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(書評) 吉本隆明『母型論』(学習研究社) ハルノ宵子『隆明(りゅうめい)だもの』(晶文社)

2024-05-13 23:24:42 | 評論

   (書評)

   吉本隆明『母型論』(学習研究社)

   ハルノ宵子『隆明(りゅうめい)だもの』(晶文社)

この本の帯に「哲学書」と書いてある。「りゅうめい」は哲学者らしい。

 (比喩的に)現実ばなれした考えをもつ人。また、深刻ぶったりする人。

(『日本国語大辞典』「哲学者」)

「母型」って何? ボケ? 

活字の字面(じづら)を形成する金属製の型。

(『広辞苑』「母型」)

校閲は寝ている? 

次は、書き出し。

母の形式は子どもの運命を決めてしまう。

(吉本隆明『母型論』「母型論」一)

「形式」は意味不明。形相のこと? 「運命」は困る。

真意は、〈「子ども」が父親に懐かないのは、母親の躾が悪いせいだ〉といったことらしい。ただし、そうした真意は隠したままで、その真意の由来の物語の雰囲気などを読者に伝染させようとしている。読者に疑問を抱かせないための哲学者っぽいスタイルだ。

 「母の形式」と「母型」は同じ意味か? 

形式―

 一定の形や方法

  文書の形式を整える。

型式―

 車などの構造を特徴づける一定の型。モデル。「かたしき」とも読む。

  新しい型式のパソコンを買う。

(『言葉の作法辞典』【けいしき】)

哲学者は言葉の作法を無視することが許される、まるで詩人のように。

わたしたちはここで、倒錯症のふたつの型を、いかにもそれらしく祖述している。だが本質的にのみいえば、これらの異常は前言語的状態だけが水や空のように支配している「大洋」の異変に由来しているため、ほんとうは言語で記述するだけの輪郭(規範)をもっていない世界の出来ごとだといえる。言語で記述すれば輪郭(規範)が目立ちすぎ、単純化とはいえないが萌芽の状態にある微細なニュアンスはすべて省略されたもののように映ってしまう。それでも言語で記述したり解釈したりするほかに術がないため、そうしているだけだ。もし言語を夢の像とおなじように圧縮したり、重複させたり、順序をアト・ランダムにしたりして使うことができるなら、この「大洋」感情の異常な水面下の波立ちを記述することができるはずだ。あとで言及できるかどうかわからないが、分裂病者の言語活動は、それをやっているとみなすこともできる。

(吉本隆明『母型論』「異常論」一)

詩人は「言語を夢の像とおなじように圧縮したり、重複させたり、順序をアト・ランダムにしたりして使うことができる」のだろう。哲学者とは詩を書けない詩人のことだ。元詩人。

さて、解明すべきなのは、母親の躾の方法なのか。あるいは、母親の性格なのか。どっちでもあり、どっちでもないらしい。そんな曖昧な言葉遣いをする父親に問題はないのか。〈父型論〉は不敬か。

性にかかわりなく女性的で受動的なこの「大洋」の世界でも、そのあとの陰核に性愛があつまる乳幼児期になっても、女児は母親に愛着してすごすことになる。だから女児はエロス覚が陰核から膣(腔)に移行するまえに、無意識とその核に、母親への適当な愛着をかくしもっている。このことに例外はないとおもえる。いまこの時期の母親への過当な愛着、いいかえれば母親の女児への過当な愛着に、屈折や挫折や鬱屈があったとすれば、陰核期から膣(腔)期へ性愛が移ってゆく過程で、父親に対するエディプス的な愛着が異常に深くなる。それはこの女児が無意識やその核のなかにおし込めてしまったはずの母親への異常に深く屈折した愛着が、無意識のなかから存在を主張していることを意味している。

(吉本隆明『母型論』「異常論」四)

「この女児」の素材は吉本の長女だろう。だが、彼女は吉本自身の写し絵でもある。「性にかかわりなく女性的で受動的な」幼児期の彼自身の写し絵だ。吉本の仕事は無性の彼が「無意識やその核のなかにおし込めてしまったはずの母親への異常に深く屈折した愛着が、無意識のなかから存在を主張していること」を暴露している。つまり、「母親」は彼の妻であると同時に彼の母でもある。

