丸亀城城代佐藤氏について、もう少し掘り下げて見ていきたい。
佐藤志摩介の祖を辿ると奥州藤原秀衡の家臣で源義経に従った佐藤忠信嗣信の後裔にあたる。
佐藤嗣信は、平家追討の命を受け、平家の動静を義経に注進すべく寿永の初め頃より讃岐入りしていたという。
その時、讃岐の娘と出来た子の子孫が志摩介の家系であり、代々伏石の名族として伝えてきた。
生駒氏の讃岐統治に於ける志摩介の影響力は大きく、鉄砲大将(1200石)として召し抱えられている。
現在の栗林公園一帯の土地が佐藤家の所有であり、佐藤家の屋敷が栗林公園の西南隅にあったと伝えられている。
そして、徳善寺(昭和20年7月4日の高松空襲で焼失廃寺)の境内には、佐藤志摩介の墓塚があり、それが、現在の高松市藤塚町の地名の由来ともなっているという。
以上、『栗林郷土史』(平成8年)、『古今讃岐名勝図絵』(昭和5年)参考。
→舎の部首は「人」、「口」、「舌」?
←安造田東三号墳出土モザイク玉調査報告会(まんのう町琴南公民館)
←丸亀城城代 佐藤掃部4~生駒家家紋
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佐藤志摩介の祖を辿ると奥州藤原秀衡の家臣で源義経に従った佐藤忠信嗣信の後裔にあたる。
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その時、讃岐の娘と出来た子の子孫が志摩介の家系であり、代々伏石の名族として伝えてきた。
生駒氏の讃岐統治に於ける志摩介の影響力は大きく、鉄砲大将(1200石)として召し抱えられている。
現在の栗林公園一帯の土地が佐藤家の所有であり、佐藤家の屋敷が栗林公園の西南隅にあったと伝えられている。
そして、徳善寺(昭和20年7月4日の高松空襲で焼失廃寺)の境内には、佐藤志摩介の墓塚があり、それが、現在の高松市藤塚町の地名の由来ともなっているという。
以上、『栗林郷土史』(平成8年)、『古今讃岐名勝図絵』(昭和5年)参考。
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