各種の訳を見ていくと、

「夫ヨセフは正しい人であったので」(口語訳)
「夫ヨセフは正しき人にして」(文語訳)
「マリアの夫ヨセフは正しい人であったので」(フランシスコ会訳)

・・・どれもこれも順接だ。
ダメじゃん!

面白いのは塚本虎二の私訳で、

「夫ヨセフはあわれみぶかい人であったので」

dikaios の方を、「正しい」から「あわれみぶかい」に読み替えている。
だけど dikaios が「あわれみぶかい」という意味で用いられた例は、手許の辞書には見当たらない。
これはマズいんじゃないかな、
現代人の感性の側へ、原義を引きつけてしまったのではね。

日本語の難しさは、分詞構文に相当する多義的な表現がないことだ。
仏・独流に単純に並列し、「ヨセフは正しい人であり、マリアのことが公になるのを望まず」としたのでは、事実上、順接を意味するものになってしまうだろう。
(仏語・独語では、そうならないのかな・・・?)

なので私見としては、
「ヨセフは正しい人であったが、マリアのことが公になるのを望まず」
ぐらいの軽い逆接を採用し、
「えっ?」
という読者の驚きを喚起することを狙ってみたいかな。

M先生に感謝しつつ、このあたりでやめておく。

それにしても逆説だらけだ、聖書もイエスの言葉も。

当然だ。




おやしらず/愛労

2013-07-29 11:21:25 | 日記
2013年7月26日(金)

一週間前になるが、次男からメールがあって、おやしらずの抜歯を大過なく終えたという。
抜歯は小手術なので甘く見ないようにと言ってあったため、わざわざ知らせてきたのだ。

そこで一句、

 親しらず親も抜きたる昔かな

彼も負けずに返してきた。

 歯や去りぬわれも知らねば誰ぞ知る

???
それならこちらは、

 誰か知る知歯なき頬の片笑い

ここで途切れた。

僕は結局、おやしらず4本とも抜かれた。
1本めでけっこう難渋した時、

 知歯去って口もと寒き春二十歳

とひねったから、たぶん満20歳の時だったのだ。

日本語の「おやしらず」は、
「(生えてきた歯が)親の顔を知らない」という意味かな、それとも、
「(歯が生えてくることを)親が知らない」という意味かな。

同じことか。
確かに子どもの歯が生えてくるのを、親は一本一本確認する幸せをもっている。
というか、その機会をすべての歯についてもてる親は幸せだ。

知歯というのは、翻訳語かな。
英語で a wisdom tooth と言うようだから。
世間知がついてくる頃に生える歯と言う意味か。

*****

診療後、青山でCMCC前理事長・N先生に感謝の会。

席上、Fさんの想い出話。
「N先生はこまめにお便りを下さり、その中によく『御愛労に感謝します』とありました。
『愛労』という言葉は耳慣れないけれど、そのお心が伝わって感銘を受けたことでした。」

「愛労」・・・・・

「愛にもとづく労苦」ということか、
確かに他で聞かないけれど、なるほど良い言葉と思われる。

愛なき労苦の空しさよ