散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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読書メモ 010 『柔らかな頬』と『氷点』/おりしも東京招致決定

2013-09-07 23:46:57 | 日記
2013年9月8日(日)

桐野夏生の作品は読んだことがないし、特に読むつもりもなかった。
なのに『柔らかな頬』を読むことになったのは、患者さんがこの小説にひどくハマっているからで。
読書家とは言えない女性だが、この小説ばかりはこれまでと違って感情移入してしまう。最初から最後まで自分がその中にいるように感じ、読み終わっても何かひっかかってもどかしく、再読中だという。これはホンモノの読書体験だ。

僕としてはMさんというこの女性を理解する必要があり、それで自分も読んでみることにした。
メタ読書とでも言うのかな、小説の謎にハマっている女性の謎を解くのが、当方の仕事であり関心事。
そういう次第で少々乱暴に速読、木~金の仕事の合間にちょうど24時間で読み抜けた。

北海道を舞台とした作品、主人公の女性はいわゆる不倫にのめりこんでおり、そのことが本人よりも子供を悲劇に巻き込んでいく。この設定からふと『氷点』を思い出したが、もちろん剽窃というようなものではなく別物だ。そういえば三浦綾子も桐野夏生も、「主婦」という立場から一躍、当代きっての流行作家になった。

それはさておき、この二作を実質的に比較する意味があるかといえば、あるんだよ、僕にはね。
端的に言えば、『柔らかな頬』に登場する人々の、罪の意識の薄さ乏しさがひどく気になるのだ。
罪悪感や後ろめたさが語られてはいるが、「長距離バスに乗ったら車酔いして吐き気がひどかった」ぐらいの重みしか伝わってこない。随伴物であり、結果であり、二次的なものに過ぎない感じだ。いっぽう『氷点』では罪の問題が全編を貫くテーマであり、そこはクリスチャン作家・三浦綾子の面目がよく現れていた。

断っておくが、「だから『氷点』が優れていて『頬』が劣る」といってるのではない。逆に罪の意識のどうしようもない薄さを存分に描き出すことによって、『頬』は大いに成功しているともいえそうだ。そのことを書き留めておく。
ついでながら『頬』に登場する宗教関係者としては、「イエスの方舟」を模倣するらしい怪しげな「牧師もどき」が一人あるだけで、僧侶も牧師・神父もまともなものは出てこない。この「牧師もどき」は未成年の家出娘(主人公カスミもかつてそうだった)を家に置いたために摘発され、物語から消える。それまでの短期間、彼がカスミを支えた手法は、業にも罪にも触れることなくただ心理的・身体的に相手の欲動を全面肯定し受容するという似非カウンセラーの流儀であること、いささかならず考えさせられる。

それはさておき『頬』においては、「罪」が本気で語られることがきわめて乏しいのだ。
そのくせ物語の半ばあたりから、登場人物たちがむやみに「赦し」を口にするようになる。
しかし「罪」を抜きにして「赦し」を語るって、ヘンじゃないか?一行飛ばしでしょう。

ヘンなのだ、実際。「赦し」といっても実際の語られようは、相手が自分を「赦してくれるか」という疑問形、あるいは自分は相手を/相手は自分を「決して赦さない」という否定形のいずれか限定で、「赦す」という肯定形はほとんど表れてこない。
何とも妙なんだよ、そのあたりのちぐはぐが。

「なあ、そろそろ俺と梨紗を赦してくれよ。いや、石山たちのことも」
「赦すって?」
「お前は誰も赦してないんだよ、一度も。だから、そんなに辛いんだ。」
(上、P.154)

「自分が便宜だけで久美子と結婚したことを、彼女はまだ赦していないのだと内海は思う。」
(上、P.232)

 私は夫と結婚したことをずっと後悔して生きてきたが、この日のことがいまだ赦せない。
(下、P.191)

 カスミは、自分が歓迎されるとどこかで思っていたのだった。しかし、黙って家を出た自分を母親は赦していない。
(下、P.220)

こんな具合で、それこそ誰も彼もが赦し(の不在)を語る。
なかでも強く赦されたがっているのが、カスミの不倫相手の石山だ。

「私はあなたたちを軽蔑してるもの。それで充分じゃない。何もそんな酷いことしなくても」
「でも、(俺たちを)赦さないだろ?」
「ええ、絶対に」
 石山は構わないとは思わなかった。たとえ軽蔑されても、赦されないよりはましだと思ったのかもしれない。しかし別れる決心をした以上、軽蔑されようが赦されまいが同じことなのだった。
(下、P.26)

