散日拾遺

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久々に質問に触発されること

2022-01-14 15:01:29 | 日記
2022年1月9日(日)~13日(木)
 授業なら学生、講演なら受講者からの質問で、思いがけない気づきや学びがあることは珍しくない。それがこうした仕事のありがたさであり醍醐味でもあるのだが、このところそうした楽しみにとんと縁がなくなっていた。誤植の指摘や言葉使いについての批判、質問と称しながら実際には持説を声高に主張して譲らないものなどが続き、これもこちらが播いた種かと気もちが萎えがちであったところへ、久々に小気味よい質問が立て続けに入ってきた。
 修正のうえ転記しておく。

【その1 ~ スペクトラムについて】
質問:
 発達障害に関するスペクトラム概念について質問させてください。 
 精神疾患については、発達障害以外にもスペクトラム概念が有用であるものがあるのではないでしょうか。たとえば心身症に関するアレキシサイミアや、シゾイドをはじめとするパーソナリティ障害などです。スペクトラム概念を発達障害に限定ないし強調すべき理由があるのでしょうか?

回答:
 おっしゃるとおりスペクトラムの考え方は、精神医学的診断の随所に適用できるものです。現に統合失調症はDSM-5ではスペクトラム障害とされていますし、双極性障害についてもⅠ型、Ⅱ型、気分循環性障害、発揚的な性格傾向などをスペクトラムと捉える考え方が有力です。
 やや話を拡げるなら、そもそも精神疾患だけでなく心身の不調はおしなべてスペクトラムの側面をもっているでしょう。主として実践的な必要性から、社会的・制度的・医療サービス的な諸事情を踏まえて敢えて線引きをせざるを得ないというのがH先生の御意見であり、私も基本的に同感です。
 このことを突き詰めていくと、哲学上の認識論やものごとの認知にかかわる脳の特性にまで話がつながっていくのではないかと思われますが、当科目の範囲を超えますので今はここまでにしておきます。

【その2 ~ 統合失調症のメカニズムについて】
質問:
 統合失調症の症状として幻聴があげられていますが、この場合、聴覚を司る脳領域に耳以外から刺激入力が送られているということなのでしょうか?
 また、幻聴以外に視覚・味覚・嗅覚などにも幻覚が生じる可能性があるのでしょうか? 

回答:
 よいところに着眼なさいました。「幻聴」という症状があるとすれば、聴覚を司る脳領域(聴覚領)に異常な刺激が発生しているのではないか」という推測は真にもっともであり、多くの研究者がその可能性を探索してきました。しかしこれまでのところ、それを裏づける所見は確認されていません。
 これに関連してかつて私自身の属していたチームが見出したのは、聴覚領など感覚を司る領域から入力を受けてその統合調整にあたる頭頂連合野(頭頂側頭連合野、頭頂側頭後頭連合野とも呼ばれます)に、何らかの機能不全が生じているらしいということでした。そこから先が難しいのですが、感覚入力そのものの異常というより、そうした入力の統合や意味づけに変調が生じているという考え方は、統合失調症の症状に照らして納得しやすいものだと思います。
 人間の五感にかかわる幻覚のうち、統合失調症における出現頻度が断然高いのは幻聴(聴覚)です。これに体感幻覚(聴覚)が続くとされ、幻視(視覚)や嗅覚・味覚領域の幻覚も認められるものの、幻聴よりはずっと頻度が低いとする報告を読んだことがありますが、そうした違いの生じる理由は分かっていません。
 まだまだ謎だらけというのが実情です。

【その3 ~ 平成12(西暦2000)年頃の日本人の変化について】
質問:
 「働く目的」に関する教材のグラフに依れば、平成12年前後を境にかなり大きな変化が生じているようです。この時期を境に「楽しい生活をしたい」が急激に上昇する一方、「自分の能力をためす」が急激に下降しており、他にも同時期を境とする変動が見られます。なぜこの時期を境に急激に変化が起きたのでしょうか。平成12年前後から、日本の社会が急に豊かになったとも思えないのですが、人々の意識をこれほど大きく変化させるような要因が他に何かあったのでしょうか。

回答:
 まず、当該箇所の執筆者であるY先生のお答えをお伝えします。
 「確かに、平成12年近辺を境に変化のあったことが読みとれると思います。あらためて当時の資料も参考に調べてみましたが、何か特定の出来事があったようにも思われません。
 調査対象となった世代の人々が生きた時代背景からの推察ですが、この人々が幼少期を送っていた頃には社会は豊かに成長し、身の回りには便利な物があふれ、不自由なく過ごすことができました。そして、ちょうどこの人々が物心ついた頃にバブル経済がはじけたのです。それ以降は社会全体に労働意欲が減退し、将来の夢を見据えて「自分の能力を試す」ようなチャレンジングな働き方への意識が薄れ、むしろ虚無的な雰囲気が支配的になっていたのではないかと思われます。
 そのような社会を肌で感じながら思春期を送っていた人々が、自ずと「自分の楽しみを追求する」ような生活スタイルを好むようになっていったのではないでしょうか。
 ご参考までに、働くことの意識が急激に変化した平成12年度の新入社員を表す言葉として、「栄養補助食品型」というものがあったようです。 ビタミンやミネラル(語学力やパソコン活用能力)を豊富に含み、 企業の体力増強に役立ちそうだが、直射日光(叱責)に弱く、賞味期限(試用期間)内に効果(ヤル気)薄れることがあるという意味だそうです((財)社会生産性本部)。
 便利な温室の中で過保護に育てられ、ハングリー精神が希薄な若者を揶揄した言葉ともとれますが、このような傾向がこの辺りの世代に急に現れたのではないか、と推測しています。」

 以上がY先生の御見解ですが、私もやや違った角度から似た意見をもっています。
 平成12年はちょうど西暦2000年、20世紀から21世紀への変わり目にあたる年でした。実はこの時期には、日本の社会の各方面でさまざまな変化が起きています。たとえば医療現場において、それまでは本人にひた隠しにしていたガンなどの宣告が、一転して本人に告知されるようになったのも概ねこの時期にあたります。
 振り返ってみれば第二次世界大戦の惨憺たる敗戦の後、経済の分野で仇を討とうとする「戦士」のように日本人は働き、安楽を求めることや死生の意味について考えることは否認され後回しにされてきました。それが「高度成長」の本質であり、それを支えたのは集団レベルでの躁的防衛であったと私は考えるのですが、そのようにまっしぐらに前進しようとする集団的熱狂が終りを迎えたのが、ちょうど世紀の変わり目ではなかったでしょうか。
 御指摘の変化は、日本人集団のこうした心理的変化に照応しているように思われます。
 その後も「自分の能力を試す」ことを生きがいとする逞しい若者は、個人のレベルでは現在に至るまで大勢現われてきましたし、これからも現われてくるでしょう。しかし、社会の風潮としては流行らなくなっています。「急に豊かな社会になった」のではなく、量的な拡大やひたすらな前進に幻滅を感じた人々が「現にある小さな豊かさを十分味わう」ことに価値を見出すようになった、そのようなことではないかと考えます。

 Sさん御自身はどのように解釈なさいますか?

Ω


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