散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

一日の終わりに

2013-07-16 23:19:01 | 日記
2013年7月16日(火)

あらためて思うんですが

メンデルスゾーンという作曲家はもちろん知っていて、特にバイオリン協奏曲には御多分に漏れず惚れ込んでいて(どちらかというとチャイコフスキーの方が好きなんだが)

ストウという作家はもちろん知っていて、『アンクル・トムの小屋』は痛切に過ぎて愛読書とは言えないが畏敬の念は禁じ得ぬところで

讃美歌「あさかぜ しずかにふきて」は30年来の愛唱歌で、讃美歌集改変にあたって珍しく一字も修正されていないのを喜んでいて

何十年も別々に散らばっていたこれら三つの体験が、思いがけずひとつに重なったのが今朝の驚きだったわけです。

陳腐なようだが、ジグゾー・パズルのピースが三つ組みでぴたりとハマったような。
だけど、パズルのピースはハマるようにできているものと分かっているが、上の三つが結びつくことについては何の予測もなかったわけだから、個人的にはもっとずっとすごい体験なのだ。

こういうとき、生きてるのがわけもなく面白い。
いま読んでいる『秀吉と利休』、利休という人の美的感覚は、一見無関係なありふれたアイテムを路傍や野末から拾い上げ切り出し、それらを組み合わせて完璧な調和を創りだす性のものだったと思われる。

その境地にあれば、生きること、息をすることが、さぞや面白かろう。

*****

小豆島のMさん、毎日のように様子を知らせてくれる。

前に一度書いたかな、盲導犬はイヌなわけで、犬にとって足の裏は非常な急所であって、その急所を脅かすのが夏の陽に焼けたアスファルトの路面なのだ。

なのでパンディー君は、暑い日には靴を履いておでかけする。
Mさんは自分の靴は忘れても(忘れやしないだろうけれど)、パンディーの靴を忘れるわけにはいかないのだと。
アスファルトは旧約聖書の時代に遡る由緒正しい素材だが、今どきもう少しマシなものが作れないものだろうか。

今日は帰りの連絡船が高松を出た直後、スクリューに漁網がまきついて進まなくなったんだそうだ。
乗務員が海中に潜って取り除き、間もなく船は動いたらしい。
潜るって、素潜り?それともスキューバ常備?

そうだ、この夏は息子たちにシュノーケルの使い方を教えてやろうっと!

朝の挨拶 ~ S君と讃美歌とマララ・ユスフザイ

2013-07-16 08:31:55 | 日記
S君が忘れずエールを送ってくれる。

先週11日(木)、頼んで診てもらった患者さんの簡単な報告とともに下記
「さわやかにハイビスカスの 咲きいたる遠い記憶の常に 新し」(鳥海昭子)
ハイビスカスの赤い花は、常に新しい美を象徴するそうです。
ではよい一日を。高崎線より


今日16日(水)、連休明けの朝
「高原の花屋にあ りし朱鷺草(トキソウ)の 鉢なつかしく想うときあり 」(鳥海昭子)
朱鷺草はラン科の水仙のような花で献身を象徴するそうです。
今日は埼玉で働き、夕方前に都心に移動します。暑いなか荷物かかえ移動が多いとたいへんですが、そちらも同じような感じではないかと思います。
では、よい一日でありますよう。指扇(さしおうぎ)駅


つくづく思うのだが、「よい一日であるように」と祈ってくれる人があって、僕らは毎日を越えていく。
祈りは無力だろうか。
そんなことはない、内なる祈りを失う時に、外なる力も失われるのだ。

この言い方はパクリっぽいぞ、

「神が死んだなどということはありえない、神を見失う時にわれわれが死滅するのである」という意味のことを、確かハマーショルドが書き留めている ・・・・ ほんとかな、最近、記憶がアテにならないんだよな

*****

お返しでもないが、今朝うかんだ讃美歌の歌詞をS君に書いておく。

あさかぜ しずかにふきて、小鳥もめさむるとき、
きよけき朝よりきよく、うかぶは神のおもい。

ゆかしき神のおもいに、とけゆく わがこころは、
つゆけき朝のいぶきに、いきづく野べの花か。

かがやくとこしえの朝、いのちにめさむるとき、
この世のうれいは去りて、あおぎみん神のみかお。

原曲はメンデルスゾーン、無言歌集 "Lieder ohne Worte"からだ。
1835年出版の第2巻(作品30)第3曲、ホ長調、アダージョ・ノン・トロッポ《慰め》(作曲年代不明)

