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日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

腹痛かかえてバールベック・1

2005年12月05日 22時16分44秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)3日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

レバノン最大の遺跡バールベックの入り口。51段の大階段。

 ヨルダンのペトラ、シリアのパルミラと並んで、レバノンのバールベックも今回のツアーの目玉であったが、腹痛は悪化の一途をたどっていた。
 バールベックに入場するなりトイレに駆け込んだ。最悪!!
 おかげでペトラ、パルミラに比べると印象が薄い。


 バールベックはベカー高原に広がる遺跡で、名前の由来は「バール神の町」だとかなんとか。 あー、腹が痛い。
 バール神は、パルミラのベル神殿の「ベル」と同じ神である。牛のような角を持っていた。
 やはり農耕をやっていた地域では、太陽や牛は神になりやすかったようだ。


 最初の人類アーダムがこの付近に住んでいたという伝説もある。ということは、この辺がエデンの園だったってことですかい? うーん、あまり納得できない。おなかがゴニョゴニョ鳴っているな。


 遺跡は好きなのだが、今回はとにかく腹が痛くて、見学に集中できない。
 それでも、力を振り絞って、中庭にあったバシリカ教会堂跡の上の方まで登ってみた。顔を出すと、添乗員さんに「そこは登頂禁止だから、登っちゃだめですよ」と、子供みたいに注意されてしまった。
 ドイツ人らしき集団はみんなで登っていたぞ。


 仕方なくおりてきて、最後に高めのところから「やっ!」と飛び降りたら、腹に衝撃が!!
 こうしてまたトイレに駆け込んだのだった。しかしバールベック見学はまだ続く。
第二の中庭。昔はバシリカ式の教会堂があった。回廊に残る祭壇跡。柱は赤大理石。
彫りかけて途中でやめた浮き彫り。右は牛。廃墟と、力強く生きる花の対比が印象的。



シリアとレバノンの国境を越えた途端に

2005年12月04日 07時02分29秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)2日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

アンチレバノン山脈のふもとに広がるアンジャール遺跡。南北に伸びるカルド・マキシマム通り。

 シリア・レバノン両国は複雑な関係にある。歴史的にも複雑だし、今年2月にレバノンのハリリ元首相が暗殺された事件でも、シリアの関与が取りざたされたりして、決して安定した関係とはいえない。


 従って、国境を越えるのにも時間がかかる。観光バスに乗ったまま長時間待つ。シリアの戦車の進入を防ぐためにわざとくねくねにした道が見える。写真撮影は当然できない。


 そのような不安定な関係を暗示するように、レバノンに入った瞬間、それは起った。


 「…腹が痛い…」


 今までに経験したことの無い腹痛が襲ってきた。便意もすごい。しかし近くにトイレは無い。


 「ウォー!」「ラッタッタッ♪」


 人間はこのような事態に陥ると、意味不明の言葉を口ずさみながら気を紛らわそうとする本能がある(私だけか?)。



 30分以上の苦難に耐え、ようやくアンジャール遺跡に到着。最後の力を振り絞って猛ダッシュ、トイレに駆け込む。
 ちょっとこの場では描写できないような状況であった。


(←一刻を争う私に対して、のんびりと「それじゃあまず使用料を払いなさい」とのたまったオッサンたち)


 さて、アンジャール遺跡はウマイヤ朝時代の遺跡である。705年に第6代カリフのワリード1世によって建設された都市で、リゾート地みたいなものだ。空気が凛として涼しくて気持ちいい。
 「アイン(源)」+「ジャール(水の)」というのが語源。
 各地の遺跡から石を切り出してきたので、滑らかな石もあれば、加工の荒い石もある。
 

 宮殿などの建物の柱を見ても、ラテン語が彫ってあったり、ギリシア語が彫ってあったりするし、形もバラバラ。うーむ、また腹が痛くなってきた。


 ウマイヤ朝の末期の744年ごろに、ワリード1世の息子たちの間に継承者争いが起り、そうこうしているうちにアッバース朝に取って替わられたため、750年までにはこの都市は使われなくなった。都市としての使用期間は実に短い。
 

