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古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

古事記の日本神話と九州、出雲以外の神話

2017-06-12 10:02:04 | 歴史
古事記の日本神話から素戔嗚を省いてみるとで紹介した通り
古事記の上巻で登場する神話は、九州の神話に出雲の神話を加えて編集されているようです。
では、近畿や他の地方には神話は無かったのでしょうか。
古事記の編集者は、無理やり神武東征の話の中に詰め込みます。
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ:45歳)は遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、日向を出発します。
先に、塩土老翁(シオツツノオジ)と云う神様が近畿の地におられます。
北九州の岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごし
浪速国で長髄彦(ナガスネヒコ)の軍勢に敗れ、兄の五瀬命(イツセ)が亡くなります。
迂回した熊野では高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持って来て現れます。
九州の高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至る。
宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟もいます。
宇迦斯(エウカシ)は自分が仕掛けた罠にはまって死んでしまいます。

聖徳太子と蘇我馬子が、初代天皇の即位を紀元前660年に設定したため、挿入できる年数がたっぷりあります。
倭建命(やまとたけるのみこと)や倭姫命(やまとひめのみこと)の様に、名前に 倭 を入れる事で
天照直系に入れてもらえた神話もあります。

古事記は、天皇家が日本を産んだ神の子孫でる事を証明しますが
同時に、山陰の出雲、山陽や四国など瀬戸内海の国々と近畿の国々を敵に回すことなく西日本をまとめる役目も果たしています。

大和朝廷のご先祖様か。古事記の上巻から中巻の神武東征の話から
九州の祈祷師 邪馬台国の女王 卑弥呼 = 天照大神 と考えるのが正しいようです。
日本神話では、天照大神は数千万年、数億年前になりますが、実は弥生時代後期でした。
文字のない、弥生時代、古墳時代です。ご先祖様の記録は神話となったのでしょう。

歴史は、常に日の上る方向、東へ広がっています。
武力支配の秦の始皇帝から逃げ出した徐福一団
三国志の時代には、朝鮮半島経由の航路が見つかり、交易が盛んになり、渡来人が移住した弥生時代。
その後も船もつ渡来人が山陰方向へ進み出雲
山陽の瀬戸内海に船を進めた一団もいたでしょう。
天孫降臨も有明海側から宮崎側へ、神武東征で近畿へ
倭建命(やまとたけるのみこと)は、関東征伐とやはり東へ話が進みます。
聖徳太子は、自らを日の出国の天使と呼び、後に国の名前を日本とします。
太陽神 天照大神の役目は非常に大きい物でした。
そして、天照大神は弥生時代の卑弥呼を題材に創られて、その祈祷文化が平安時代に神社となります。

しかし、今もどこにあったのかわからない邪馬台国です。
7~8世紀の人たちは「邪馬台国の卑弥呼」について知ることが出来たのでしょうか。
・神話の通り、邪馬台国の一族が宮崎へ移住、その後、近畿へ移住した。
・難斗米など、交易などで卑弥呼を知る人物が大勢した。彼らが「卑弥呼」を神話にした。
・大陸にも「魏志倭人伝」を編集した人たちがいます。編集時の知識をもって渡来したが、邪馬台国が見つからず神話にした。

出雲に素戔嗚の神話、宮崎(西都原)に天照大神神話があったとして
古事記の編集者たちは、何故、天皇家のご先祖と九州と出雲に設定したのでしょうか。
大和朝廷は瀬戸内海を渡って渡来した一族による新興国家です。
弥生時代。難波、淀川河川沿いには既に多数の大きな国がありました。
神武東征時の近畿上陸時の話は事実で、熊野側から奈良盆地にたどり着いたのでしょう。
近畿で最も歴史の浅い大和朝廷は、西方に神様が住む天空の世界「高天原」があり、天孫降臨で地上に降りた神が
天皇家の先祖である。
近畿を統一する為にも、西日本を統一する為にも、もっとも都合の良いストーリーでした。
もちろん、事実の可能性が高いです。

