散日拾遺

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生まれて死んだ迦具土神(かぐつちのかみ)

2015-12-03 09:30:53 | 日記

2015年12月3日(木)

 あんまり久しぶりで、ブログの書き方を忘れてしまった。

 その間も朝刊の『春に散る』は毎日読んでいる。広岡が、今は亡き所属ジムのオーナー真田との会話を回想するくだりにさしかかった。広岡の母は彼を産んだあとがこじれて他界した。妻の死の原因となった子どもを父は冷淡に扱い、兄も同様であったから、広岡には事実上家族がないようなものである。それで半ば家を飛び出すようにジム入りした。

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 今でこそ出産は比較的安全な営みになったが、あくまで「比較的」に過ぎない。元来、出産に際して母親が落命するのは珍しくないことで、引き替えに生み落とされた子どもは母を知らない上に、自分には責のない母の死の咎まで暗に負わされることがままあった。

 『古事記』では、イザナミは火の神を産み落としたために死んでしまう。イザナギは「愛しき我が汝妹(なにも)の命(みこと)を、この一つ木(ひとつけ = ひとりの子)に易へつるかも」と嘆きに嘆き、生まれた迦具土神(かぐつちのかみ)の頚を斬って殺す。迦具土神の体や飛散した血潮から八柱の激しく力強い神々が生まれ、その様は刀剣製作の順序を述べたものと註がある。実はこのくだりに至ると、いつもある種の憤りを禁じ得ない。仮想上の自分の運命を重ねているからかもしれないが、父親とは何ともかんとも残酷で身勝手なものだ。

 それはともかく、広岡は生きながらえた火の神のごとくに、鬱屈した思いを胸底に抱えている。父や兄に申し訳ないとはつゆ思わないが、自分と引き替えに死んでいった顔も知らぬ母を悼むのである。これを聞いた真田は、いつになく胸襟を開いて慰める。

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「親というのは、意識するかどうかは別にして、どこかで、自分の命を子どもに分け与えることを受け入れた人がなるものだと思います」

「・・・・・・」

「君のお母さんもそれは覚悟の上だったはずです。ただ、君の成長をこれ以上もう見られないのだと悟ったとき、きっと深い悲しみを覚えたことでしょう。しかし、親が自分の子どものために命を投げ出すこと、あるいは奪われることは少しも苦ではないと私は思います。無残なのは、意味もなく命を奪ったり奪われたりすることです。奪ったり奪われたりしたあげく、もっと無残なことをするようになる」

「・・・・・・」

「君はある意味で幸せな人です。自分が犯したかもしれない罪とも言えない罪を人に話すことができる。しかし、どのように信頼している人にも、どれほど愛している人にも絶対に語れないものを持っている人もいるんですよ」

 広岡には、その、語れないもの、というのがどのようなものなのか想像できなかった。

***

 広岡には想像できないが、読者は想像することができるし、することを求められている。オーナーの真田とトレーナーの白石は、応召先の南方の戦地で知り合った。絶対に語り得ない罪の体験が、戦争と関わっていることは間違いない。

 しかし真田は、それを直接語る代わりにこんなふうに口を開く。

 「ドイツの宗教思想家の言葉に・・・・・・」

 読書家である真田の博識に広岡は慣れていたが、「宗教思想家」が出てくるのは初めてだった。さて、誰の言葉か、どんな言葉か?想像をかきたてる第240回の末尾である。

***

 今月から、柿ノ木坂教会のCS通信に「生と死」に関する毎回1,000字の記事を連載させてもらっている。ムネスエ先生の御提案だから、No という返事はあり得ないのだな。第1回は「産声の奇跡」としてみた。第2回に向けて格好の教材を沢木作品が与えてくれるかもしれない 

 もうひとつは出生前診断だ。考えるだけでも重いテーマだが、どうにも避けては通れない。


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1 コメント

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奇跡 (被曝二世)
2015-12-03 21:07:48
生きていると、色んな奇跡に出逢います。

例えば、別々に知り合ってそれぞれ親しくさせてもらってるご夫婦と勉強仲間の女性が
実は、20年前の大学生の時からの親友と叔父さんだったとか。

これまで生きてきた中で、最大の奇跡は、やはり我が子の誕生でした。

石丸先生の書かれた 第1回「産声の奇跡」、もし可能なら 読ませていただきたいです。
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