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【ナミラボ】ワンちゃんグッズ3点セット ~オーダーのご紹介~

2015-01-21 12:15:04 | Weblog
先日ご注文いただいたオーダーの紹介です☆

「はるみ」ちゃんというワンちゃんのオーダー。
今回は初めて「ひらがな」でお名入れしました。なんとも可愛らしい感じになったので、
別に日本犬でなくとも「女の子」感が新しいな、と思い今後の参考になりました(*´∀`*)

お写真はとっても毛艶のよい黒いワンちゃんなのでその表現を心がけましたが、黒って難しいんですよね!しかも紙の時の感じと、布にプリントした時の感じでは色つやの表現が全然変わってしまうのでとても苦労しました。なので線の上ではあまりかきこまず、水彩の着色の際の「ぬき」といいますか、わざと色をつけない部分で「ツヤ」に見せたり、わざと茶色やグレーを使ってやわらかさを出したりしてみました。写真と違う表現ですが、こうすることで女の子らしい柔らかい印象がつくかなと思います。これも、写真ではなく一度似顔絵を作成してグッズを作る時の利点ですね。そのワンちゃんの性格や雰囲気を絵で表現できるので楽しいです!

気に入っていただき、たくさん使ってもらえたら嬉しいですヽ(・∀・)ノ

    

震災から20年

2015-01-15 09:18:13 | Weblog
先日阪神淡路大震災から20年というニュースを見ていてもう、そんなに経ったんだなと改めて思いました。私が丁度10歳の頃ですから、テレビで映像を見ていたのを覚えています。あの時は遠い地域の出来事と思っていましたが、その時の日本の混乱ぶりはテレビ画面から伝わってきて非常にショックだった記憶があります。

大勢の方が亡くなったということもそうですし、都市の機能が完全に麻痺する中に自分が置かれたときにどうすべきか、という恐怖や、非常事態においての人間のモラルということについても深く考えざるを得ない。またそれを教訓にして防災対策や避難をしたり救出活動を行うことを見据えた街づくりというのを考えていく。「悲しみに暮れる」だけではなくどう、それを生かしていくかというのが人間の強みだと思います。

もちろん悲しいならその感情が落ち着くまで悲しみに暮れていてもそれは正常な調整能力だと思いますので良いと思います。ただ、若い人やこれからの世の中をまだまだ長い時間生きていかなければならない人たち・人生これからの人たちは悲しいことや辛いことより希望や夢を持って邁進していってほしいし、それが出来る世代だと思うのです。恐らく中高年や晩年を迎える人たちからしたら、若い人たちのそういった姿は眩しすぎてついていけないから、袖を引っ張ってみたり、裾を踏んづけてみたりする衝動に駆られると思うのですけど(笑)どうかそういうつまらないひがみは抑えて、是非とも若者の応援にまわってほしいと思います。

ここに福沢諭吉の言葉があります(現代語訳)

「怨望は最大の悪徳」
 およそ人間には、いろいろな欠点があるものだが、人間社会において最大の害があるのが、“怨望(他人の幸福をねたんだり、うらむこと)”である。欲張り・ケチ・贅沢・誹謗の類は、どれも大きな欠点だけれども、これをよくよく見てみれば、その本質のところでは別に悪いものではない。それを出す場所柄と、その強弱の程度と、向かっていく方向によっては、欠点でなくなることもある。
(中略)
以上のほか、驕(おご)りと勇敢さ、粗野と率直、頑固と真面目さ、お調子者と機敏さはペアになっているものであって、どれもみな場面と、程度と、方向性によって欠点ともなるし、美点にもなるのだ。
 ただ一つ、そもそもの働きにおいて完全に欠点一色で、どんな場面でもどんな方向性でも、欠点中の欠点といえるのは、怨望である。怨望は、働き方が陰険で、進んで何かをなすこともない。他人の様子を見て自分に不平をいだき、自分のことを反省もせずに他人に多くを求める。そして、その不平を解消して満足する方法は、自分に得になることではなく、他人に害を与えることにある。
 たとえば、他人の幸福と自分の不幸を比較して、自分に不足があれば、それを改善して満足するという方法をとらずに、かえって他人を不幸におとしいれて、それによって自分と他人を同じ状態にしようとする。「論語」に「これを悪(にく)んではその死を欲す」という言葉があるが、まさにこのことだ。このような者の不平を満足させようとすれば、世間一般の幸福が減るだけであって、何の得にもならない。

