乾燥が気になる季節になってきました。
以前ブログにも書いたかもしれないのですが私は万年手荒れで、今までたくさんのハンドクリームを買って試しては満足のいく効果が得られずにいました。たまに「合うな」と思って使い続けてもいいのは最初だけで、段々付けても荒れが収まらなかったりします。真冬の時期はたっぷりクリームを塗りこんで手袋をして寝ていましたがそれでも日中は皮がむけて指紋が無くなって、また皮が生えてきてはむける、をひと冬で何回も繰り返し、出血を日々しながら液体絆創膏を塗ってその痛みにひーひー言う日常でした。
ところが、あるとき友人と新大久保の韓国街を巡っていて一本のチューブタイプハンドクリームを見つけました。話題のヘビ毒エキスが入ったハンドクリームで、パッケージがものすごく可愛いのです。いわゆるパッケージ買いというやつで、4本買うと1000円だというので(1本450円)二人で分けっこして買い、使ってみたところものすごく私に合う事が分かりました。つけた瞬間から違うというか・・・しっとりしているし塗り込んでからしばらく経つとサラサラになって、作業するにもベタベタしないのでしょっちゅう使えます。一日に何度も塗っていたらあっとうまに手荒れが治ってしまいました!!衝撃というか感動というか。
そして1週間ぐらい前にそのクリームが無くなったので買いに行きたかったのですが中々時間が取れず買いに行けなかったところ最近手がまた荒れ始めていよいよまずいと思い仕事のついでに新大久保に立ち寄って買ってきたのですが、久しぶりにつけたら「これこれ!!」という感じ(笑)もう手放せない、とはこのことです。自分に合うモノ、というのを見つけられるようになったのはとても良いことだなと思います。
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自分に合うものを選ぶのもそうですが逆に自分に合わないものというのも選ぶことはとても重要だと思います。日本人は自分に合わないことを感じ取って敢えて選ばない、という作業が苦手なような気がします。何にでも対応できるということがさも良いことなのだと言う風潮があると思います。それがすなわち「和」だと。丸く収める為には良い悪いという評価をしてはいけないということです。もちろんそれは私から言わせれば愚の骨頂です。
いじめ防止対策推進法が28日に施工されましたが未だに基本方針が間に合っていないそうで・・・大人はなにをやるにも遅いですね。本当に重要なのは子供を守ることなのに。昔はいじめというととても軽いもの(実際死に追いやるとかまではいかないものも多かったのは事実ですが)のように思われて、教師もいじめられる側にも問題があるとしてその子供たちが数年して学校を卒業してしまうまでうやむやにしておけば良い、という誤った対応があったと思うのです。それこそ職務放棄もいいところですが、この法律の骨子を見ると実に当たり前のことが書かれています。こうして法律にして目に見える形で位置づけしないとそれが出来なかった学校や教育に携わる大人たちが情けなくなってきますけれども、大いにこの法律を活用していじめがなくなるように、あるいはいじめという悪の所業に苦しむ子供がそこから逃れられるよう仕向けて欲しいものです。
大義名分という言葉があります。私はこの言葉自体は別に良いとおもうのですが、使用する情景や人を思い浮かべるとなんともきな臭いというか嘘くさい言葉としてイメージしてしまいます。大義名分が無いと動けない人がいるのは嘆かわしいことです。また、「これは大義である」と言って会社などの組織において比較的下に属する階級の人たちに無理を押し付けたり死ぬまで働かせたりすることは今の時代において許されるものではありません。ハラキリを美徳だと思っている人が現在にいたら殺人者か精神異常者ですよね。
明らかにいじめが理由と思われる要因で自殺をしてしまった子供がいる学校で「いじめは無かった」と断言してしまう学校には自分たちを正当化する自分たちなりの正義に基づいてそういう発言をしているのだと思います。教育には力を入れているし、指導も徹底しているし、校風は「和を持って尊し」とする立派な理念を掲げ、青少年育成に取り組んでいるのだからいじめなんてない、と。それは自分たちが思っているだけであり現場をよくみていない、あるいはいじめなんてあって欲しくない、と半ばこじつける気持ちや希望があるから「いじめはない(であってほしい)」と言ってしまうのでしょう。