 ローマ遺跡のような感じだが、イスラム王朝の遺跡である以上モスクもある。まだ、イスラーム建築の様式が確立していない頃の遺跡なのだ。
  


 さて、レバノンといえば、国旗にも描かれているレバノン杉だが、これは現在では絶滅の危機に瀕している。
 アンジャール遺跡の林の中には一本だけレバノン杉があるの(右上の写真)だが、ガイドがいないと、どれがレバノン杉だかまったくわからない。
 レバノン「杉」とは言っても松の仲間であり、松ぼっくりのようなものもできる。
 「やはり現地ガイドがいると便利だな」と感心しているうちに、またもや腹が痛くなってきた。

イラクまで152キロ

2005年11月19日 09時13分26秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)16日 ヤウム・サブティ(土曜日)

一番右側に「イラクまで152km」の表示がある。

 パルミラからダマスクスへ戻る幹線道路の分岐点に立ち寄った。


 この道の152キロ先に、混乱のイラクがある。
 かつては、多くのイラク難民が、この道を通ってシリアに入ってきたそうだ。
 そんな所を呑気に旅行しているのが不思議な気分だった。



 沙漠のど真ん中の道路には誰もいないし、車もほとんど通らない。たまに吹く風の音くらいしか聞こえない。
 ところどころオアシスがかなたに見える。今はとても静かな沙漠が広がるだけ。いつまでも静かな方がいいのだろう。

ああ憧れのパルミラ遺跡⑧ いけない女神の時代

2005年11月14日 21時15分57秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)11日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

パルミラ博物館の前のライオン像。アッラート神殿内で発見された。

 パルミラ博物館は、日本の援助で昨年大改築を行い、とても綺麗な博物館に生まれ変わった。
 でも、写真撮影が禁止されている上、きちんとしたパンフレットが無いのは、アンマンの博物館と同じである。


 なぜか、東京新聞出版局の『パルミラの遺跡』(アドナン=ブンニ、ハレド=アル=アサド著、小玉新次郎訳、1988年)という冊子が1000円ほどで売っているので購入したが、内容の古さは否めない。


 館内でひときわ目をひくのは、アッラート女神の像である。かなりデカく、造形も良い。しかし写真は撮れなかったし、先述の小冊子にも写真は無い。なんとかならないものか? 


 アッラート女神は、ジャーヒリヤ時代(イスラーム以前のアラビア)で信仰されていた3女神のうちのひとりである。
 イスラーム以前は「アッラーの娘」とも言われており、クルアーンの第53章では、「唯一の神に娘がいるなどというタワゴトはいかんよ」という口調で、当時の風潮が批判されている。ちょっとだけ抜粋。


【第53章:星章・第19節-第20節】

أَفَرَءَ يْتُمُ اللَّـَتَ وَالْعُزَّىَ

وَ مَنَوَةَ الثَّالِثَةَ الأُخْرَىَ


19.アファラアイトゥム・ッラータ・ワ・ル・ウッザー
20.ワ・マナータ・ッサーリサタ・ル・ウフラー


19.あなたがたは、アッラートウッザーを(何であると)考えるか。
20.それから3番目のマナートを。


 いろいろな本の内容を総合すると、3女神の素性は以下の通り。
 アッラートは、高原の町ターイフの岩を聖所とした、太陽の女神。
 ウッザーは、メッカ近郊の町ナフラに聖所を持つ、金星の女神。
 マナートは、メッカとメディナの間に聖所を持つ、運命を司る女神。


 ウッザー(アル・ウッザー)が、ペトラではアロウザ女神となったのは、以前にも書いたとおり。

 
 パルミラでは、ギリシア神話のアルテミス(豊穣と月の女神)や、アテネ(戦いと芸術の女神)、さらにシリアのアタルガティス(豊穣の女神)なんかと習合されて信仰されいたようだ。

 
 そして、マージャン族(楽しそうな部族ですね)のシャラマラートさんが、アッラート神殿を寄進したとか。


 そんな風に、昔はアラビアのほうでも女神が信仰されていたわけだが、イスラーム時代に入り、多神教の否定とともに女神信仰も否定された。
 こうして、「いけない女神」の時代は過ぎ去ったのである。
 今は、博物館に当時の名残が残るのみ。


 もしかしたら「いけない女神の時代」というサブタイトルから、なにか妙な想像をしたり、背徳の香りを感じて、このブログに迷い込んだ方もいるかもしれないが、「想像と違っていて残念でしたね」としか言いようが無い。
 良かったら、懲りずにまた来てください。