※このあとの文章で福澤は、やたら恨み合ったり憎み合うようなことはせず、人間は互いにいたわり合うことが重要である、と説きます。

 言論の自由を邪魔し、自由な行動を妨げるのは、ただ政府だけに関係した病気ではない。日本全国の人民に流行しているものであって、学者といえどもこれからは免れない。人生を活発に生きる気力は、物事に接していないと生まれにくい。自由に言わせ、自由に行動させて、財産も、社会的地位も、それぞれが自分で獲得できるようにして、まわりがそれを妨害してはならないのだ。

明治の人の言葉が現在になっても心に突き刺さるように感じるのは、私だけでしょうか?


自らを振り返れ

2015-01-14 09:37:16 | Weblog
先日は成人の日でしたね。成人の皆様におかれましては20歳をもって選挙権を得られたことと、納税の義務ができたことで社会を形成する側に回ったということになります。「大人の仲間入り」というとその言葉自体子供っぽいのであまり使いたくない感じがしますが、確かにそういうことになります。ただ、世間を見回してみて、自分の周りを見てみて何が大人なのか、ということは人生を通しての課題であり、一朝一夕で自立した独立した人間になれるかというとそうではありません。

大人と子供の境目は、自分の足で立って生活できるか、というところがまず大きいと思います。子供(例えば10代)でも大人顔負けの立派なことを言える人はいますが、親の世話になって実家で暮らし、ご飯をもらって生きているうちはやはり子供なのです。やがて自立して生きているように思っても、親からの仕送りで成り立っていたり、食料を送ってもらってやっと生きているという人もいるでしょう。それはそれでやはり親に少しは助けてもらっているのですから、親のやっかいになっていると言えます。

じゃあどこから「自立」というのか。誰の世話にもならないのが「独立」というのであれば、人間は生きている以上誰かの世話になったり助けてもらって生きているので自給自足で孤独に世界の果てで生きているんでない限り理論上は「独立」できないことになります。でもそれぞれの人の「独立の割合」はあると思います。90%以上誰かに助けてもらっているのか、50%以上は自分で賄って生きていられているのか、という具合に。

また、精神面で言えば「自分で考え、行動する。その行動に責任を持つ」という割合も独立度合いに影響すると思います。どんな仕事をし、どんな生き方をしていくのか。自分はどういうふうに生きていきたいのか。人と交わり関わって生きていく以上、自分という人間は世界に対してどうするべきなのか。「お金を稼ぎたい」とか「偉くなりたい」というのでも良いかもしれませんけど、もっと中身のある頭を使った生き方をして行ったほうが中高年になった時に無様にならずにすみますよ。

そう考えると「自立」もやはり口先だけでなく行動なんだな、と思います。

選挙権が18歳に引き下げられることは私はとてもいい事だと思います。ただ、そのための下準備をしないと大変なことになります。今の10代をはじめとした子供たちは「自分たちで何かを作り上げていく」という感性に乏しいと思います。自分たちの身の回りのことでさえそうです。なのに「日本という国はこれからどうなっていくべきか」という考えなんてほとんどの10代がちゃんと考えられるかというと・・・。大変心もとない。
もちろん大人もそうですが、今の子供たちが思うこと、子供に思わせるような環境って「周りが自分に合わせてくれて当たり前」の感性だと思います。学力が下がるのは学校の授業のレベルが低いから、友人関係・人間関係がきちんと結べないのは学校や地域での情操教育が出来ていないから。自分がうだつの上がらない人間なのは親の教育がなっていないから。そうやって原因を他に求めようとしすぎている気がします。
子供たちを教育し、良い方向に導いていくのはもちろん大人の義務なんですけど、「子供が自立した考えをもてるように」教育できていない大人が多いが為に、子供はそうやって責任感のない、問題を先送りにする性質が染み付いてしまうのではないでしょうか。

なので、とどのつまり子供たちのことを考えることは大人が襟を正さないといけないことになります。

「自分たちは立派に大人やってるよ」

と、果たして胸を張って言えるでしょうか?大人にならなければならないのはむしろ私たちの方ではないかと思います。

巧言令色鮮なし仁

2015-01-10 11:28:18 | Weblog
言葉は大事だとは思いますが、言葉だけ達者で実行力の伴わない口先ばかりでは何事もなすことは出来ません。面の皮ばかり厚くてプライドや高飛車な態度ばかり先行したりして物事の本質を見抜けないようではいけないと思うのです。

