散日拾遺

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人はパンのみにて

2014-09-10 07:36:47 | 日記
2014年9月10日(水)
 昨日の朝刊、文化欄に「人はパンだけで生きるのではない」の文字が見え、斜め読みの目を留めた。
 留めてびっくり、である。

> エコ的に生きようとしたら「我慢」の文字がちらつく。しかし、「人はパンだけで生きるのではない。楽しいことがないと生きていけないし、欲望を満たしていたいもの」。では、禁欲せず、どうやって有限性と付き合っていくのか。

 え~っと・・・
 「人はパンだけで生きるのではない」というのは、普通に考えれば聖書の引用である。
荒野の試練の中で、断食で空腹になった時、「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ」と悪魔が囁くのに対するイエスの返事として、マタイとルカの福音書が記録している。
 もとは申命記8章3節で、荒野の40年間に主がマナでイスラエルを養われたのは、「人がパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった」とするモーセの言葉に依っている。
 野暮な注釈だが、パン以外に何が必要かといえば「神の言葉」という霊の養いが必要だというのである。
 引用、ヘンでしょ・・・

 むろん聖書の言葉は他の「古典」同様、信奉者限定の私有物ではない。当然この言葉もさまざまな角度からあげつらわれ、「霊について語る前に、まずパンを与えよ」とする貧者(を支援する人々)の批判などは、ひとつの定番だった。(ただしイエスが、富者を排除しないまでも貧者が圧倒的多数を占める群衆に対して語り、その人々の共感を得たことに注意したい。)だけどその場合も、「パンだけではなく霊の養い」という本義はちゃんと踏まえられている。
 「楽しいこと、欲望を満たすことが必要」という文脈でこれを引くのは初めて見たが、筆者は著名な(僕はよく知らないが)文芸評論家で、本義を知らずに使っているとは思われない。一種のパロディということになるが、この文脈で聖書の言葉をパロディ化する意味があるのかな。
 『震災で気づいた「有限」の未来』と題するインタビュー記事で、「怒りの空振り」「限界楽しむ発想」「極限から人間像」と小見出しの続く、きわめてマジメな文明批判である。「危い同調傾向、個の感情しっかり持つ(ことが大事)」とも副題的に掲げられている。むしろ今日的な「魂の養いのススメ」と読んで良さそうだ。
 よほどキリスト教が嫌いで、無限の欲望もろともに斬って捨てたか、単にノリないし不注意か、どちらにしてもよく分からない。あまり誉められたこととも思われない。

***

 自分に対しての備忘として、「魂の養い」と「楽しいこと」とは ~ 「欲望を満たす」ことはともかく ~ 背馳するものではない、と書いておこう。前にも引いたかな、ウェストミンスター小教理問答の第一問。
 問: 人のおもな目的は、何ですか。
 答: 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。
 Q: What is the chief end of man?
 A: Man’s chief end is to glorify God, and to enjoy him forever.

 ここに enjoy の語が用いられている。en-joy すなわち「喜び joy に参与する」ことである。
 人はパンだけでは生きられない。喜びがなくては生きられない。
 加藤典洋氏の論説は、まさにそのことを扱っているはずだ。