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毒鼓の縁

2022年09月19日 | 仏教用語の解説(三)

大白法 令和2年2月16日(第1023号)からの転載

 仏教用語の解説 24

    毒鼓の縁

 

 「毒鼓の縁」とは、涅槃経の『如来性品』に出てくる故事で、真実の大乗経典と逆縁の衆生との結縁を、毒を塗った太鼓と、その音を聞いて死んでしまった人に譬えたものです。 

 

 甘露と毒

 涅槃経『如来性品第四』 に、

 「『善男子、方等経(大乗経典)は、猶し甘露の如く、亦毒薬の如し』迦葉菩薩、復仏に白して白さく、『如来何によりてか方等経は譬えば甘露の如く、亦毒薬の如しと説きたもう』」

とあり、釈尊は大乗経典が甘露でもあり、毒でもあると述べたことに対し、迦葉がその理由を尋ねています。

 これに対し釈尊は、

 「或は甘露を服して命を傷つけて早夭するあり、或いは甘露を服して寿命長存を得るあり、或いは毒を服して生ずるあり、毒を服するによりて死するあり。無礙智の甘露は所謂大乗典なり。是の如き大乗典も亦雑毒薬と名づく(中略)方等も亦是の如し。智者は甘露と為し、愚の仏性を知らざるもの、之を服すれば則ち毒と成る」

と答えています。ここにあるように、たとえ甘露であっても、命を傷つけて死に至ったり、逆に、多少の毒であっても、場合によっては、それによって命を繋ぐこともあります。このように、甘露と毒は表裏一体で、それを服する人の状況によって、いろいろな作用があります。

 大乗経典もこれと同じく、仏性を自覚する智者にとっては甘露となり、そうでない愚者にとっては毒ともなるのです。 

 

 順縁の者には良薬、逆縁の者には毒鼓の縁

 同じく『如来性品第四』に、良医と子供の譬えが示されています。 これは法華経『寿量品』 良医病子の譬えと同じく、仏を良医、衆生を子供に譬えたもので、大乗経典は大良薬であり、それを受持する者は、 たとえ無間地獄に堕ちるほどの罪を犯した者であったとしても、もろもろの罪の毒を消して菩提の道に安住することができると説かれています。

 これは、大乗経典を受持する順縁の機根にとって、 大乗経典が大良薬になることを譬えたものです。

 そして、逆縁の衆生について、

 「復次に善男子、譬えば人ありて、雑毒薬を以って用いて太鼓に塗り、大衆の中において之を撃ちて声を発さしむるが如し、心に聞かんと欲する無しと雖も、之を聞けば皆死す」

と説かれ、一度大乗経典を聞いた者は、耳を貸さず、受持しなかったというだけで、 それが毒となり、死んでしまうと説かれます。

 しかし、この毒は、下種結縁となり、成仏の縁となる大乗経典の毒です。したがって、その続きの文に、

 「在々処々の諸行の衆中、声を聞く者あれば、あらゆる貪欲、瞋恚、愚癡、悉く皆滅尽す」

とあるように大乗経典は、逆縁の衆生にとって、一度は毒のように作用しますが、最終的には煩悩や悪業を滅する成仏の因縁となると示されています。

 

  不軽菩薩と毒鼓の縁

 不軽菩薩は、釈尊の前世の姿として法華経『常不軽菩薩品第二十』に説かれる菩薩です。この菩薩は、 威音王仏という仏の像法時代に出現した菩薩で、増上慢の男女僧俗(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷等の四衆)が充満する世において、

 「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経 五〇〇㌻)

との 言葉をもって、ひたすら一切衆生の仏性を礼拝する但行礼拝を行い、衆生に 法華経との下種結縁を結ばせたのです。 

 しかし、不軽菩薩から礼拝を受けた増上慢の四衆は皆、 侮りを受けたと思って瞋恚の心を起こし、不軽菩薩を悪口罵詈し、あるいは杖木瓦石をもって迫害しました。四衆は後に改悔し、不軽菩薩に対して信伏随従するのですが、不軽菩薩を迫害した罪は消えず、二百億劫もの間、仏に値うことも、法を聞くこともできず、さらに千劫もの間、無間地獄に堕ちて大苦悩を受けたのです。 

 この不軽菩薩の化導について天台大師は『法華文句』に、

 「本已に善有り、釈迦は小を以て之を将護したもう。本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」(法華文句記会本 下 四五二㌻)

と示されています。

 この文の中に、「本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」

とあるように、過去世に仏法との結縁がない、善根を積んでいない衆生に対しては、逆縁となり、かえって法華経誹謗の罪を作るようなことがあったとしても、下種結縁するのであると説かれています。

 すなわち、本未有善の衆生は、法華経による下種がなければ、未来永劫に成仏することができません。ですから、逆縁となり、毒となっても、あえて法華経を説き、下種しなければならないのです。

 

 末法は毒鼓を撃つ時

 大聖人は、『曽谷入道殿許御書』に、 

 「今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を打たしむるの時なり」 (御書 七七八㌻)

と、説かれています。

 末法は、本已有善の「権実の二機」がことごとく尽き、本未有善の機根のみの時代となることから、不軽菩薩がすべての衆生を逆縁によって教化したように、たとえ逆縁となり、毒鼓の縁となったとしても、妙法蓮華経を折伏下種し、結縁を結ぶべき時であると仰せられています。

 さらに『法華初心成仏抄』に、

 「当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(同 一三一六㌻)

とあるように、大聖人の仏法を受持しないすべての衆生は、それだけで法華経誹謗の罪があり、相手が信心をしようがしまいが、とにもかくにも大聖人の仏法を説き聞かせ、下種結縁を結ばなければならないのです。

  末法の一切衆生が成仏を遂げることのできる唯一の大法は、 日蓮大聖人の仏法であり、それは日蓮正宗にのみ、正しく伝えられています。

  一切衆生を成仏させ、広宣流布を達成していくのは、一にかかって日蓮正宗の僧俗しかいないのです。

 もちろん私たちが折伏する際には、相手を納得させ今生において順縁に成仏を遂げることができるよう、慈悲をもって丁寧に話をしなければなりません。

 しかしたとえ折伏が成就しなくても、それが逆縁、毒鼓の縁となって未来の成仏の縁となるのですから、私たちは常日頃から積極的に折伏を心がけていかなければならないのです。




   次回は、「劫」についての予定です。