「大白法」平成 30年12月16日(第995号)
【仏教用語の解説】12
教外別伝・不立文字
ー 禅宗 の 教義 ー
「教外別伝・不立文字」(文字を立てず・教外に別伝す)は、禅宗の開祖・菩提達磨(達磨大師)が説いた禅宗の根本的な教えです。
武家に浸透した禅宗
禅の教えは達磨によって五世紀末にインドから中国にもたらされ、栄西(臨済宗の開祖)、道元(曹洞宗の開祖)らによって日本にも伝えられました。
日蓮大聖人御在世当時には、北条時頼・北条時宗親子が臨済宗建長寺の蘭渓道隆に帰依するなど、鎌倉でも武家を中心に盛んに信仰されていました。大聖人は禅宗の教義を端的に表わすものとして「教外別伝・不立文字」の語を挙げ、たびたび破折されています。
「教外別伝・不立文字」
疑わしき根拠
この語は『大梵天王問仏決疑経』の中にある語です。
この経典について大聖人は、『聖愚問答抄』に、
「大梵天王問仏決疑経の文を教外別伝の証拠に汝之を引く(中略)開元・貞元の両度の目録にも全く載せず、是録外の経なる上権教と見えたり。然れば世間の学者用ゐざるところなり、証拠とするにたらず」
(御書 三九八㌻)
と指摘されています。
「教外別伝・不立文字」の根拠とされる『大梵天王問仏決疑経』は、八世紀頃の中国の経典目録である『開元釈教録』や、同じく九世紀頃の『貞元新定釈教目録』にもその名目がなく、伝来や素性が疑われることから学者が用いない経典である。仮に仏説であったとしても方便権教であり、「教外別伝・不立文字」が正しいとする証拠にはならない、との御教示です。
また、『蓮盛抄』においても大聖人は、『大梵天王問仏決疑経』は偽経であると判じられています
(蓮盛抄・御書 二六㌻)
「不立文字・教外別伝」のその内容はと言うと、釈尊が八万四千の大衆の中で蓮華の華を拈った時、摩訶迦葉だけが釈尊の意図を察して破顔微笑した(拈華微笑)。すると釈尊は、
「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門有り。文字を立てず、教外に別伝して、総持任持せば、凡夫の成仏にして第一義諦なり。今方に摩訶迦葉に付属せり」と告げて、迦葉に「正法眼蔵」と言われる無上の正法を以心伝心して付嘱した、というもので、この経文をもって、仏の本意は文字や教説などの言葉を介さずに、心から心に直接伝えられるものと主張するのです。
禅天魔
達磨は、禅宗の奥義を「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」という四句で表わし、禅宗では、この四句を「四聖句」と称し、特に重要視しています。
しかし、「不立文字・教外別伝」とは、真実の悟りの内容を教説や文字によらず、師の心から弟子の心へ以心伝心するものであるとの意です。このような禅宗の教に対し、大聖人は「禅天魔」の語をもって厳しく破折されました。
『行敏訴状御会通』に、
「『禅宗は天魔波旬の説』云々。此又日蓮が私の言に非ず。彼の宗の人々の云はく『教外別伝』云々。仏の遺言に云はく『我が経の外に正法有りといはば天魔の説なり』云々。教外別伝の言豈此の科を脱れんや」
(御書 四七四㌻)
とあります。すなわち大聖人は、涅槃経の、
「経を受けない者は仏弟子ではなく、外道の弟子である。仏の諸説である経を否定するのは、魔の所説であり、それに従う者は魔の眷属である(趣意)」
との文を根拠として、「教外別伝・不立文字」を主張する禅宗は仏の教えを蔑ろにし、仏道修行を妨げる天魔波句(第六天の魔王)の宗団であると厳しく破折されたのです。
西天二十八祖
仏教で一般的に用いられる「付法蔵伝」では、 釈尊からの面受相承は二十四祖の獅子尊者で」断絶したと伝えています。
しかし、「教外別伝・不立文字」を標榜する禅宗では、どうしても釈尊から達磨まで、師弟対面して以心伝心の伝授があったと主張する必要がありました。このため禅宗では獅子尊者から達磨までの間に三人を追加し、インド(西天)で禅を伝えた西天二十八祖を立てたのです。
これに対し大聖人は、『聖愚問答抄』に、
「二十八祖を立つる事、甚だ以て僻見なり」(御書 三九八㌻)
と仰せられ、禅宗では二十八祖を石に刻んだり、印刷したりして既成事実化を狙っているが、道理にそれた大いなる誤りであると御教示されています(『聖愚問答抄』趣意)
不立文字の自語相違
大聖人は『聖愚問答抄』に、
「教を離れて教無し。理全く教、教全く理と云ふ道理、汝之を知らざるや。拈華微笑して迦葉に付嘱し給ふと云ふも是教えなり。不立文字と云ふ 四字も即ち教なり文字なり」(御書 三九五㌻)
と御教示されています。仏の悟られた法理と、それに基づく教えは、教即理、理即教の而二不二の関係であるため、文字を離れては仏の教えも、仏道の実践もありません。
先に紹介した『大梵天王問仏決疑経』も経の体裁ですし、達磨の「四聖句」も文字によって伝わっています。
つまり、文字を立てないと言いながら、結局のところ、文字を用いて教えを伝えるという重大な自語相違を犯しているのです。
また『蓮盛抄』に、
「南天竺の達磨は四巻の楞伽経に依って五巻の疏を作り、慧可に云ふる(中略)若し爾れば猥りに教外別伝と号せんや」(御書 二九㌻)
と仰せのように、達磨本人が、自ら注釈した『楞伽経』を弟子の慧可に伝授するという矛盾をも犯しています。
この他、現代においても、葬儀の際に禅僧が経を唱えたり、禅宗の寺で写経が催されたりすることも、「教外別伝・不立文字」の教えからすれば、利益のない無意味な修行となるのです。
正境に帰依する
ことの大切さ
禅宗では、自分の心こそが仏であり、経典や教え、 本尊などは必要ないと言います。如来の金言である経典を軽んじて座禅を行い、あたかも悟りを開いた仏であるかのように振る舞う禅宗の姿は、増上慢以外の何者でもなく、
大聖人が、
「謂己均仏の大慢を成せり」(御書 三九七㌻) 瞋
と厳しく破折されるところです。
末法の凡夫の命は、仏の命も備えますが、同時に、貪り、瞋り、癡かの三毒にまみれた命でもあります。 このような迷いの命を拠り所としては必ず道を誤るのであり、成仏など到底叶いません。
私共は、堅固な信をもって大御本尊に帰依すると共に、禅宗をはじめ邪義邪宗に惑わされている人々に対して折伏を行じ、正境へ導いていかなければならないのです。
次回は「知恩・報恩」についての予定です。
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