goo blog サービス終了のお知らせ 

散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

「真理」と「自由」についての付言

2021-05-31 07:55:22 | 聖書と教会
2021年5月31日(月)
 塾生御一同様:
 「自由」についてのフリートーク、昨日も楽しかったですね。少し私がしゃべりすぎたかと思いましたが、皆さんの発言やその後のMLでのやりとりを見る限り心配無用と思われます。

 途中で引用した言葉「真理は自由にする」について。

 「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネによる福音書 8:32)

 これはイエスと他のユダヤ人たちとの論争の場面で発せられたもので、「自分たちは現に自由であって、誰の奴隷でもない」と主張する相手に対して、(人は罪を犯さざるを得ない存在であり、そのことに気づかずにいるならば)「だれでも罪の奴隷である」とイエスが喝破する文脈で語られています。
 マルクス・エンゲルスの思想における階級闘争とイデオロギー、精神分析における無意識の欲動、キリスト教における「罪」 ~ 人を不自由にするものの正体について、引き続きいろいろと考えてみてください。
 たとえば「寿命が限られている」ことに由来する根源的な不自由を、Sさんが語られました。それを乗り越える契機を、これら三つの思想系列の中に見いだすことができるでしょうか?

 前述の聖書の言葉について、少し補足します。
 新約聖書には四つの福音書が収められており、その事情についてはいずれあらためてお話ししたいと思いますが、この四つを読み比べる作業は非常に面白いものです。
 前述の「真理はあなた方を自由にする」言葉、原文は

 η' αλήθεια ελευθερωσει υμάς.

 ギリシア語のアクセントがうまく表示できず、表記が不正確なのは大目に見てください。「真理」と訳される言葉は "αλήθεια" で、聖書にこの言葉が出てくるのはいかにも自然なことに思われるでしょう。その割には意外に聞くことが少ないような気がして確認してみましたら、"αλήθεια" の出現回数は福音書によって大きな違いがありました。

 マタイ、マルコ、ルカ ・・・ 1回
 ヨハネ        ・・・ 23回
 
 マタイ、マルコ、ルカで出てくるただ一度の用例は、三者共通のいわゆる並行記事の中に見られます。
 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」(マタイ22:16、マルコ12:14 および ルカ20:21に並行記事)
 面と向かっての歯の浮くようなおべっかには当然ながら底意があり、「ローマ皇帝に税金を納めるべきかどうか」という難問を吹っかけ、答えるイエスの言葉尻を捉えようとしているのです。これまたスリリングで面白い場面ですが、それより今は、このような言葉の罠の中でしか「真理」という言葉が使われていないことに注目しましょう。マタイ、マルコ、ルカの三者(いわゆる共観福音書)は「真理」という言葉に関心を示しません。少なくとも、福音のメッセージを「真理」という言葉に載せて語ることには関心がないのです。

 これに対して全21章からなるヨハネ福音書は(数え間違いでなければ)23回、数字だけ見ても「真理」に対する著者の関心の強さがわかります。一読すれば、なおさら頷かれることでしょう。
 「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)
 と説き起こし、
 「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)
 という自己顕現を経て、
 「真理とは何か」(18:38)
 という総督ピラトの言葉が23番目です。
 最後の用例は、真理を説くイエスに対して正面から反論する代わりに、現世の権力者であるピラトが不可知論と懐疑をもって身をかわしたものと読むことができ、霊的な問題に関する不決断ないし韜晦の原型として常に引き合いに出されてきました。(教養課程のラテン語の教科書の最初の方に "Quid est veritas ?" という例文があり、誰の言葉かわかるかとの教授の質問に「ピラト」と即答した先輩がおられました。神経内科の女医さんになられたはずですが、今はどうしていらっしゃるか…)
 こうした数例を見ただけでも、ヨハネ福音書が共感福音書群とは違って「真理」をメインテーマに据え、「自由」を「真理」のもたらす成果と位置づけていたことがわかります。
 「わかります」と書きましたが、昨日の朝までこのことは、少しもわかってはいませんでした。皆さんとのやりとりの中でわからせてもらったのです。