先日動画サイトでとある番組の紹介をやっていました。「群衆」というのがテーマでした。群衆は時に暴走したり頭の悪い行動に走ってしまったり、個人単位では決してしないような非常識な行いも平然と手を下してしまったり。独裁者の思うがままに動いてしまったりします。

集団の中にいたとき、人間がどのように行動するかの実験が行われました。10人の人々が集められ、ホワイトボードに2枚の紙があるのを見させます。Aの紙には棒が一本。Bの紙には棒が三本書いてあります。Bには明らかにAの棒の長さとは違う棒①、Aと同じ長さの棒②、Aより短い棒③の3種類です。

被験者が端から「Aと同じ棒はどれか」に答えていくのですが、9人は全て全くAとは違うであろうとすぐに分かる③と答えるのです。10人目の被験者はなんと答えるのか。迷いながら③だと答えるのです。

みなさん御察しの通り、前9人は さくら で、実験はその10人目の人に対して行われました。いかに人が集団に流されやすいか。

私は果たして②と答えるかどうか。③と答える確率はその実験では6割程度だそうです。番組では今の世の中「空気を読む」とか、人の顔色ばかり読んで集団と化すのが悪いのでは、と言っていました。

でも私は逆だと思います。本当に空気を読める人は、9人が同じ答えの時点で「何かおかしい」と感じるはずです。集団の答えに依存し、考える力が鈍く、流されてしまう人。それこそが「気の読めない人」なのではないでしょうか。また、独立した考えができないと行動に移せません。実行力が伴わないのは他人にその判断を委ねている証拠です。

何かおかしい、何か手を打たなくては、と察したら口ばかりではなくまずはそれを行動に移すこと。それしかありません。

いつもの日常

2015-01-09 10:21:57 | Weblog
年末から予定していた仕事がとうとうスタートし始め、にわかに仕事モード。正月気分を引き締めて締切や納期を見据えないと・・・とじんわり汗をかいてきました(笑)今年はいつものイラストの仕事だけでなく、去年から始まったペットグッズのオーダーの仕事がとても好調な分、紙に絵を描くだけでなく自分で商品を作り発送するところまでの作業が待っているので気が抜けません。最後の最後まで気を緩められないのは勉強になりますが本当に大変な作業なのです。

ただ、先日オーダーしてくださった方と久しぶりにお会いして、その傍らに私の作ったバッグを持っていてくださって「もったいなくてお散歩になんて使えないわよ!私の個人的な使い方してるわよ!」といった声や、「自分が使おうと思ってたのに、家族が気に入っちゃって取られちゃったからもう一つ作ってください」というリピーターの方までいて、嬉しい悲鳴をあげています。
春にはイベントに多数参加しようと思っています。私のイラストの紹介もそうですが、ナミラボ関連の商品の紹介を前面に出してやってみたいと思っています。そして昨年に何か+αしたものもやっていき、少しづつでも「ものづくり」というのを進化させたいなと現在試行錯誤です。春先に向けていいスタートが切れそうな予感がします。

言葉との出会い

2015-01-07 11:14:55 | Weblog
本を読んでいると「運命の出会い」と思えるような言葉と遭遇することがあります。その瞬間恋に落ちるような言葉。先日も「人生の“充実感”をかみしめる!論語を生かす私の方法」という本を読んでいて「出会っちゃった~」というときがありました。これは渋沢栄一著「論語講義」を齋藤孝さんが訳・責任編集されている本で、ハードカバーですともんのすごい分厚い本で持ち歩けなくて、家にいるときにしか読めないから必死で家で読んでいます(笑)

先日書き初めで「学」という字を今年の信念の字にしたとブログで書いたところへ、知っていたのですが改めて目にしたのが、有名な孔子の言葉でした。

「子曰く、学びて時にこれを習う。また説ばしからずや。朋遠方より来たるあり。また楽しからずや。人知らずして慍らず。また君子ならずや」

まさに今年の私の気持ちにぴったり!そうです、私だけでなく切磋琢磨して周りをも巻き込んで学びたい。そしてその喜びを分かち合いたい!という思いでいます。そして「誰に好かれたい、喜ばれたい」ということでなく「今自分がやるべきなのはこれだ!」という一念において行動を起こすという自主性であり独立した気概です。

