「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの美術:美楽舎例会・T氏講演「中国骨董漂流二十年」

2014年07月09日 | 陶芸



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 7月6日(日)、美楽舎例会が京橋の画廊で15時から予定されていましたが、それまで6歳児に付き合って、墨田区にある折り紙ミュージアムを訪れたり、台東区の雑貨店をハシゴしたりして過ごしました。今月の例会は、会員K氏の知り合いで中国骨董一筋に20年間、その収集と研究を続けていらっしゃるT氏を招いてお話を伺いました。

 美術品コレクターとしては、T氏の20年という期間はさほど長くはありません。私の周囲には、30年~40年のコレクター歴を持っている人も稀ではありません。私自身も、最近はちょっとご無沙汰していますが、美術愛好家として既に35年ほどの美術品収集歴があります。コレクター歴の長短は別として、T氏の骨董にかける情熱がひしひしと伝わる興味深い例会でした。

 ところで6歳児はどうしたの?……1時間半ほどの講演時は、ギャラリーの後ろで床に座って折り紙ミュージアムで買ってきた折り紙を使って一人遊びをしていました。ただ、T氏がお宝のコレクションを箱から出す度に、6歳児は骨董に興味があるのか、大人に混じって前のテーブルに近寄ってきます。「触らないように、見なさい」と言ってガードしましたが、6歳児は至って静かにマイペースで例会の時間を過ごしていました。



 今回のT氏の講演では、講演内容のレジュメとコレクションの他、資料として書籍や写真を使って説明いただきました。そうした骨董品・図録・写真などを中心に、今回の講演会の概要を今回のブログでお伝えします。

 ところで、骨董品とは何か? それは、希少価値のある古美術や古道具のことです。どの程度の古さが必要なのかは曖昧ですが、およそ製造から百年を経た物品を骨董と呼ぶのが一般的です。ですから、まず骨董品は、古いことが重要で、その結果としてその品物に希少価値が伴うことが大切です。ちょっと気取った言い方で、アンティークと呼ばれる品物も、骨董品の範疇に入るでしょう。

 私のコレクションには、江戸時代の書物・明治時代の書画などもありますが、骨董品と呼ばれるものはほとんどありません。なぜなら、骨董を収集する指針を示してくれる師匠がいなかったこと、おまけに骨董品を見る目、真贋を判定する目に、確信が持てなかったからです。

 ある百貨店で、漢の緑釉陶器の購入を勧められました。食指が動くほどどっしりとした双耳壷でしたが、結局自信が持てずに見送りました。
漢の緑釉は、1970年代までは壺が数百万円もする高価な焼き物でした。特に器物の表面が銀化し、それが景色となった壷は、日本人に好まれました。

 ところが、1980年代後半になると、中国においてインフラ整備が大々的に行われると、各地で埋もれていた漢代や唐代の墳墓が発見されました。その結果、漢の緑釉や唐三彩などが発掘され、日本に大量に持ち込まれました。その結果、それまで高価だったそれらの陶磁器の価格が大暴落しました。

 その頃に、私にも漢の緑釉壷の話があったわけです。2000年も前に作られ、陶磁器の歴史に燦然と輝く緑釉の高品質の陶器が、かなり安く手に入る時期だったわけです。



 上の陶器は、アンダーソン彩陶です。中国の新石器時代に製作された彩文土器の名で、スェーデンの地質学者・考古学者のアンダーソンにより発掘されたことで、この名があります。アンダーソン彩陶は、前5000~前3000年ごろの遺跡から多数出土されています。ですので、極めて古い陶器ですが、比較的安い価格で入手可能だそうです。

 中国の
黄河文明は、このアンダーソン彩陶が作られた新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から、竜山(ロンシャン)文化を経て、殷・周の青銅器文化に発展していきました。 余談になりますが、アンダーソンは、現在は所在不明の北京原人の発掘にも関与した人物として記憶されています。

 
アンダーソン彩陶は、成形し乾燥させてから顔料で文様を描いた後、焼成します。顔料には酸化鉄が使われ、焼成すると黒色または褐色に変色します。陶器の表面に描かれた文様は、幾何学文・人面・魚など動物文などです。彩文土器は、西アジア、中国、中南米などの原始農耕文明に多く見られます。



 上の破片には、甲骨文(3000年前)が描かれています。
甲骨文字とは、中国・殷(商)の時代に行われた漢字書体の一つで、知られる限り最古の漢字と言われています。亀甲獣骨文字、甲骨文とも言います。亀の甲羅(腹側の甲羅)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれました。



 上の小物は、翡翠でできた亀甲文ですが、漢時代に作られたものです。甲骨文字から比較すれば時代は新しくなりますが、亀に模した翡翠に、おめでたい文字が刻まれているのでしょう。