名も知らぬあなたに 昔の僕を見た

(こうじはるか作詞・植田嘉靖作曲『雨のバラード』)

吉本は、精神的に自立する前の自分の記憶を娘の体験として想定している。そして、そのことに気づかない。

自分の心の中にある、認めたくない感情・性格などを他者の中に見出そうとすること。防衛機制の一つ。

(『広辞苑』「投射」)

彼の長女に対する虐待は、彼自身が「母親」から受けた虐待の反復だ。報復でもある。彼にとって彼女は、虐げられた幼児である彼自身の模造であり、彼を虐げた異性である「母親」の模造でもある。主客の混同による偽の一体感が生じる。その一体感を現実のものにしようとして、彼は「母親」のいる天国へ向かう。だが、そこへ到達することはない。希望を持つと同時に実感が戻り、落下するからだ。その場所は、現実ではなく、地獄だ。希望は絶望の始まり。絶望のどん底に偽の希望の光が差す。悪循環。

心理学などをいくら勉強してみても反省できなければ、却って混乱するばかりだ。固有の混乱を直視する勇気や技能がなく、「本質的にのみ」表現しようとして、元詩人の哲学者は牽強付会を続け、過剰に混乱し続ける。

普通、混乱の際、自意識は失われる。すると、〈私〉ではない何かがどこかから現われ、〈私〉を救ってくれる。その何かを「大洋」と呼びたければ呼べばいい。〈無意識〉でもいい。〈自然〉でも、〈直観〉でも、〈インスピレーション〉でも、〈印象〉でも、〈ひらめき〉でも、〈悟り〉でも、〈センス〉でも、〈運命〉でも、〈真理〉でも、〈霊感〉でもいい。何でもいい。「母親」でもいい。肝心なのは、名前ではない。

「前言語的状態」に言語の箍をはめると、人は凡庸になる。凡庸でいたくない人は哲学者を気取る。「私の論理(ロジック)」(N『こころ』)を捏造するわけだ。すると言語の箍が外れ、その何かが漏出し、妄想が生じる。

〈奇跡〉でもいい。

「奇跡は起きるんです」

「見たことがあるのかい?」

「ええ」南が、見せてくれた。

(北川悦吏子『ロング バケーション』11)

吉本の長女の筆名である「宵子」は、両親から〈良い子〉として扱われなかったことに対する「屈折や挫折や鬱屈」の表現だ。

本当にベテランの名編集者(今存在するのか?)なら、理解してもらえるかもしれない。「父○○」とか「○○家の人々」なんて本に、ロクなものはナイ。文章力の無い遺族にインタビュー形式で、まとめて本にしたり、つたなかったり自分に酔っていたり、名著なんて1つも無い。森類氏のように、それで姉妹と決裂したり、夏目漱石夫人なんて、後々まで悪妻よばわりされた、ちなみに父も、漱石夫人を悪妻だと言っていたが、私は夫人の気持ちは、よーっく分かる。私も妄想がひどかった頃に父に、ナイショで(信頼している)精神科の先生に相談に行き、薬を処方してもらったことがある。しかしそれ以上踏み込んだことは、決して書くことはない。これは家族として、墓場まで持って行く問題なのだ。あなたの家にだって、あるはずだ。本当に死ぬまで抱えて行かねばならない“闇”が。

(ハルノ宵子『隆明だもの』「悪いとこしか似ていない」)

「夫人の気持ち」は、私には分らない。分りたくもない。破鍋に綴蓋。犬も食わぬ。

「夫人」の異常のそもそもの原因が何であれ、異常を助長したのは夫だろう。

人生最初の記憶って何だろう?