 典子は自分を赦さないと言った。本当だろうか。石山は東京に帰ってから、暫くそのことばかり考えていた。
(下、P.32)

いっぽうのカスミは、石山とは対照的に自分は赦されるはずがないと知っており、その必要もないと強気に居直るようだ。

 誰にも赦されないことをしたのは自分であり、石山だった。しかし、それは同時に赦されることでもあった。周囲には赦されない裏切り行為でも、石山と自分はそのために生きていたのだから。カスミには自分を含めて、赦さない人間などいない。
(上、P.155)

ここで「赦さない人間などいない」と彼女が言うのは、実際には「自分の不倫を自ら赦す」という以上の意味をもっていない。文字通りカスミが「自分は誰をも赦している」と思っているなら大きな勘違いで、「誰も赦していない」という夫の先の指摘のほうが明らかに正しい。
自分に理解を示さない相手に対して、カスミが示す敵愾心やひねくれた攻撃性はその証明のようなもので、夫・森脇は鈍物であるためにカスミの内心では格好の攻撃目標なのだが、少なくとも「赦し」に関しては鈍物の方が真実を射るという皮肉な構図である。もうひとり、「牧師もどき」の緒方も「赦さず赦されない」カスミの苦衷をあっさり見抜き、「赦されたい願望」にほどほどに報いて彼女を養った。

みっともないほど率直に「赦される」ことを求める甘ちゃんの石山と、
「赦さない人間などない」と言いながら誰も赦さず、「赦しなど必要ない」と言いながら屈折した形で「赦し」を求めるカスミと、
何かと対照的な不倫コンビだが、破綻後に交わされた以下の会話は妙にかみ合っている。

「典子とはあれ以来、うまくいかなかった。俺を赦してくれたことは一度もないと思う。気まずくなって修復できないまま別れた。」
「私も森脇のところから出たの」
「有香ちゃんのことじゃないね。俺とのことがばれたのかい」
「両方あるから赦せないのよ」
「同じだね ・・・ 目が覚めて思うんだ。想像もつかないような人生だってね」
「そうね」
「でも、誰にもわからないんだよな」
(上、P.352-3)

誰にもわからないとは、たいした御挨拶だ。自分の過ちを人類一般の限界にすり替える、例の手法である。
そして両者に共通なのは、それぞれ「赦し」にあくがれていながら、そのために自分を変えようとは、少しもしないことだ。
自分の欲動に忠実な自分は、変えるつもりもなくその必要もない。ところで、誰か私に「赦し」をください・・・

***

「赦し」を「受容」と置き換えればわかる通り、それを必要としない人間など、この世に存在しない。いっぽうで、人は過つことが避けがたく、重大な過ちはしばしば「拒絶」を招来する。「拒絶」を超えて「受容」をとり戻したいと願うなら、「謝罪」が必要だ。「謝罪」が心からのものであるならば、それはその人間に何らかの変化を ~ 誤った方向から正しい方向への転換を、起こさせずにはすまない。
「悔い改め」と訳される言葉 μετανοια は、ギリシア語で「方向転換」を意味する。

「無常とは仏説というようなものではない」 ~ 小林秀雄の筆法に依るなら、「悔い改め」とは耶蘇の教義というようなものではない。「罪」に直面せず「悔い改め」を経ないのでは、「赦し」もなく「受容」もない。これ、人道の根本というようなものだ。それを自身のあり方は不問に付したまま「赦し」を求めるのは、金を払わずに商品をよこせというようなもので、その厚かましさが主人公たちをいやらしくしている。

ついでに、精神分析でいう「抑圧されたものの回帰」を持ち出してもいいかもしれない。
カスミにおいて抑圧された罪悪感が、有香の行動を引き起こす。
「正解」の示されないこの物語の有力な解答指針として、作者自身がこのような方向を示しているように僕には見える。

さて、Amazon のカスタマーレビューでは『頬』は4.1点と高い評点だが、売れた作品の常として若干の酷評もくっついている。

「登場人物の描写が薄い」というのは、言われてみれば当たっているかもしれない。
「ラストが『?』」「すっきりしない」という評はどうだろうか。作者がまさしく「すっきりしない」状況そのものを描こうとしたのであれば、これはむしろ高い評点の理由となるべきものだ。
そしてそのラストは、上に述べたとおりカスミの抑圧された罪悪感を外在化された形で描き出している。
それを考えるならば、「すっきりしない」というほうが少々アタマが悪いかもしれない。