 上の直方体の陶器は、唐時代の枕だそうで、表面は唐三彩で彩られています。唐三彩は、唐代の陶器上に施した釉薬の色を指しますが、後に唐代の彩陶を総称する語として使われるようになりました。唐三彩の焼成は、二回行われます。一回目は、白色の粘土で作った器物を、窯の中で1000~1100度で素焼きします。次に、器物を取り出し、各種の釉薬をかけ、再び窯の中で850~950度で焼き陶器として完成させます。

 唐三彩は芸術品としての水準は極めて高いものの、日用品として用いられることは少なく、主に埋葬品として使用されたのだそうです。知り合いの家に、唐三彩の馬や駱駝の置物が幾つもありました。クリーム色・緑・白の三色の組み合わせや、緑・赤褐色・藍の三色の組み合わせなど、とても美しい焼き物です。それらの唐三彩の置物は、本物だったのでしょうか。

 加藤卓男は、ラスター彩が有名ですが、実は「三彩」の技法で重要無形文化財(人間国宝)になった陶芸家です。下の花器とぐい呑は、私が所有している加藤卓男の三彩花器とラスターぐい呑みです。









 上の香炉は、宋時代の龍泉窯の青磁です。南宋時代、青磁の主要な窯場が「龍泉窯」ですが、
龍泉は、カオリン質の灰白色の土に恵まれていたことが理由のようです。鎌倉時代には、龍泉窯で作られた「砧青磁」が、数多く日本に輸入されました。

 北宋時代の後半の汝官窯の青磁は、素地は陶胎で、柔らかい白色の陶器の上に青磁の青い釉をかけています。全体に釉をかけるために焼くときに針の上に置いて浮き上がらせたので、器の底には針の目の跡が残り、陶胎のために貫入も入っています。

 龍泉窯では、素地に灰みを帯びた白色の磁器質のものを選んだために、硬質な印象の器となりました。また釉は石灰鹸釉で、これは高温でも釉が流れ落ちない特性があり、そのために3~4回の施釉と焼成を繰り返したものが多いのだそうです。



 上の椀は、宗赤絵(磁州窯)の椀です。宋赤絵とは、宋代(金代)に作られた上絵付けの陶器のことです。化粧掛けした素地に透明な釉をかけ、その上から赤・緑・黄などの顔料で花鳥などを描いたもので、赤絵の先駆けとも言える焼き物です。この宋赤絵の椀は、赤絵で花と魚が描かれ、またわずかに薄緑に彩色た部分があり、口縁に金泥が施されています。下の図録に掲載された宋赤絵に、形式が似ている作品です。

 以前、私は赤絵の焼き物が好きではありませんでした。けれども、赤絵の器を実際に使ってみると、食卓が華やいだ雰囲気になることに気づきました。赤絵の食器ばかりですと興醒めしますが、上手に配置すると、楽しく使うことができる焼き物と言えるでしょう。



 中国陶磁器の中で、忘れてはいけないものとして、青花を上げることができるでしょう。日本では染付と呼びますが、白磁の釉下にコバルトで絵付けを施した磁器のことです。元代に始められた手法で、きめが細かく純白に近い磁器質の胎土を用い、釉下に施された青色の文様は、退色・剥落することがありません。明の時代に景徳鎮に官窯が設けられ、洗練された完成度の高い作品を生み出しました。

 ところで、最近100年~150年の発掘の成果は、歴史を変えるほど充実したものでした。埋もれていた歴史を掘り起こすことで、伝世品に偏っていた意識の変革を迫られたと、T氏は述べています。また、骨董の価値という点では、発掘や海揚り(うみあがり)によって大量に品物が出回ると、需要・供給のバランスが崩れ、値が下がります。学術上は、貴重な資料が増えますが、骨董の価値は一時的に下がることになります。




 下の筒状の物は、象牙の筆筒(筆立て)です。明時代の作品で、象牙の表面に精緻な彫り物が施されています。このような文房具も骨董の範疇に入る作品です。美術品として扱われずに、実際に日常的に使われてきた品々の中には、芸術的に優れた物品も少なくありません。審美眼を研ぎ澄ませ、そうした日用品の中に芸術性を見出して、自分なりのコレクションを形成することも、骨董収集の一つの方法と言えます。






 上の画像は、東京国立博物館で開催中の「台北 國立故宮博物院―神品至宝―」で展示された、台北の國立故宮博物院が誇る神品「翠玉白菜(すいぎょくはくさい)」です。大きさと完成度は異なりますが、その形式が同様な下の画像の作品は、清末期に作られた翡翠の印鑑です。

 骨董の初心者は、骨董市や蚤の市で、自分が好む物品で、値の張らない品物をまず購入し、手元に置いて楽しんだらよいでしょう。無論、その程度で初めから掘り出し物を見出すことは困難です。けれども、古い物の味わいや良さが分かってきて、かつ自分の好みというものが理解できるようになるはずです。そうした経験を経て、信頼の置ける骨董品を扱う店で、良い品を思い切って買うことができるようになれば、あなたは骨董の虜になる道を歩み始めたと言えるでしょう。くれぐれもご注意を!

