『夏目漱石を読むという虚栄』
第三部 「明治の精神」あるいは「影像(イメジ)」の「精進(しょうじん)」
第七章 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
ウソのいっぱいはいっている宝石ばこを、森の川へすてて、すてたはこが、川をのぼって、おしろの池にながれこんで、それをひろった王さまが、ふたをあけてもウソがこぼれないのを見て、
「さあ、またウソがつけるぞ。もうウソはやめようと思ったけど、はこにいっぱいになったら、また、すてればいい」
と、よろこんだところから、さあ、王さまのお話をつづけましょう。
(寺村輝夫『ぼくは王さま』「ウソとホントの宝石ばこ」)
7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
7100 北極あるいは肛門
7110 「やかん」
7111 ドレーフュス事件
『吾輩は猫である』(N)に出てくる知識人たちは滑稽だ。ところが、Nが小説を書き続けると、次第に知識人の内面とやらが深刻に描かれるようになる。
「千早振る」とおなじように、主人公が知ったかぶりをして、ことばの珍解釈をするナンセンス噺だが、落語家なかまで、中途半端な知識をふりまわすのを「あいつはやかんだ」というくらいにポピュラーな噺。
(興津要編『古典落語(下)』解説「やかん」)
SやKが「中途半端な知識をふりまわすのを」笑わない人も「やかん」だ。
フクロは、それに必要な背部(はいぶ)筋肉(きんにく)について説明(せつめい)しました。フクロは、まえにもいちど、このことについて、クリストファー・ロビンに話したことがありました。そして、それからというもの、いつも、もういちど、そのむずかしいことばをつかうチャンスをねらっていました。なぜかというと、この話は、きき手がなんの話か気がつくまえに、やすやす二度(にど)は説明(せつめい)してしまえることがらだったからです。
(A.A.ミルン『プー横丁にたった家』)
フクロ的「背部(はいぶ)筋肉(きんにく)」のような語句を、本稿では〈自分語〉と呼ぶ。〔1213 自分語と個人語〕参照。S的「殉死」(下五十六)はSの自分語だ。「先生」(上一)はPの自分語だ。自分語の使用によって自他を欺瞞する人々がいる。彼らを〈知識人〉と呼ぼう。
知識人には要注意。賛否を問うに値するのは専門家の言葉だけだ。
したがって、まことのドレーフュス派といえば、その人数はきわめてすくなかったと考えなければならないだろう。にもかかわらず、いわば、ほかの人々よりもおおく《考える》という点にだけ共通なものを持っていた。さまざまな立場の学者や文学者が、ひとつの社会問題にたいしておなじような意見をもち、その意見をあきらかにすれば身の危険さえ招きかねぬ状況のなかで、その意見にもとづくひとつの共同の目的達成のために、職業や階級や身分にとらわれることも、人から強制されることもなく、あえて自発的にひとつの結集をおこなったという事実は、強調しすぎても強調しすぎることはあるまい。それこそ七月革命にも二月革命にもコミューンにも見られなかった、まさに近代史上前例のない出来事だったのである。
こうした『ローロール』紙の署名者たちを、当時反対派の新聞はあきらかに侮蔑の意味をこめて《知識人》intellectuelsとよんでいた。
(渡辺一民『ドレーフュス事件』「Ⅰ ゾラは有罪か? 2 《知識人》」)
「強調しすぎても」は〈いくら強調しても〉が適当。
『オフィサー・アンド・スパイ』(ポランスキー監督)参照。
7000 「貧弱な思想家」
7100 北極あるいは肛門
7110 「やかん」
7112 小説家を気取る知識人
人間は、五歳にもなれば、ほとんど誰もが知識人になってしまう。
「北極(ノース・ポール)を探(たん)検(けん)しにいくんだ。」
「ああ!」と、プーはまたいって、「北極(ノース・ポール)って、なに?」とききました。
「発見(はっけん)するもんさ。」じぶんでも、あんまりはっきりしなかったクリストファー・ロビンは、なんでもなさそうに、こう答えました。
「ああ、そうか。」と、プーはいいました。「いったい、クマなんてものに、それ発見(はっけん)できますか?」
(A.A.ミルン『クマのプーさん』)
クリストファー・ロビンは知識人だ。ただし、曖昧な言葉による宣言でも、その言葉に対応する事実を発見することができれば、とりあえず、良しとしよう。彼の「北極(ノース・ポール)」が私の〈北極〉と違っていても構わない。
《韻俗》けつの穴(arsehole)
(『リーダーズ英和辞典/リーダーズ・プラス』「north pole」)
「明治の精神に殉死する積りだ」(下五十六)という発言に含まれた「殉死」の「新ら(ママ)しい意義」(下五十六)を、この発言の時点でSは発見していなかった。それを発見したのは、あるいは、発明したのは、「乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったもの」(下五十六)を読んでからだ。それには明治天皇に対する忠義のようなことは書かれていない。だから、殉死ではない。乃木は自尊心か何かのせいで死んだ。Sも同様のはずだ。彼はKの後を追ったのではない。自殺の動機は「教育から来た自尊心」(下十六)だろう。これは「明治の精神」と同義だろう。ただし、「自尊心」は「耻(はじ)」(下四十八)と区別できない。「耻(はじ)」は「恐ろしい影」(下五十四)と区別できない。要するに、Sには、いや、作者には、「説明」(上十三)の能力が決定的に欠けているのだ。
ヴラジーミル じゃあ、行くか?
