goo blog サービス終了のお知らせ 

散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

北の湖と輪島

2015-12-22 19:45:33 | 日記

2015年12月22日(火)

 11月26日(木)にほとんど書き終えていた下記の記事。今日、北の湖の日本相撲協会葬が行われたのを良いことに、遅まきながら掲載する。

***

 次の土日を無事に越せれば(註: 11月28-29日の多摩SC面接授業のこと)だいぶ楽になるので、そうしたらまとめて11月の振り返りをと思ったりするが、その間にも時流は容赦なく進んでいく。公務征旅の合間を縫って日記を綴った古人たち、たとえばマルクス・アウレリウスの偉大さが思われる。彼はローマ人だが、後に『省察録』としてまとめられるその日記はギリシア語で書かれていた。ラテン語とギリシア語はよく似ているけれども、微妙な違いのあることは、たとえば「神の国」がラテン語では civitas dei、ギリシア語では βασιλεία του θεου であることからも明瞭に知れる。 civitas の原イメージは共和制の都市国家、いっぽうの βασιλεία は王国だ。こうしたイメージが哲人皇帝の頭の中でどんなふうにもつれからんでいたのか、覗けるものなら覗いてみたい。

 この間にパリの惨事があり、空爆の報復強化があり、トルコによるロシア機撃墜があり、いくつもの殺人事件があった。これに対抗する生き生かす力も見えないところで働いているはずで、そうでないなら人類はとうに滅んでいる。そう信じることが被爆二世さんへの答えになろうかと思う。

 そう、この間に幾人もの気になる人々が他界した。中でも北の湖の訃報はまったく予想のほかで、軽くない病気を抱えているとは聞いていたものの、克服できると信じていた。

 

  北の湖の横綱昇進のことはよく覚えている。僕は高3の夏休み前で、その日は何故だか渋谷に出かけていた。今の渋谷とは違って、大盛堂書店や安い映画館など出かける理由がいくつもあったのである。で、何かの帰り道、西武百貨店あたりの街頭モニターに昭和49年名古屋場所千秋楽の取り組みが大写しになっていた。大関北の湖13勝1敗、横綱輪島12勝2敗、両者が対戦する結びの一番である。

 この二人は左の相四つだった。左四つなら右の上手から攻めるのが常道だが、輪島は違った。右からおっつけ左の下手から強烈な投げを放つ、余人に真似のできない独特の型がある。この時も立ち会いから輪島左下手、北の湖右上手、双方注文通りの回しの引き合いになった。輪島、右上手から北の湖の左下手をしぼり上げ、体の浮くところを渾身の左下手投げ。北の湖の恵まれた体が、もんどりうって仰向けになった。相星の優勝決定戦、その場を立ち去れなくなった。

 七月炎天下の渋谷でモニターを見守ることしばし、両者再度の対決は本割の再現となり、またしても輪島が北の湖をものの見事に投げ捨てた。頃合いを見て戻って来たらしい背後の通行人が、「さっきのリプレイか、え、 実況?」と驚きの声を上げるのが聞こえた。この夏、輪島は先輩横綱の意地と貫禄をむき出しに、日の出の勢いの北の湖の前に立ちはだかっていた。

 

 北の湖の他界にあたって、当然ながら輪島にインタビューが求められる。朝刊35面を見てしばし絶句。「輪島さんは下咽頭がんの手術を受け、現在は話すことが困難。取材には、(妻の)留美さんに輪島さんの言葉を唇の動きから読み取ってもらう形で応じた」とある。輪島の最初のライバルであった初代貴ノ花が口腔がん、北の湖が直腸がん、輪島までもがんの病苦に悩んでいたものか。

 新聞をはじめ各所で輪島とのライバル関係が回顧され、そのほとんどが「真の天才は北の湖だった」と評する。もっともながら、僕には少し異論がある。北の湖が稀代の大器であったことは疑いもないが、彼のそれは恵まれた天分をのびのび一直線に開花させたものだ。そこには翳りとかクセとか言うものがみじんもなく、朝になれば陽が昇るような自然さで頂点に登りつめた大きな不思議だけがある。輪島は違った。大学相撲から角界入りした経緯も当時はまだ珍しかった。ランニングを取り入れたトレーニング方法も独自なら、下手からの投げを決め技とする取り口もセオリー外れ。どこかワルの気配の漂う居ずまいを含め、現役時代からどこを切っても一クセ感じさせずにはいなかった。私生活のスキャンダルやプロレス入りなど引退後の話題にも事欠かなかったが、いつの頃からか名前を聞かなくなっていた。北の湖が陽なら輪島は陰、いかにも好一対のライバルである。北の湖が生来の大器であるなら、輪島は異能の天才と呼んでみたい気がする。

 横綱昇進後も、しばらく北の湖は輪島を苦手にしていたように記憶する。左の相四つだから立ち会いに大きな波乱が置きにくく、がっぷり四つの大相撲になる条件があった。あれは昭和51年の初場所だったろうか、型どおり右上手を引いた北の湖は、4本の指に加えて親指を通して輪島の回しをがっちり握り、さらに頭をつけた。北の湖が頭をつけた相手が他にあっただろうか、彼も必死だったのである。この工夫にさすが黄金の左も働きを奪われ、北の湖が堂々寄り切った。勝ち名乗りを受ける時、ちらりと右手の指を見る仕草がテレビに映った。親指の爪が剥がれたのだと、後で知った。

 両者の通算対戦成績は輪島23勝、北の湖21勝。「それは単に結果であって、勝ち越したことに意味はない。北の湖は本当に強かった」と輪島が唇で語った由である。朝日新聞もどこもここも、こぞって「真の天才は北の湖」だという。なるほど、星2つほどの多寡に大した意味はないだろうけれど、拮抗したこの数字はやはり何かを語っている。

 二人とも、本当に強かったんだよ!

  ← 74年名古屋場所、輪島が勝った。

  ← 76年初場所、北の湖が勝った。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。