古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

吉野ケ里遺跡(先祖は徐福)

2016-10-12 14:59:28 | 歴史
吉野ケ里の初期の時代徐福出港の時代が重なるのですよね。
徐福船団は、総勢3000人と云われています。全員が一隻の船には乗れません。
一隻に100人として、船の数が30隻ほどだったのではないでしょうか。
徐福伝説は、日本各地にあります。韓国の南東の島「済州島」にもあります。
秦(今の山東省辺り)を出港した徐福一団は、済州島に到着します。
そこで、徐福は考えます。この先何が起こるかわかりません。
徐福は、一部のメンバーを済州島に残します。ここまで到着した証です。
次に、東へ向かうと長崎の島々に到着します。
ここで、徐福は船団を二つに分けます。
玄界灘を東に向かう船団と東シナ海を南に向かう船団です。
東方方面の船団は松浦半島の先端に着きます。
ここで一隻の船を南へ、残りは更に東へ進みます。
南へ進んだ船は伊万里湾に到着し、陸路にて山を越えて有明海へ
筑紫川を上り、金立の地へ到着します。
陸路の途中でも、人を少しづつ残していきます。
筑紫川に到着した際は、残り数十人、最終グループは、田手川に入り吉野ケ里と金立の地で
生活します。
ほか、長崎で別れ南へ進んだ船団の分かれて、一隻の船は有明海に入ります。
船は筑紫川で捨てられ、陸路で川をのぼります。数十人が吉野ケ里に住み、他は更に上流へ
進みます。
玄界灘を東へ進む船団の一部は、糸島半島、博多湾に上陸して奴国など祖先となります。
絶対と云える証拠はありませんが、可能性はあると思います。

吉野ケ里初期の村は、2.5ha規模の小さなものでしたが、青銅器鋳造に用いた鞴(ふいご)の羽口や取り瓶などが出土しています。
鋳造の知識があったとして、材料となる青銅の入手がわかりません。
1、時々、博多湾の人種が訪ねて来て分けてもらった(分捕った)
2、博多湾まで陸路で歩き、入手して戻ってきた。
3、出港時にもっていた鏡を溶かした。
4、有明海に入港した船を解体して入手した。
当初は、3、4でしょうから、かなり貴重だったはずです。
農耕、弥生式土器から鋳造までの技術があり
甕棺を使った集合墓地、国造りなどが
有明海側と玄海側で同時に進んだ様にも思います。


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