「大白法」平成30年5月1日(第980号)
日蓮正宗の基本を学ぼう 116
日蓮大聖人の御生涯 ②
御 誕 生(二)
前回に引き続き、大聖人の御誕生について学びましょう。
御誕生の日
『御伝土代』に、 「後の堀河の院の御宇貞応元年二月十六日誕生なり」
(日蓮正宗聖典 五八七㌻)
と記されているように、
大聖人は貞応元(一二二二)年二月十六日に御生まれになりました。
この年は四月十三日に承久から貞応に改元しているので、正確には承久四年となりますが、
古来貞応元年と呼び習わしていることからそれに従うことにします。
現在の感覚からすれば、二月十六日は大寒が過ぎた頃で、
まだまだ寒さの厳しい季節と感じられます。
しかし、
現在の暦に換算すると四月上旬に当たり、春爛漫たる暖かな季節であることが判ります。
インドに出現した釈尊が入滅したのは二月十五日ですが、
大聖人の御誕生日が二月十六日であることから、
日にちの上にも不思議な因縁が拝されます。
◎安房国長狭郡東条郷片海の旃陀羅が子
大聖人は誕生の地と出自について、
「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ旃陀羅が家より出でたり」
(御書五八〇㌻)
「安房国長狭郡東条郷片海の海人が子なり」(御書一二七九㌻)
と仰せられています。
安房国は房総半島南部で、現在の千葉県鴨川市(旧天津小湊町) 周辺に当たります。
半島の南部は丘陵地帯となっていて、その分水嶺東の主峰として清澄山があります。
この安房の国には四つの郡があり、長狭郡はその東にあって、
さらに八つの郷に分かれていました。
そのうちの東条郷には
源頼朝が伊勢外宮に寄進した御厨(魚貝類などを貢進する所領)がありました。
片海とは村の名前で、近世の古文書にその名前が見えますが、
その位置については諸説があり特定できていません。
おそらく漁師の村であったと考えられています。
さて大聖人は、
御自身を「旃陀羅が家」「海人が子」と仰せられています。
旃陀羅とはインドの言葉を音訳したもので、
生き物を殺して生業を立てる猟師や漁夫などを意味し、
当時最も低い身分とされていました。
インドの釈尊は迦毘羅衛国の浄飯王の太子として誕生されました。
これは脱益の仏として、既に善根のある人々を導くために、
尊敬の心を起こさせる順縁の化導を用いられるためでありました。
また
龍樹・天親も高貴な婆羅門の家から出て、天台・伝教も高貴な家柄の御生まれであり、
大聖人だけが低い階層の身分で御生まれになられたのです。
総本山第二十六世日寛上人は
「蓮師貧賤の家に託生する所以の事」に、低い身分で生まれられた意義について、
一に大慈悲をもっての故、二に法の妙能を顕わす故、三に末弟を将護する故との
三意を明かされています。
一に大慈悲をもっての故とは、
末法下種の仏として凡夫僧の御姿をもって、母が赤子に乳を与えるように、
上下万人に南無妙法蓮華経を唱えさせようという大慈悲を言います。
低い身分の御出自であればこそ、様々な迫害苦難が起こるのです。
しかし、その法華経弘通の難は法華経の経文の通りであり、
その経文と御自身との合致とをもって法華経の行者の証明となるのです。
命に及ぶ難を受けながらも人々に妙法を弘められたのは、
ひとえに大慈悲の故であると言えましょう。
二に法の妙能を顕わすとは、
例えば、
「当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。
命は法華経にたてまつる。名をば後代に留むべし」(御書五六二㌻)
等の御文は、
低い身分の御出自ならばこそ、その意義がより強く拝されるものです。
つまり、
世間での貧賤の身をもって、出世間の富貴を顕わされたのです。
その富貴の基準は何かと言えば、それは妙法の信受によるのであり、
その功徳妙用の大なることを示される意義があるのです。
三に末弟を将護する故とは、
法華経の故に大難を受けられましたが、
迫害者はその迫害の因縁によって法華の現罰を受けることを示されたのです。
その現証の一つとして、佐渡配流の後、
百日の間に二月騒動という北条氏一門の内乱が起きたことが挙げられます。
以上のように、
大聖人が旃陀羅が子として御生まれになられたことには
深い意義があるのであり、けっして偶然でも恥ずべきことでもないのです。
ご両親について
さて本宗における相伝書に『産湯相承事』があります。
その中でご両親について、次のように記されています。
「悲母梅菊女は童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御坐すと云々。
(中略)東条の片海に三国大夫と云ふ者あり、是を夫と定めよと云々」
(御書 一七〇八㌻)
母親の梅菊女は平氏の畠山氏の一類、
