goo blog サービス終了のお知らせ 

日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

ああ憧れのパルミラ遺跡① 添乗員さん、何もそこまでしなくても!

2005年10月01日 12時32分00秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)27日 ヤウム・サブティ(土曜日)

昼食のレストラン(羊の丸焼き食べた所)から撮った、パルミラ遺跡全景。


 うわぁ、本物のパルミラだあーっ! v(^o^)/

 
 昭和30~40年代の日本人が「ああ、憧れのハワイ航路」という歌を聞きながらハワイにあこがれたように、私にとっては「ああ、憧れのパルミラ遺跡」なのであった。
 そのパルミラ遺跡が今、目の前にある。感激だ。


 パルミラといえば、一時期ローマ帝国を脅かした「沙漠の女王」ゼノビアを生んだオアシス都市である。 
 「沙漠の女王」という響きに、なんともいえない古代へのロマンというか、郷愁を感じてしまう。
 ローマ時代後も、ビザンチン時代、イスラム時代とパルミラは続いてきた。


 しかし、そんな感傷にひたる間もなく、観光は始まるのであった。
 遺跡の中心地から離れた場所にある、いくつかの墳墓群に入場観光。


 まずはエラベルの塔からである。


 西暦103年に建てられた、エラベル一族の墓らしい。


 誰だ、それ?

 
と思ったら、単なる金持ちだった。

 地上4階、地下1階の塔墓で、管理人が11時くらい(非常にアバウト)に鍵をあけるので、それを待ち構えて入場。


 「縦に9つの棺が納められる溝が並んでいて、全体では200体くらいの遺体を収容できます…」などという説明を聞いている人はあまりいない。
 スペイン、イタリア、フランス、アメリカの各グループも一緒だったので、塔内は大変な混雑である。我先にと、写真を撮るエゴ丸出しの姿があちこちで見られる。スマン、私もだった。


 自由見学の時間になった。
 どうやら人間には「とりあえず登っておこう」という共通の本能があるようで、国籍に関係なく、みな頂上を目指す。
 目指すのはいいんだけど、頂上にはなんの囲いもなく、しかも強烈な風が吹いている。さらに、頂上へ上がれる足場(階段ではない)は1箇所しかなくて、しかも狭い。
 そこに人々が殺到するのだから、危険極まりない。


 驚いたのは、そのような場所で添乗員さんが客の写真を撮り始めたことである。


落ちたら間違いなく死ぬ。


 いや、何もそこまでしなくても…。
 私にはマネできない。ああ、添乗員に生まれなくて本当によかった 
驚きのあまりワケのわからないことをつぶやいてしまった私であった。


エラベルの塔の全景。結構地味。エラベルの塔の頂上でビビる私。
頂上から塔の内側を覗いたところ。強風が吹き続ける、塔の頂上で…。
 

バグダッド・カフェにて

2005年09月28日 05時58分14秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)24日 ヤウム・ル・アルビアーイ(水曜日)



(上)バグダッド・カフェ1号店、(下)バグダッド・カフェ2号店。

 ダマスカスとパルミラを結ぶ、沙漠の道路の途中にバグダッド・カフェがある。


 もちろん、ここはイラクではない。映画のタイトルにちなんだ店名なのである。


 家族経営の喫茶店で、ちょっとしたみやげものも買える。パルミラへ向かうときには1号店、ダマスカスに向かうときには2号店に寄ることとなる。





 1号店は、遊牧民のテントなどが付属しており、左の写真のように、民族衣装を着て記念撮影することもできる。


 料金は決まっておらず、チップ制であり、別に1銭も支払わなくても文句は言われないが、気持ちくらいはあげた方がよいかと思う。 


 2号店のほうには、楽器や水パイプなどが置いてあり、自由にいじれる。ただし、水パイプを吸う場合は有料となる。


 こじんまりしているが、沙漠のど真ん中では、文字通りオアシスのように感じる。ホッと一息つくには最高。
 残念ながらコーヒーはあまりうまくない(個人的好みによる)。他の飲み物をお勧めする。
 (なんか、今回はガイドブックのようだな…)