 たったいま、昨日急ぎ発注した『哲学入門』が届きました。解説によればこの本は1949年秋にヤスパースがバーゼル放送局の依頼に応じて12回にわたって行ったラジオ講演 "Einführung in der Philosophie" の全訳とのことです。
 記憶による私の引用は、やっぱり少なからず不正確でした。逆に私がそれをどう読んだかが、そこからわかりますね。
 原文は第六講「人間」の中の「自由と超越者」の一節です。核心部分を転記することを以て、皆さんへの御礼に代えることとさせてください。

***

 …このような意味における自由の絶頂において、私たちは自分が自由であることにおいて、超越者から私たちに授けられているという意識をもつのです。人間が本当の意味で自由であればあるだけ、彼/女にとって神の存在が確実となるのです。私が本当の意味で自由である場合、私は私自身によって自由であるのではないということを、私は確認するのです。
ヤスパース著、草薙正夫訳『哲学入門』新潮文庫(1954)


Ω

今朝伝えたかったこと

2021-05-30 10:55:45 | 聖書と教会
2021年5月30日(日)
 前回、5月9日には「汚れた霊に取りつかれた男」の除霊による癒やしの箇所を担当した(マルコ1:21-28)。その直前はヨルダン川での受洗・伝道活動開始・シモンら四人の漁師を弟子にするところだから、イエスの活動に関する実質的な最初の記事ということになる。
 続く箇所は、シモンのしゅうとめの癒やし(1:29-34)、巡回説教についての短い記載(1:35-39)をはさんで、重い皮膚病を患っている人の癒やし(1:40-45)であり、イエスの初期の活動はその大半が病の癒やしにあてられている。異能の治療者としての名声が瞬時に拡散し、再びカファルナウムに戻ったとき「家」に押し寄せた群衆は、病者の癒やしを求める当事者・関係者と、癒やしのわざを見ようとする野次馬が大半であったに違いない。
 中風の患者を寝床ごと運んできた4人の男はその典型であり、この一行に向かってイエスは、事の本質が別にあることを初めてはっきりと示す。それが本日の箇所(マルコ 2:1-12)の決定的に重要な意義であり、見方によっては福音書の物語の真の始まりともいえるものである。この構造が、マタイではその直前に3章にわたる山上の説教が挿入されることによって見えづらく ~ ほとんど見えなくなっている。「言葉」に重きを置くマタイの筆法である。ルカがまた、それ自体は貴重な価値をもつさまざまな逸話をあれこれ挿入することによって、この箇所の本来の起爆力を薄めてしまっているようだ。
 
 とりまく群衆に遮られてイエスに近づくことができず、決意一番、病人を床ごと屋根に引っ張り上げ、イエスの頭上あたりの瓦(ルカ)をはがして病人を吊りおろしたという有名な逸話。4人の男は、病人(性別すら明記されない)とどんな関係にあったのか、それほどまでの親切をなぜ抱くに至ったか、興味津々のディテイルは想像にゆだねるとして、イエスなら中風でもなんでも何とかしてくれると信じた剛直愚直な熱誠は疑うべくもない。イエスまたこの「信仰」を嘉し、しかし最初にかけた言葉が意表を突く。

 「子よ、あなたの罪は赦される」(マルコ 2:5、マタイも同様、ルカのみ「赦された」 ~ 主の祈りの文言の異同と比べて興味深い)
 
 病の癒やしを求める者に、イエスはまず罪の赦しを宣言した。それが少しも的外れでないことは、深刻な闘病経験のある者なら容易に理解できる。同時に、旧約聖書の訓詁解釈に存在を賭ける律法学者らが、聞くが早いか直ちに拒絶反応を示したことも、これまた当然。

 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほか、いったい誰が罪を赦すことができるだろうか」(2:7)

 この反論の後段が100%正しいことを、年長の子らには考えさせたい。確かにその通り、そこで問題は「イエスとは誰なのか」という点に絞られる。驚異的な癒やしの技と不思議な言葉の力を携えた一伝道者か、それとも神の子か。
 マルコ福音書の全体は、この問に関して後者を弁証するために書かれている。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き起こされた同書の、具体的な問題意識が初めて明示されるのがこの部分であり、「福音書の物語の真の始まり」と先に書いたのはその意味だった。
 そして、ここで提示された問題意識に一つの答を与えるのが、同書の末尾近くに置かれた一場である。

 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取ったのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコ 15:39、マタイも同様。ここでもルカのみ「本当に、この人は正しい人だった」)
 
 大きな物語の中に、問と答の呼応が入れ子のように収められているのが見えると、構造がわかりやすくなる。マルコ福音書の2章で本格的に立てられた問が、15章で受け止められている。1章を序説、16章を大尾と見るなら、なおさらわかりやすい組み立てである。
 他にも入れ子が見つかるだろうか?

