散日拾遺

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喪の日も遠くない

2015-08-04 08:00:30 | 日記

2015年8月4日(火)

 「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」

(創世記 27:41)

***

 家庭内の殺人が意外に多く、かつ近年増えているという話。「家族なのに」というのだが、実は家族だからこそ殺意も湧くということを影山先生も指摘される。これに関する最も早く、かつ深い洞察の一例が聖書にある。聖書の記す人類史上最初の殺人は何を隠そう兄弟殺し、カインによるアベルの殺害だった。ギリシア神話における父殺し ~ その最初は厳父クロノス(=時間)に対するゼウスらの反逆・・・美の神アフロディテがどのように生まれたかは、とても子ども向け絵本には書(描)けない ~ と対比してみたいところで、兄弟殺しと父親殺しはむろん互いに深く深く関わっている。

 兄弟殺しのモチーフは、既遂・未遂を取り混ぜつつ旧約聖書の中で飽きるほど繰り返される。冒頭の引用はオチから言えば未遂例に属し、語り手は双子の兄、エサウである。その言い様というのが、要するに「親父ももう長くはない、存命中は辛抱していてやるが、親父が目をつぶったらその時こそは弟を亡きものにしてくれる」というわけで、潜在的には父も弟もやっつけちゃったようなものだ。弟が父の祝福を騙し取ったことで、エサウは憎悪の塊になっているのである。

 初めてここを読んだ時、弟に対する兄の殺意よりも、実の父の死を指折り数えて待つという心の動きに、大いにびっくりした。ですがこれこそ聖書のリアリズムというところで、こんな心理は別段ちまたに珍しくもないのである。そのことを『大地』もまたきっちり踏まえて物語を進める。

 

 「安心してください、お父さん、安心してください、決して土地は売りませんから」

 しかし、彼らは、老人の頭ごしに、顔を見合わせて、にやっと笑った。

(第1巻 P.411)

 

 「彼ら」とは、老人・王龍の長男・王大(ワンター)と次男・王二(ワンアル)で、彼らの将来設計の中には父親の喪の日が、次代への出発点として書き込まれている。当然ながらこの息子どもは、自身の子どもらに同じ扱いを受けることになる。代を重ねて変わらないのは、父親をひとつの資源と考え、それを最も有効に搾取しようとする息子らの性根だが、それでも息子を残すことを強く念願する代々の男たちは、いったい何のために生きているんだろう?

 「(王二は)子供らには不景気のような顔をして、店や市場で、貧乏人の子と同じに働かせている。だから王虎のところに行っている長男以外の者は、早く父が死ねばよいと思っている。親爺が死んだら、店や市場で働くのをやめて、父が着せてくれない立派な着物を着たり、歓楽の巷に出入りしようと待ち構えている。」

(第3巻 P.155)

***

 血縁上の、あるいは法律上の家族だからといって、生を願い死を悼むとは限らない。恐ろしい事実であるけれど、厳粛な真理でもある。聖書が愛を説くその伏線として、愛なき人間の悲惨な現実に対する、冷徹な認識がある。

 あらためて、家庭内での殺人が相対的に増えているのは、何でだ?


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