みやげもの② アッラーの99の美称のプレート

2005年09月27日 06時19分30秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)23日 ヤウム・ル・スラーサーィ(火曜日)

相当細かい字で書いてあるので、上の写真では読めない。

 ダマスカスのアル・ハミディエ・スークのイスラム用装飾店(?)で購入。聖クルアーンの章句を書いたペナントやプレートなどが売っている、このような店は正式には何屋というのだろうか?


 最初、3000円くらいで売ろうとしていたようだが、私がムスリムだと知ると即座に500円にまけてくれた。


 さて、アッラーには、無限の特性があるが、そのうち99の特性が「美称」または「美名」として広く知られている。
 聖クルアーン第7章:高壁章に、このことについて書かれている。


وَ لِلََّهِ الأَ سْمَآءُ الْحُسنَىَ فَادْعُوهُ بِهَا ‏
وَذَرُواْ الَّذِينَ يُلْحِدُونَ فِىَ أَسْمَـََـئِهِ
سَيُجْزَوْنَ مَا كَانُواْ يَعْمَلُونَ
ワ・リッラーヒ・ル・アスマーウ・ル・フスナー・ファードゥウーフ・ビハー・
ワ・ザルワ・ッラズィーナ・ユルヒドゥーナ・フィー・アスマーイヒ・
サユジュザウナ・マー・カーヌー・ヤウマルーナ
聖クルアーン 第7章:高壁章 第180節
最も美しいすべての御名は>アッラーに属する。それで、これら(の御名)で、かれを呼びなさい。
かれの御名を冒涜するものは放っておきなさい。
かれらはそのおこなったことにより報いられるであろう。
*ワープロ機能の制限により、聖クルアーンどおりの表記になっていない部分があります。


 なお、アッラーの美名については、「はでぃじゃ」さんのサイト「http://levha.net」の中の「書道」の項目から入ると、一覧表がプリントアウトできるようになっています。
う~ん、便利。他のコーナーも読み応え抜群です。

ダマスカスのスークで、中国製10ヶ国語辞書大活躍?

2005年09月22日 08時56分01秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)18日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

シリアのオリーブ石鹸は有名。

 ウマイヤ・モスクの見学後、アル・ハミディエ・スークをうろついた。


 いろいろな兄ちゃんやらおっちゃんやらが怪しげな日本語で話しかけてくるが、


「ワーハッハッ! ノー・サンキュー!」


と明るく蹴散らして進んでいく。


 はるか昔に「日本人のニヤニヤ笑いは海外では評判悪い」などと聞いたので、その頃から海外では豪快な笑いで断ることにしているが、最近、それはそれで問題あるのではないか…? という素朴な疑問を持ち始めている。


 しかし、なぜか「ビビッ!」と来ることはあるもので、


「オリーブ石鹸安いよ」


と的を絞って売り込んできた兄ちゃんが気に入ったので店に入ってみた。


 時間が無いので、さっさと交渉を開始。1個700円だぁ? ナメとんのか、われ? と心の中で関西弁で文句を垂れながら電卓片手に値切る。


 「これでどうだあ!?」とばかりに「50円」と打って提示したらさすがにムッとした顔になった。


 電卓片手のやりとりではラチがあかないので、ついに秘密兵器の登場となった。
7月16日の記事でも紹介した「中国製・10ヶ国語電子辞書」の出番だ。


 「日本語―アラビア語」モードで、


「物はいいけど少し高いね」


というフレーズを通訳してボリューム最大で音声を出す。


「~※♀⇔♯■=@~♪」(アラビア語音声)


店員一同、驚き、電子辞書に視線が釘付けになった。ふっふっふっ、参ったか!
しかし効果は絶大で、いきなり雰囲気が和んだ。みんな興味津々だ。
よし、このまま攻めるぞ! 続いて、


「もう少し安いのは有りますか?」というフレーズで勝負。


「÷♂ω∵*〒♭~」(アラビア語音声)


急に店員一同がムッとした顔になった。なぜだ!?
電子辞書を確認すると、日本語表示が


「偽物です。もっとまけてください」になっている。


しまった、間違えた! そもそもこんなフレーズを電子辞書に入れるんじゃない!