ああ憧れのパルミラ遺跡⑦ 飛ばし屋ジョニー

2005年11月12日 07時04分27秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)9日 ヤウム・サブティ(土曜日)

この人が「パルミラの飛ばし屋ジョニー」。シリアでは伝説のドライバー(ウソ)。

 このブログは思いつくままに綴っているので、時系列はかなりテキトーである。
 ということで、話は突然、アラブ城観光に戻る。

 
 アラブ城に向かうために、ゼノビア・ホテルの前からチャーター・バスに乗った。
 南アジアから西アジアにかけてよく見られるような、デコレイティブなのに、チープな感じのバスである。


 そして、これまたよくあるようにドライバーが「飛ばし屋ジョニー」である。
 「なぜジョニーなのか?」と言われても、私の心の中では「飛ばし屋といったら、もちろんジョニーだろう」と昔から固定観念が出来ているので仕方ない。
 最近では、「風に吹かれて豆腐屋ジョニー(だっけ?)」などという商品名の豆腐も売られているし、ジョニーは永遠である。


 ジョニーは登りでは歌いながら飛ばしていた。他の車とぶつかりそうになっても気にしない。さすがアラブ圏。


 ガツッ!


 実際に、他の車とぶつかっても気にしない。やはりアラブ圏。


 下りはさらに飛ばした。ジェットコースターというより、スキーの直滑降に近い感覚。


 前方にアラブ人らしき人たちがたくさん歩いている。ブレーキを緩める様子は無い。クラクションも鳴らさない。轢いてしまうではないか。


おいおいおーーいっ! 



 と思っていたら、歩いていた人たちが素早い身のこなしで流星号をよけた。むむ、あの動き…アラブ人恐るべし。


 次なる関門は反対方向から飛ばしてくるバス。またもやスピードを緩めない。よける気配も無い。ぶつかるじゃないか。


おいおいおーーいっ! 




 間一髪で相手がよけてくれた。


 思わず「オー!! ベリー・デンジャラス!!」と叫んだ。


 ジョニーはこちらを見て笑いながらひとこと言った。


 「イン・シャー・アッラー!」


 うーむ、こういう使い方で本当にいいのか? ぶつかったら、アッラーの意思ではなく、あなたのせいだと思うぞ。


 というか、こっち見て話していないでいいから前を見てくれ。ああっ! また対向車だあ!


 大変スリリングな時間を体験させていただいた。ああ、無事でよかった。

愛車の「流星号」。勝手に命名。すごいスピードで坂を下る。スリル満点!

ああ憧れのパルミラ遺跡⑥ 「太陽にほえろ!!」

2005年11月11日 20時10分21秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)8日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

パルミラの日の出。日本人らしく拝みそうになるが、ムスリムなのでやめておいた。

 夕陽を見たら朝日も見たくなるのが人情というものである。ということで、翌日早起きして遺跡へ行った。


 風が強い。昨日のオヤジのダジャレ(「列柱道路へレッチュウ・ゴー!」)がまだ効いているようだ。


 風の中、遺跡の中にひとり立っていると、空が茜色に染まり始めた。
「お! 来るな!」と思っていると、太陽が「ののののの…」という感じで現れた。ああ、美しい。


 かなり離れたところで、野良犬が「バフバフッ!」とほえている。たぶんアラビア語でほえていたはずだが、私の耳には「バフバフ」と聞こえた。


 「おお、これが本当の『太陽にほえろ!!』だな(ふ、古い! 昔の刑事ドラマ)。ほえろ、ほえろ、もっとほえろぉー!!」などと考えながら、その光景を見ていた。


 ふと犬がほえるのを止めて、こちらを見た。嫌な予感。


 「バフバフッ!」という咆哮とともに、野良犬はこちらに向かって走り始めた。予感的中。


 こちらもダッシュで逃げ出す。野良犬の目的がなんだかわからんが、とにかく逃げた方が良さそうである。


 「パルミラまで来て、なぜ朝からこんな目にあわなくてはいけないのか?」と思いながら、走り続ける。


 そして約十分――

 
 犬は追いかけるのを止めたようだ。ふふふ、勝ったな。


 どうせ誰もいない荒野である。
 

 「うあわーっはっはっ! 根性の無い犬め!


 俺は勝ったのだ!」



などと叫んでみた。


 そして、ふと気づいた。
 ホテルと逆方向に走ってきてしまったではないか…。

 
 我がツアーがパルミラを出発するまで、あと数十分。まだ朝食も食べていないし、荷物の整理もしていない。急がないと間に合わない。
 ホテルに向かって再びダッシュをし始めたのだった。クッソォ~ッ!