たぶん私は、大きな坂の途中にあるおもちゃ屋だ。父に肩車をされて訪れた。

もうとっくに日は暮れていた。店は8畳程の土間で、店の中央の木の台の上には、当時は珍しかった、プラスチック製のまな板や野菜、戸を開け閉めできる食器棚などが並んでいた。裸電球が1つ天井からぶら下がっているだけの店だった。正面の天井近くの薄暗がりに、“おかめ・ひょっとこ”のお面が並んでいたのが、怖かった。いつだったかテレビで、私よりちょっと歳上の俳優さんが、まったく同じような人生初の記憶の話をされていた。当時は、「家内安全・商売繁盛」のお守りとして、お店に“おかめ・ひょっとこ”のお面を飾るのは、よくある慣習だったのだろう。しかし薄暗がりのその“異形”は、子供心には不気味に感じられた。もしもその時、徒歩で訪れたなら、子供は真っ先におもちゃに目を奪われ、天井近くのお面なんて、目に入らなかっただろう。父の肩車で来たからこそ、お面は見えてしまったのだ。肩車なんてできたのだから、私はせいぜい3、4歳、台東区の仲御徒町に住んでいた頃だ。しかしその店は、文京区の動坂の途中にあった。なぜそう言い切れるのかと言うと、私は中学性の時に、その店を“再発見”したからだ。「ああ…夢じゃなかったんだ!」と感激した。店は小さく薄暗く、やはり“おかめ・ひょっとこ”のお面は飾られていたが、中学生の私は、もう怖くなかった。

(ハルノ宵子『隆明だもの』「境界を超える」)

なぜ、「父」は「肩車」をしたのか。

江戸時代、女子の帯解(おびとき)の異称。盛装した七歳の女子を、出入りの仕事師などが肩に乗せて、氏神様などにお参りしたところからいう。

(『日本国語大辞典』「肩車」)

彼女の「記憶」は原光景だろう。“おかめ・ひょっとこ”は性交中の父母の顔だ。母は父を笑い物にし、父は愛憎半ばする思いに顔を歪めていた。幼い彼女の目には、そんなふうに映ったのだろう。

すでに月経が始まっていた「中学生」の娘は、「その店を“再発見”した」のではなく、「記憶」を偽造したのだろう。そうすることによって、父母に対する恐怖を耐えられる程度に薄めたわけだ。

吉本は、娘が自分に対して抱く恐れか何かを、女の男に対する一般的な違和感と混同したかったらしい。つまり、〈自分が女に好かれないのは自分が異常性格だからではない〉と考えたかったらしい。

この純一君と話をしてゐるうちに、漱石の話が度々出たが、純一君は漱石を癇癪持ちの気ちがひじみた男としてしか記憶してゐなかつた。いくら私が、さうではない、漱石は良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であつたと説明しても、純一君は承知しなかつた。子供の頃、まるで理由なしになぐられたり、怒鳴られたりした話を、いくつでも持ち出して、反駁するばかりであつた。そこにはむしろ父親に対する憎悪さへも感じられた。そこで私ははつと気づいたのである。十歳にならない子供に、創作家たる父親の癇癪の起るわけが解る筈はない。創作家でなくとも父親は、しば〳〵子供に折檻を加へる。子供のしつけの上で折檻は必要だと考へてゐる人さへある。それは愛の行為であるから、子供の心に憎悪を植ゑつける筈のものではない。創作家の場合には、精神的疲労のために、さういふ折檻が癇癪の爆発の形で現はれ易いであらう。しかしその欠点は母親が適当に補ふことが出来る。純一君の場合は、母親がこの緩和につとめないで、むしろ父親の癇癪に対する反感を煽つたのではなからうか。そのために、年と共に消えて行く筈の折檻の記憶が、逆に固まつて、憎悪の形をとるに至つたのではなかろうか。

(和辻哲郎『漱石の人物』)

要するに、吉本は誰かがこんな弁護をしてくれるように仕向けているのだろう。

前世紀の終わり、浅田彰が鼎談で、〈二十一世紀に吉本は忘れられているはずだ〉とか何とか予言した。相手は柄谷行人だったか。もう一人は……。まあ、いいや。とにかく、その予言は、ほぼ当たったようだ。ついでに、彼ら三人とも忘れられたようだ。

〈まあ、いいや〉は『ウエストサイド物語』の「マリヤ」のメロディーに乗せて歌ってね。

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(終)


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