Ω
 
 


罠(わな)

2021-05-23 17:27:28 | 聖書と教会
2021年5月23日(日)
 マタイ福音書 22章15節:
 「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」(新共同訳)

 「言葉じりをとらえて罠にかける」の部分については、いわゆる口語訳の方が原文をよく反映するとM師。
 「そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした」(口語訳)

 Τότε πορευθεντες οι Φαρισαίοι συμβούλιον ελαβον οτως αυτον παγιδευσωσιν εν λόγω.

 παγιδευω(わなにかける)< παγις(わな、おとし穴)
 後者はルカや使徒書にいくつかの用例があるが、前者は新約聖書中ここだけらしい。"παγιδευσωσιν εν λόγω" は「言葉でひっかける」といったところか。「言葉の罠にかける」は、なるほどぴったりである。

 面白いのは前段で、口語訳はパリサイ人たちが「きて」、新共同訳はファリサイ派の人々は「出て行って」と正反対の訳である。原語そのものが多義的なのだ。

 πορευθεντες < πορευομαι: ① 旅を続ける、② ~から去る、③ ~へと去る
 
 ただし②、③の語義はしかるべき前置詞と組むことによって意味が明らかになるようだから、単独で用いられているこの部分は①に準じて自動詞的に訳すべきだろう。「旅」というと大げさだが、もともとある目的をもって移動していた者がその行為を続けていくという意味にとったらどうか。一貫して邪魔なイエスを排除するために運動してきたファリサイが、その動きを続けたと解するならこれまた文脈にぴったりである。
 つまり「きた」(=近づいた)のか「出て行った」(=遠ざかった)のかはどうでもよいのだから、「ファリサイ派の面々はまたしても額を集め」ぐらいに意訳してみたい。そこでひねり出した悪知恵を実行すべく、下っ端が送り込まれた。血の気の多い若者らではなかったかとM師の推測である。その顔ぶれにファリサイ派とヘロデ党という折り合わない両派が相乗りしているのが工夫したところで、イエスが是と言おうと否と言おうと必然的に寄せ手の半分は激怒することになる。
 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というイエスの名文句は、この窮境で語られた。「神のものを神に返す」とはヨブの証しに通じる人の根本姿勢であり、その射程は征服者に税金を納めるかどうかといった悩ましい瑣事とは、およそ次元が異なっている。次元の違うものを並列するというレトリックがあるのだ。すぐには例が思い浮かばないが、日常生活の中にいくらでもあるはずのことである。

 彼らはこれを聞いて驚き、イエスを残して立ち去ったとある。立ち去ったところで、食卓に群がる蠅のようにすぐまた戻ってくるのだけれども。

Ω
マクシミヌス帝時代のデナリオン貨
 (https://ja.wikipedia.org/wiki/古代ローマの通貨)

バベルで行われたこと

2021-05-16 20:14:19 | 聖書と教会
2021年5月16日(日)
 バベルの塔の物語(創世記11章)の発端が何であるか、理解していなかった。人間が一つの言葉によって統一され、天に至る力をもつことへの創造神の不安であるなら、被造物の側にも言い分がある。
 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう。」(11:4)
 この言葉は一見、分散して弱くなることに対する自然な防衛のように思われるが、そうではないというのが今朝の要点である。それは創造にあたって
 「地に満ちて地をを従わせよ」(1:28)
と送り出されたことに対する違背であり、抗命であった。
 「従わせよ」とは「恣(ほしいまま)に搾取せよ」の意ではない、「神意にふさわしく管理せよ」との謂である。これを実行するためには、必然的に全地の隅々にまで散っていかねばならない。シンアルに集った人間たちはこれを嫌った。
 塔を建て、そこにこもって既得の力と富に安住することは、地上の管理者としての責務を放棄し、共同体を小さく限って排他的な安逸を貪ることを意味する。そうした集団エゴイズムを阻止すべく、主は介入して言葉を乱された。
 「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれる。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼等を全地に散らされたからである。」(11:9)