 しかしまあ、電子辞書のおかげもあって、時間が無いながら4個1000円まで値切れた。


「別々に包んでください」というフレーズを翻訳したのに、まとめて包まれちゃったりはしたけど。

 買ったときは「実用には向かんなあ」と思っていた電子辞書だが、今回はよく頑張った! ちょっと見直したぞ。
 

サラディン(サラーフ・ッディーン)との対話

2005年09月21日 18時04分31秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)17日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

アル・ハミディエ・スーク入口付近に立つサラーフ・ッディーン像。

 「イスラム教徒&世界史好き」という特性のため、一般の日本人がどの程度サラディン(サラーフ・ッディーン)のことを知っているのか見当がつかない。


 例えば、新宿駅周辺でランダムに100人くらいに聞いたら、半分くらいの人は名前だけでも知っているのだろうか?
 それとも10人くらい? もしかして1~2人? 


 「あー、知っているぅ~。魔法のランプの人でしょう?」


などという答えが返ってきそうでコワイ。それはアラジンだ!



 『サラディンの日』(青池保子、秋田文庫)という、十字軍側の騎士を描いた漫画を読んだことのある人はタイトルで覚えているかもしれない。


 このブログを読まれている方々の認知度はたぶん高いと思われる。



←反対側から見たサラディン像。


 サラディン(以下、サラーフ・ッディーン)は、十字軍からイスラム世界を守った英雄であり、現代でも人気は高い。私も好きである。

 
 イラク生まれのクルド人であり、エジプトを本拠地としてアイユーブ朝を創始し、十字軍と戦った。
 特にイギリスのリチャード1世(獅子心王。「ライオンハート」ね)との戦い、停戦が有名である…と言いたいが、冒頭に書いたとおり、有名なのかな?


 ダマスカスは、サラーフ・ッディーンが没した地である。スークの入口には像が立ち、ウマイヤ・モスク敷地内にはサラーフ・ッディーン廟がある。


 廟は小さな建物であるが、その中にサラーフ・ッディーンと妃の棺が二つ並んでいる。


 そして、周囲の壁にはアラビア文字で賛辞が書いてあるのだが、昔のクルド語だそうで、現地の人も読めないらしい。


 棺の前に立って「この中に、あのサラーフ・ッディーンが眠っているのか」という感慨にふけっていると、800年の時を超えてサラーフ・ッディーンが目の前に現れた。
 威厳を湛えたサラーフ・ッディーンが静かに立っている。圧倒的な存在感。長い沈黙の後、低く響く声で





と語りかけてきた。


「◎←☆♂▼♪※~♭」


 古代のクルド語か? 意味がわからない…。
 と思った途端、後ろから引っ張られた。アラブ人のグループがジェスチャとアラビア語で「記念写真撮りたいからどいてくれ」と言っている。


 ふっ、また別の世界にトリップしていたようだな。


 しかし、廟内は実際厳かな雰囲気で、私以外にもそんなトリップをしている人がいても不思議ではない。


 英雄は死してなおオーラを発し続けるものなのかもしれない。

サラーフ・ッディーン廟の外観。サラーフ・ッディーンの棺。


※本日はイスハークの誕生日です。何かコメントが残っていると喜びます。
 

ウマイヤ・モスクでジロジロ見られたけど…

2005年09月20日 09時06分05秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)16日 ヤウム・ル・スラーサーィ(火曜日)