ついでのことに、歌詞の由来をたぐっていって大いに驚いた。
この曲に英語の詞を与えたアメリカ人女性の名は Harriet Elizabeth Beecher Stowe(1811-96)、つまり「アンクル・トムの小屋」の作者ストウ夫人である。
音源もここにあった。http://vimeo.com/51851071
邦訳は数々の名訳のある由木康牧師、道理で。

Still, still with Thee と題された詞(詩)は、詩編139にインスパイアされたものとある。
少々長いけれど、末尾に載せておこう。

メンデルスゾーン(1809-47)の作品は、その全体が祈りを響かせている。
いわゆる改宗したユダヤ人家系に属し、改宗しようがどうしようが変わらぬユダヤ人差別を経験せずにはすまなかったともある。その彼の曲に、アンクル・トムの作者が詞をつけたのだ。

そんなこととはつゆ知らず、しかし曲の慰めに満ちた美しさが、いつの間にか記憶の底に定着していた。
感動的な生い立ちの名曲だが、生い立ちを知らないままのほうが良かったかな、とも、ちらりと思う。

*****

マララ・ユスフザイの国連でのスピーチに、昨15日の天声人語が触れている。
パキスタンの16歳の少女は、自身を銃撃したテロリストを「憎まない」と言ったのだ。

しばし沈黙

新聞記事は沈黙しているわけにいかない、何か書かないとね。
そこで「慈悲の心」「非暴力の哲学」「先哲からの学びの厚み」と天声人語子が言うのは、間違ってはいないのだけれど、何だろうか、何かがな・・・

乾いた言葉では書きつくせない、涸れた哲学からは導き出せない、それこそ水のほとりの若木の輝きのような何かなのだ、きっと。

***** 資料 *****

【Still, Still With Thee】

Lyrics: Harriet Beecher Stowe
Music: Felix Mendelssohn

1. Still, still with Thee, when purple morning breaketh,
When the bird waketh, and the shadows flee;
Fairer than morning, lovelier than daylight,
Dawns the sweet consciousness, I am with Thee.

2. Alone with Thee, amid the mystic shadows,
The solemn hush of nature newly born;
Alone with Thee in breathless adoration,
In the calm dew and freshness of the morn.

3. As in the dawning o'er the waveless ocean
The image of the morning star doth rest,
So in the stillness Thou beholdest only
Thine image in the waters of my breast.

4. Still, still with Thee, as to each newborn morning,
A fresh and solemn splendor still is given,
So does this blessed consciousness, awaking,
Breathe each day nearness unto Thee and Heaven.

5. When sinks the soul, subdued by toil, to slumber,
Its closing eye looks up to Thee in prayer;
Sweet the repose beneath the wings o'ershading,
But sweeter still to wake and find Thee there.

6. So shall it be at last, in that bright morning,
When the soul waketh and life's shadows flee;
O in that hour, fairer than daylight dawning,
Shall rise the glorious thought, I am with Thee.


【詩編139】

1:【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを
究め/わたしを知っておられる。
2:座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
3:歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
4:わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを
知っておられる。
5:前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていて
くださる。
6:その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。
7:どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れ
れば、御顔を避けることができよう。
8:天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようと
も/見よ、あなたはそこにいます。
9:曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
10:あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手を
もってわたしをとらえてくださる。
11:わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光が
わたしを照らし出す。」
12:闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇
も、光も、変わるところがない。
13:あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててく
ださった。
14:わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/
驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきもの
か/わたしの魂はよく知っている。
15:秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。
あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
16:胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々は
あなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうち
から。
17:あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、い
かにそれは数多いことか。
18:数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても
/わたしはなお、あなたの中にいる。
19:どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、
流血を謀る者。
20:たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう
者。
21:主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌
むべきものとし
22:激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします。
23:神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、
悩みを知ってください。
24:御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、
わたしを/とこしえの道に導いてください。




見えない存在/養豚場の終わり

2013-07-15 22:32:28 | 日記
2013年7月14日(日)

そうか、パリ祭なのね・・・きっと大騒ぎだね。でも時差があるからまだか。

C.S.小学科で説教当番。創世記のヨセフ物語だが、有名な夢解きの場面ではなく、その後にファラオがヨセフに栄誉と全権を与える場面が指定されている。

むろん、ポイントはヨセフ個人の賛仰ではなく、神がヨセフを用いてどんな絵を描こうとしていたかにある。よく読めば、ヨセフ自身、ファラオ自身の言葉がそれを明示している。

神様の御計画?
未だに自分自身が納得していないこと、格闘していることについて、幼い者たちに確信ありげに語るのは、偽善ではないか?

