散日拾遺

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県民性

2013-08-05 22:34:01 | 日記
2013年8月5日(月)

「越後人は我慢づよい」と書いたことについて、O君の意見を聞いてみたくなった。
東京で生まれ育った彼の最初の任地は新潟で、そこで生涯の出会いにも恵まれたのだ。
きっと第二の故郷みたいなものではないだろうか。

実は、彼はもうその回のブログを読んでくれていて、以下のようなコメントをくれた。
趣旨を転記することについて許可をもらったのだけれど、いっそ全体をそのまま引いておこう。

 越後人は我慢づよい、冬の間、雪に閉ざされてきた越後の歴史とあわせて見たとき、私もそのように感じます。赤塚、野坂両氏の親世代に対してなら、まったくの同感です。
 ただ、新幹線や高速道が行きわたり、さらにネットで広範囲と結ばれるようになったいまの新潟県民が越後人であるかというと、東京人が江戸人(そういう言い方が妥当かどうかはともかく)と違ってきているように、かなり違ってきたと感じます。
 もちろん、中には越後人らしい若者もまだまだ少なくないのだと思いますが・・・。
 もう一つ、越後人は我慢づよい、と感じる時、比較対象として「表日本」の人間、都会の人間、私自身がありました。それは身をもって感じたものでした。
 そういう意味では、越後人も我慢づよいが、会津や山形の人たちも、もっとほかの地域の人たちも我慢づよい(我慢づよかった)のかもしれません。
 東北などの他地域の人間の目に越後人はどのように映っていたのでしょうか?
 そこは私にはわかりません。

いつに変わらず考え深いO君である。
おっしゃる通りだ。

住んだこともない僕が「越後人は我慢づよい」と言ったのには、それなりの根拠がないではない。
ひとつは、これまで医者として出会った新潟出身の患者さんたちの、一様に人並み外れて我慢づよく辛抱強かったこと。
いまひとつ、中越地震後に同地の教会への支援運動が東京教区で起きた時、ある人の言った言葉。
「新潟の人々は我慢づよくて、『困っているから助けてください』などと自分からなかなか言わない、こちらが先方の困難をよくよく察するのでなければ。」

しかし僕の出会った患者さんたちは概ね昭和20年代の生まれ、特に印象深い一人は新潟の中学校を卒業して集団就職で上京し、夜学で勉強しながらコツコツと努力を重ねてきた苦労人だった。県民性よりも、時代と世代の規定力の方がここでは大きかっただろう。
越後人に限らず日本人が押しなべて我慢づよく、またそうでなければ生き延びていけない時代であり、世代であった。
その一典型を新潟にも見るといったほうが、たぶん正しいのだ。

県民性といった括り方は、国民性同様、実は怪しげな広がりをもっている。
主観的な印象を「県民性」というまことしやかな仮想の実体で正当化する危険、
また、事実「県民性」が存在したとして、それで本当に説明できる限度を超えてむやみに乱用すること、
心理学で「過剰一般化」などと言ったかな、術語を持ち出さなくても考えれば思い当たることだけれど。

僕自身が「県民性」を語りたがる理由ははっきりしていて、それは全国規模で転居を繰り返したことによる。どこでも人間は人間、日本人は日本人、しかしいっぽうで微妙な空気の違いもあった。そうした違いを「県民性」で説明することが、時には自分の適応を助けてくれた。
しかし冷静に考えてみれば、「県民性」といった正体不明の概念に原因を見出すよりも、もっと具体的な条件から「違い」を説明した方がはるかに生産的であるように、今は感じる。
そしてもちろん、県民性よりも個々の人間の個性のばらつきのほうが、ずっと大きくもあり興味深くもあったのである。

*****

以下はついでのトリビアである。

O君が「表日本」にカギカッコを付している通り、日本の「表/裏」はそれこそ怪しげなものだ。太平洋岸を「表」とするようになったのは、黒船ショックとアメリカコンプレックスの産物というもので、先進文化も政治的・軍事的脅威(めったになかったことだが)も常に大陸からやってきた長い年月にわたり、日本海側こそが日本の「表」であった。歴史家の網野善彦などが勧めるように、地図をひっくり返して大陸側から日本列島を見てみれば、ただちにすべてが逆転する。

その時代、北陸の海岸線は日本の表玄関であり、前庭であった。
当然ながら、歴史書に登場する時期も早い。
O君の話からふと思い出したが、『古事記』では崇神天皇の条にいわゆる四道将軍(古事記ではこの言葉は使われていないが)を派遣して全国を平定する記事があり、高志(こし=越)つまり北陸道にも一軍が遣わされた。これが関東から北上した一軍とめでたく落ち合った場所が相津(会津)であったという。
O君が我慢づよさの連想から挙げた会津はこのように新潟から近く、北陸道と東山道をつなぐ要衝でもあった。
いま両地を結ぶのは、鉄道では磐越西線、道路では国道49号線、郡山で研修医時代を過ごした僕には懐かしいルートである。

1980年、医科大学に入って一年目の夏だったと思う。
後に勤務することになる郡山の精神病院を見学し、その足で新潟へO君を尋ねた。
緑の山間を縫って走る磐越西線の眺めが、したたるように美しい。
新潟駅に着いたは良いが、さてどこへ足を向けたものか。
東京を発つ直前に新潟へ回ることを決めたので、ハガキ一枚送っただけでそれ以上何の打ち合わせもできていない。
携帯電話の出現よりも15年ほど前のことである。

新潟駅前の市内地図を見上げて思案していると、腰のあたりを誰かにひっぱたかれた。
振り向くと、O君が立っていた。偶然、たまたま、仕事で駅に立ち寄ったというのだ。
偶然、たまたま、だ。

こんなことは、後にも先にも一度だけである。
ケータイなんてものができて以来、人はこういう体験ができなくなっている。
お気の毒さま。

県民性というものがあったとして、それが決定的に希薄になったのは、たぶんケータイの出現とほぼ同じ時期である。
むろんケータイが原因というわけではないが、偶然、たまたま、時期がそろったわけでもない。
ローカルな局在を無意味にするツールの出現が、局在の希薄化と同期するのは、あまりにも必然的なことだ。

『寅さん』シリーズが第48作をもって幕を閉じたのも、ピタリ同じ時期。同シリーズを撮影できる環境が全国から急速に消えつつあることを、山田洋二監督は痛切に感じていた。
渥美清(1928-1996)は、その頃合いを見計らうようにアバヨと去っていった。







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1 コメント

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携帯と県民性 (勝沼)
2013-08-06 22:47:59
 こないだ広島で女子高生がLINEを巡るトラブルから殺人をしてしまう事件がありましたが、彼女たちのLLINE(チャットみたいなもの)の文面が口語でバリバリの広島弁なのが驚きました。
 方言や訛りはまだまだ残ってますし、言葉の違いが生む県民性もまだまだ残っていくのではないかと思ったりもします。
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