だけど実際苦しんでいる子供がいるのは事実なのですから、教育者としてそこに目をつぶったらそれこそ指導者ではありません。苦しんでいる子供は常に罪悪感をもっていると思います。それが明るみになることで親や数少ない友達に迷惑がかかるとか、いじめを発覚させることで問題提起するわけですから和を乱すことになります。それだけでも十分罪の意識に苛まれると思います。
でもいじめを明るみに出すということがどれほど勇気のいることか、周りの大人は考えてあげて欲しい。そしてその子が最悪の選択をする前に周りに打ち明けて自分自身を守ったことを喜んであげるべきなのです。
義務教育というのは大人が子供に対して教育を受けさせてあげる義務があるだけで、子供が学校に通う義務があるわけではないのです。その子供がある一定の学校で問題を抱えてしまったら、また別の形で教育をさせてあげられるよう環境を整えるとか努力する義務は大人の側にあるのに、大人はその学校に通わせなきゃいけないと誤った考えを起こします。大人の側が知識がないからそうなるのです。アフリカなどの貧しい国に生きる母子のために粉ミルクを援助して、母親への教育が無いばかりに泥水で粉ミルクを溶かし赤ん坊に与えて疫病で死なせるのと基本的には一緒です。知識が無いからそうなるのです。
「逃げるな、戦え」と勇ましい大人は言いますが、じゃあ大地震のあと大津波がやってきて「逃げるな、戦え」といって波にのまれて死にますか?バカも休み休み言って欲しいものです。まず一番に考えなければならないのは人命です。子供にとっていじめとはそのくらい深刻なものなのです。その痛みや恐怖が分からなければ震災を一度体験してみろ、というのと一緒だと思います。
震災の復興が著しく遅く、未だに大勢の人が苦しんでいるのと一緒で全国にいじめに苦しんでいる子供がたくさんいると思いますが、国や自治体の整備を待っていたら遅いのかもしれません。まずは意識の改革と柔軟な発想が大事かもしれません。
以前ブログにも書いたかもしれないのですが私は万年手荒れで、今までたくさんのハンドクリームを買って試しては満足のいく効果が得られずにいました。たまに「合うな」と思って使い続けてもいいのは最初だけで、段々付けても荒れが収まらなかったりします。真冬の時期はたっぷりクリームを塗りこんで手袋をして寝ていましたがそれでも日中は皮がむけて指紋が無くなって、また皮が生えてきてはむける、をひと冬で何回も繰り返し、出血を日々しながら液体絆創膏を塗ってその痛みにひーひー言う日常でした。
ところが、あるとき友人と新大久保の韓国街を巡っていて一本のチューブタイプハンドクリームを見つけました。話題のヘビ毒エキスが入ったハンドクリームで、パッケージがものすごく可愛いのです。いわゆるパッケージ買いというやつで、4本買うと1000円だというので(1本450円)二人で分けっこして買い、使ってみたところものすごく私に合う事が分かりました。つけた瞬間から違うというか・・・しっとりしているし塗り込んでからしばらく経つとサラサラになって、作業するにもベタベタしないのでしょっちゅう使えます。一日に何度も塗っていたらあっとうまに手荒れが治ってしまいました!!衝撃というか感動というか。
そして1週間ぐらい前にそのクリームが無くなったので買いに行きたかったのですが中々時間が取れず買いに行けなかったところ最近手がまた荒れ始めていよいよまずいと思い仕事のついでに新大久保に立ち寄って買ってきたのですが、久しぶりにつけたら「これこれ!!」という感じ(笑)もう手放せない、とはこのことです。自分に合うモノ、というのを見つけられるようになったのはとても良いことだなと思います。
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自分に合うものを選ぶのもそうですが逆に自分に合わないものというのも選ぶことはとても重要だと思います。日本人は自分に合わないことを感じ取って敢えて選ばない、という作業が苦手なような気がします。何にでも対応できるということがさも良いことなのだと言う風潮があると思います。それがすなわち「和」だと。丸く収める為には良い悪いという評価をしてはいけないということです。もちろんそれは私から言わせれば愚の骨頂です。
