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極楽往生

2022年07月17日 | 仏教用語の解説(一)

「大白法」平成30年7月16日(第985号)     

   【仏教用語の解説】8

    極 楽 往 生

― 念仏宗(浄土宗・浄土真宗等)の教義 ―

 

 「極楽往生」とは、念仏を称えて至心に阿弥陀仏の慈悲を請えば、

死後に阿弥陀仏が迎えに来て極楽世界に往生を遂げるという念仏宗の教義です。

 阿弥陀仏によれば、極楽は、私たちが暮らす娑婆世界から西方に向かい、

十万億の仏土を過ぎたところにあるとされる、阿弥陀仏は教主とする浄土で、

あらゆる苦悩が存在せず、ただ楽のみがある世界と言われています。

日蓮大聖人は、「極楽往生」について立宗の初期より厳しく破折されています。

往生成仏の根拠、阿弥陀の「四十八願」

阿弥陀仏が過去に法蔵比丘という名前で修行していたとき、

四十八の誓願を立てたことが無量寿経に説かれています。

 念仏宗では、

その四十八願の中の十八番目が念仏によって極楽往生できることの根拠であると説きます。

無量寿経には、

「設い我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して、

乃至十念せんに、若し生ぜずば正覚をとらじ。ただ、五逆と誹謗正法とを除く」とあります。

つまり阿弥陀仏は、衆生が至心に極楽往生を願い、十回でも念仏をしたならば、

必ず極楽浄土に往生せさせる。

それができなければ自分は仏にはならないと誓願したといいます。

ただし、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)と誹謗正法の者を除く、

とあることに留意すべきです。

 日本における念仏信仰日本では、

比叡山が開かれて以来、天台宗の修行の一部で念仏が行われ、

また天台僧・恵心が『往生要集』を著してから、

念仏による極楽往生を願う人が多くなっていきました。

 大聖人が出家された清澄寺(当時天台宗)でも念仏が盛んで、

『妙法比丘尼御返事』 には、

「皆人の願はせ給ふ事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱へ候ひし程に、

 いさゝかの事ありて此の事を疑ひし故に一つの願をおこす」

 (御書 一二五八㌻)

と、

大聖人は念仏を唱える人々が苦しむ現実を目の当たりになされ、深い疑いを起こし、

正法を求めるべく願を立てたと仰せられています。

法然の専修念仏

親鸞の悪人正機

法然はもともと天台宗の僧侶でしたが、 『選択本願念仏集』(選択集)を著し、

浄土三部経(阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経)を除く、

一切の諸仏・諸経を「捨・閉・閣・抛」 (捨てよ・閉じよ・閣け・抛て)せよと説き、

称名念仏以外を行ってはならないと、専修念仏を説きました。

法然が専修念仏を主張する根拠は、曇鸞・道綽・善導といった、

中国浄土教の人師の釈にあります。

 すなわち、

善導の『往生礼讃偈』には、念仏のみを修する者は、

「十即十生、百即百生」(十人が十人、百人が百人極楽往生を遂げる)、

それ以外の教えに依るならば 「千中無一」(千人に一人も極楽往生できない)

と説かれています。

法然はこうした釈などを根拠に、専修念仏を主張するのです。

専修念仏について大聖人は、 「四十八願の中に、第十八願に云はく

『施ひ我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く』云々。

 たとひ弥陀の本願実にして往生すべくとも、

 正法を誹謗せむ人々は弥陀仏の往生には除かれ奉るべきか。

 又法華経の二の巻には 『若し人信ぜざれば其の人命終して阿鼻獄に入らん』云々。

 念仏宗に詮する導・然の両人は、経文実ならば阿鼻大城をまぬかれ給ふべしや」

 (御書 一一二八㌻)

と示されています。

先に示したように、 念仏宗が極楽往生の根拠とする阿弥陀仏の四十八願の中に、

五逆罪と誹謗正法の者は往生できないと説かれ、

また法華経に、法華経を誹謗する者は阿鼻地獄に堕ちるとあります。

こうした仏説に従えば、専修念仏を説き、

法華経を含む諸経を 「千中無一」、「捨閉閣抛」などと

誹謗する善導・法然らが阿鼻地獄に堕ちることは必定であり、 それに従う者も同じです。

 仏説による大聖人の御教示と、善導ら人師の誤った解釈による法然の専修念仏、

どちらが正しいかは言うまでもありません。

 また、法然の弟子で浄土真宗の祖とされる親鸞は、

法然の専修念仏を発展させ、「悪人正機」を説きました。

親鸞の教えを記した『歎異抄』には、

 「善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」とあり、

善人でさえも往生できるのであるから、悪人が往生することは、

むしろ当然であると説いたのです。

 これは、善業を修して成仏を願う善人は、阿弥陀仏に頼る気持ちが薄く救われにくいが、

悪人こそが阿弥陀仏の救済の正機と知り、自らが悪人たることを自覚し、

専ら阿弥陀仏の救済に頼ろうとする他力本願の人ほど救われるのであるというものです。

 親鸞のこうした教えは、仏法の因果の道理を完全に無視しています。

 このような考え方は、当然ながら悪を増長するもので、親鸞の門下には当初から

「本願誇り」と言われる積極的に悪事を行う一類がいたと言われています。

 親鸞の悪人正機は、明らかに仏説に背くものです。

 念仏に利益なし

 念仏の教えは、

死後に往生できると説くもので、現世・今生のうちには何らの利益も説かれていません。

 その証拠に、中国浄土教の祖である善導は、阿弥陀仏の来迎を待ちきれず、

寺前の柳の木に首をくくり、西方に向かって念仏を称えて飛び降り自殺を図りました。

しかし、柳の枝が折れてすぐには死にきれず、七日七晩悶絶し、

うめき苦しんで絶命(悶絶躄地)したと言われています

 (念仏無間地獄抄・御書 四一㌻)

 さらに法然は、善導が柳の木から飛び降り自殺したことを

『善導十徳』の七番目に挙げて賛嘆しています。

 このように念仏宗の極楽往生という教えは、現世に生きる者が、

念仏を称えて死後に極楽往生を願うだけの、非常に退廃した教えなのです。 

 真実の仏法を死後に極楽往生を願う念仏の教えは、飢饉疫病に苦しみ、

生きる望みを失った鎌倉の庶民に爆発的に広まっていきました。

 しかし、実教である法華経には、阿弥陀仏教の教えが方便であり、

「未顕真実」(法華経 二三㌻)の教えであると説かれると共に 、の娑婆世界こそが、

仏が常駐する仏国土であると明かされています。

 大聖人は、「立正安国」「娑婆即寂光」の原理を示して、

折伏弘通すべきことを教示されています。

 私たちは、間違いに気づかず、念仏に執している人たちに、

法華経に説かれた真実の仏法、その根幹である大聖人の本因下種の仏法を教え、

折伏していかなければならないのです。

 

 

 



      次回は、「正像末の三時」についての予定です。

 

 

 

 

 

 

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