散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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synchronism

2013-09-03 21:05:31 | 日記
2013年8月30日(金)
(振り返り日記)

Hさんが久しぶりに外来に姿を見せた。
10年以上前に患ったうつ病はすっかりよくなっているが、その後、思いがけず身体難病を経験して命を拾った経緯もあり、ときどき近況を語りにやってくる。

帰り際に、本を一冊置いていった。
自分はもう読んだので、良かったらどうぞ、と渡されたのは、

『モリー先生との火曜日』(ミッチ・アルボム/別宮貞徳)

ALSを宣告された恩師のもとへかつての教え子が通い、「人生の意味」をテーマとして二人だけの授業を続ける、その記録であるらしい。
「病気で肉体はやられても、精神はやられない」という文が目次に見える。
今も致死的な再発に脅かされる、自身の闘病が重なるのでもあろうか。それをHさんは「読め」と言われる。

御礼とともに受けとりながら、別の感慨がある。
今週の月曜日に土橋正幸さんが亡くなった。
火曜から水曜にかけてALSという病気について思いをめぐらし、勝沼さんらとやりとりした。
そして金曜日に、久々に会った人からこの本を渡された。
Hさんは野球には全く関心がない。もちろん土橋正幸が誰だか、何で亡くなったか、いっさい御存じないのだ。

*****

むろん偶然の一致である。
しかし、どういう顔をして ~ どういう声を、態度を、言葉を、感情をもって ~ この種の偶然を受けとめたものか。

スビドリガイロフ 「なぜ率直に言われんのです、これは奇跡だと!」
ラスコーリニコフ 「だって、たんなる偶然かもしれませんからね」
『罪と罰』第6部(江川卓訳)


この種のことが頻繁に、ほとんど日常的に起きるので、奇跡か偶然かなどと問うこともしなくなった。はっきりしているのは、事はいつでも起きるべき時に起きるということだ。

英語の coincidence という言葉には、妙に色っぽいところがある。synchronism の方がふさわしいか。複数の事象が時を同じくして起きることを「中立的に」表現するポーズをとりながら、指摘自体によって背後の何者かに秋波を送るかのような。

ウソだ。中立などありえない。
そこに意味を見るか見ないか、というより、それが同時発生的であることを認めるか認めないか、そこで人は截然(せつぜん)と分かたれる。「是」とする心と「否」とする心との間には、暗くて深い隔ての河が口をあけている。

J. モノ―の『偶然と必然』、あの本の原題は、"le hasard et la necessite"というのだ。hasard は英語のハザードにあたる。中立というよりも、ある種の敵意を感じるのは思いすごしではあるまい。この場合、中立というのは「意味をもたない」(推定無罪!)ことに傾斜するから、実際には意味を見る姿勢に対して敵対的なのだ。モノ―の主張が、ということではなくて(それは全く関係ない)、言葉の構造がそうなっている。だから日和見はあっても、中立はありえない。冷戦下の国際関係のようなものだ。

***

誰を言い負かそうとも思わないし、言い負かされまいと構えるのでもないが、ともかく・・・

この週、土橋さんの訃報からHさんに本を贈られるまでの一連の synchronism に意味を見ないなら、人生は生きるに値しない。あるいは、そこに synchronism を見なくなったら、もはや生きていくことができない。

どの神を信じる信じないとは、関係のないことだ。





竜巻/『荒神』の優しい手つき/756号と鈴木康二朗

2013-09-03 06:41:47 | 日記
2013年9月3日(火)

竜巻で被害が出た。さぞ怖かったことだろう。

僕らが滞在したアメリカ中西部は、内陸で寒暖の差は厳しいものの、突発的な自然災害が少なくて住みやすい土地だった。ただ竜巻は恒常的に起き、ときどき巨大なものが大きな被害を出した。『オズの魔法使い』だね。
大気の乱れから積乱雲とともに生じる日本の竜巻とはたぶん違って、大陸の地形による構造的な背景があったのだろう。ミシシッピ川の洪水も日本の鉄砲水とは別物で、数百キロ向こうの増水が晴れ渡った空の下をゆっくり進軍してくる体のものだった。

日本に来た欧米人が、震度1や2のミニ地震で恐慌状態に陥るのを見ると「何と大げさな」と思うが、お互いさまだね。セントルイスで竜巻の注意報だか警報だかが出た時、黄色く濁った遠くの空を研究室の窓から望んで、ひどく落ち着かなくなった。帰ってみたら、家ごと家族が虹の向こうへ運び去られているのではないか・・・
地元出身の技官たちはちらりと空を一瞥して、「早く帰るには良い口実だわね」と軽口を叩いている。
こちらは真顔で教えを乞うた。

「竜巻が直撃したらさ、どうしたら良いの?」
すらすらと答えが返ってきた。
「地下室があるなら、そこがいちばん安全。ない場合は、窓からできるだけ離れて閉じた部屋にこもる。たいがいバスルーム(=トイレ)とかかな。風で窓が割れてガラスの破片が吹き込んでくるのが、何より危ないからね。OK?」