ともいえない。
このことを信じ得るかどうかに魂の再生がかかっている、その認識は心からのものだ。

ふと思いついて、here and now に引きつけてみた。
いま皆の前に立っているこの先生が語っている、そのことが問題なのではなくて、
この先生に語らせている見えない神の力とメッセージが主題なのだ、と。

now と here をつなげると、nowhere になる。
「白水社の本棚」最新号巻頭エッセイの結びで、被爆地長崎に生まれ育った岡野雄一氏が書いていることだが、僕も気づいていたのに、注目して言葉にすることがなかった。
僕の話も nowhere だったのかな・・・

*****

礼拝の後、例によって七月生まれの生徒のお祝いをする。
今月8歳になるB-day girl に「皆さんから、何か質問はありませんか?」と司会者。
「ハイ」と手を挙げて、「18歳になった時は、何をしていると思いますか?」
言ったそばから後悔した。案の定、女の子は何も言えずにもじもじしている。

もうずいぶん前から、夢や将来計画に関する質問を子供たちは受けつけない。
僕らが子どもの頃には決まって訊かれ、胸を張って答えたこと。
「将来は何になりたいですか?」

「野球選手」「女優」「宇宙飛行士」「翻訳家」「お笑いタレント」「大金持ち」
もう誰も、そんなことは言わない。
「分かりません」「まだ決めてません」
そう返ってくるのが分かっているから、質問する方もこんなことは訊かない。
「好きな色は何ですか?」「好きな食べ物は何ですか?」「好きなスポーツは・・・」
バカバカしくても、そうではなくては答えが返ってこない。そのことをうっかりしていた。
「18歳の自分」なんて、分かるわけないでしょ、禁じ手に当惑して押し黙っている。

アホな親父をフォローする声が、後ろの方からかかった。
「誕生日のプレゼントには、何をもらいますか?」
なるほどね。
それでも女の子は答えられない。
視線を泳がせている先を見れば、どうやら一緒に来た母親に目で相談している風情。
何だか、いじめているような気持になる。時代は変わったのだ。

夕食時の次男氏、
「立派ないい話だったんだけど・・・」
しばし言いよどんで
「あれって、どのくらい伝わってるのかなぁ」

目に見える人物の背後に、彼を用いている神の力と計画があるという、そのことを言っているのだ。
話し手の狙いを過たず受け止めてくれたわけで。

「君なら、どうする?」
「そうねぇ・・・」

確かに伝わらないかもしれないのだが、伝わることを伝わるように話すというのは事のたかだか半面に過ぎない。さしあたり伝わろうが伝わるまいが伝えるべきことを語るのだし、そうする他はないということが残りの ~ より重要な ~ 半面である。これ、親父の矜持。

目に見えるものを超え、背後により大きな真の力があるということ、spirituality とは要するにこのことだ。そのことへの感受性が僕らの社会に大きく欠けており、就中、教育の中に欠落していたのだ。
いい大人がカルトに引っかかるのは、カルトに出会って初めて spirituality の重要性に直面するからだ。

世の中に女という生き物がいることを知らずに育った男が、いきなり悪女に出会えば手もなく籠絡される。幼い時から女について当たり前のことを知らされていれば、話はだいぶ違うだろう。

いま伝わらなくても、いつか思い出してくれればいい、そう思わなければこんな作業はできない。

「なるほど」

と次男氏。再来週は彼の番だ。

ところで、トーマス・マン晩年の大作に『ヨセフとその兄弟』というのがある。
円熟の老大家は、毎晩、明日は何をどう書こうかと楽しみに休んだそうだ。
邦訳はこれまた大家の小塩節、やはり晩節の仕事を楽しんだだろうか。
僕も人生のもう少し後の方で、楽しみに読んでやろうと確信的に積ん読状態。
まだちょっと早いかな。
うん、まだ早い。