最近私が注目していることなんですが、昔からよく「天」という概念を明治の偉人達は持っていたと言いますよね。天は人の上に人をつくらず、とか、人事を尽くして天命を待つ、とか。「天」ということを昔の日本人は頻りに言っていました。それは、誰に褒められるとか、収益を得られるから、といったちっぽけな理由からではなく、自分の一挙手一投足を天が見ている、という第三者的な客観的な広い視野に基づいて考えることです。
世の為とか人の為とかいうのとはまたちょっと違う「天」というもの。自分であり世界の視点ですよね。自分の行いを天から見下したらはたして良いのか悪いのか。道徳的な思想も入っているし、とてつもなく合理的で資本的な見方もできます。ようするにあらゆる方向から見定め「今自分が何をすべきなのか」「自分に何ができるのか」をぶれずにやっていく一つの方法として「天」の視点なのだと思います。

その視点があればこそ、今すぐは役には立たないかもしれないけど、自分が今「これ」を学ぶことによって後々絶対に必要になると自覚すれば他人から「何やってんだあいつ」と馬鹿にされようが非難されようが死に物狂いで勉強し、やがて大きな成果となって現れることもあるでしょう。それは「何のために“それ”をやっているのか」という目的意識がはっきりしているから。これは仕事でも私生活でも大いに役立つ考え方だとは思いませんか?

前からこの言葉を知っていましたが、今このタイミングで論語を読むことがいい刺激となって吸収しているような気がします。またいい言葉に出会ったら記します。

仕事始めの月曜日

2015-01-05 11:38:04 | Weblog
全国で大体今日は仕事始めだと思われますが、私は一昨日ぐらいから少しずつ仕事を再開していました。逆に今日は少し余裕がある程度です。思い切り正月休みを満喫してしまった方は今朝の出勤で気分が重い・・・という方もいることでしょう。勤めではない者の利点と言ったらそのところかもしれません(笑)

遅ればせながら書き初めを行いました。今年の一文字は「学」です。昨年同様、自分が今まで知らなかった世界を学び、教養を身に付け人間として幅をもたせて行きたいという想いを更に進めていきたいという気持ちを込めました。この一文字を書くのに20~30枚書きました(笑)何度もやっていますがやはり習字は難しいですね。でもこうして正月に書き初めを行い、一年間それを部屋に飾っていると、一年の初めに心に誓った想いというものを振り返ることができてとても良いものです。書いている瞬間もその想いを一年間忘れないよう心に刻み込んでいるような感じがします。

人は忘れていく生き物かもしれないし、変化していくことはある意味重要です。特に私や家族、昔からの知り合いには柔軟性にとんだ人、応用の利く人ばかりで先入観がなくあまりしがらみや古臭い慣習というものとは離れて暮らしている人がたくさんおりまして、私の性格や行動の基準になっている大きな特徴の一つだと思います(あくまで良い意味です)(笑)。でも、その中でも信念だったり、何かを成し遂げたり思い描いている姿に自分を持っていく時の原動力はやはり「ブレない心」だと思います。

先日とある女優さんが「やる前から“できない”と決めつけない」という言葉をおっしゃっていました。正にその通りだと思います。頑張っても頑張っても、努力しても努力しても報われないこともあるかもしれませんが、その「あがき」や「失敗」に大きな成長の糸口があったり、その経験が後々になって生きてくるかもしれません。そう考えると、どんな経験も無駄なことなんてひとつもありません。もちろん世界には人として想像もできないほどの残酷な状況に出くわしたり、日本においてでも辛い病気に苦しんでいる人もいます。そういう人に同じ言葉を面と向かっては言えませんけど、せめて私が自分で生きていくことにおいてはそう思っていたいのです。

無駄なことなんて一つもない、そう思って今年もやっていきたいです。

あっという間に過ぎていく正月

2015-01-03 10:42:22 | Weblog
昨日は仕事の人達とお会いしたり友人とあったりしてひとしきり年始のご挨拶でした。「今年もよろしくお願いします」という言葉を使うたびにちょっと背中が伸びる感じですね。地元の武蔵野八幡宮にもお参りして、出たおみくじは「八番」の「大吉」!年明けからなんだか縁起が良くて嬉しいです。神様も私を肯定してくれているのかしら、と思うとなぜか安心感。でも何もかも神頼み、他人任せ、というのは良くないと思うので、しっかり自分のことは自分で、体調も仕事も遊びもきちんと整えてやっていこうと気持ちを新たにしました。