古事記の日本神話と天照の神話

2017-06-11 22:24:30 | 歴史
古事記に登場する天照と月読の神話は、九州地方の神話です。
では、九州のどの地方の神話でしょうか。
九州の大国と云えば、奴国 と 邪馬台国 です。
個々からは消去法です。
天照が奴国の神話の場合(天孫降臨が九州北部)
漢委奴国王の金印を授かる歴史の古い国です。
そのご先祖様に関する神話となります。奴国のご先祖として思いつくのが徐福です。
大陸には陰陽思想が既にあります。
徐福が大陸の陰陽思想を持ち込んだ可能性はあります。
太陽神 天照、陰の神 月読 の発想は理解できます。
ニニギが奴国王で、山幸彦、海幸彦が宗像一族、安曇一族とも受け取れます。
しかし、陰陽思想では 陰 が女性、 陽 が男性 です。
天照も月読も日本古代固有の神様であるようです。
神武東征が、日向を出発して筑紫に滞在するストーリーも合いません。

天照が邪馬台国の神話の場合
天照が卑弥呼、月読が弟で一致しますが、3世紀中ごろに実際に存在した国です。
この二人を神話にする必要があるでしょうか。
天孫降臨するニニギが誰なのか、ニニギが作った国が邪馬台国なのか
話が矛盾してしまいます。
卑弥呼とその弟を先祖とする一族が別の地域に国造りし、二人を神話にしたと考える方がうまくいきます。

スッキリは
邪馬台国の女王 卑弥呼とその弟を祖先とする一族が九州北部から阿蘇を超えて、高千穂の地へ移住する。
その時の国王がニニギ
五ヶ瀬川下り、現在の延岡、或いは 大淀川を下り、現在の宮崎市に
新たに国が出来た時に、伝わっていた神話は天照と月読 と考えては如何でしょうしょうか。
神武東征が、日向を出発、筑紫にとどまるストーリーも納得できます。
日向には既に国がありました。そこへニニギの子孫が加わり新しい国が出来ました。
出雲の歴史と同じです。
邪馬台国が三世紀前半の国、卑弥呼の死が三世紀中ごろ、吉野ケ里など環濠集落が消えてしまい、古墳時代になります。
同じ時代に、西都原古墳群に古墳が出来てきます。
古墳時代に、弥生時代の事実が神話となります。
出雲の神話も同じ時期の出来事でしょう。
当時はまだ、文字がありません。ご先祖様の歴史は神話として語り継がれます。
古事記の上巻に編集された日本神話は、九州宮崎の神話と出雲の神話を合体させています。
中巻の始まりが神武東征で近畿の大和朝廷の始まりにします。

古事記の日本神話から素戔嗚を省いてみると

2017-06-11 19:08:43 | 歴史
古事記の日本神話と出雲の神話
古事記の上巻 日本神話には、出雲の神話が組み込まれていると考えます。
では、この日本神話を 素戔嗚 なしで読み直してみましょう。
天地開闢、国産みと神産み には変わりなしです。
話は、イザナギは黄泉の穢れから身を清めるために禊を行った際に産まれた 三貴神
左の目を洗うと天照大御神(あまてらすおほみかみ)が生まれた。
右の目を洗うと月読命(月夜見:つくよみのみこと)が生まれた。
※鼻を洗うと建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が生まれた。
左右に両眼から二人の神様が生まれる方が自然です。わざわざ鼻から産むの?耳や口は?となります。
名前も素戔嗚 だけおかしい。
・天照       漢字の意味から太陽神とわかります。
・月読(月夜見)  もちらも、夜の神とわかります。
素戔嗚 ? その名前に意味があるのでしょうか。

イザナギは、天照に高天原(天上界)を月読(月夜見)に黄泉の国(死者の国、地底の国)に行くように指示します。
※素戔嗚には、海原の支配を命じたところ、イザナミがいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。
 イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放しします。
 この神様らしくない行動の部分が無くなります。
更に
※素戔嗚は、姉の天照に会ってから根の国へ行こうと思い、高天原へ昇る。
 すると山川が響動し国土が皆震動したので、天照は素戔嗚が高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた
この天照の行動も神様らしくありません、削除されます。
当然、その後の、兄弟喧嘩から始まる 誓約 の神話も削除します。

天の岩戸の神話は少し手を加えます
原典
素戔嗚のいたずらで織物の仕事をしている女性が無くなり、天照がいじけて、岩戸に隠れたため世の中が真っ暗になった。
修正
葦原中国がまとまらず争い事が続くので、天照が怒り、世の中を真っ暗にした。
何となくギリシャ神話の太陽神 アポロン(ゼウスの子供)の話に似てきますね。

・因幡の白兎、八幡の大蛇、国譲りの神話は、全て削除です。
天照は、孫のニニギに葦原中国を収める様に指示して、天孫降臨 の話になります。
以下、修正したお話です。
ニニギの子供
火照命(ほでりのみこと:海幸彦)は漁師として国を作り
火遠理命(ほおりのみこと:山幸彦)は猟師)として国を作り
ニニギは、日向の土地に朝日が見える宮殿を作り、天照を祀った。

黄泉の国へ行った 月読(月夜見) は、九州の西側にひそかに祀られています。
九州にあった神話は、太陽神(天照:昼の神)、月の神(月読:夜に神)の二人のお話でした。
こちらの神話の方が神様らしく、しっくりしませんか。

古事記の上巻に書かれている日本神話は
九州の二人の神様の九州神話と出雲の素戔嗚の出雲神話を組み合わせて出来ています。
その他にも、イザナミが多数の神々を産んでいます。
西日本各地に伝わっていた神様も存分に書き加えたでしょう。
神武東征は、九州の神話と近畿を結びつけるために必要でした。

中巻は、聖徳太子と蘇我馬子によって作成された天皇記が引用されますが、
その後半は、蘇我氏の台頭と仏教の普及が書いてあり、660年には、蘇我氏が天皇となる筋書きでしたので
下巻において、修正されて推古天皇までの話で締めくくられます。

聖徳太子、推古天皇以降は、日本書紀に委ねています。
古事記の目的の一つには、蘇我馬子が作った天皇記 と 仏教の影響の排除がありました。
伊勢神宮と出雲大社も古事記に沿って急いで立て直されたはずです。

古事記の日本神話と出雲の神話

2017-06-11 11:51:47 | 歴史
古事記の上巻に書かれている日本神話の中でも出雲に関する部分が約三分の一ほどあるようです。
素戔嗚が高天原を追放され出雲に降り立ち
因幡の白兎の神話
八幡の大蛇退治の神話
子孫が大国主となり出雲国を作る
国譲りでアマテラスノ子孫へ出雲を譲り、出雲大社が出来る。

上巻に登場する国は出雲の実ですので、当時の大和朝廷も無視できないほど出雲は影響力があり
出雲神話は有名だったのでしょう。
上巻の出雲の神話は、元々出雲にあった神話をそのまま引用されています。
概略
・出雲地方に古くから国が栄えていた。
・海を渡り隠岐の島に新しい一族がたどり着く。
・出雲の国と争いがおこり、、新勢力の渡来人が出雲の国を作る。
弥生時代の大陸からの渡来人が出雲の国を作ったのでしょうか。
既に、渡来人が住んでいて、更に大陸から人が移住した可能性もあります。
魏志倭人伝に紹介される投馬国が水行20日とありますが、帯方群から朝鮮半島を迂回して
新羅から日本海を横断して隠岐の島へたどり着く航路が発見された時代の出来事ではないでしょうか。
奴国、邪馬台国と同じ弥生時代の出雲が神話として伝わっていたと考えられます。

但し、古事記の編集者が挿入したのは、スサノオがアマテラスと兄弟、高天原を追放された部分です。
上巻の日本神話には、大和朝廷の本拠地、近畿奈良の神話が登場しません。
スサノオも奈良を出発して近江より出港、出雲のたどり着く話が良かったのでしょうか
出雲国に配慮したのでしょうか、出雲の神話を優先し、後に国譲りのストーリーです。

近畿の物語は、中巻で神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)が瀬戸内海を渡ってきて
近畿を征伐(神武東征)、初代天皇 神武天皇となる(紀元前660年)の話からになります。
やはり、東から渡来人が移住して、既にあった国々を従えていきます。
出雲の神話と同じストーリーです。
これらは、古事記 中巻は、聖徳太子の「天皇記」「国記」を引用で紹介した、聖徳太子と蘇我馬子が作成した天皇記のストーリーでしょう。
近畿と出雲と全く異なる地方ですが、東方から船に乗った一団が移住して新しい国を作ると云う部分で共通です。
大陸で大きな船が作られ、九州北部と交易が盛んにおこなわれていた。
新たに、九州北部(末盧国、伊都国)を経由せずに、朝鮮半島から門司へ、山陰地方へ航海が出来る様に発展していった過程です。
時代的には、漢委奴国王の金印を受ける奴国繁栄の後
親魏倭王の金印を受ける邪馬台国と同じか、その後の時代。
弥生時代後期から古墳時代の事実が神話になっています。3世紀後半でしょう。

上巻の日本神話は、
・イザナミ、イザナギなど神々のお話
・アマテラスの天の岩戸、スサノオとの誓約
・ここに、出雲神話から国譲り
・ニニギの天孫降臨から海幸彦・山幸彦
に分けられます。
国譲りのお話の他に、神武天皇が皇后に媛蹈鞴五十鈴媛命(スサノオの子孫 大物主神の娘)を迎えています。
物語としては、ニニギ辺りで大国主神の娘と結婚させる手法もあったでしょうか、
既に中巻が先に完了していたのでしょう。出雲の国譲りと神武天皇と大物主神の娘 との結婚 と似たような内容が二度登場します。

大和朝廷と出雲国、かなり親密な関係であった。同じ大陸一族で言葉や習慣も似ていたのでしょう。
倭国統一に協力関係でありました。

残る神話で、スサノオと兄弟関係にあるアマテラス、神武天皇のご先祖様に当たるニニギノミコトとご先祖様アマテラスとは
アマテラス神話がどこの地方の神話なのか分かれば、神様の国 高天原 が特定できるのですが、如何でしょう。

古事記の日本神話と魏志倭人伝

2017-06-10 21:56:45 | 歴史
古事記 上巻「日本神話」は誰が創ったのか。の続きです。
古事記は、日本神話の上巻と中巻、下巻の三部作になっています。
それぞれが分担作業で長年をかけて編集されています。
最初の書かれたのが中巻で、聖徳太子に天皇記を引用して書き直したと思います。
但し、天皇記終盤にあっただろう蘇我氏の記載は、古事記の下巻で修正して編集されたでしょう。
同時に、進行したのが上巻の日本神話の部分。これが難しかったのです。
ほぼ同時に建てられた伊勢神宮、出雲大社との整合性が必要だからです。
当時の朝廷では、三~四世紀の歴史を知ることが出来ませんでした。
わかるの聖徳太子の天皇記に記載されていただろう神武天皇(300年中頃)以降です。
しかし、この神武天皇辺りも、聖徳太子の創作の可能性がありますので、修正したでしょう。

古事記の上巻の編集者は、神武天皇以前の表現について考えます。
手がかりを魏志倭人伝に目をつけますが、決して大陸の史記が参考になっていると分かる様に出来ません。
目的は、物部氏の時代に大切にされていた神道の復興です。
既に朝鮮半島に支配は終わっています、朝鮮から伝わった仏教を一緒にすることは出来ません。
蘇我氏を滅ぼした時点で仏教と縁を切る必要があります。
その手掛かりを魏志倭人伝に紹介される邪馬台国(水行十日陸行一月)の卑弥呼、投馬国(水行二十日)と倭国に見つけます。
引用の箇所は
・倭国 倭の文字を使う神々
・倭国(ヤマト国)の読みと邪馬台国(台 を ト と読むとヤマト)
これらは、古事記の中巻に見られます。
・卑弥呼の祈祷に使われた鏡と魏国から贈られた鏡
 (近畿でも多数の鏡が発見されていて祈祷に鏡を使用していました)
・卑弥呼が魏国へ送った勾玉も天皇家の三種の神器
・もう一つの神器 刀は出雲と関連を主張しています。
・邪馬台国が大和なら投馬(ズマ)国が出雲
・卑弥呼を神社の日 巫女 と表現
・スサノオのいたずらで死んでしまう機織娘が、卑弥呼と共に生活する千人の女性陣
・スサノオがアマテラスに会いに来た時に武器を身につけて応戦=狗奴国の卑弥弓呼との争い
・吉野ケ里の高床式倉庫、入り口の鳥居 が 伊勢神宮 の造り
・天の岩戸は九州北部で起きた皆既日食
・卑弥呼に一人弟がいた、アマテラスとスサノオ
・天照大神は神様ですので死にません。卑弥呼の死、墓は後の倭姫に
・天孫降臨は、台与の事(アマテラスの孫 ニニギは台与)
・台与の豊国=日向
・日向は日の出る方向 有明海側から宮崎へ

という事で、高天原 は、邪馬台国で有明海から久留米など福岡、大分側にあった。
天孫降臨で、日の出る方向、太平洋側(宮崎)へ移住
神武東征は、更に日の出る方向へ瀬戸内海を渡り近畿へ
伊勢神宮は更に東へ領域を広げていきます。
後の古墳時代は、下巻で仁徳天皇などで表現されます。
中巻の神武天皇から応神天皇が幻の四世紀で
仁徳天皇以降から武烈天王が倭の五王の歴史です。
継体天皇以降に新たに近畿での国造りの歴史ではないでしょうか。
委奴国王印を受ける奴国の歴史は登場しません。
理由は、その後、倭国大乱を迎えますし、筑紫磐井の乱もあります。
反逆者となる筑紫一族を天皇家の祖とするわけにはいきませんでした。
古代の大国 奴国連合、邪馬台国連合、出雲王朝の三つの大国は
奴国連合が邪馬台国連合に吸収され、
邪馬台国連合と出雲が手を結ぶ形で後世に伝えたのです。



古事記 上巻「日本神話」は誰が創ったのか。

2017-06-10 18:49:25 | 歴史
古事記について、やはり知っておこう。
古事記 中巻は、聖徳太子の「天皇記」「国記」を引用
に続いて、古事記の上巻「日本神話」は誰が作ったのでしょうか。
全国の神話を集めたと云われていますが、実際は
天空の神様が住む高天原 と 天孫降臨した高千穂、日向 、スサノオの出雲地方の話です。
神武東征で瀬戸内海側の吉備、安芸から近畿の話となります。ここからは中巻に書かれています。

イザナギ・イザナミの国生みなど、矛先から日本列島が出来るのですから、壮大なスケールです。
この時代に、天空に高天原があり、地上の人間が住む世界である葦原中国や、地中にあるとされる根の国・黄泉が紹介されます。

そこの次の世代が、アマテラス、スサノオ、ツキヨミの三貴神
先に国造りにでるのがスサノオです。
スサノオの子孫の様に天孫降臨以前に忌まれた神を国津神(くにつかみ)
天照大神などがいる高天原の神を天津神(あまつかみ)と神様を二種類に分けています。
天津神の主宰神である天照大神に対し、スサノオの六世の孫 大国主(おおくにぬし)が国津神の主宰神です。
天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」と主張
大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。と云う国譲りの神話が登場します。


アマテラスの孫が、ニニギで天孫降臨する。その子が海幸彦、山幸彦
その孫に、後の神武天皇、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)で東征に出発したのが
『日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。
つまり、ニニギの天孫降臨から179万2470余年後 ?
神武天皇(カムヤマトイワレビコ)は、ニニギの子孫(アマテラスの子孫)ですが、神ではありませんので127歳の人生で亡くなります。
それでも長寿すぎる程長生きです。

これらの神話で場所が特定できるのが、
スサノオの子孫、大国主神が国譲りしたのが出雲
ニニギが天孫降臨した土地が高千穂で、神武東征の出発が日向で、瀬戸内海を通って大阪へ到着、和歌山側から奈良へ到着
この位置関係は間違いないようです。
位置を特定できないのか、アマテラスなど天津神が住む高天原(天空の世界です)
神様の住む場所なのですから、そう簡単に場所を特定できるような記載はしていません。
架空の世界の話にしてあります。



世界の実際の歴史感を通り越していますよね。
イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、ニニギ達は神様ですので、死ぬことはありません。
イザナミは、火の神を産んだ際にやけどして死んでしまい、黄泉の国で暮らしていますが。
天照大神(アマテラス)は、伊勢神宮に鎮座されておいて、私たちの国 日本を見守っていただいています。
スサノオは、出雲大社に祀られています。
古事記の上巻は、神社制度の元となる伊勢神宮、出雲大社の設立に必要な内容にしたのです。
当初、天照大神は奈良の宮中に祀られていたようですが
崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移し
垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座していただいた様です。
百済からの仏教伝来が聖徳太子の時代にあり、神仏習合を神仏分離して、現在の神道制度を確立すらために
この日本神話の上巻が必須だったのです。

しかし、中巻の冒頭に登場する神武天皇の名前が 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)
他にも、倭タケル、倭姫など、倭と云う漢字を使った名前が幾度も登場
自国を倭国(ヤマト国)と記載しています。
古事記の作者は、魏志倭人伝など中国の史記を読んでいるのです。
しかし、上巻の日本神話では使われていない様です。最後は、神社でこの日本神話が菩提となりますが??
日本書紀では、至る所で 史曰く と中国の史記の表現と無理やり関連づけしていますが、先に書かれた古事記にはそれがありません。
古事記の著者は、魏志倭人伝登場する人物を全て無視したのでしょうか。
この辺りを次に考えてみます。

古事記 中巻は、聖徳太子の「天皇記」「国記」を引用

2017-06-10 16:29:47 | 歴史
古事記について、やはり知っておこう。に続いてです。
古事記の
中巻は、神武天皇から仲哀天皇と皇后の神功皇后
下巻が、仁徳天皇 から推古天皇(女帝)と聖徳太子 のお話です。
そして、聖徳太子と蘇我馬子で 天皇記・国記の編集を行います。
神武天皇即位を紀元前660年に設定して、西暦600年までの1260年を周期とする中国の信仰 辛酉の年 を取り入れています。
辛酉は天命が改まる年とされています。
紀元前660年を皇記元年として、
600年頃の歴史ですが
507年 武烈天皇(25代)に子供がおらず、6代遡る応神天皇の子孫 継体天皇が即位
531年 安閑天皇(27代)
536年 宣化天皇(28代)
539年12月~571年 欽明天皇(29代) 3人とも継体天皇の子供
この頃、仏教が伝来し、蘇我稲目ら一族が大臣など権力の座に就く
592年 蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ,蘇我稲目の孫にあたる推古天皇を即位させ。
      聖徳太子が摂政となる。
601年は、推古9年目にあたります。
蘇我馬子と聖徳太子が作成した「天皇記」「国記」は、601年に天皇家に蘇我稲目が加わり、新しい政治を行うストーリーだったでしょう。

しかし、歴史は 643年
6月12日 暗殺が実行され、入鹿死亡(乙巳の変)
6月13日 蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』を焼いて自殺し、蘇我本宗家は滅びます。
天皇記も上巻があり、600年までを一区切りにして、601年からは、蘇我氏による政治を記述した次の巻を書き続けていたのではないでしょうか。
古事記の中巻は、神功皇后の三韓征伐で朝鮮半島を支配し応神天皇まです。

古事記が編集される時代に、「天皇記」の写本があったのか、その内容を知る人がいたのでしょうか。
古事記も辛酉の年信仰を取り入れ、初代神武天皇即位を紀元前660年、1260年後の600年は何もなかったかの様に
推古天皇の長期政権で乗り切るストーリーにして古事記を締めくくります。
神功皇后の三韓征伐で朝鮮半島を支配し応神天皇まです。

下巻では、最大の前方後円墳を作った仁徳天皇から朝鮮半島で支配を失う武烈天皇まで、家系が一度切れて
応神天皇の子孫である継体天皇の歴史に変わります。
継体天皇の即位は、507年とWikiに記載されていますが、それ以前の天皇については、即位の年が不明です。
それぞれの天皇に年齢が詐称(長生き)されている為でしょう。
仁徳天皇陵が5世紀前半とされていますので、仁徳天皇が400年位の方です。
中巻に紹介される最後の天皇 応神天皇がその前に当たります。
初代神武天皇が紀元前660年、15代応神天皇が西暦400年頃とすれば、15代で1000年程になりますので
一代の在籍期間も平均約70年と非常に長いです。
実際は、神武天皇即位が300年中頃で、応神天皇が5~6代目(一代10年位)と考えると辻褄が合います。 

もちろん、これらは古事記ではゆるされませんので、下巻からは新たに作成されます。
そして、天皇記を作成した聖徳太子、推古天皇で古事記が終了します。
後の平安時代に編集される古事記においても、神武天皇即位は辛酉の年(紀元前660年)は有名だったのでしょう。
絶対に譲れない歴史の年でした。

古事記について、やはり知っておこう。

2017-06-10 12:36:56 | 歴史
古事記に的を絞って、古事記・日本書紀の成り立ち(前書き)より色々と知っておきましょう。
古事記
・第40代 天武天皇(673年~686年)が編集をはじめさせた。
・712年に太安万侶が編纂し、第43代 元明天皇に献上された。
編集の始まりの年はよくわかりませんが、天皇家で4台、30年くらいかかっています。
現在残っているのは、信瑜の弟子の賢瑜による写本ですので、当時の筆使いを知ることは出来ません。
歴史の背景として
・671年  天智天皇が病死、子供の大友皇子が弘文天皇として即位
・672年  壬申の乱で、天智天皇の弟 大海人皇子が(第40代)天武天皇となる。
・690年  持統天皇(天智天皇の娘、弘文天皇と兄弟)女帝が誕生
       (当時、天武天皇の息子 草壁皇子が病死、軽皇子は当時7才と若かった)
・697年  天武天皇の孫(草壁皇子の子供)文武天皇即位
・707年  元明天皇(天智天皇の娘、弘文天皇と兄弟)またもや女帝が誕生
・715年  天武天皇の孫(草壁皇子の子供)元正天皇即位 またもや女帝
39代弘文天皇(大友皇子)から44代元正天皇まで、天智天皇家と天武天皇家の家系が交互に即位。
在位年数も10年未満と短く、女帝が、3人もいます。
この当時に伊勢神宮も出来ていますので、天照大神を神とする天皇家の神社制度も確立されています。
天照大神と云う女性の神様をトップにしたのは、元明天皇が女性であったためでしょう。

古事記は

古伝承とその意義
天武天皇と古事記の企画
太安万侶の古事記撰録

上巻(日本神話)
天地開闢 天地(あめつち)の創成、天地の初め
伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)
天照大神と須佐之男命(すさのおのみこと)
邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨 から 海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)など

中巻
神武天皇の 神武東征 から仲哀天皇の皇后 神功皇后の神がかり、応神天皇 まで

下巻
仁徳天皇 から 推古天皇(593年1月15日 - 628年4月15日 やはり女帝)

舒明天皇(推古天皇以降)から持統天皇 までは「日本書紀」に記載されています。

この上巻、中巻、下巻の意味を続けて考えてみます。





古事記・日本書紀の成り立ち

2017-06-04 12:06:49 | 歴史
前投稿、古事記・日本書紀の成り立ち(前書き)の続きです。

既に仏教も普及しており、中国の三大宗教 儒教・仏教・道教 も知っていたはずです。
仏教伝来とともに漢字も普及しています。
しかし、古事記・日本書紀では天皇家、日本国の始まりはイザナギ、イザナミの神様を出発点にしました。
大陸とは全く関係のないと主張しています。

自国を 倭 と云う漢字を使っています。
魏志倭人伝などの史記も読んでいましたので、邪馬台国、卑弥呼の記事も知っていました。
日本人が漢字を使うようになる5世紀、6世紀以前の出来事は把握できていません。
各地に残る言い伝えと大陸の史記を元に作成します。
この部分が、日本神話に当たります。
初代神武天皇から日本武尊、神功皇后もかなり装飾が施されています。
26代 継体天皇位から信ぴょう性がありそうです。

古事記・日本書紀の不思議
・天孫降臨の地が九州高千穂で神武東征で近畿へ移住するストーリー
魏志倭人伝の邪馬台国を九州説として読み解いた。
古来より天皇家の祖先は九州から移住した言い伝えがあった。
聖徳太子が作成した「天皇記」に記述されて、その内容を知る人がいた。

蘇我氏、物部氏の対立が5世紀、6世紀
卑弥呼が3世紀です。神武東征が4世紀にあったとしても
200年程前の歴史を把握していたかどうかです。
倭国の文字は引用していますが、奴国も邪馬台国も使われていません。
古墳も卑弥呼の祈祷も先祖崇拝がありますので、かなり前のご先祖様の事を云い伝えていたのでしょうか。

同様な事例で
・アマテラスとスサノオの誓約(兄弟げんか)と出雲の国譲りで、天皇家の家系に加わるストーリーです。
遺跡をみても出雲に大国があった事は事実です。
時系列的には、誓約がアマテラスの時代で、国譲りが天孫降臨位です。
魏志倭人伝に紹介される
水行20日の投馬国
水行10日陸行1月の邪馬台国
同じ時代の二つの大国が倭国であった事は事実であり、その事実は言い伝えにあったのか
魏志倭人伝を読んで配慮したのでしょうか。
神話とは云えども、全く事実無根ではない様です。
天の岩戸、誓約の物語は、卑弥呼の3世紀の物語ではないでしょうか。
卑弥呼の死後、台与以降の真実が、天孫降臨と国譲り、神武東征にあたります。
3世紀後半から4世紀の出来事の可能性が強いです。

初代神武天皇以降、歴史は近畿に移ります。
しかし、この時代の出来事が史記に出てこないため事実関係が難しいです。

古事記・日本書紀に出てくる14代仲哀天皇の皇后 神功皇后 と朝鮮半島を支配していた記述
倭の五王(多分に16代仁徳天皇から21代雄略天皇位?)には、半島支配の力を失う。
421年~473年までの事実があります。
新唐書に神功皇后の記述がありますが、成立が1060年ですのでの新唐書が古事記・日本書紀を参考にしたのでしょう。
神功皇后=卑弥呼説もありますが、卑弥呼は三韓征伐はしていませんし、当時の支配は先端の狗邪韓国です。
後に、出雲が新羅を支配、九州の筑紫が百済を支配した時代があったのではないかと想像しています。
出雲の国譲りと同じ手法で、別の豪族の国が天皇家に加わったのではないでしょうか。
筑紫磐井の乱が527年ですので、やはり200年位前の出来事です。

古事記・日本書紀と同じくして平安時代に出来たのが神社
京都の平安京の東側 伊勢の地に アマテラスを祀る伊勢神宮 と 西側に 出雲大社が出来ます。
神社と云えば鳥居ですが、朝鮮半島から伝わっと云われていますが
吉野ケ里の環濠の入り口の鳥居がそっくりです。

天皇家の三種の神器 が アマテラスの鏡(これが卑弥呼が魏から贈られた鏡)
とスサノオが八岐オロチを退治した時に出てきた剣
縄文時代から日本にあった勾玉(卑弥呼も魏国へ勾玉を贈っています。)
どうも、3世紀の女帝卑弥呼を、古事記・日本書紀では 天照大神 と名前で登場させていると思います。
弥生時代の環濠集落を引き継いでいたのではないでしょうか。

古代日本神道にある自然崇拝(八百万の神々)をイザナミ・イザナギが国生みの後に産んでいる(神産み)ストーリー
神々が住む天空の高天原(たかまがはら)
地上の人間が住む世界である葦原中国
地中にあり、死者が住む根の国・黄泉の国
死者が蘇らない様に、イザナギが大きな岩で出口に蓋をしてくれます。
古墳時代から影響が強かった先祖崇拝の儀式もうまく処理しています。

古事記・日本書紀に加えて神社制度
弥生時代の歴史を知っていて、日本統一にうまく活用し天皇家の正当性をうまく取り入れた
よく考えられた史記に仕上がっていると思うのですが、如何でしょうか。




古事記・日本書紀の成り立ち(前書き)

2017-06-04 11:03:15 | 歴史
古事記と日本書紀については、過去に投稿しましたので参考にして下さい。
その成り立ちを時代をおって見てみます。
壬申の乱 から 大化の改新
その前に 蘇我氏VS物部氏があります。
天皇家に使える二大派閥 蘇我氏と物部氏
物部氏が神道派で、蘇我氏が朝鮮半島から伝わった仏教はです。
結果は、587年 丁未の乱(ていびのらん)以後、蘇我氏の勝利となり
592年 蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ,蘇我稲目の孫にあたる推古天皇を即位させ。
聖徳太子が摂政となり,政治を行います。

645年 中大兄皇子と中臣鎌子が三韓から進貢の使者が来日した儀式に出席した蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)
蘇我蝦夷も舘に火を放ち『天皇記』、『国記』を焼いて自殺し、蘇我本宗家は滅びた。
皇極天皇は軽皇子へ譲位し、孝徳天皇が即位。中大兄皇子は皇太子になります。

672年 壬申の乱(じんしんのらん)の3人の登場人物を覚えておきましょう。
中大兄皇子 668年 天智天皇(てんじてんのう)として即位
大海人皇子 中大兄皇子(天智天皇)の弟
大友皇子  中大兄皇子(天智天皇)の子供

671年  天智天皇が病死、後継者と有力候補だった大海人皇子を差し置き、大友皇子を指名した事が発端
大友皇子が弘文天皇として即位
白村江での大敗など、過去の政治に対する不満が爆発
672年8月 大海人皇子VS弘文天皇(大友皇子)壬申の乱勃発、弘文天皇(大友皇子)の大敗
大友皇子は首をくくって25歳で自害しました。

大海人皇子は(第40代)天武天皇となり、天皇を中心とした国家づくりに力を注いでいきます。(大化の改新)
天皇という称号を初めて使い、日本書紀や古事記の編纂をはじめさせました。
「倭」から「日本」に国号を変えたのも天武天皇とも言われています。
そして、この事実を書いてあるのが、古事記・日本書紀です。

既に仏教も普及しており、中国の三大宗教 儒教・仏教・道教 も知っていたはずです。
仏教伝来とともに漢字も普及しています。
もちろん魏志倭人伝などの史記も読んでいました。
蘇我氏、物部氏以降の記述はかなり信ぴょう性があります。

さて、これらの事実を頭にいれて、古事記・日本書紀に内容を再度、考えてみます。