   ――――

 
 ところで今日は西暦では、11月11日。「ワンワンワンワン」で「犬の日」。偶然とはいえ、タイムリーなネタだなあ…。


PS:ところで、アラビア語では犬は何と鳴くのでしょうか? どなたか教えてください。

朝日に輝く四面門。感動もの。涙が出そう。


ああ憧れのパルミラ遺跡⑤ アラブ城に夕陽が沈む

2005年11月10日 06時34分51秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)7日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

アラブ城から見たパルミラ遺跡全景。奥の方がベル神殿。

 パルミラ遺跡の背後の山頂にちょこんとそびえるのがアラブ城である。


 遠くから見ると、古代のロマンを掻き立てるパルミラ遺跡に対して、申し訳無さそうに立っている。いじけて、斜めにへばりついているようにさえ見える。
 ところが、何ということでしょう!(某リフォーム番組風に) 近づくにつれ、急に「どうだあ! ワシはすごいだろう!?」という威圧感がむき出しとなったではありませんか!


 いくつかのガイドブックなどでは、17世紀建立となっているが、もともとは12世紀に十字軍に対抗して作られた城塞だったと思うが…? 
 イスラーム的には、キリスト教の軍隊との戦いは、歴史的に重要なできごとではないか。
 

 パルミラ遺跡の詳しい説明に比べて、どのガイドブックも(そして現地の説明も)かなりなげやりである。


 「アラブ城はとにかく夕陽とパルミラの全景なんです」という、歴史軽視の姿勢には妥協せんぞ。きちんと歴史的背景を説明しなさい…などと考えるヒマも無く、パルミラのパノラマ(なんか語呂がいいですね)を眺め、夕陽を見ているうちに、とてもノスタルジックな気持ちになってしまった。


 ああ、やっぱり、アラブ城は夕陽とパルミラの眺めが最高だな! 余計な説明はいいや…。
アラブ城遠景。手前はパルミラの町。アラブ城近景。結構峻険。さすが要塞。
中は階段が多い。時期的に観光客は少ない。遺跡と夕陽という組み合わせは定番&永遠。


※クルアーン音読は昨日、第50章:カーフ章を読み終えた。もう少しで第26ジュズウが終了する。

ああ憧れのパルミラ遺跡④ 「パルミラはラスベガスである」説

2005年11月09日 06時30分07秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)6日 ヤウム・ル・アフビアーィ(水曜日)

パルミラのシンボルともいうべき四面門(テトラピュロン)。

 他のツアーのオヤジが「列柱道路へレッチュウ・ゴー!!」と言った瞬間、パルミラに強い風が吹き抜けた。


 列柱道路は訳1.3キロほど続く、パルミラのメインストリートである。750本以上の柱が並び、ラクダが通るので舗装はされていなかった。


 列柱道路を歩きながら、旅行前に読んだ『シバの女王 砂に埋もれた古代王国の謎』(ニコラス・クルップ著:柴田裕之訳:紀伊国屋書店)の中の一説を思い出した。


 著者と一緒にパルミラを訪れた長女が、遺跡を見て「ヴェガス(ラスベガス)みたいね」とつぶやく。


 言われて見れば、沙漠の中に作られた一大都市であり、強烈な個性を持った建造物が並んでいたということを考えると、「なるほど」と感心してしまう。


 列柱道路がストリップ通り(*1)にあたるわけだな。
 四面門はラスベガスで言うと、ストラスフィア・タワー(*2)か? どちらもシンボル的な高めの建物であるし。
 で、浴場はホテル・ベラジオ(*3)だな。沙漠の中で豊かな水をたたえている。
 ベル神殿は、MGMグランド(*4)にあたるのかな? それぞれの地域で最大級の建物であり、テーマパーク的な要素も備えている。
 劇場は、ラスベガスには豊富なだけに置き換えが難しいなあ。
 などと、なんとなく比較してみるのも楽しかった。