昨年個展のグッズの売上を寄付したエルシステマジャパンさんから年始のグリーティングカードが届きました。寄付をした人には送っているんだと思いますが心遣いがすごいなあと感心しました。また、第三者機関からの調査報告書も入っていてきちんとしているんだなと改めて思いました。その報告書には慈善活動をしている組織には一種の「熱」というのが冷めてしまって時間が経つうちにすっかりその活動が本来の目的を失ってしまっていたりすることもある。けれどもこの団体は「変わらぬこと」を続けていく姿勢が感じられる、とあります。もちろん変わらぬ姿勢を貫こうとするにはそれなりに「変化し続けていく必要性」もある。同じことをずっとやっているといずれ組織や団体は腐っていく。ある程度の変化と刺激を与え、より改善していかないと「続かない」。これはどんな組織にも言えることだな、と思いました。

その上でこの団体の特徴として「子供たちがお互いに教えあう関係」が認められるとあります。年長の子がまだ上手く楽器を弾けない子に教える。その教えられた子がほかの子にまた教える。いわば昔の地域の中での世代を超えたコミュニケーションに近いものがそこにはあると。これはとても重要なことです。

大人が子供にできることは何も物を与えたり、お金を与えたり、偉そうに説教することではなく、その子供たちが自立できるようなことを提供することだとおもいます。その子供たちが自分たちで考え、自分たちの中から何かを生み出すような考えだったり発想が出来るように見えない教育をしていく。それによって子供たちから敬われたりするかどうかはおかまいなしに。どうしても大人は「自分が育ててやったんだから、子供は自分の分身だ」「自分の言う事を聞いて当然」という考えになりがちです。実際の親子の関係においては尚の事そうでしょう。でも、子供は絶対的に違う人格を持った一人の人間なのですから、親や先生のコマでは無い。それを大人は自覚し、「次の世代の人間を自分たちが牽引しているんだ」という客観的視点に立って教育というものを考えなければならない。もちろん情や真心といったものはあるにせよ、ある面「血縁」や「つまらないしがらみ」を抜きにした広い視野で社会を考えることも大人には必要かな、と思います。その子供が大きくなったとき、「ああ、自分が子供だった時に周りの大人は振り返ってみるととても良い教育をしてくれていたんだな」と思うくらいでちょうどいいと思うんですが。

そんなことを思う正月でした。

2015年スタート!

2015-01-01 11:13:25 | Weblog
皆様あけましておめでとうございます。年越しはいかがお過ごしだったでしょうか。元旦は昼間から雪がハラハラと舞い、寒い中での年明けとなりました東京です。街も帰省中の人が多いためか比較的空いている印象です。

元旦だけは仕事も完全オフということで、家族や友人と過ごしたりしました。毎年カウントダウンを見ていて思うのは、「あと1分」「あと30秒」という時間の経過を全国の人たちが固唾を飲んで見守る瞬間て正月のカウントダウンぐらいのものであるということで、それがなんだか不思議な気がします。私たちが何気なく過ごしてしまう1分や1秒もとても大事なものなんじゃないかとおもう瞬間です。
昨年一年間の感想を朱熹(朱子)の「偶成」という漢詩の言葉を借りて「一寸の光陰軽んずべからず」と記しましたが、まさにそんな感じでした。

がむしゃらに、ひとつのことに一生懸命に取り組むことはもちろん大切な事ですが、自己と他者との関係においても、また自分自身を見つめるにしても客観的な視点、多面的な思考がこれからは必要になるのかな、とも思います。

短い時間の中でどう過ごすのか、それを大事に過ごせることは、人生という長いスパンをも大事に生きていける人だと思います。言葉を借りれば、「細部には宇宙が宿り、その逆もまた然り」という概念になります。1日1日、その場のことに全力であることと、広い視野を持つことは必ずしも相反しない、と私は思います。

今年はこれまでより更に広い視野を持ち謙虚に色んなことを考え吸収すると共に自分が「何をしなければならないのか」という事をしっかり考えられる、「点と線を繋ぎで面で捉える」ような一年にして行きたいと思います。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。皆様の一年のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

イラストレーター 南姫(なみ)