2021年5月31日(月)
塾生御一同様:
「自由」についてのフリートーク、昨日も楽しかったですね。少し私がしゃべりすぎたかと思いましたが、皆さんの発言やその後のMLでのやりとりを見る限り心配無用と思われます。
途中で引用した言葉「真理は自由にする」について。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネによる福音書 8:32)
これはイエスと他のユダヤ人たちとの論争の場面で発せられたもので、「自分たちは現に自由であって、誰の奴隷でもない」と主張する相手に対して、(人は罪を犯さざるを得ない存在であり、そのことに気づかずにいるならば)「だれでも罪の奴隷である」とイエスが喝破する文脈で語られています。
マルクス・エンゲルスの思想における階級闘争とイデオロギー、精神分析における無意識の欲動、キリスト教における「罪」 ~ 人を不自由にするものの正体について、引き続きいろいろと考えてみてください。
たとえば「寿命が限られている」ことに由来する根源的な不自由を、Sさんが語られました。それを乗り越える契機を、これら三つの思想系列の中に見いだすことができるでしょうか?
前述の聖書の言葉について、少し補足します。
新約聖書には四つの福音書が収められており、その事情についてはいずれあらためてお話ししたいと思いますが、この四つを読み比べる作業は非常に面白いものです。
前述の「真理はあなた方を自由にする」言葉、原文は
η' αλήθεια ελευθερωσει υμάς.
ギリシア語のアクセントがうまく表示できず、表記が不正確なのは大目に見てください。「真理」と訳される言葉は "αλήθεια" で、聖書にこの言葉が出てくるのはいかにも自然なことに思われるでしょう。その割には意外に聞くことが少ないような気がして確認してみましたら、"αλήθεια" の出現回数は福音書によって大きな違いがありました。
マタイ、マルコ、ルカ ・・・ 1回
ヨハネ ・・・ 23回
マタイ、マルコ、ルカで出てくるただ一度の用例は、三者共通のいわゆる並行記事の中に見られます。
「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」(マタイ22:16、マルコ12:14 および ルカ20:21に並行記事)
面と向かっての歯の浮くようなおべっかには当然ながら底意があり、「ローマ皇帝に税金を納めるべきかどうか」という難問を吹っかけ、答えるイエスの言葉尻を捉えようとしているのです。これまたスリリングで面白い場面ですが、それより今は、このような言葉の罠の中でしか「真理」という言葉が使われていないことに注目しましょう。マタイ、マルコ、ルカの三者(いわゆる共観福音書)は「真理」という言葉に関心を示しません。少なくとも、福音のメッセージを「真理」という言葉に載せて語ることには関心がないのです。
これに対して全21章からなるヨハネ福音書は(数え間違いでなければ)23回、数字だけ見ても「真理」に対する著者の関心の強さがわかります。一読すれば、なおさら頷かれることでしょう。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)
と説き起こし、
「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)
という自己顕現を経て、
「真理とは何か」(18:38)
という総督ピラトの言葉が23番目です。
最後の用例は、真理を説くイエスに対して正面から反論する代わりに、現世の権力者であるピラトが不可知論と懐疑をもって身をかわしたものと読むことができ、霊的な問題に関する不決断ないし韜晦の原型として常に引き合いに出されてきました。(教養課程のラテン語の教科書の最初の方に "Quid est veritas ?" という例文があり、誰の言葉かわかるかとの教授の質問に「ピラト」と即答した先輩がおられました。神経内科の女医さんになられたはずですが、今はどうしていらっしゃるか…)
こうした数例を見ただけでも、ヨハネ福音書が共感福音書群とは違って「真理」をメインテーマに据え、「自由」を「真理」のもたらす成果と位置づけていたことがわかります。
「わかります」と書きましたが、昨日の朝までこのことは、少しもわかってはいませんでした。皆さんとのやりとりの中でわからせてもらったのです。
たったいま、昨日急ぎ発注した『哲学入門』が届きました。解説によればこの本は1949年秋にヤスパースがバーゼル放送局の依頼に応じて12回にわたって行ったラジオ講演 "Einführung in der Philosophie" の全訳とのことです。
記憶による私の引用は、やっぱり少なからず不正確でした。逆に私がそれをどう読んだかが、そこからわかりますね。
原文は第六講「人間」の中の「自由と超越者」の一節です。核心部分を転記することを以て、皆さんへの御礼に代えることとさせてください。
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…このような意味における自由の絶頂において、私たちは自分が自由であることにおいて、超越者から私たちに授けられているという意識をもつのです。人間が本当の意味で自由であればあるだけ、彼/女にとって神の存在が確実となるのです。私が本当の意味で自由である場合、私は私自身によって自由であるのではないということを、私は確認するのです。
ヤスパース著、草薙正夫訳『哲学入門』新潮文庫(1954)

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