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『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (9/12)公私混同

2024-05-05 23:49:22 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告

(9/12)公私混同

 知識人は自己弁護のための物語を好む。公私混同。

この継続という言葉を聞いた時、私は好い事を教えられたような気がした。それから以後は、「どうにかこうか生きています」という挨拶を已めて、「病気はまだ継続中です」と改た(ママ)めた。そうしてその継続の意味を説明する場合には、必ず欧洲の大乱を引合に出した。

(夏目漱石『硝子戸の中』三十)

〔2541 「どうかこうか生きている」夏目漱石を読むという虚栄 2540 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。

個人の悲惨と集団の悲惨を直結するのは妄想だ。

知識人は「僻み根性」(N『彼岸過迄』「須永の話」十六)に囚われている。

「ひがみ」は、まず嫉妬心が土台になって、自分が不当に扱われていると思いこみ、その結果、すねたり、ひねくれたり、素直でなくなったりすることをいう。

(『類語例解辞典』「ひがみ」)

〔6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』夏目漱石を読むという虚栄 6310 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。

「明治の精神」とは「僻み根性」のことだ。ただし、その事実さえ隠蔽し、美化しようとする知識人の「精神」のことだ。大東亜戦争の「精神」も、これだ。

戦争も虐待も知識人が準備する。宗教家や政治家が知識人を利用する。

Nの作品で「僻み根性」が表現されているのではない。N自身の「僻み根性」が自ずと表れているのだ。Nの文体はひねくれていて、読みづらい。

(9/12終)

           


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