散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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小塩先生が聖書の朗読についておっしゃったこと

2023-06-19 07:34:37 | 聖書と教会
2023年6月19日(月)

 「すぐれたお坊さんの唱えるお経にはみごとなものがある。真言経や般若心経など、耳を傾けているだけで心に沁みるものがある。キリスト教の教会でも、かつて用いられていた文語訳聖書を明治生まれの牧師さんは堂々と朗読していた。最近の私たちの世代は、マシュマロのように骨のない口語訳聖書を、いたるところまちがえながら読みあげて平気である。これは国語力の衰弱以外の何ものでもない。」
小塩節『ドイツ語とドイツ人気質』講談社学術文庫(P.57-58)

 
 
 たまたま家庭で話題になったので、久しぶりにページをめくってみた。小塩節先生は1933年生、2022年没。残念ながら直接お目にかかる機会がなかったが、ドイツ語講座などで聞き慣れた深く柔らかい声と朗らかな語り口が記憶に鮮やか、世代・時代を彩る背景の重要な一部である。そう言えばアルフォンス・デーケン師やグスタフ・フォス師などと「ドイツ」や「キリスト教」という切り口で接点がなかったものか。
 「最近の私たちの世代」について師が慨嘆されたのは1980年代のことと思われる。口語訳聖書を「マシュマロのように骨のない」と評する師が、新共同訳聖書についてどのように感じておられたか、伺ってみたいものだった。
 上記に続けて以下のくだり。旧約には師をしてかく言わしめるものがあり、思想内容のみならずその形式に注意を払う必要がある。聖書朗読にあたる礼拝司式者も留意すべきところ。「仮に日本語訳で読むとしても」と付け加えておこう。

 「聖書はお経と同じだ、とは言えぬかもしれない。せめてたとえれば旧約聖書は全篇これ「詩」篇だと言うことは許されよう。だとすれば、詩の朗読と同じように、正確かつ音楽的でないといけない。」
上掲書(P.51)


Ω


天の季節と人の時 〜 コヘレトの言葉 3章

2023-06-08 11:58:59 | 聖書と教会
2023年6月4日(日)

 つまりこの日は辻堂を通って茅ヶ崎まで、招かれて話をしにいったのだけれど、案の定こちらが大いに教わって帰ってくることになった。シラス丼まで振る舞われて、申し訳ないことこのうえない。
 旧約聖書の『コヘレトの書』から、問題の部分を末尾に示す。

 冒頭の一行、すなわち
「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」
との託宣、知らなければそのまま読み過ごすところ。読み進めば「殺す時」「憎む時」などと物騒な話で、それらすべてにわたって細大もらさず神が用意されると、そういうことか。
 否、そう単純ではない。T牧師が分かりやすく解き明かしてくださった要点は「何事にも時があり」と「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」というこの二つの「時」に対して、原語ではそれぞれ違う言葉が用いられているというのである。そうだったのか。

 翻訳の多くは、これに自ずと対応して訳語を変えている。たとえば口語訳聖書では、

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」

 「季節」と「時」で訳し分けている。「生まれる時、死ぬ時」以下にずらずらと列挙されるのは、すべて「時」であって「季節」ではない。これすなわち「人の時」であり、人はそれぞれのもくろみに従い、特定の時点であれこれの行動を起こす。
 しかし天が下には、それとは異なる天の季節というものがあり、神の計画に従って粛々と進んでいく。いわば二重の時間の中に置かれていながら、もっぱら自分が時を選んで物事を進めていくように人は思い込む、そうしたダイナミズムを俯瞰的に示したものらしい。
 他の訳を列挙すれば、
 
 「天が下の萬の事には期あり、萬の事務(わざ)には時あり」(文語訳)
 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(新改訳)
 「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある」(聖書協会共同訳)
 新共同訳を除く全てが二つの時の一つを別の言葉に訳し変え、両者の違いを示唆している。「原文に忠実」をモットーにするはずの新共同訳が、敢えて同じ「時」の語を当てて違いを消去したのはなぜなのか、その意図はよくわからない。

 ついでに英語・フランス語を見ると…
 "For everything there is a season, and a time for every matter under heaven." (New Revised Standard Version)
 "Il y a un moment pour tout, un temps pour toute chose sous le ciel:" (仏聖書協会版)

 後続部分との関連から、日本語訳の「時」にあたるのが time と temps、「時期」「時機」「季節」に相当するのが season または moment であることがわかるが、「天の下のすべてのこと」との組み合わせが日本語訳と英仏訳では逆になっているように見える。違うのかな?

