23.
人間は、死の門を通り抜けることで、霊界に踏み入ることになる。そのとき、人間は、地上での「感覚」や「脳」による経験の蓄積がすべて剥げ落ちていくのを感じる。その際、人間の意識の前には、地上で蓄積されたすべての人生経験が、無数のイメージ(形象)となって広がっている。この人生経験には、人間が地上で「考えたこと」も含まれる。こうした「考え」は、地上を生きている間は形象(イメージ)としては捉えられていなかった。また、地上では「意識」できなくても、「意識下」で心に印象づけられたこともある。今、そうした経験のすべてが、膨大な形象(イメージ)の広がりとして意識されるのである。こうした形象(イメージ)は、数日後には色あせて消えてしまう。それらの形象(イメージ)が完全に失われたとき、人間はエーテル体を脱ぎ去ったことを知るのである。なぜなら、これらの形象(イメージ)を担っていたのは、エーテル体だからである。(訳・入間カイ)
23. Der Mensch betritt, indem er durch die Todespforte geht, die geistige Welt, indem er von sich abfallen fühlt alles, was er durch die Sinne des Leibes und durch das Gehirn während des Erdenlebens an Eindrücken und an Seeleninhalten erworben hat. Sein Bewußtsein hat dann in einem umfassenden Tableau in Bildern vor sich, was an Lebensinhalt während des Erdenwandels in Form von Bildlosen Gedanken in das Gedächtnis gebracht werden konnte, oder was zwar für das Erdenbewußtsein umbemerkt geblieben ist, doch aber einen unterbewußten Eindruck auf die Seele gemacht hat. Diese Bilder verblassen nach wenig Tagen bis zum Entschwinden. Wenn sie sich ganz verloren haben, so weiß der Mensch, daß er auch seinen Ätherleib abgelegt hat, in dem er den Träger dieser Bilder erkennen kann. (Rudolf Steiner)
私たちの「心」のなかには、
つねに無数の刺激や印象が渦巻いています。
それは都会の喧騒だったり、田舎の静けさだったり、
他の人々の会話のなかで感じた、
自分の喜びや悲しみ、疎外感、あるいは賛同の気持ちであったりします。
また、別の人の意見や、読んだばかりの本に対する
自分自身の感想や反対意見であるかもしれません。
そのなかには、親しい人々の顔や立ち姿、
美しい風景の印象といった「形あるイメージ」(形象)もあるでしょう。
しかし、私たちの心のなかには、
そのようなはっきりしたイメージ(形象)としては意識されていない、
「形にならない思い」や、
「自分でも気づかないでいる微かな感情」も存在しています。
つまり、「なぜかこの人の意見には納得できない」という思いや、
自分でも意識していない嫉妬心や憧れ、
あるいは称賛や不満、反感などがあるわけです。
死後、私たちはまず
こうした人生経験のすべてを改めて意識することになります。
そのために、地上では気づかずにいた思いや感情までもが、
つまり、
自分はこの人に対して、
あるいは、この事柄に対して、
こんな思いを抱いていたのか、ということが、
いわば「心の眼にみえるイメージ」となって展開されるのです。
そして、そうしたイメージがすべて消え去ったとき、
私たちは肉体だけではなく、
さらにエーテル体(生命体)をも脱ぎ捨てたことに気づきます。
このように「死後の経験」に目を向けることによっても、
この地上で、「霊界」を見るために何が必要なのかがわかります。
別の言い方をすれば、
私たちが「霊的に見る」ことを妨げているのは、
エーテル体のなかに蓄積されている
意識的・無意識的な経験にもとづく
先入観や思い込みなのです。
死というプロセスは、
まず地上で身につけてきたさまざまな先入観を
次々に脱ぎ捨てていくことでもあります。
この地上でも同じことが言えます。
私たちが自分の心のなかに潜む無数の先入観や思い込みに気づき、
それを一つひとつ剥ぎ落としていくとき、
初めて「霊的」に見ること、
つまり「あるがままの現実」を見ることが可能になるのです。
