2013年8月30日(金)
(振り返り日記)
Hさんが久しぶりに外来に姿を見せた。
10年以上前に患ったうつ病はすっかりよくなっているが、その後、思いがけず身体難病を経験して命を拾った経緯もあり、ときどき近況を語りにやってくる。
帰り際に、本を一冊置いていった。
自分はもう読んだので、良かったらどうぞ、と渡されたのは、
『モリー先生との火曜日』(ミッチ・アルボム/別宮貞徳)
ALSを宣告された恩師のもとへかつての教え子が通い、「人生の意味」をテーマとして二人だけの授業を続ける、その記録であるらしい。
「病気で肉体はやられても、精神はやられない」という文が目次に見える。
今も致死的な再発に脅かされる、自身の闘病が重なるのでもあろうか。それをHさんは「読め」と言われる。
御礼とともに受けとりながら、別の感慨がある。
今週の月曜日に土橋正幸さんが亡くなった。
火曜から水曜にかけてALSという病気について思いをめぐらし、勝沼さんらとやりとりした。
そして金曜日に、久々に会った人からこの本を渡された。
Hさんは野球には全く関心がない。もちろん土橋正幸が誰だか、何で亡くなったか、いっさい御存じないのだ。
*****
むろん偶然の一致である。
しかし、どういう顔をして ~ どういう声を、態度を、言葉を、感情をもって ~ この種の偶然を受けとめたものか。
スビドリガイロフ 「なぜ率直に言われんのです、これは奇跡だと!」
ラスコーリニコフ 「だって、たんなる偶然かもしれませんからね」
この種のことが頻繁に、ほとんど日常的に起きるので、奇跡か偶然かなどと問うこともしなくなった。はっきりしているのは、事はいつでも起きるべき時に起きるということだ。
英語の coincidence という言葉には、妙に色っぽいところがある。synchronism の方がふさわしいか。複数の事象が時を同じくして起きることを「中立的に」表現するポーズをとりながら、指摘自体によって背後の何者かに秋波を送るかのような。
ウソだ。中立などありえない。
そこに意味を見るか見ないか、というより、それが同時発生的であることを認めるか認めないか、そこで人は截然(せつぜん)と分かたれる。「是」とする心と「否」とする心との間には、暗くて深い隔ての河が口をあけている。
J. モノ―の『偶然と必然』、あの本の原題は、"le hasard et la necessite"というのだ。hasard は英語のハザードにあたる。中立というよりも、ある種の敵意を感じるのは思いすごしではあるまい。この場合、中立というのは「意味をもたない」(推定無罪!)ことに傾斜するから、実際には意味を見る姿勢に対して敵対的なのだ。モノ―の主張が、ということではなくて(それは全く関係ない)、言葉の構造がそうなっている。だから日和見はあっても、中立はありえない。冷戦下の国際関係のようなものだ。
***
誰を言い負かそうとも思わないし、言い負かされまいと構えるのでもないが、ともかく・・・
この週、土橋さんの訃報からHさんに本を贈られるまでの一連の synchronism に意味を見ないなら、人生は生きるに値しない。あるいは、そこに synchronism を見なくなったら、もはや生きていくことができない。
どの神を信じる信じないとは、関係のないことだ。
(振り返り日記)
Hさんが久しぶりに外来に姿を見せた。
10年以上前に患ったうつ病はすっかりよくなっているが、その後、思いがけず身体難病を経験して命を拾った経緯もあり、ときどき近況を語りにやってくる。
帰り際に、本を一冊置いていった。
自分はもう読んだので、良かったらどうぞ、と渡されたのは、
『モリー先生との火曜日』(ミッチ・アルボム/別宮貞徳)
ALSを宣告された恩師のもとへかつての教え子が通い、「人生の意味」をテーマとして二人だけの授業を続ける、その記録であるらしい。
「病気で肉体はやられても、精神はやられない」という文が目次に見える。
今も致死的な再発に脅かされる、自身の闘病が重なるのでもあろうか。それをHさんは「読め」と言われる。
御礼とともに受けとりながら、別の感慨がある。
今週の月曜日に土橋正幸さんが亡くなった。
火曜から水曜にかけてALSという病気について思いをめぐらし、勝沼さんらとやりとりした。
そして金曜日に、久々に会った人からこの本を渡された。
Hさんは野球には全く関心がない。もちろん土橋正幸が誰だか、何で亡くなったか、いっさい御存じないのだ。
*****
むろん偶然の一致である。
しかし、どういう顔をして ~ どういう声を、態度を、言葉を、感情をもって ~ この種の偶然を受けとめたものか。
スビドリガイロフ 「なぜ率直に言われんのです、これは奇跡だと!」
ラスコーリニコフ 「だって、たんなる偶然かもしれませんからね」
『罪と罰』第6部(江川卓訳)
この種のことが頻繁に、ほとんど日常的に起きるので、奇跡か偶然かなどと問うこともしなくなった。はっきりしているのは、事はいつでも起きるべき時に起きるということだ。
英語の coincidence という言葉には、妙に色っぽいところがある。synchronism の方がふさわしいか。複数の事象が時を同じくして起きることを「中立的に」表現するポーズをとりながら、指摘自体によって背後の何者かに秋波を送るかのような。
ウソだ。中立などありえない。
そこに意味を見るか見ないか、というより、それが同時発生的であることを認めるか認めないか、そこで人は截然(せつぜん)と分かたれる。「是」とする心と「否」とする心との間には、暗くて深い隔ての河が口をあけている。
J. モノ―の『偶然と必然』、あの本の原題は、"le hasard et la necessite"というのだ。hasard は英語のハザードにあたる。中立というよりも、ある種の敵意を感じるのは思いすごしではあるまい。この場合、中立というのは「意味をもたない」(推定無罪!)ことに傾斜するから、実際には意味を見る姿勢に対して敵対的なのだ。モノ―の主張が、ということではなくて(それは全く関係ない)、言葉の構造がそうなっている。だから日和見はあっても、中立はありえない。冷戦下の国際関係のようなものだ。
***
誰を言い負かそうとも思わないし、言い負かされまいと構えるのでもないが、ともかく・・・
この週、土橋さんの訃報からHさんに本を贈られるまでの一連の synchronism に意味を見ないなら、人生は生きるに値しない。あるいは、そこに synchronism を見なくなったら、もはや生きていくことができない。
どの神を信じる信じないとは、関係のないことだ。