*****

ずいぶん久しぶりに鶴見川 15kmコースに出かける。
2012年2月にハーフ・マラソンを走って以来、レースはもとよりランニングそのものを封印していた。
右膝の調子がいまひとつなのでね。
しかし、休ませておいて回復する兆しもなし、むしろ運動不足からかえって膝を守る筋力を落としている感じ。
で、0からやり直すことにした。膝に負荷をかけない、というか、負荷のあり方を今の状態の膝が許容できるものに修正する。早い話がフォームを変え、スピードをぐっと落とす。
これがしんどいんだな。慣れないフォームでゆっくり走るのは、なかなかしんどいよ。
いわゆるLSDと変わらない。

で、2年前には20kmを当たり前に完走できたのに、今は3kmで歩いてしまう。
まぁいいや、短くても遅くても、走れているならそのうちにパフォーマンスも挙がるだろう。

そういう次第で、以前は1時間半で走っていた15kmのコースを走ったり歩いたり2時間あまりかけて流す。
陽射しは強く、河原の緑は鬱蒼と重い。タチアオイやらキョウチクトウやら花は色濃く、魚がしきりと川面に跳ねる。蝉は聞こえないが、鳥はこまめに囀っている。

どんな走り方も自由だけれど、せっかく自然の近くに来て、わざわざ人工的な音楽で両耳を塞いで走るのが、僕にはどうもわからない。リズムに乗って快走できるというんだけど、それじゃ here and now の全否定じゃないか。自然の否認だってば。
まぁ求めるものが違うんだから仕方ない。すれ違いざま「こんにちは」と声をかけてくれる人が時々あるが、もちろんこの人々は耳に何も差し込んでいない。

前腕に塩の層がこびりつくほど汗をかいて無事ゴール。
久々の達成感の中で一点の落胆。

養豚場が閉鎖されていた。
豚のにおいも声も気配もなく、がらんとした敷地内に無人のショベル・カーが停めてある。
連休明けには取り壊されるのだろう。

持ち主が年を取って後継者がいないのか、近隣との折り合いがうまくないのか、経済的にペイしないのか、
理由は分からない。
いつかこの日が来るとは思っていたけれど、寂しいな。

都市部に農地や農業施設を残すことは、三大都市圏の居住者が総人口の半数を超えた現代だからこそ、政策的に留意すべき点だと思う。土と農業から離れれば離れるほど、人間の存在は危うくなる。
家ではゴキブリを叩けず、電車内にカナブンが一匹入り込んだだけでいい大人たちが恐慌状態に陥る、そんなところでどんな想像力が育つものか。富士山に登るにもヘッドフォンをかけていくことだろうよ。

そうか、だから音楽聞きながらのジョギングが忌々しいのだ。
耳は塞げても、鼻を塞いでは走れない。「臭い豚小屋がなくなってジョギングコースの環境が改善した」ってことにもなるだろうし、その方が「ふつう」なんだろうな。

先月の末に、次男の属するコーラスグループなど四団体合同の定演があった。
アンコールのアンコールは、指揮者のはからいで会場全体の『大地讃頌』大合唱。
感動の中で頭の隅が覚めていたのは、地面の露出部分など街路樹の根本ぐらいしか見当たらないコンクリートの真っただ中で、大地の讃歌に酔いしれる皮肉をついつい思うからだ。

何かが大きく間違っている。

「ふつう」のあり方がヘンなんだよ。


言ふまいと

2013-07-10 08:56:11 | 日記
2013年7月10日(水)

連日35℃、一週間前は27℃だったんだから、体もびっくりするよね。

言ふまいと思へど今日の暑さかな

言い得て妙だが、作者不詳なんだそうだ。
おかしなことだけれど、僕はある時期これを自分が考えた句だと思っていた。

そのぐらい、頭に自然に浮かぶようになっていたんだね。

だけどひょっとしたら、本当に自分で考えた句かもしれないと思う。
「自分も」と言ったほうが正しいか。

僕に詩心があると主張するわけではない。
こんなふうな句は複数の人 ~ 大勢の人々が、それぞれ異口同音につぶやいていても不思議はなかろう。
だから詠み人知らずなのだ。

詩って本来、そういった大きな共感のプールから立ち上る水蒸気みたいなものではないかしら。

ああ、プールに飛び込みたい!
中学生の息子がうらやましい!