スーク(市場)の出口付近から見たウマイヤ・モスク。外見はかなり地味。

 シリアの首都ダマスカスは、人類最古の都市のひとつである。
 破壊されたことがほとんど無いまま長い年月を経ているので、地下には多くの遺跡が眠っているだろうと言われている。
 しかし、「現役」の都市である以上、人が密集して住んでおり、おいそれと掘り返すこともできない。


 ダマスカスと言えば、ウマイヤ・モスクに行かないわけにはいくまい。
 ウマイヤ・モスクはもともとは洗礼者聖ヨハネ教会だったが、ウマイヤ朝(661~750)の第6代カリフ、ワリードによって706年から715年にかけてモスクに改築された。


 アル・ハミディエ・スーク(市場)の東の突き当たりにウマイヤ・モスクはあるが、外壁は意外に地味である。


 「モスク」という言葉から、トルコのスレイマン・モスクなどを想像していると、肩透かしを食うんじゃないかと思う。


 異教徒は正面から入れないので裏手に回る。私は堂々と正面から入ろうと思ったが、


「団体行動をお願いします」


という、添乗員さんの力強いお言葉により、裏手から入ることとなった。無念!!


 女性は、灰色のジュラバ(よく、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくるネズミ男の服にたとえられる服)を頭からスッポリとかぶらなくてはいけない。


 外見とは違い、中庭は床がぴかぴかで美しい。中央には洗浄用の泉亭跡があったり、キリスト教会時代からそびえる塔(イスラム時代にミナレットとなる)があったり、見ごたえがある。



←ミフラーブとミンバル(説教壇)。多くの人がミフラーブの前で記念撮影していた。


 さらに礼拝堂内部に突入。おおっ! 素晴らしいではないか!
 東西に三重の回廊が広がり、中央に聖ヨハネの廟。


 ムスリムも非ムスリムもゴチャゴチャになっている。ツアーのオバサマがひとり、暑さに耐えかねてジュラバのフードを頭から取った途端、近くの青年が「ノー・グッド、ノー・グッド!」と言って強く注意した。


 これは当然だろう。ここはあくまで宗教施設である。暑いという理由で決まりを破ってもらっては困るのである。


 私もムスリムであるし、ちょうどズフルの礼拝の時間だったので、礼拝をおこなうことにした。


 洗浄所に入るとき、入口のおじさんに「アナー・ムスリム」と言ったら、すんなり入れてくれた。
 モスクによっては「お前、本当にムスリムか?」とか「いつからだ?」とか、詰問される場合もあるが、ここではそのような思いをせずにすんだ。


 しかし、礼拝堂に戻り、ミフラーブ付近で礼拝をしていると、周囲のアラブ人たちにジロジロと見られた。
 きちんとした手順で4ラカアの礼拝をしているのに、「何じゃ、お前は?」というような視線が突き刺さる。


 しかし、ひとりの青年が「アー・ユー・ムスリム?」と声をかけてくれ、「イエス」と答えると、彼はうれしそうに抱きついてきた。


 突き刺さっていた周りの視線が、やさしいまなざしに変わったような気がした。

ウマイヤ・モスク礼拝堂内部。異教徒も入れる。ウマイヤ・モスクの中庭から礼拝堂を望む。
ウマイヤ・モスクの洗浄所。ついでに、ダマスカスのホテルの部屋のキブラ。

※旅行中はズフルは2ラカアでよいということになっていますが、モスクなので4ラカアの礼拝にしました。


【お勧めの本】


『世界のイスラーム建築』深見奈緒子著、講談社現代新書、2005年
『イスラーム建築の見かた』深見奈緒子著、東京堂出版、2003年
『モスクが語るイスラム史 建築と政治権力』羽田正著、中央公論社、1994年
 また、入手困難ながら、モスク付属の図書館などで閲覧可能と思われる雑誌として『アッサラーム』第31号(イスラミックセンター・ジャパン発行、1984年)がある。この号の「イスラーム建築」(執筆者:ムーサ・ムハンマド・オマル)、「統一性と多様性―安らぎのモスク空間」(執筆者:梓佳晴)がコンパクトでわかりやすい。
 