つまり源頼朝の家来として有名な畠山重忠の一族と見られ、
元久二(一二〇五)年に北条時政によって滅ぼされた際に
安房に落ち延びてきたと考えられています。
幼い七歳の春に見た霊夢に、東条郷片海村の三国大夫に嫁ぐべきことを告げられ、
長じてその妻となられたのです。
また父君は、
上古の伝記には遠江国(静岡県西部)の人で貫名次郎重忠と言い、
平家の乱の際に安房に流されたと伝えられており、
漁民とはいえ何らかの地位にあったと推測されます。
日寛上人は三国氏を父とすることについて、
その弘められた妙法はインド・中国・日本の三カ国に流布すべき仏法であり、
そのために三国氏を父とされたと釈されています。
このように、
ご両親とも何らかの理由により漁師の夫婦の身ではあっても、
相当の見識と教養をお持ちであったことがうかがわれます。
荘厳な瑞相
日寛上人の御指南によれば、
大聖人の御誕生には夢想現事の不思議が拝されます。
その夢想とは『産湯相承事』に
次のように悲母梅菊女の霊夢が記されています。
誕生の日の朝の霊夢として、富士山の山頂から周りの世界を見渡していると、
諸天善神が来下して、久遠元初の御本仏の垂迹である上行菩薩が下天され、
その御誕生が間もなくであることを告げられたと記されています。
そして、
その際に竜神が一本の青蓮華をお持ちになり、
その蓮華の花から清水が湧き出て我が子に注がれて産湯となり、
余った清水がまき散らかされると、
辺り一面は金色となり草木が一斉に花咲き菓をつけたのです。
諸天や竜等が白蓮華を捧げ持って、 太陽に向かい、 「今此三界 皆是我有・・・」と
仏の三徳の経文を一同に唱えられたと言います。
かかる荘厳な霊夢を見た後に、大聖人が御生まれになられたのであります。
さらに、
梅菊女は出産の少しまどろんだ際に、
諸天善神一同が「善哉善哉善日童子、末法教主、勝釈迦仏」と
三度唱えて礼して去って行く霊夢を見られたと伝えられています。
続く現事とは一例を挙げれば、
大聖人の御誕生が近づいたある日、
海に時期外れの二月にもかかわらず数本の青蓮華が生じ、
近隣の人々が多く見に来たと言い、
この青蓮華は大聖人御誕生の次の日よりしぼんでいったと伝えられています。
この他にも様々な瑞相が伝えられており、日にちの不思議な因縁等も含め、
まさに御本仏の出現を法界が寿ぎ、賛嘆されたものと拝されるのです。
幼年期の善日麿
こうして御生まれになられた大聖人は、善日麿と名付けられました。
自然豊かで温暖な安房の海に育ち、
父母の深い慈愛と教育によって健やかに成長されたと拝されます。
大聖人様は、後の『光日房御書』には、
「生国なれば安房国はこひしかりしかども」(御書 九五八㌻)とあるほか、
故郷より御供養の海苔を見て望郷の念を募らせております。
さらに一期の御振る舞いや御書に表わされるその品位と強い御意志、
そして深い御慈悲からは、この幼年期がとても充満したものであったことを
拝察することができます。
しかし世間に目を向ければ、
幕府の要人が次々に亡くなり、土地問題の係争が全国的に発生し、
また季節外れの大雪、洪水、飢饉などが起き、混乱の度合いを深めていきました。
幼い大聖人は、これらの世相について深く考えられ、
「日本第一の智者となし給へ」 との大志を抱かれて十二歳の御時に
清澄寺に登られるのです。
以上、大聖人の御誕生を拝しましたが、
『諫暁八幡抄』に、
「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。
扶桑国をば日本国申す、あに聖人出で給はざらむ。
月は西より東に向かヘリ、月氏の仏法。東へ流るべき相なり。
日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。
月は光あきらかならず。在世は但八年なり、日は光明月に勝れり、
五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。
仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。
末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり」
(御書 一五四三㌻)
と仰せられています。
大聖人は、
本未有善の衆生が生きる末法に、本門の大仏法を名に表わす日本国に生まれられました。
御誕生の際の不思議な瑞相は、
月氏の脱益の仏法に対する下種の仏法を表すものとも拝されるのです。
私たちは右御文に続く、
「各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ」(同㌻)
との御金言のままに、折伏誓願に向かって精進していくことが大切です。