散日拾遺

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6月18日:ド=ゴールが自由フランスを組織(1940年)

2024-06-18 03:44:26 | 日記
2024年6月18日(火)

> 1940年6月18日、フランス陸軍准将シャルル・ド=ゴールは、イギリスBBC放送を通じて、ドイツに対するレジスタンス活動を呼びかける演説をした。その四日前にドイツ軍はパリを占領し、17日にはフランスはドイツに降伏していた。ド=ゴールはイギリスに渡り、ラジオで「何が起ころうともフランスの抵抗の炎を消してはならない」と言う自由フランス結成の呼びかけを行ったのである。
 この最初の呼びかけは、彼が軍人で一般的には無名だったことから、それほど大きな反響はなかった。しかし、イギリスのチャーチル首相は、「彼は小さな飛行機でフランスの栄光を運んできた」と讃え、「イギリスと連合し、アメリカの産業協力によってドイツ軍を敗北させる」というド=ゴールの考え方に賛意を表したのである。
 この年の秋にはフランスの各植民地がド=ゴールのもとに結集し、武装組織自由フランス軍となって連合軍に参加した。その規模は当初八千人余りだったが、四年後には四十万人に膨れ上がり、ノルマンディー上陸作戦ではルクレール将軍率いるフランス第二装甲師団がこれに参加した。そして、1944年8月、ついにパリ解放を果たしたのである。
 その後、ド=ゴールは救国の英雄としてフランス共和国首相となり、さらに1958年12月には大統領となった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.175

 
Charles André Joseph Marie de Gaulle
1890年11月22日 - 1970年11月9日

 戦時に強い独裁者肌のリーダーで文才に恵まれていたあたり、チャーチル(1874-1965)とド・ゴールは妙に似ている。チャーチルはボーア戦争で捕虜となったが、便所の窓から脱走して名を挙げた。ド・ゴールの方は第一次世界大戦で捕虜となり、五回脱走を企てて五回とも捕まっている。全体戦争のさなかに脱走を繰り返しながら銃殺されもしないのが不思議なところで、戦争法規などというものは戦争をゲーム化し残酷さを希釈することによって、戦争という愚行を可能にするためにあるのではないかとも思われる。
 ルーズベルトはド・ゴールを忌み嫌い「あんな人間はマダガスカルの知事でもさせておけばよい」と吐き捨てたらしいが、これはルーズベルトが尊大傲慢の馬脚を現したというところ。チャーチルはどうだったか知らず、チャーチル夫人はド・ゴールの熱烈なファンだったらしい。
 イギリス国民は第二次大戦後にチャーチルをお役御免にしたが、フランス国民はド・ゴールを大統領に担いで第五共和制の舵取りを委ねた。何かと対比が面白く、『対比列伝』の現代版を編むなら「ヒトラー vs スターリン」の次あたりに「チャーチル vs ド・ゴール」が位置すること必定である。
 ド・ゴールは193cmの長身から「アスパラガス l`asperge」 と呼ばれた由。煮ても焼いても食えないこの巨魁の譬えにされたのでは、美味なるアスパラガスが気の毒に思われる。
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/シャルル・ド・ゴール

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