エストラゴン ああ、行こう。
二人は、動かない。
―幕―
(サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』)
Sは動けなくなっただけだ。だが、そうした文芸的表現を作者が試みているのではない。
『こころ』は失敗作であり、Nは知識人だ。小説家を気取る知識人だ。
7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
7100 北極あるいは肛門
7110 「やかん」
7113 判断停止
〈台形の面積を求める公式を小学校で教えなくなる〉という噂を信じた人がすごく怒っていた。理由を尋ねても答えない。だから、勝手に推測してみる。
〈台形の面積=(上底+下底)×高さ÷2〉という公式は、誰でも知っているようで、実はよくわかっていないらしい。わかっていないということを自他に対して隠蔽するために、知識人は怒るようだ。
面積とは何か。彼らは、そのことからわかっていないのだろう。「厳密には定積分により定義する」(『広辞苑』「面積」)というが、積分なんか、小学生は理解できない。私だって理解できなかった。では、面積について、微積分学を習得するまで、不安なまま、生きていくのか。そんなことはない。台形の面積は、公式を教わらなくてもわかる。
まずやるべきことは、三角定規と与えられた条件だけで作図する。そして、他人の図と見比べる。そして、それらの図が同じであることを確かめる。同じではないのに同じ公式を使うのは、ためらわれる。ためらわないのは知識人だ。
次の作業では、台形を1個の長方形と2個の直角三角形に分ける。長方形の面積を求める公式は知っていることにする。三角形について、一般的な三角形の面積の公式は知らなくていい。直角三角形だからだ。ある直角三角形と合同の三角形を作って逆さにくっつけると長方形ができる。その長方形の面積を半分にすればいい。
台形に対角線を引いて、三角形を二つ作る。そういう方法はスマートだが、これをやるには、一般的な三角形の面積を求める公式を知っていなければならない。知っているというのは、覚えているのとは違う。公式が正しいことを実感していなければならない。実感するためには、台形の場合と同じような作業をやる。
台形の公式を欲しがる人は、一般的な三角形の公式から理解できていないのだろう。理解できないからどうということはないのに、恥じて、そのことを自他に対して隠蔽しているのだろう。だから、台形の公式の必要性を語れない。
直線の長さは実感できる。使いかけの鉛筆の長さは、並べればわかる。広さは実感しにくい。不定形の紙を重ねると、おおよそ大小がわかるが、わからないこともある。大きさは、もっとわかりにくい。林檎とバナナの大小は、見ただけではちょっとわからない。食べてもわからない。水に沈めて量る場合、スポンジのような物だと無効だ。
知識人は、こうした段階的思考ができない。ある現象を説明するために、すぐに公式や定説などを利用しようとする。うまくいかないと、つまり「智に働けば角が立つ」と怒る。怒りに駆られ、「情に棹差せば流される」と恨み、「意地を通せば窮屈だ」となるが、いくら苦しくても、考えることを止められない。「ぐるぐる」(下三)が続く。
すべては疑わしくいかなる認識も相対的であるから、魂の平静を得るためには一切の断定を保留すべきだという主張。
(『広辞苑』「判断停止」)
知識人は判断停止を嘲る。罵る。知識人に付ける薬はない。
(7110終)