やれやれ、行ってきます


誕生日と新年 ~ 個別化と共感

2013-07-05 07:43:56 | 日記
「誕生日と命日」の話を書いたところで、繁忙に突っ込んだのだ。
ブログも書けないなんて情けない。
書きたいことはたくさんあったので。

個人単位で誕生日を祝う習慣は、日本史の中で案外新しいのではないか。
これは誰でも考えることで、個人というものが尊重されるにつれ、その誕生日を祝う習慣も浸透したのに違いない。
しかし、たぶんそう単純でもないのだな。

少なくとも傑出した人物の誕生日は、昔からよく覚えられていた。
釈尊の誕生日は旧暦4月8日(ものの本・・・ではない、Wiki を見ると「インド系太陽太陰暦第2月15日」とある。どんな暦だろう?)、キリストの誕生日は12月25日、いずれも後世の操作によるものと考えられるし、後者は冬至の祭りを踏まえたもので、従ってキリスト教暦の新年でもあるのは分かりやすい。
(ついでに言えば、キリスト教の復活祭は春分の祭りの意味をもつと考えられる。そうしてみると、やはりシンボルとしての太陽の意義が大きいのだ。)

こういうウルトラスーパースターは別として、面白いところでは織田信長の件がある。
晩年の信長が、自分の誕生日を民に祝わせる計画をもっていたというのだが、どこで読んだ話だったかすぐには分からない。
その話を聞いたとき、戦国末期という時代の古さと「誕生日」の取り合わせが面白くて、印象に残ったのだ。

もちろん、これは例外であったには違いない。
しかし、一般庶民にとっては誕生日などなかったかといえば、それはそうでもない。
「正月」が「誕生日」だったからだ。

やや語弊があるか。

それぞれの誕生日にそれぞれ一歳ずつ年を取るのが「満年齢」のシステムだとすれば、
正月に皆一斉にひとつ年を取るのが「数え年」のシステムだ。
そのように考えれば正月は皆にとっての誕生日である。だからめでたいということがあった。

考えてみれば大らかで清々しいシステムだ。

クリスマスと同じく、正月は冬至の直後にあって、基本的には冬至の祭りだ。
冬至がなぜめでたいかといえば、それまで日ごとに衰えてきた太陽の力が、冬至を境に再び伸長に向かう、その転回点だからである。
フェニックスが灰の中からよみがえるというに似て、太陽が力を回復し新たな生へと向かう起点が冬至=正月。
太陽の新生と同期して、人もまた一斉に新生する。

君も僕も、彼も彼女も、お天道様にならって天地万物が一斉に新しくなるお正月。
お正月は皆の誕生日だったのだ。だからおめでたい。
お年玉は誕生日のプレゼントであり、それだけでなく身につけるものや身の回りのものを正月に一新し、それを一年使うという習慣もいろいろとあったのだ。

さて、そういう次第であるとすれば。

個人の誕生日を祝う習慣が浸透すれば、その分だけお正月のステイタスが低くなるのは当然で、これが実際、戦後の日本の家庭で進行してきたところではないかと思う。
皆一緒のお正月より、私固有の誕生日、それはちょうど皆一緒の居間・茶の間より、それぞれの個室を家族が(特に子供や若者が ~ 僕ら世代のだよ、言っとくけど)求めた軌跡と正確に平行する。

そしていま、個室よりも(少なくとも個室とあわせて)共同スペースが求められるように、誕生日とあわせてお正月が待望されるのではないかしら。

何しろ絆が待望される時代だからね。

*****

これは実は「共感」という大枠でとらえられることだ。

人と人との気がそろうこと ~ 小さな気、ミクロの共感
天地万物と連動すること ~ 大きな気、マクロの共感

どちらも欲しいのが人間、欲張りなようでも、人間はそういうふうにできている。

小さな共感と大きな共感

キーワードは「気」 ・・・ 日本人の手作りの精神病理学

そして共感をつかさどる自律神経系(sympathetic/parasympathetic nervous system !)とその失調

きりがないな