ははあ、なるほど。
「揺れたら机の下に入って、落下物から身を守る。揺れが収まり次第、家じゅうの火元を点検して火事を防ぐ。事情がわかるまでむやみに家屋の外に出ない。落ちてくる窓ガラスなどでケガをすることが多いからね・・・」
僕らが地震について諳んじているのと変わらない。

***

自然の災害は恐ろしいが、人の起こす災害ははるかに酷い。最悪の竜巻は、おそらく空襲によるものだ。
広島・長崎や日本の都市に対する空襲は、木と紙でできた僕らの街を平面的に焼き尽くした。
これに対してドイツの石の街では、どんな事情からか巨大なファイア・ストームが猛威をふるったらしい。

22歳のカート・ヴォネガットは米軍兵士としてバルジの戦いで捕虜になり、父祖の地であるドイツの収容所に送られ、そこで1945年2月のドレスデン空襲に遭遇した。

 燃えさかる建物の屋根から無数の火柱が噴きあがるのといっしょに、熱せられた空気が、さしわたし2キロ半もの円柱となって、4キロあまりもの高さに立ちのぼった・・・この円柱は、ただ荒れくるうだけではなく、その根もとに吹きこむ比較的つめたい地表の空気をむさぼり食って、どんどん発達した。火災現場から1キロ半ないし2キロ半離れたところで、このつむじ風は、毎秒1メートルから15メートルへと速度を増した。直径1メートルの大木が根こぎにされたところからして、風速はもっと大きかったにちがいない。ほどなく、気温はあらゆる可燃物の引火点にまで上昇し、あたり一帯が火に包まれた。これらの火災では、完全な燃焼現象が見られた。つまり、可燃物は痕跡も残らず、そしてようやく2日後になって温度がいくらか下がり、現場に近づけるようになったのである。
『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』
(カート・ヴォネガット・ジュニア/浅倉久志訳・ハヤカワSF)


ドレスデンを焼いたのは「空の要塞」と呼ばれたB17、そのアップ・バージョンが日本を焦土にしたB29、沖縄・嘉手納から飛び立ってベトナムへの絨毯爆撃を繰り返したのがB52、ボーイング社の誇る竜巻製造機のラインアップである。

*****

朝日朝刊の連載小説『荒神』が、静かに進行している。

「災害」の真相を探るため、宗栄は破滅した村から逃げ延びて保護された少年・蓑吉らを連れ、関所近くの山へ分け入る。塚とも言えない土盛りの下に犠牲者たちが埋められていると睨み、掘り返して検分するためだ。
睨んだ通り、遺骸の一部が出土し始めた。蓑吉の親しい人々が、当然そこに混じっている。

 人の頭が出てきた。幸い、向こうを向いている。まわりの土を取りのけてから、宗栄が、優しい手つきでこちらを向かせた。空っぽの眼窩が蓑吉を見上げた。(中略)「市どんだ」・・・

「優しい手つきで」という一言に、しみじみと聞き入った。
行方不明の祖父をはじめ、親しい人々が土の中に埋もれている可能性がある。逃げたいが、逃げてはいけないことを蓑吉は直感している。苛酷な作業に必死でとりくむ幼いものに同伴して、宗栄はすべきことを迷わず進めながら、その手つきの優しさで蓑吉への配慮を示すのである。それが同時に書き進める作者の「手つき」でもあることは、見て取るに難くない。

『荒神』に作者は何を託すのか、震災や放射能禍がどこかで重なってくるに違いない。今のところ巨大な蛇様の怪物と思われる禍の主は、人の罪/業によって自然界から呼び出されたものに相違ない。
常に社会派の視点に支えられてきたこの作家が、時代もの・物の怪ものを経由してあらためて何かを問おうとする、その手つきの優しいことが、しみじみと嬉しいのである。
引き比べて、『荒神』の前に連載されていた小説とその作者にどうにもついていけないのは、この種の優しさに対する根本的な無関心が理由ではなかったかと思う。

*****

1977年の今日、王さんが756号を打った。

よく覚えている。
直前の沖縄旅行の写真交換を兼ね(デジカメ以前には、こういう儀式が旅行やイベントの後に必ずあった)、新宿あたりの沖縄料理屋に友人らと三人で集まったのだ。
僕はラジオを持っていた。空席待ちか何かで店の前に並んでいたから、まだ回は浅かったはずだ。
カウント2-3(今なら3-2というのか)になった。
「ダメだな、歩かされる。」
「いや分からんよ、ホームランが出やすいのは、初球の次に2-3だ。」
言い終わるが早いか、歴史的な一発が出た。

マウンドにいたのはヤクルト先発陣の一翼を担う鈴木康二朗、189cmの長身からシンカー系の変化球を多投する打ちづらいピッチャーで、当時の助っ人ガイジンの間ではメジャーで通用するのではないかと言われたらしい。
名捕手・大矢明彦との間でどんなサインの交換があったか、きわどく外れる球を投げれば選球眼の良い王は見送ったに違いない。しかし鈴木は勝負に行き、球史に名を残した。
翌1978年、鈴木は13勝3敗の最高勝率でヤクルト初の日本一に貢献する。
通算81勝64敗52セーブ。

86年に引退の後も社会人軟式で野球を続け、95年のふくしま国体には茨城県代表として登板したという。
あっぱれ!