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WAVEが日頃気付いたこと、
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春の粉舞い散る中

2015-03-05 10:16:15 | Weblog
花粉症の同志の皆様、今日もお辛い中ご苦労様でございます。私も日々春の粉を身に浴びつつ健気に、そしてこまめに鼻をかんでおります。

ここ数日、チラシの仕事を詰めて作業していました。漫画の仕事とオーダーの仕事も振り分けながらナミラボの新商品も作りたくてこの身があと二つ三つあるとちょうど良いなと分身の術に思いをはせる毎日です。(あと確定申告もあるんですよね‼︎)

今白洲次郎さんの事を書いた本を読んでいます。旧白洲邸の武相荘がうちの実家の近くなので、描写される場面ではなんか親近感というか面白いなあと思って読んでいます。

あまり昔のほうがよかった、論争は好きではないのですが、やはりあの時代の人々の美学というか、何が粋で、何が野暮なのか、と言ったような審美眼は中々現代の時代の人には植えつけられにくいものなのかなあ、と思ったりします。もちろん生活水準とか、子供頃の環境が良ければ良いものを眼にし、触れ、味わう機会があるのですからそれなりの美の基準が生まれる可能性はあるのですが、時代が育む感性というのもやはり少なからずあると思います。(逆に言えば、今の時代だからこそ育まれる美の感性もあるともいえます)

何を美しいと思い、何が自分の中の基準なのか。何を見て育ち、どんな言葉を聴いて育ったか。人が生まれ大人になった時にそれなりの道徳や美意識を持つように育てる、というのは大変なことです。そう言う意味において、日本は数々の大変優れた偉人たちが多く、歴史を振り返ってみても、その教育環境は他国と比べて眼を見張るものがあります。まあ、ここ数十年ほどを見たらどうか、というのはありますが、「人は宝なり」という国であることは違いありません。

と言うことを、先日友人と東京オリンピックの開会式はどういう演出が望ましいか、という話をしていて話題に上りました。噂によると某有名アイドル輩出プロデューサーが演出することになるのでは、という噂があり、その危機感から話は始まりました。

確かに、日本は近年アイドルやアニメなどのポップカルチャーでは海外で話題を集めることが多々あると思います。ですが、日本という国の素晴らしさはそれらの比ではないのです。

それを思うと、去年のソチオリンピックでは、ロシアの偉大な歴史とそれを彩る様々な偉人たち、文化を余すところなく(国家の威信にかけて)表現しようとした開会式であり、閉会式でした。式、というのは儀式です。形式ですが形式的だからこそその本質が現れるのです。日本の正月のお節料理しかり、結納しかり、冠婚葬祭などその儀式的なものの中に文化があるのです。

オリンピックはかなり偽善的な催しの要素があるのは分かっていますし、もろてを挙げて2020東京オリンピックに賛成というわけではないですが、やはり国の行事なのですから、恥ずかしいことはして欲しくないわけです。

そこで、私なりに2020東京オリンピックを勝手に開会式・閉会式演出をするんであればそのテーマは「小さい国日本」と「平和国家」です。日本は小さいのです。いくら高度経済成長を経て先進国の仲間入りを果たしたからと言って、国土も小さければ産出する資源も限られています。そんなちっぽけな国だけど、様々な国からいろんな文化を吸収し、自分たちなりに作り出したり工夫したり、豊かな四季と自然があり、その中で世界に類を見ない人材を輩出してきた、という歴史を追うのです。卑下することはありませんが、「大きく立派に見せよう」なんて考えたら、ロシアやアメリカなんかにはとても太刀打ち出来ないのですから、逆説的に考えたプランを練るべきです。

あと、日本独特の文様や柄などを多用するべきです。着物の柄から、染、今は職人が少なくなってしまった伝統工芸などの技術を世界にアピールする良い機会なのですから、式の舞台装置やコスチューム、小道具にもそういう文様などを使わせてもらえるように今から準備してみるのもいいでしょう。

あと音楽ですが、ソチの時に感動したのはやはり、多くの音楽家をロシアは輩出してきたんだよ、というシーンでラフマニノフやらチャイコフスキーやらストラヴィンスキーやら様々な音楽家がおり、ピアノと共にその音楽が流れる。世界の歴史を感じさせる名シーンだったと思うのです。「あぁ、やっぱロシアって音楽の分野でもやっぱすごいわあ~・・・」って思っちゃう。

ああいうことは日本ではたぶんできませんね。

日本はどうかと言うと、元々オーケストラなんかで大ホールでどーん、という音楽じゃないと思うんです。たとえば琴にしたって三味線にしたって、狂言の謡とか、とても小さなコミュニティーを形成し、舞台もどことなく小さな空間でいかに大きな想像力を膨らませるか、という感じ。
お茶にしても、とても小さな部屋の中で限られた小物、お花や茶器で季節を感じさせたりとても地味(笑)。でもその地味な中に美を見出す意識がこれまた日本的なんですよね。これをどう表現したらいいか。とても難しい。

ただ、日本は侘び寂びだけでなく、大陸側から流れてきた大胆な文化も持ち合わせているのでそれをうまく効果的に使わないとどんどん地味になってしまうし、無理やりそれを派手に見せようとするとものすごく陳腐になると思います。

別に私がプロデュースするわけではないんですが、もし演出をするとしたら、という目線でいろいろな資料を見て勉強するテーマにすると研究し甲斐がありそうな気がしてとても楽しいですね。

日本語の素晴らしさ

2015-03-01 08:36:58 | Weblog
様々な言語がある中でも日本語というのは複雑で実に面白い言語だと最近特に思います。

例えば気遣い、という言葉。英語にはまず「気」の概念が日本語のそれと同じものが見当たりません。親切にするとか丁寧にするとか言う事は出来ますが、「気のある」とか「気の無い」という感じを正確に訳せはしません。日本語を活用したやり取りの中では、相手との複雑で繊細なコミュニケーションを求められる場面がとても多いです。
「お茶が入りました」という言葉にしても、勝手にお湯が沸き、お茶が淹れられたわけではなく、そこには誰かがお茶を淹れてくれた手間が発生しているわけなんですけれども、「私があなたのためにわざわざお茶を淹れました」とは言いませんよね(笑)でも言われた方はそれがわかるから、「恐れ入ります」とか言うわけです。
そこには「察する」または「察してね」と言う実に面白いなコミュニケーションが存在しているのです。現代の生活の中においても、人の気持ちを推し量れないような、人情のわからない、空気の読めない人は多々いると思うのですが、気の利く人とそうでない人との差が著しいと思います。
本来気が利き、空気が読めるというのは人の気持ちに配慮できる、思いやりのある行動のことを指します。自分の利益追求の為にへつらい、おべっかを使うという意味ではありません。新聞やテレビから流れる様々なニュース、時には痛ましい事件も元をたどれば対人間としてのコミュニケーションや関係性がうまく結べないということも要因な気がします。

日本は諸外国に対して何か大きな輸出が出来たり、大量生産できる資源は無いのですから、昔からある「人間関係を、うまく結ぶ思いやりのや道徳」に根ざした「人材育成や教育」を輸出するというのはどうでしょう。それにはまず、現代の日本人が、昔ながらの思いやりや徳、何が正しくて何をしなくてはならないのか、という柱をもたなくてはいけないと強く感じます。