 さて、そうなるといよいよ原文 〜 ヘブライ語を見なければならない。これがそれだ。

לַכֹּ֖ל זְמָ֑ן וְעֵ֥ת לְכָל־חֵ֖פֶץ תַּ֥חַת הַשָּׁמָֽיִם׃    

זְמָ֑ן    zeman   天の「時」 season
עֵ֥תהַ  eth    人の「時」  time

 So if any distinction intended, as seems probable, between the word zeman and eth, the author implies by the use of the former term that whatever occurs has been determined or fixed by God.
(The Interpreter's Bible, vol.5, P.43)

 さて、「天の下」云々が season と time のどちらに関連するかだが、何しろ自分のヘブライ語がよちよち歩きにも達しないレベルだから、はっきりしたことは言えそうにない。語の配置を素直に見れば、文末に置かれた「天の下の」はより近くに配置されたעֵ֥תהַ(time)を修飾するようであり、手許の英訳と仏訳はそのように訳している。
 しかし「すべてのことには(神の)季節がある」とするのが書き手の主張だとすれば、「天の下の」という決め言葉をこちらと結びつけるのは自然な発想である。修飾語と被修飾語が離れた位置に置かれたり、我々の感覚には不自然と感じられる語順をとったりすることは、たとえばラテン語では珍しくなかったような気がする。
 さらに、「天の下のすべてのこと」には、(人の)時 time があると同時に、(神の)季節 season があるというふうに、「天の下」が両方にかかるとする第三の説も考えられる。よく見れば新改訳と聖書協会共同訳はこの説に与して読点(、)で文を三分しているように見える。
 つまり…
 「天の下」は time にかかる   ・・・ 英語訳、仏語訳
 「天の下」は season にかかる ・・・ 文語訳、口語訳、新共同訳
 「天の下」は両者にかかる   ・・・ 新改訳、聖書協会共同訳

 「ギリシア語(新約)はカッチリしていて訳に揺らぎの余地がないが、ヘブライ語(旧約)は読み解くのに感性の助けが要る」という意味のことをセントルイスの教会で Don Howland 牧師から聞いた。四半世紀も前のことだが、今になってその意味が少しわかってくるようである。
 サザン通り界隈に多くの教会がひしめく茅ヶ崎の町で、同信の人々とともに過ごした幸せな半日。

***

『コヘレトの言葉』3章1~11節 (新共同訳聖書による)

1: 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
2: 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3: 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
4: 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
5: 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
6: 求める時、失う時/保つ時、放つ時
7: 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
8: 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
9: 人が労苦してみたところで何になろう。
10: わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
11: 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に
与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極
めることは許されていない。

Ω

SS往来 #2 ~ 愛と大切

2023-05-07 08:42:13 | 聖書と教会
2023年5月7日(日)

来信転記:
 先のメールに,私,パウロの言葉は「あなたは愛されています」と言われて慰めを得ることのできる人には通じるのだろう,と書きましたね。
 以前にも,私は「愛」ではなく「大切」という言葉を使いたいということを言いました。

 私は「愛されている」と言われても全く嬉しくないし,どこにその良さがあるのかも分かりません。でも,「あなたは大切な存在だ」と言われたら,すごく嬉しいです。
 何が違うのかなと,もう一度考えてみました。
 そして,たぶんこういうことなのかな,と思いました。

 例えば,子供の落書きのような,よく分からない絵があって,1000万円という値が付いていたとします。それを見た人は,どこがいいのかさっぱり分からなくても,1000万円という値段ゆえに,傷つけないように大切に扱うでしょう。
 でも同じ絵が,値も付かないままに置かれていたとしたら,その絵に心が引かれた人は大事にするでしょうが,どこがいいのか全く分からないと思う人はぞんざいに扱うと思います。

 私にとっては前者が「大切」,後者が「愛」です。

 パウロの基礎にあるのは,「値も付かないような私を,神様は御心に留めて大事にしてくださった」ということなのだろうと思います。
でもそれは,私にとって慰めではありません。
 私自身が聖書から受け取ったのは,
 「どこがいいのかさっぱり分からないけれども,神様はあなたを尊いと言う。だから,あなたは大切だ。」
 ・・・というメッセージです。

 たぶん,私の心にパウロの言葉があまり響かないのは,この違いゆえなのではないかと思います。

***

返信素案:
 メールをありがとうございます。
 なかなか難しいですね、以前から伺ってきたことの背景がなかったら理解不能に陥りそうです。

 御自身を「どこがいいのかさっぱり分からず、普通は誰も目にとめない絵」に譬え、「私の目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書 43:4)という聖句を1000万円の値札に譬えられたのですね。
 この事態を普通は「(神の)愛」と呼ぶのだと思いますが、あなたはそれを「大切」と呼ぶ、そのねじれが理解困難の第一の理由。
 もう一つは、パウロもまたそのような意味での「大切」を語っているというのが通常の理解だと思いますが、あなたはパウロの書簡にそうした「大切」を感じない、この乖離が困難の第二の理由なのでしょう。