 骨董に魅せられ、中国骨董を中心に、好みの作品を収集してきたT氏の話を聞きながら、美楽舎にいる、またはいた人たちの、様々なコレクションについて考えました。収集品の分野はひと様々で、手に入れた作品に対する思い入れは、優劣つけ難い人たちです。購入作品に囲まれた至福の生活がある一方、家人に知られないよう真夜中にこっそりと作品を自室に持ち込む涙ぐましい労力や、購入費用の工面の悩みなども、コレクターの属性と言えるでしょう。

 ですから、美術収集家のコレクションには、それを集めた人の主張と思い入れが込められているだけではなく、悲喜こもごものコレクター人生が投影されているのです。




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マッキーの現代陶芸入門講座(35)…浦口雅行の青磁

2013年04月16日 | 陶芸



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青磁は奥の深い焼き物です。今日は青磁一筋に作陶を続けている浦口雅行さんを紹介します。青磁という言葉に磁という文字が入っているからと言って、必ずしも磁器ではありません。石物の青磁もありますが、土物の青磁も存在します。もっと専門的な用語を使うと、釉薬の下の器を形成する土を胎土といいますが、それが石物の土であれば磁胎青磁となり、土物の土であれば陶胎青磁となります。すなわち青磁には大きく2種類の焼き物があることを知っておく必要があります。

日本における代表的な青磁の作家は、青磁で人間国宝となった三浦小平二中島宏、それに陶磁協会賞を受賞している川瀬忍・鈴木三成、また鉄釉陶器で人間国宝となった清水卯一の青磁にも、素晴らしい出来栄えの作品があります。

陶胎青磁の多くは、胎土とガラス質の釉薬との収縮率の違いから、貫入が入ります。、亀甲貫入とか氷裂貫入と呼ばれるものもあり、青磁の焼物の景色ともなっています。


(青磁茶碗 93年新宿京王)

青磁の起源は、青銅器をかたどった宗教的な儀式に用いられた器でした。また、窯の中で降灰したものが溶けてガラス質に変化し 釉薬代わりとなる自然釉(灰釉)が掛けられていました。ですから初期は、灰黄色や灰緑色をしていて、それらを原始青磁と呼んでいます。

唐時代の「越州窯」(えっしゅうよう)で青磁が作られましたが、その色はオリーブ系の渋い色をしていました。
その後、北宋時代に「汝窯」(汝官窯)でつくられた青磁は、薬の配合、釉薬の厚み、焼成温度など、工夫がかさねられた結果淡い青色の青磁が完成しました。青磁の目指す色は、「雨過天青」の青であり、それは 「雨過ぎ、天青く、雲破るるところ、このような器をつくり、もち来たれ!」 と命じた、皇帝の望みだったのです。


(青磁花入 95年日本橋三越)

青磁のやきものにかけられる釉薬は、 木灰に長石の粉を混ぜてつくられます。
その青磁の釉薬にわずかに含まれる鉄分が、通常の火力で焼かれると、鉄が酸素と化合して、赤茶色に発色します。これを酸化炎焼成と呼びます。一方、青磁の釉薬は、酸素不足の窯の中で焼かれると、酸化鉄の中の酸素が奪われ還元され、 赤茶色ではなく青色に発色します。これを還元炎焼成と呼びます。この二つの焼成方法は、焼物について考える時、重要な要素となります。

このように進化してきた青磁ですが、歴史上もっとも美しい青磁として世に知られているのは、 中国・南宋時代のものといわれています。宮中のすぐそばに築かれた 「南宋官窯」(なんそうかんよう)、淅江省龍泉県にある「龍泉窯」(りゅうせんよう)などで作られた青磁が特に有名です。主要な青磁を排出した「龍泉窯」は、カオリン質の灰白色の土に恵まれ、器胎が白い土でつくられていることと、釉薬に貫入が入っていないことで、 玉のような美しく澄んだ 碧翠に仕上がっています。龍泉窯でつくられた青磁に砧青磁(きぬたせいじ)と呼ばれるものがあります。龍泉窯でつくられた青磁のうち、粉青色の上手のものを日本で「砧手」と呼んだことに由来します。 砧青磁の素地は灰白色で、釉薬は厚く掛けられていて、釉肌は粉青色と呼ばれる鮮やかな青緑色をしています。 青磁の中でも最も優れたものとして、日本でも古くから珍重されてきました。


