天保4年(1833年)、萩で生まれた桂小五郎は吉田松陰のもとで兵学を学び、江戸の斎藤弥九郎道場で修業を行って剣豪としても名を馳せ、諸藩との交流の中で尊皇攘夷派の先鋭として頭角を現していきます。
そして元治元年(1864年)7月19日、長州藩の強行派は京都で禁門の変(蛤御門の変)を起こすものの、薩摩・会津の圧倒的な勢力に敗北してしまいます。その後の長州藩は朝敵となってしまい、幕府による厳しい残党狩りに晒されていきました。
芸妓「幾松」の差入れによって助けられる小五郎ですが、自らの身に危険が迫ってくると、意を決して京都を脱出します。山陰道(丹波道)を福知山へと抜け、但馬の久畑(くばた)の関所では、警戒中の役人に尋問を受けています。当時同行していた出石の顔役「広戸甚助」は、小五郎を「私の船の船頭だ」と言いくるめる事で無事に関所を通過。4日間で約120kmの道のりを踏破し、7月27日に出石町へと入っています。
そして現在の出石のご紹介です。
フロントよっしー
世界遺産の上賀茂神社の前 バス停近くにある
神馬堂さんの 神馬餅 粒小豆あんの焼餅
昔ながらの懐かしい味です。
売れ切れ次第で閉店 美味しくいただきました。
モジー
京都の東に広がる山科。
古くから交通の要所であった山科。
ここに蓮如が山科本願寺を建立したのは15世紀中頃。
真宗開祖親鸞直系八代蓮如上人は延暦寺により大谷本願寺を追われ、近江へと逃れた。
その後三河で復興の足掛かりをつけた後、越前に吉崎御坊を建立。
吉崎を退去した蓮如は大谷御坊復興を願い山科に本願寺を建立、現在の本願寺隆盛の基を築いた。
故に、本願寺中興の祖と呼ばれる。
山科本願寺は後、城郭の様相を呈し、その土塁跡は今子供たちの遊び場となっている。
このあたりの入り組んだ細い道は、城郭の中に造られた寺内町の名残か。
蓮如往生の地、西宗寺
東御坊(真宗大谷派山科別院長福寺)には銅像が建つ。
本派本願寺山科別院は広大な寺域を持つ。
隠居所だった南殿跡も残り、御廟はさすがに両派管理とされている。
かつて蓮如の銅像が建っていたという台座も残る。この台座に建つ像はどれほどの高さだったのか。
太平洋戦争で供出させられ、由緒書きの銅板だけが背面に残されている。
戦争に駆り出された蓮如さん。
今の世間の騒動をどう思う。
KAZ
本門法華宗の大本山。妙蓮寺を参拝。
鎌倉時代創建の大変歴史あるお寺です。
何度かの焼失移転により、現在は上京区にあります。
写真ではわかりにくいですが、本堂は間近でみるとけっこう大きいです。
桜がとてもキレイですね。奥には重要文化財の襖絵がありました。
事前に予約するとガイドさんに案内してもらえるそうです。
忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士の遺髪塔があります。
初代は元禄時代からの雨風で大きく損傷していたので、平成14年に新たに作り直されました。
歴史の重みを感じます。
上京区寺之内通大宮東入
TEL 075-451-3527
烏龍茶
当館代表者は、一般財団法人京都府交通安全協会の地区支部である「中京交通安全協会」の理事をいたしております。
交通安全協会は、交通の安全と円滑の実現を目指して様々な活動を行っている団体でありますが、この度、当館代表者が春の全国交通安全運動期間中の行事として「春の交通安全功労者等表彰」において、交通事故防止活動への功績が認められ、京都府警察本部長様と一般財団法人京都府交通安全協会長様との連名による「交通安全功労者表彰」を受賞いたしました。
今後も、微力ではありますが当館従業員とともに交通事故防止活動に寄与して参ります。
総務課