いじめ防止対策推進法が28日に施工されましたが未だに基本方針が間に合っていないそうで・・・大人はなにをやるにも遅いですね。本当に重要なのは子供を守ることなのに。昔はいじめというととても軽いもの(実際死に追いやるとかまではいかないものも多かったのは事実ですが)のように思われて、教師もいじめられる側にも問題があるとしてその子供たちが数年して学校を卒業してしまうまでうやむやにしておけば良い、という誤った対応があったと思うのです。それこそ職務放棄もいいところですが、この法律の骨子を見ると実に当たり前のことが書かれています。こうして法律にして目に見える形で位置づけしないとそれが出来なかった学校や教育に携わる大人たちが情けなくなってきますけれども、大いにこの法律を活用していじめがなくなるように、あるいはいじめという悪の所業に苦しむ子供がそこから逃れられるよう仕向けて欲しいものです。
大義名分という言葉があります。私はこの言葉自体は別に良いとおもうのですが、使用する情景や人を思い浮かべるとなんともきな臭いというか嘘くさい言葉としてイメージしてしまいます。大義名分が無いと動けない人がいるのは嘆かわしいことです。また、「これは大義である」と言って会社などの組織において比較的下に属する階級の人たちに無理を押し付けたり死ぬまで働かせたりすることは今の時代において許されるものではありません。ハラキリを美徳だと思っている人が現在にいたら殺人者か精神異常者ですよね。
明らかにいじめが理由と思われる要因で自殺をしてしまった子供がいる学校で「いじめは無かった」と断言してしまう学校には自分たちを正当化する自分たちなりの正義に基づいてそういう発言をしているのだと思います。教育には力を入れているし、指導も徹底しているし、校風は「和を持って尊し」とする立派な理念を掲げ、青少年育成に取り組んでいるのだからいじめなんてない、と。それは自分たちが思っているだけであり現場をよくみていない、あるいはいじめなんてあって欲しくない、と半ばこじつける気持ちや希望があるから「いじめはない(であってほしい)」と言ってしまうのでしょう。
だけど実際苦しんでいる子供がいるのは事実なのですから、教育者としてそこに目をつぶったらそれこそ指導者ではありません。苦しんでいる子供は常に罪悪感をもっていると思います。それが明るみになることで親や数少ない友達に迷惑がかかるとか、いじめを発覚させることで問題提起するわけですから和を乱すことになります。それだけでも十分罪の意識に苛まれると思います。
でもいじめを明るみに出すということがどれほど勇気のいることか、周りの大人は考えてあげて欲しい。そしてその子が最悪の選択をする前に周りに打ち明けて自分自身を守ったことを喜んであげるべきなのです。
義務教育というのは大人が子供に対して教育を受けさせてあげる義務があるだけで、子供が学校に通う義務があるわけではないのです。その子供がある一定の学校で問題を抱えてしまったら、また別の形で教育をさせてあげられるよう環境を整えるとか努力する義務は大人の側にあるのに、大人はその学校に通わせなきゃいけないと誤った考えを起こします。大人の側が知識がないからそうなるのです。アフリカなどの貧しい国に生きる母子のために粉ミルクを援助して、母親への教育が無いばかりに泥水で粉ミルクを溶かし赤ん坊に与えて疫病で死なせるのと基本的には一緒です。知識が無いからそうなるのです。
「逃げるな、戦え」と勇ましい大人は言いますが、じゃあ大地震のあと大津波がやってきて「逃げるな、戦え」といって波にのまれて死にますか?バカも休み休み言って欲しいものです。まず一番に考えなければならないのは人命です。子供にとっていじめとはそのくらい深刻なものなのです。その痛みや恐怖が分からなければ震災を一度体験してみろ、というのと一緒だと思います。
震災の復興が著しく遅く、未だに大勢の人が苦しんでいるのと一緒で全国にいじめに苦しんでいる子供がたくさんいると思いますが、国や自治体の整備を待っていたら遅いのかもしれません。まずは意識の改革と柔軟な発想が大事かもしれません。