Ω



久々のリアル礼拝から

2020-05-24 10:20:53 | 聖書と教会
2020年5月25日(日)

 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。
 「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
 (マタイ19:13-15)

 よく知られた箇所で、マルコとルカに並行記事がある。ルカでは「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た」(ルカ18:15)とあり、子供たち(παιδια)が乳飲み子(βρεφη)に拡張されている。βρεφος は文脈次第では胎児までも含む言葉だという。

 「叱った」と訳されている επιτιμαω は、「値踏みする」の原意から転じて
 ① 非難する/叱責する
 ② 勧告する/諫める
 権威の序列に照らせば ①は上から下へ、②は水平ないし(文脈によっては)下から上へ、両義的な対照である。

 マタイ福音書の用例を見ると、①の系列として
 「起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」(8:26)
 「イエスがお叱りになると悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。」(17:18)
 「群衆は(二人の盲人を)叱りつけて黙らせようとした」(20:31)

 ②の系列としては何と言っても
 「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(16:22)

 以下はどうだろう。
 「イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。」(12:15-16)
 権威の方向としては上から下へだが、叱責ではなく噛んで含める教諭である。上述の①、②が現に行われている行為の中止や変更を迫るのに対して、予めの禁止である点でもユニークな用例だ。

 以上を勘案すれば、弟子たちがこの人々を「叱った」のが①の趣旨であることは疑いない。それにしても、何をなぜ「叱った」のか。

 13節冒頭は「そのとき」と始まる。直前の3~12節は「離縁」をめぐる教義問答で、例によってファリサイ派が律法解釈をめぐる難題をイエスに吹っかけ、これに対してイエスが律法の真意を説き明かす流れだから、「そのとき」とはそのように「律法に関する重要な議論が交わされていたとき」と言い換えられる。
 「おとなが大事な話をしているのだから、こどもの出る幕ではない、そのように弟子達は叱ったのですね」とM師。
 
 旧約の共同体において、母親は子らの心身を育むのに対して、父親は子らを共同体のメンバーたらしむべく宗教教育を授けることを責務とした。子らは5歳からそのような教育を受け、段階を踏んで15歳でこれを完了する。「バル・ミツワー(בר מצוה, Bar Mitzvah) 」はユダヤの成人式などと呼ばれるが、この語そのものは「律法の子」を意味しており、そのことからも彼らの共同体における「成人」の意義が知られる。(この儀式自体は、カトリックの堅信礼が刺激となって、比較的後代に盛んになったらしい。)
 イエスの許に連れてこられた子供たちは「律法未満」の存在であり、共同体メンバーとしては員数外である。だから弟子たちは蚊帳の外に止めようとし、それを逆にイエスが制した。「叱る」弟子たちをさらに「戒め」たのであるが、ここでも律法の相対化というイエスのライフワークが確かな一歩を進めている。
 律法未満の存在とは、罪の現実に囚われたわれわれ自身に他ならない。その未熟なわれわれが、律法において人と成ることを経ぬまま、直接主の許に慕い寄ることを許される。それが福音であり、だからこそ主は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と断言された。(マルコ10:15、ルカ18:17、マタイはなぜこの重要な言葉を省いたか。

 説教の中で灰谷健次郎への言及があり、さらに下記の言葉が紹介された。

 「神を教えない教育は、悪魔をつくることである」 (トルストイ)

 これで段取りよく、トルストイに戻っていける。それにしても、マスクをかけて讃美歌を歌うのはしんどいな・・・

Ω
 【付記】
 「神なき知育は、知恵ある悪魔をつくる」(小原國芳)について、下記参照
https://www.tamagawa.jp/social/useful/tamagawa_trivia/tamagawa_trivia-76.html