 そして、ふと、華々しかった列柱道路を、ゼノビア女王が凱旋パレードする姿を思い浮かべた。


 栄枯盛衰、ラスベガスも1000年ほど経ったら、古代遺跡になっていたりしてね。


*1:ラスベガスのメインストリートの名前。
*2:屋上にフリーフォールや、ジェットコースターのある、タワー状のホテル。
*3:巨大な池と噴水のショーで有名なホテル。K-1ラスベガス大会のかいじょうでもある。
*4:客室数5000以上の、世界最大級のホテル。テーマパーク、カジノ、ショッピングモールも付属。ライオンがシンボル。

野外劇場跡。半円形なのでギリシア型。取引場跡。取引後の宴会もここで行った。
列柱道路のまだ整備されていない部分。バールシャミン神殿。保存状態良好。

ああ憧れのパルミラ遺跡③ ベル神殿にて

2005年11月08日 06時07分38秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)5日 ヤウム・ル・スラーサーィ(火曜日)

ベル神殿全景。

 実に久しぶりの「中東ヘロヘロ紀行」。旅行から3ヶ月が経ち、記憶も薄れつつある。
 何事も中途半端に終わりがちなので、なんとしても「中東ヘロヘロ紀行」くらいは、今年中に終わらせたい。


 さて、前々から行きたかった、シリアのパルミラ遺跡を訪ねている。今回はベル神殿
 1~3世紀くらいに作られた石造の神殿。ベルとは、バビロニアあたりに起源を持つバール神のこと。他の地域の出土品などでは、牛みたいな角を持つ土着の神として表されたりしている。豊穣の神である。
 このベル神と、太陽神ヤヒボール、月神アグリボールに捧げられたのが、ベル神殿の本殿


 その後、キリスト教会となって壁画が描かれ、さらにモスクとなって壁画が消されてミフラーブが作られたが、だんだんと文明の中心からは見向きもされなくなり、長い間、現地の人々が勝手に神殿の敷地内に家などを作り普通に暮らしていた。


 そして、20世紀になって、調査隊に勝手に「再発見」されてしまい、この神殿を出て、新しくできた町に移住させられた。


 パルミラのライバルでもあったペトラもそうだが、数百年という単位で、普通の人々が遺跡に住んでいたというのがスゴイと思う。


 本殿内部では、シリアの若者集団がフランクに「日本からのみなさん、一緒に写真に写りませんか?」と誘ってくれたが、添乗員さんの「たぶん、みなさん、ダメだと思います」という一声で企画倒れになった。


 いえ、あの、誰も「ダメ」って思っていないと思うんですけど…。いい記念になるし。
 それまで盛り上がっていた、シリアの若者集団が急に意気消沈してしまったのが、気の毒であった。
 ごめんね、シリアのみなさん。悪気はなかったんだよ。

太陽神の祭壇からモスクへ転用された。ミフラーブの跡がある。
この石柱の下に仰向けにもぐりこむと…このような美しいレリーフが見られる。

ああ憧れのパルミラ遺跡② 奈良県パワーを見よ!

2005年10月02日 06時34分06秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)28日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

ボルハとボルパの墓の入口。


 ボルハとボルパいう、妙に語呂の良い人たちの墓に入場。


 入口の上に、ギリシア神話に出てくるサテュロスの頭部が飾ってある。日本の鬼瓦と同じように、魔よけの意味があるらしい。


 サテュロスといえば、先日閉幕した愛知万博のイタリア館の目玉が「踊るサテュロス像」だった。
 これは、1998年に2000年ぶりに海中で発見されたもので、シチリア島のマザラ・デル・ヴァッロ市の博物館で門外不出の至宝とされてきた。


 サテュロスについて簡単に触れておくと、酒の神デュオニソス(バッカス)の従者の一人で、山野の精。下半身が羊の若者の姿で表されることが多い。
 でも、パルミラのサテュロスはオヤジっぽい。 


 この像を発見したのが、奈良大学の調査隊である。1994年から、この墓の調査をしている。
 パルミラと奈良県の関係は深く、どちらも歴史的な街であることから、姉妹都市だかなんだかの連携をしているとか。
 奈良県の人はみんなそのことを知っているのだろうか? 
 この日も、奈良の調査隊が他の墓を発掘している現場に出くわした。猛暑の中、大変そうだった。


 しかし、エジプトといい、ウズベキスタンといい、ペルーといい、日本の調査隊はいろいろなところで活躍しているんだね。

サテュロスの頭部像の拡大。墓の奥には、家族のレリーフがある。
ボルハとボルパの墓の入口のプレート。右下にしっかり「奈良県」と書いてある。