「大白法」平成31年4月16日(第1003号)
【仏教用語の解説】16
一 大 事 因 縁
一大事因縁とは
「一大事因縁」とは、仏がこの世に出現された究極の目的のことです。
法華経方便品には、
「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。(中略)諸仏世尊は、衆生をして、仏知見を開かしめ、清淨なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」(法華経 一〇一㌻)
と、 諸仏は一大事因縁の故にこの世に出現し、 一切衆生の仏知見を開・示・悟・入させて、成仏へ導かれることが説かれています。
開示悟入の四仏知見
まず、
「開」とは開発の意で、衆生の生命の中にある妙法を開くことです。
「示」は顕示の意で、衆生の生命の中にある妙法を示すこと。
「悟」は覚悟の意で、衆生に妙法を悟らせること。
「入」は証入の意で、衆生を妙法の境界に入れることです。
天台大師の『法華玄義』に、
「衆生をして仏の知見に開示し悟入せしめんが為なりというが如き、若し衆生に仏の知見無くんば、何れの所にか開を論ぜん。当に知るべし、仏の知見は衆生に薀在することを」
(法華玄義釈籖会本上 ー 二一一㌻)
と釈されているように、法華経において初めて、仏知見が衆生に本来具わっていることが明かされたのです。
「一大事因縁」の語
天台大師の『法華文句』には、「一大事因縁」の語について次のように釈されています。
「一は則ち一実相なり。五に非ず、三に非ず、七に非ず、九に非ず、故に一と言うなり。其の性広博にして五三七九より博し、故に名づけて大と為す。諸仏出世の儀式なる故に名づけて事と為す。衆生此の機有って仏を感ず、故に名づけて因と為す。仏は機に乗じて応じたもう、故に名づけて縁と為す。是れを出世の本意と為す」(法華文句記会本 上 ー 六五一㌻)
「一」とは一実相のことであり、法華経に至って初めて明かされた一仏乗の妙法のことです。
また、その一実相は、一切の法界を具えて広大なる故に「大」であり、実際の化導という事相の上に説く儀式である故に「事」と言います。
そして「因」とは、一乗純円の機根を有する衆生が仏を感ずること、「縁」とは、仏がその衆生の機根に応じることを示しています。
爾前経においては、小乗の五乗(人・天・声聞・縁覚・菩薩)・三乗(声聞・縁覚・菩薩)、これに通教の声聞・縁覚を加えた七乗、さらに通教・別教の菩薩を加えた九乗など、様々な教えが説かれてきましたが、あらゆる経典で声聞・縁覚だけは例外なく永不成仏(永遠に成仏できない)とされてきました。
しかし法華経に至り、永不成仏の二乗も、実は仏性を具えた十界互具の当体であることが示され、成仏することが可能となったのです。
一大事因縁の
三重の意義
総本山第二十六世日寛上人は、
『撰時抄愚記』に、
「汎く出世の大事を論ずるに即ち三意有り。一には、迹門の顕実を出世の大事と為す。(中略)二には、寿量の顕本を出世の大事と為す。(中略)三には、文底の秘法を出世の大事と為す。(中略)此くの如き三義、浅きより深きに至って第三の最極なり。然るに本化(地涌の菩薩)の涌出は、此の第三の最極の秘法の末法流布の瑞想なり」(御書文段 三七一㌻)と、仏の一大事因縁について、三重の意義があることを示されています。
すなわち、一は権実相対の意です。
これは法華経迹門において、開権顕実の妙法を示すことが仏の出世の大事となります。
二は本迹相対の意で、本門寿量品において、仏の久遠実成が説かれたことが出世の大事に当たります。
これらは共に熟脱の教主釈尊における一大事因縁を示しています。
そして三は、種脱相対の意です。これは末法の御本仏日蓮大聖人における一大事因縁です。
『開目抄』に、
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろめたまはず、但我が天台智者のみこれをいだけり」(御書 五二六㌻)
と説かれるように、 大聖人は法華経本門寿量品の文底下種の妙法を開顕されました。
そして、大聖人は出世の本懐として、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法を顕わされ、日月の光明が暗闇を滅するように、末法の一切衆生の成仏への道を示されたのです。
『三大秘法抄』には、
「法華経諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし」(御書 一五九五㌻)
と、法華経に「一大事因縁」が明かされ、それをもって法華経が諸仏の出世の本懐とされるのも、実には三大秘法が秘沈されているからであると教示されています。
大聖人の出世の本懐
大聖人は『聖人御難事』に、
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」(御書 一三九六㌻)
と仰せられています。
「余は二十七年」とは、弘安二年十月十二日に、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたことを仰せであり、これが大聖人の出世の本懐に当たります。
また『報恩抄』には、
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」(御書 一〇三六㌻)
と御教示されていますが、末法に生きる三毒強盛の衆生が、成仏を遂げることができるのも、ひとえに本門戒壇の大御本尊を信じ奉る功徳によることを忘れてはなりません。
私たちは、御本仏日蓮大聖人が弘通された正法を信受し、自身の三世永遠の成仏を遂げると共に、未だ苦悩に喘ぐ多くの人々を救い、広宣流布をめざして精進してまいりましょう。
次回は、「第三戯論」についての予定です。