ローマ遺跡で、ローマと関係無いことばかり考えた

2005年09月18日 11時17分18秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)14日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

第2代正統カリフのウマルにちなむといわれる、ウマル・モスク。ローマ劇場からの遠景のみ。

 かつてナバテア王国の北の都だったボスラは、今では小さな町である。

 そしてナバテア王国の南の都だったペトラは、巨大遺跡として世界的に有名になっている。

 なんというか、「差をつけられたなあ」という感じである。



 さて、地中海周辺を観光する以上は、ローマ遺跡からは逃れられない。各国の至る所に劇場やら神殿やらが残っている。


 「なんだ、どこ行っても石の遺跡ばかりだな。どれがどれだか、写真に撮ってもわかんないじゃないか。もうローマの遺跡はいいよ。」


と言う人もいるが、そういう人はそもそも地中海周辺のツアーに参加しない方がよろしいかと思う。


 むろん、ボスラも例外ではない。
 ボスラのローマ劇場は、中東最大のローマ劇場だそうで、イスラム時代には要塞として使われていた。

 

 入口にいきなりバシャール・アサド大統領の肖像がかかっていた。


 どうしてこう、アラブ圏の国々は元首が肖像を至る所にかけたがるのか? 「これって偶像崇拝につながらないか?」と、いつも疑問に思う。



 バシャール・アサド大統領は、ロンドンで目医者さんをしていたのに、大統領だった父ちゃんの跡を継ぐために呼び戻された。


 常連患者さんの反応はどんなだったのだろう?



アサド:「すみませんが、今度シリアに帰ることになりました。いつも来ていただいて、目のお具合も気になるのですが。」


患者:「あら、お国へ帰られるんですか? 突然ですね。何かご家庭の事情でも?」


アサド:「ええ、オヤジが大統領をやってたんですけど、もう年が年なんで、私が跡を継ぐことになりましてね。」


患者:「………。ごめんなさい、おっしゃっていることがよくわからないんですが…?」


などという会話が交わされたのだろうか?



 それはさておき、劇場内に入る。巨大で感動的ではあるのだが、私の関心は、劇場外側のモスクに行ってしまう。

 
 第2代正統カリフにちなむ、ウマル・モスクが見える。「あっちの方に行きたいぞ!」 と心の中で叫ぶが、ツアーなので無駄である。


 この遺跡に来るときに見えた、新しく綺麗なモスクも気になる。「そっちも行きたいぞ!」とまたもや心の中の叫び。


 そうこうしているうちに、舞台の見学が終わり、劇場裏に回ると、出土品がテキトーに置いてあった。

 ちょうどうまい具合に顔の部分だけが無い、等身大の像がある。裏に回り、顔を出し写真を撮ってもらう。うむ、満足だ。



 そんな風に、ローマ遺跡と関係のないことばかり考えているうちに、「ローマ遺跡に食傷気味の人のことをとやかくは言えんなあ」という気になったのであった。


(左)ローマ劇場の舞台全景。    (中)ボスラの町の綺麗なモスク。    (右)愚行。


 

ヨルダンの闇両替商の笑顔

2005年09月16日 06時43分12秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)12日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

満面の笑顔で写真に納まる闇両替商。

 シリアに入る直前にヨルダンで闇両替屋に寄った。


 そんなものが存在していいのかどうかわからないが、有名な闇両替屋らしい。言葉に微妙な矛盾も感じる。


 とにかくレートがとても良いのだ。非合法だけどね。


 店に入ると、一瞬「あれ、日本の甚兵衛(ジンベエ)着てるじゃないか?」と勘違いするような民族衣装を着た、こわもてのオヤジが腕を組んで座っている。



←闇両替屋の外観。普通の雑貨屋。


 ビジネスライクに両替は進み、両替が終わった。
 「ダメだろうな」と思いながらも、「写真を撮っていいか?」と尋ねると、

 「ノー・プロブレム」

という答えが返ってきた。


 いや、頼んでおいてなんだが、問題あるんじゃないか?


