ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄 7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」7100 北極あるいは肛門 7120 「思想家」の駄々

2024-05-27 23:40:38 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄

7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

7100 北極あるいは肛門

7120 「思想家」の駄々

7121 エビデンス

 

メディア・リテラシーといった看板を掲げて〈情報の真偽を確かめなさい〉などを教えてくれる知識人がいる。だが、〈神は実在する〉という文の真偽を、どうやって確かめるのか。

 

新型コロナウイルスに関して、マスコミでは医師たちが「エビデンスが重要」とよく言っていました。コメンテーターたちもかなりの頻度で「エビデンスを出してもらいたい」と口にしていました。

ウイルス感染についてのエビデンスは、出せるものと出せないものがあります。医師もコメンテーターも、どのような感染実験をするかを知らないため、「エビデンスが重要」「エビデンスを出せ」と口にするのでしょう。

(宮沢孝幸『ウイルス学者の責任』「第1章 国の過ち」)

 

こうした「医師」や「コメンテーター」は知識人だ。

彼らは「感染実験」に関する無知を自他に対して隠蔽するために、「エビデンス」というカタカナ語を悪用している。

 

私は国立大学法人に勤めています。予算の多くを国家の税金に負っている大学で働いている以上、自らの研究成果を国に還元しなければなりません。

また、飲食店の方、私が趣味のピアノをきっかけとして懇意にして下さっているライブハウスや交響楽団の方々など、日頃大変お世話になっている人々が理不尽なことで困っているのは見過ごせません。それが、ウイルス学者の責任だと思っています。

人流を止めるのは、あくまで最後の手段のはずです。

(宮沢孝幸『ウイルス学者の責任』「第1章 国の過ち」)

 

この宮沢は知識人に成り下がっている。公私混同は知識人の癖だ。

ノーベル賞受賞者でも、専門外のことに口出しすると、往々にして知識人に成り下がる。

 

私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家の纏(まと)め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脉(みゃく)が止まったりする程の事実が、畳み込まれているらしかった。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十五)

 

この文は検討済み。〔1542「強い事実」〕参照。

自分の体験と意見を切り離すことのできない「貧弱な思想家」が知識人だ。知識人は公私混同をしながら、そのことを長所のように勘違いしている。彼らの言説は駄々だ。

大人ぶった子供がそのまま育って子供じみた大人になったのが知識人だ。彼らの知識は贅肉のようなものだ。あるいは、見せびらかすためのボディービルダーの筋肉。役立たず。

 

7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

7100 北極あるいは肛門

7120 「思想家」の駄々

7122 「自由のはき違え」

 

知識人のスタイルには、三つの特徴がある。

 

1 自己完結。〔1250 自己完結的〕参照。

2 自分語。〔1213 自分語と個人語〕参照。

3 不適当な比喩。〔4522 象徴と暗示〕参照。

 

所謂ワイド・ショーで、NHKの元解説者が、「自由のはき違え」という言葉を発した。すると、その場にいた政治学者みたいな人が力なく微笑し、「自由にはいろいろありますからね」と受けた。と、すぐにCM。〔5533 「たいへんなまちがい」〕参照。

 

――マスクに関しては、個人の自由をとるか、集団を守る責任感をとるかの相違だという意見もありますね。

 

個人の自由をはき違えているのではないだろうか。自分がそうしたいと思えば、左車線を運転できるのかね? アサルトライフル(突撃銃)を連射しながらモールを走りまわる自由があるのだろうか? マスクを着けずに公共の場に出るのは、それと同じことだ。人々の命を脅かしているのだから。これは個人の自由などではなく、許容できない自由だよ。

(ノーム・チョムスキー+デビッド・バーサミアン『壊れゆく世界の標(しるべ)』「第3章 スローガンを叫ぶだけでは何も変わらない」反ワクチン運動の弊害)

 

「できるのかね?」って、できるよ。「あるのだろうか?」って、あるよ。

チョムスキーは自粛警察を組織するのか。マスク不着用者を殴ってまわるのか。

この「自由」は自分語だ。伸縮自在。

逆走は認められる。さもなければ、追い越しはできない。自動車は走る凶器だ。そもそも、運転は、ピストルの引き金に指を掛けてモールを走りまわるような行為だ。突撃銃の連射の例も不適当。健康な人がマスクを着用しないで出歩くのと、感染者が人々に唾を吐きかけてまわるのは、大違いだ。

 

「話せばわかる」はつねに「問答無用」によって圧し潰されてきた。人間を理性的存在と規定した偉大な哲学者を社会は、それ自身奴隷制度という暴力の制度の上に成立していた。あらゆる人間的事態が、けっきょくは暴力に赴かねばならぬというこの冷酷な事実を前にしているからこそ、われわれは、稀に存在することもある暴力によらぬ解決を憧憬し、それを誉め称えるのではないか。例えば、名誉革命と。

(『現代哲学事典』「暴力」足立和浩)

 

このチョムスキーは知識人だ。

 

7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

7100 北極あるいは肛門

7120 「思想家」の駄々

7123 託つ癖

 

知識人は中途半端だ。中途半端ではない人を、私は〈知識人〉と呼ばない。

 

しかし、仁礼に見込まれ、高等学校から大学まで出して貰うと、いつの間にか、練太郎のは丁稚の経験と、知識人として十分な教養とのために、一種複雑な青年になっていた。けれども、仁礼は教養が足りないだけに、商人としての練太郎をみているだけで、彼の内心深く巣喰っている、近代青年の深刻な、知識的な苦しみには、少しも、理解することが出来なかった。

(横光利一『家族会議』「発端」)

 

「一種複雑な」のは暗い知識人だ。

 

つくづく淋しい我が影よ動かして見る

(尾崎放哉「一燈園にて」)

 

知識人は「我が影」を動かすように他人を動かそうとする。〔4510 「還元的一致」〕および〔5442 女菩薩と女夜叉〕参照。

単純な思想家は他人を動かそうとしない。言いたいことが言えたら、すっきりする。

知識人は「天下を睥睨(へいげい)するような事」(下十九)を言いたがる。傲慢。猫であれ、何であれ、自分の思い通りにはならないということを、やがて思い知る。疎まれる。無視される。だから、「卑怯な人」(下一)に成り下がる。

 

 歎けとて月やは物を思はするかこちがほなる我が泪かな

(西行『千載和歌集』恋5・929)

 

知識人は託つ。

 

あまり関係のないことをむりに結びつけて理由とする。他のせいにする。口実とする。かこつける。

(『日本国語大辞典』「かこつ」)

           

思い通りにならないから託つのではない。もともと託つ癖があるのだ。

Sに付き纏う「黒い影」(下五十五)は「我が影」であり、Kの亡霊などではない。Sは「我が影」を恐れて「淋(さび)しい人間」(上七)を気取る。だが、実際には「寂寞(せきばく)」(下五十三)によって安らぐことはない。逆だ。〔1522 「寂寞(せきばく)」〕参照。

知識人は、SがKを裏切ったように、必ず人を裏切る。知識人は、村落共同体では生きられない。「越す国」(『草枕』一)はない。「東京」(下三)のような猥雑な都会でしか生きられない。マス・メディアのパラサイトになるしかない。

(7120 終)

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする