先日友人のミツオさんと2カ月ぶりにお茶しました。
友人と言っても、もうすぐAround70のおじちゃん。
人生の大先輩だけど、自分はAkoちゃんの友人だと言ってくださるので、
付き合い方も同世代の友人と同じような感じです。
あっ、ちなみに奥さんもうちの旦那さんも公認の友人です。
ミツオさんは来月、満を持して【
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼】の旅へ出ます。
この旅のために何年も前から言葉を勉強し、登山や四国のお遍路で体力を付けてきました。
いよいよこの時が来たねなんて話していると、なんだか胸いっぱいになりました。
ミツオさんと話すと、若さに甘えている自分を痛感します。
物覚えも私の方が早いし、無茶もできそうな“気だけ”しているし。
いつでもできると思うことは、結局やらないままだし。
ミツオさんがこんなことを言っていました。
「私は“生かされている”と思っていますよ。川の向こう岸まで必死に泳いで辿りつく人もいれば、何となく流れに乗ってついてしまう人もいる。途中で駄目になって辿りつけない人もいる。そんなことを考えていると、せっかく生かされているんだから死ぬまで色々なことをやりたい。巡礼の旅が終わったらまた次のことを見つけないと」
「旅の途中で何か探したり見つけたりもできますね」
私のそんな返しに
「旅の途中は無理、無理。1日を終えることしか考えられないよ」
と。
1日を終えることしか考えられない日。
もう久しくそういう日はないな。
私は川の真ん中で、時折手足をちょこちょこと動かしながら浮いているような気分。
泳いだり、流されたりしながら岸に辿りつきたいな。
途中で駄目になって辿りつけなくても、その後流れに乗って漂着したいです。
そのままブクブクと沈むのだけは…やだ。
別の話になりますが、先日、親しくしてくださる方が
余命を宣告されました。
それまでは、どうにでもなれと言っていたけど、
最近は「長生きしたい」と言っています。
“生かされている”人生。
“長生きしたい”願い。
言葉の奥にはその人の思いに対する私なりの答えや、
まだ気付いていない大事なことがちりばめられている気がして、
天神の街で行き交う人とすれ違いながら、通勤電車に揺られながら探している途中です。
最近、私の中でも生きることに対しての気持ちが変わってきました。
生への執着心が芽生えてきたのだと思います。
自分に足りなかったものが年を重ねるごとに1つずつ見つかっていくことも人生なんだろうな。