人間は、死の門を通り抜けることで、霊界に踏み入ることになる。そのとき、人間は、地上での「感覚」や「脳」による経験の蓄積がすべて剥げ落ちていくのを感じる。その際、人間の意識の前には、地上で蓄積されたすべての人生経験が、無数のイメージ(形象)となって広がっている。この人生経験には、人間が地上で「考えたこと」も含まれる。こうした「考え」は、地上を生きている間は形象(イメージ)としては捉えられていなかった。また、地上では「意識」できなくても、「意識下」で心に印象づけられたこともある。今、そうした経験のすべてが、膨大な形象(イメージ)の広がりとして意識されるのである。こうした形象(イメージ)は、数日後には色あせて消えてしまう。それらの形象(イメージ)が完全に失われたとき、人間はエーテル体を脱ぎ去ったことを知るのである。なぜなら、これらの形象(イメージ)を担っていたのは、エーテル体だからである。(訳・入間カイ)
23. Der Mensch betritt, indem er durch die Todespforte geht, die geistige Welt, indem er von sich abfallen fühlt alles, was er durch die Sinne des Leibes und durch das Gehirn während des Erdenlebens an Eindrücken und an Seeleninhalten erworben hat. Sein Bewußtsein hat dann in einem umfassenden Tableau in Bildern vor sich, was an Lebensinhalt während des Erdenwandels in Form von Bildlosen Gedanken in das Gedächtnis gebracht werden konnte, oder was zwar für das Erdenbewußtsein umbemerkt geblieben ist, doch aber einen unterbewußten Eindruck auf die Seele gemacht hat. Diese Bilder verblassen nach wenig Tagen bis zum Entschwinden. Wenn sie sich ganz verloren haben, so weiß der Mensch, daß er auch seinen Ätherleib abgelegt hat, in dem er den Träger dieser Bilder erkennen kann. (Rudolf Steiner)
私たちの「心」のなかには、
つねに無数の刺激や印象が渦巻いています。
それは都会の喧騒だったり、田舎の静けさだったり、
他の人々の会話のなかで感じた、
自分の喜びや悲しみ、疎外感、あるいは賛同の気持ちであったりします。
また、別の人の意見や、読んだばかりの本に対する
自分自身の感想や反対意見であるかもしれません。
そのなかには、親しい人々の顔や立ち姿、
美しい風景の印象といった「形あるイメージ」(形象)もあるでしょう。
しかし、私たちの心のなかには、
そのようなはっきりしたイメージ(形象)としては意識されていない、
「形にならない思い」や、
「自分でも気づかないでいる微かな感情」も存在しています。
つまり、「なぜかこの人の意見には納得できない」という思いや、
自分でも意識していない嫉妬心や憧れ、
あるいは称賛や不満、反感などがあるわけです。
死後、私たちはまず
こうした人生経験のすべてを改めて意識することになります。
そのために、地上では気づかずにいた思いや感情までもが、
つまり、
自分はこの人に対して、
あるいは、この事柄に対して、
こんな思いを抱いていたのか、ということが、
いわば「心の眼にみえるイメージ」となって展開されるのです。
そして、そうしたイメージがすべて消え去ったとき、
私たちは肉体だけではなく、
さらにエーテル体(生命体)をも脱ぎ捨てたことに気づきます。
このように「死後の経験」に目を向けることによっても、
この地上で、「霊界」を見るために何が必要なのかがわかります。
別の言い方をすれば、
私たちが「霊的に見る」ことを妨げているのは、
エーテル体のなかに蓄積されている
意識的・無意識的な経験にもとづく
先入観や思い込みなのです。
死というプロセスは、
まず地上で身につけてきたさまざまな先入観を
次々に脱ぎ捨てていくことでもあります。
この地上でも同じことが言えます。
私たちが自分の心のなかに潜む無数の先入観や思い込みに気づき、
それを一つひとつ剥ぎ落としていくとき、
初めて「霊的」に見ること、
つまり「あるがままの現実」を見ることが可能になるのです。
生きている今、それが出来ると言うことは、
すごく幸せなことなのだと思います。
帰る家がわかっているとき、したくなることは、
道草です。
わかっているから、楽しめます。
そう考えると、
偏見や思いこみといった、苦しみを生む体験は、
見方を変えると、
人生における楽しみにもなりうるのかもしれません。
苦しみの最中にそう思えるかはまだ、自信はないですが、
このことを思い出すと、少し楽になり、
苦しみの基になった、
手放せない負の持ち物を客観視する事が出来、
正気に戻ることが出来るかもしれません。
正気に戻るとは、
道草していることが真の目的になってしっまた勘違から、
解放されると言う意味です。
道草が好きな私は、この(23)で心が軽くなりました。