散日拾遺

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今日は何の日?/ケニア料理のつらいところ

2014-10-14 06:53:00 | 日記

2014年10月14日(火)

久々に、今日は何の日?

✔ 1871(明治4)年、新橋・品川間に本邦初の鉄道開通。これを記念して「鉄道の日」。

✔ 1964(昭和39)年、MLK(マーチン・ルーサー・キング牧師)にノーベル平和賞。折しも東京五輪5日目だったのだ。

 彼と相呼応して公民権伸張に尽力したJFKは前年に暗殺された。64年の3月に起きたライシャワー大使事件が、精神保健福祉の観点からは忘れられない。

 MLKは1968年4月4日に暗殺される。同年6月6日にはロバート・ケネディが撃たれた。オバマが撃たれないこと自体、アメリカ社会の大きな変化 ~ 成長と言ってよいのだろう ~ を示している。彼の国の国際戦略は相変わらずだけれど。

✔ 1968(昭和43)年、メキシコ五輪の男子100m、ジム・ハインズ(米)が9秒89の世界新で優勝。10秒の壁を破った。

 メキシコシティは標高2,000mを超える高地にある。空気が薄いので長距離走者たちは難渋し、同じ高地から来たケニア・エチオピア勢の独壇場だった。その中でマラソン銀メダルを獲った君原はつくづく偉い。この日は「円谷のために」走ったという。いっぽう、空気の薄いおかげで短距離や跳躍は大いに活気づいた。ハインズの記録もその賜物で、200mではトミー・スミス(米)が19秒83で20秒の壁を破った。さらに凄いのが走り幅跳びのボブ・ビーモンで、公認ギリギリの追い風までも味方につけ8m90というとてつもない記録で優勝した。この数字はいまも五輪記録、世界歴代2位である。ここまではみな黒人、白一点(?)は走り高跳びで、ディック・フォスベリー(米)が独創の背面跳びで優勝したのがこの大会だった。

 200mには余話がある。金メダルを獲得した上記スミスは表彰式の際、銅メダルを獲得したチームメイトのジョン・カーロスと共に黒手袋をつけ、靴を脱ぎ黒ストッキングを履いて台に上がった。そして星条旗掲揚・米国歌演奏の間、右拳を高く掲げ頭を垂れるパフォーマンス(Black Power salute)を行った。言うまでもなく、米国内の人種差別に抗議したのである。彼らは即日アメリカチームから除名されたが、二人だけの突出した行為ではなかった。上述のビーモンは黒ソックスを、男子400mでメダルを独占したリー・エバンスら3人は黒いベレー帽を着用するという具合で、アメリカ黒人(今はアフリカ系アメリカ人と呼ぶのが正しい)の憤りが抑え難く気を吐いた大会だった。MLKが撃たれてからわずか4か月後、メキシコは米南部の地続きである。ベトナム戦争は激化の一途、70年の安保改定を控えて日本も騒然、続く冬には安田講堂事件が起きる。僕は小6で、生涯ただ一度の東北の冬の白さに、眩しい目を見張る毎日だった。

✔ 1974(昭和49)年、長嶋茂雄現役引退。後楽園で中日相手のダブルヘッダーが最後となったが、これ残念ながら消化試合。巨人のV10を止めた中日はロッテ相手の日本シリーズに向けて調整を優先し、若手の大島を除く主力選手は名古屋にとどまって二線級の陣容で臨んだ。当時は巨人ファンだったので、おさまらなかったね。シリーズは双方むやみに失策の多い凡戦続きを、金田率いるロッテが4-2で制した。

 「巨人軍は、永遠に不滅です。」

 まことに長嶋、このメッセージこそ永く残ることだろう。

***

 「シロアムの園」を紹介したついでに、公文和子医師から夏に聞いた話をひとつ。

 地域にも依るだろうけれど、アフリカには豊かな食材や伝統的な食品はあったものの、食文化としての完成度は総じて高くなかった。なので、植民地時代に受けた影響が自ずとその後を規定することになった。その結果・・・

 端的に言って、旧フランス領と旧イギリス領では料理のレベルが「ゼンゼン違う」というんだね。

 「えっと、ケニアは・・・」

 「もちろん旧英領です、ヒサンですよ。」

 和ちゃん先生、言い切った。

 小咄があるね、英仏海峡で漁師がカレイを釣る。

 釣りあげられたカレイは、イギリス側の漁師に釣られたと知ると、切ながって泣くというのだ。

 「せめて美味しく食べられたかった・・・」