その欠如の相を存分に描くことによって、『頬』は『氷点』に劣らず「罪」の問題に深く立ち入っている。
僕の感想はそんなところだ。

***

追記: 以上の風景の中で、内海という人物だけが少々様子が違っている。

34歳の敏腕刑事がガン末期と知らされ(というか医師から聞き出し)、残された時間を幼女失踪事件のボランティア捜査に充てようと考える。その目に映る人生の変貌、時々刻々滅びに向かう自己の身体、カスミというおよそ異質の存在との短く濃密な交流、それらがこの作品の厚みを飛躍的に増している。

そういえば「赦し」という言葉が、以下では肯定的に使われていた。
全編でただ一カ所ではなかったかしら。

 病を得て初めて、他人に何かを赦した気がした。それは自分の弱さを見せることだろうと、内海は砕けた気分で思うのだった。
(下、P.119)

さてしかし、Mさんはなぜ、何に惹かれて、これを読むのだろう?
読んでもさっぱり閃かず、それこそすっきりしない。
こちらの謎解きは未だ迷宮深く、まるっきりこれからだ。
アタマ悪~

*****

2020年五輪の東京招致が決まった。

教会学校では中高生相手にギデオンの物語(士師記 6:1-7)、主かバアルか、汝いずれを神となすや。

秘められたメッセージを正しく聞きとる者が、歴史の勝者となる。そしてメッセージは勇気をもって「方向転換」する者にこそ与えられる。

東京招致の歓喜が「一行飛ばし」に陥らないように、

悔い改めよ・・・

読書メモ 009 『メディア論』から『徒然草』へ

2013-09-07 00:02:47 | 日記
2013年9月7日(土)

勝沼さん、ありがとう。

内田センセイと synchronism をそんなふうにつなげて考えていなかったので、面白かったです。『シジュフォス』への熱い共感などからは、むしろ安易な synchronism と予定調和 - 右翼的であれ左翼的であれ - に対する批判が予想されるし、それはそうだと思うのですが、「分からないけど必要そうだから学んだり行動する方が世の中も個人もうまく回っていく。そういう人間は本人にはちょっと分からない偶然によって生かされてるわけで、そうなると謙虚に助け合って生きていくのが当たり前になっていく。だって自分の成功は自分だけの力で説明できないわけですから」と流れていく論旨は、気持ちよく腑に落ちます。

ついでですが、「市場原理こそが教育崩壊の主因である」(P.117)というのは全く同感、勝沼さんが院生であった時代に桜美林の下っ端教員の石丸も、ことあるごとにこれを主張したものでした。私の場合は「サービス至上主義が結果的にサービスの質を低下させる」という表現が多かったかな。ただ、内田センセイほど力がなかったので、「マスメディアだけが例外(的に理解を示さない)」(P.118)とカッコよく言いきる前に学園内部の壁にぶつかり、虚しく自爆特攻を繰り返していたのでした。

さて、忘れないうちに。

> さしあたり、「市場経済が始まるより前から存在したもの」は商取引のスキームにはなじまない。(P.107)
> (強く同感し、かつ付記したいことがあるが、稿を改める。)

「付記って何ですか」ってところで。
市場経済との起源の古さを競わせるよりも、少し違う観点から論じる必要がありゃせんかな、ということだ。教育や医療が市場経済に先行する基本的な営みだというのは分かるけれど、衣食住の必要だって市場経済より古いからね。

『徒然草』にこんなくだりがある。

 思ふべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。餓ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過すを楽しびとす。ただし、人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせん。(第123段)

衣食住+医療ということで、その充足・不足をもって貧富と奢りの定義とすること、まったくもって理に適っている。『徒然草』は風流や仏説のあり方ばかりを説いた訳ではないのだ。兼好法師という人はかなりタフなリアリストだと思うよ。
それはともかく、「貧」の克服は市場経済に全面的にゆだねるわけにいかないというのが、二十世紀初頭の人類の大きな体験学習だったわけで、そのことは付記しておきたいのだ。「貧」との闘いは市場経済よりはるかに古い、そう言い換えても良いかな。

ところで、『メディア論』の第五講は「変えないほうがよいもの」論でしたね。
上のくだりを探してページを繰っていたら、ありましたよ。

 改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり。(第127段)

聞いたか、マッチ・ポンパーども!


吉田兼好(菊池容斎・画、江戸時代)