 まあ、本人がそういうならということで、カメラを向けると、こわもての顔が急に笑顔満開になった。さりげなく助手も入っているではないか。


 撮り終わると、一瞬にしてこわもての顔に戻った。表情の変化がスゴイな。役者か、あんたは?


 撮った写真を見せると、こわもての顔のまま、「うむ、よろしい」という感じでうなづく。


 こわもての顔と、笑顔の写真の対比がおかしいぞ。

 

 この闇両替屋は雑貨屋も兼ねていて、お菓子や飲み物を買っている人もいた。



 店を出るとき、「イラ・ッリカー!(さよなら)」と言って手を振ると、


 あくまでコワイ顔のまま「シュクラン!(ありがとう!)」と答えてくれた。


 しかし、どんなにコワイ顔しても、あんたの笑顔は写真に収めちまったからな、ふふふ…とほくそ笑みながらヨルダンを後にした。


【今日のアラビア語】


صَرَّافٌ
  〔サッラーフ〕 両替商、銀行家




صَرَفَ
    〔サラファ〕完了形: 両替した 




يَصْرِفُ
   〔ヤスリフ〕未完了形: 両替する

 

ジェラシュ遺跡のマイペースなアラブ人たち

2005年09月14日 06時19分27秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年シャアバーン(8月)10日 ヤウム・アルビアーィ(水曜日)

巨大な柱が風に揺れるアルテミス神殿跡。比喩ではなく、柱に触っていると本当に揺れているからビックリ。

 ジェラシュ遺跡はあまり有名ではない。


 石器時代から人が住み、共和制ローマ時代にはポンペイウスがデカポリス(十都市連合)のひとつに指名したほどの大都市なのに…。



 ええと、修復があまり進んでいない。しかも、修復の仕方が結構ダイナミックというかアバウト。




 ええ!?  こんな目立つところにコンクリート使う?」


というところにコンクリート使って、花崗岩とまだらになったり、


 「おいおい、この柱は誰が見ても、ここじゃないだろ?」


という、素人目にも不自然な配置になっていたりする。



 そのため、ユネスコも苦い顔をしており、世界遺産認定からは程遠い状況に置かれている。




 入口の凱旋門は足場ががっちり組まれ、多くのアラブ人たちが修復にあたっているが、クレーンを運転しているのはひとりだけで、残りの数十人は腕を組んで、ただ見ている。





 戦車競技場(ヒポドローム)に行くと、夜おこなわれるローマ・ショーの練習をやっていた。
 近所のヒマなおっさんたちを集めて、ローマ兵役のエキストラとして雇っている。
 しかし、「練習」といいながら、みんな壁によりかかってグダグダしており、やる気とか熱意はまーったく感じられない。





 ゼウス神殿は、音響効果抜群で、舞台の中央に立って声を出すと、四方から自分の声が反響して感動する。


 みんなそれをやりたいのに、突然、アラブ風軍楽隊が



 ドンチャカ、ブンチャッ、チャー!!


 と演奏を始め、音響効果の確認が全然できない。


 ったく、何考えているんだ? とつぶやきたくなる。




 しかし、なんつーか、この「ウダウダ感」とか、「まったくもう感」が実にアラブらしい。


 おとといの夜はアンマンで、西欧化した中東を感じたので、「自分の偏見どおりの、正しくアバウトなアラブ」に出会えてほっとしたような気もした。

豪快に修復中のハドリアヌス門。ゼウス神殿の軍楽隊。あくまでアラブ風。
やる気の皆無な、ショーのエキストラたち。これをつけてローマ兵に扮する。