 第一の点については、「愛」という言葉の浮き足だった感じをあらためて確認し、日本語をこよなく愛するものとしてそれが実に残念です。韓国朝鮮語は語彙の6割が漢語だそうで、固有語の存在感は日本語における大和言葉よりずっと薄いと思うのですが、「愛(する)」という言葉にピッタリの固有表現「サランヘヨ 사랑해요」をもつことばかりは何とも羨ましい。おまけに「サラン 사랑(愛)」と「サラム 사람(人)」が酷似する(同根?)という念の入りようです。
 戦国末期に来朝した宣教師たちが Θεός/Deus と並んで Αγάπη/Amare の訳に腐心したあげく、『どちりな・きりしたん』で採用したのが「大切」だったのでしたか?今、手許にないので違っていたらごめんなさい。
 そんなことを考えても、SS様のこだわりは大いに故あることと思います。

 第二の点については、ごめんなさい、まだよくわからないのです。パウロ書簡は正直なところ私もあまり好きになれず、ある会合でパウロ研究の専門家の前でそれを公言して、一悶着引き起こしたことがありました。
 ただ、パウロという人にはどこか嫌いきれないところがあるのですよ。パウロの話のあまりの退屈さに眠りこけて三階の窓から落ち、あやうく死ぬところだったエウティコを主人公に何か書けないかと考えたのも、この若者自身がひょっとしてそのようなパウロ観の転換を経験したのではないかと思うところがあったからなんです。
 
 今はこのあたりで御容赦願います。東京も雨でしょう、どうぞ気をつけてお出かけくださいね。

Ω

箴言 ~ 箴(はり)の言葉 

2021-08-12 10:32:30 | 聖書と教会
2021年8月12日(木)

主を畏れることは知恵の初め / 無知なものは知恵をも諭しをも侮る
わが子よ、父の諭しに聞き従え / 母の教えをおろそかにするな
それらはあなたの頭の麗しい冠 / あなたの首の飾りとなる
(箴言 1:7-9)


Ω


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聖パトリキウスの祈り

2021-06-20 22:18:49 | 聖書と教会
2021年6月20日(日)
 本日の説教者、YK先生が配布なさった資料から転載。

A Prayer of Saint Patrick《聖パトリックの祈り》
Words from Saint Patrick Breastplate (5th Century) 
Translated by Mrs. C. F. Alexander (1823-95) 

Christ be with me, Christ within me,
Christ behind me, Christ before me, 
Christ beside me, Christ to win me,
Christ to comfort and restore me,
Christ above me, Christ beneath me,
Christ in quiet, Christ in danger,
Christ in hearts of all that love me,
Christ in mouth of friend and stranger,

キリストは私と共におられる キリストは私の内側におられる
キリストは私の背後にも 私の前にもおられる
キリストは私の傍らに立ち 私をとらえたもう
キリストは私を慰め 回復させてくださる
キリストは私の上にあり 私の下におられる
キリストは平安の中にも 危険の中にもおられる
キリストは私を愛してくれる皆の心の中にもおられ、
キリストは友の口にも 異邦人の口にもおられる。

【解説】
 聖パトリキウス(英語読みでは聖パトリック)は、5世紀にアイルランドにキリスト教を伝えたことからアイルランドの守護聖人とされ、その命日である3月17日は、「聖パトリックの日」と呼はれ、カトリックの祭日として祝われている。パトリックは、ウェールズのケルト人家庭に生まれた後、拉致され奴隷としてアイルランド地方で少年時代を過ごした。その後、神のお告げを聴き、農場を脱走して大陸に渡ってキリスト教を学んだ。
 自分が虐待を受けた土地に福音を伝えるためにアイルランドに渡り、365の教会を建て、12 万人を改宗させたと伝えられる。常にシャムロック(三つ葉)の葉を持ち緑色の衣を着た姿で描かれるのは、シャムロックの葉によって父・子・聖霊の三位一体を説いたことによる。
 讃美歌作者としては、「聖パトリックの胸当て(英語では"breastplate"、ゲール語では"Lorica")」と呼ばれる祈りがよく知られており、上記はその一部である。元々は古アイルランド語で記されたのであるが、セシル・フランシス・アレクサンダーによる現代英語訳によって親しまれている。作曲家のスタンフォード、ジョン・ラターなどが讃美歌(アンセム)として曲をつけ、イギリスを中心として世界中で愛唱されている。

***

 小学4年生で父親を亡くし、中学3年以来多年にわたる闘病を余儀なくされた人が、あるとき出会ってその後の人生を支えられてきた祈りであると伺った。
 パトリキウス(387?- 461)は「アイルランドに伝道した最初の人間でもなければ、唯一の人物でもなかった 」が、その伝道の規模ゆえに象徴的存在になったとWikiにある。むしろ自分が虐待された土地にこうした形で恩を返したことを特筆したい。家族は同地への伝道に反対したと伝承にある。
 なお、Wiki は御丁寧に崇敬する教派として「カトリック、正教会」と注記するが、上記は今年の父の日にプロテスタント教会の説教で語られたものである。

Ω