(青磁香炉 95年日本橋三越)

90年台の中頃の浦口雅行の青磁は、上の画像の作品のように、彼の師匠である三浦小平二に似た色合いに仕上がっていました。しかし最近の作品は、伝統的な粉青色の青磁に加え、独自に開発した暗緑色の海松(みる)瓷黒燿砕という独特な青磁を中心に、青瓷黒燿砕、青瓷黒晶、窯変月白瓷など新技法を次々と開拓しています。また、青磁の原点である中国の青銅器の形態を模したようなもう一方の彼の作品は、個性的な造形力を感じます。今後も注目して行きたい作家です。


(青磁組皿 94年新宿京王)

《浦口雅行略歴》

1964年 東京に生まれる
1987年 東京芸術大学美術学部陶芸講座卒業
1989年 同大学院三浦小平二研究室修了
1990年 国際陶芸展優良入選
1991年 栃木県芳賀町に築窯し、独立する
1993年 朝日陶芸展新人陶芸賞受賞
1998年 国際交流基金買上げ
2001年 茨城県八郷町(現、石岡市)に工房を移築する
2002年 茨城県芸術祭特賞受賞
2004年 ニューオリンズ美術館(アメリカ)買上げ
2006年 NHK BS2 器夢工房に出演

     東京美術倶楽部2006東美アートフェア春 
     金澤美術ブースにて「青瓷 浦口雅行展」開催

     茨城県陶芸美術館「現代陶芸の粋」展出品
2007年 茨城新聞社主催「青瓷 浦口雅行展2007」開催
2010年 茨城県近代美術館「第6回現代茨城作家美術展」出品

     茨城県陶芸美術館 開館10周年記念展「The Kasama ルーツと展開」出品

 

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マッキーの現代陶芸入門講座(34)…吉川水城の黒釉・色絵付けの陶芸

2012年06月17日 | 陶芸



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80年代から90年代にかけて、私は吉川水城(よしかわみずき)という作家の達者な陶芸技術を高く評価していました。

今日は、その吉川水城の陶芸について紹介しましょう。


吉川水城は、東京芸大において藤本能道・浅野陽・田村耕一に師事していますが、どちらかと言うと、土の匂いのする陶器を手がける浅野・田村両教授の影響を強く受けているように感じます。

茶系の胎土に、白化粧土を内側は回し掛けし、外側は浸け込んで白いキャンバスとし、そこに色絵付した作品が多いようです。

白化粧には、刷毛の動的な面白さを表現した刷毛目や、萩焼のほたるのように斑点状の模様ができたもの、また陶胎染付のように釉薬に貫入が入ったものなど、さまざまな面白い表現技法があります。

吉川水城の場合は、その上に色絵付を施しますから、基本的には白いキャンバスに仕上げ、そこに白化粧の面白さは表現されません。



私は、彼の色絵付した湯のみや酒器を中心に、以下のような作品を所有しています。

色絵盃 酒器 1987
ジョッキ 酒器 1987
ジョッキ2個 酒器 1989
湯呑 湯呑 1986
湯呑2個 湯呑 1987
湯呑3個 湯呑 1990
黒釉ぶどう文壺 花器 1986
陶箱 食器 1990

 

吉川水城の陶器は、器の形状、白化粧の微妙な色合い、その上に施される色絵付の文様の魅力が、器全体の中にバランスよく調和しているかどうかが鑑賞のポイントになります。





ビアジョッキ(1988年)
絵柄は麦の穂であろうか…初夏、冷やしたこのジョッキで飲むビールは美味い!


もう一つ、彼が追求している焼き物に、黒釉の作品があります。

私が持っている花器は、日本橋三越本店での彼の個展の折に、作家自身が気に入っている作品という事もあって、購入したものです。

漆黒の黒釉に溶け込むようにして、上絵は目立たないのですが、味わい深くぶどうの文様が描かれた作品です。

黒く発色するという事は、柿釉と同様に鉄分を多く含む釉薬を掛けて焼成した作品です。

多くの人が黒い陶器で思い出すものには、 人間国宝となった荒川豊蔵や加藤孝造の瀬戸黒、織部黒、窓絵がついていますが黒織部、そして茶の湯に用いる黒楽の茶碗などが挙げられます。

黒い焼き物を魅力ある陶器に仕上げるのは、鋭い感性と卓越した技量を必要とするように思います。

また瀬戸黒などは、陶器を見慣れない人や、陶芸鑑賞の初心者には、黒いコールタールを単に焼き物にぶっかけたように感じる可能性もあり、黒い陶器に魅力を感じるまでそれ相当の経験が必要です。

どちらかというと黒い陶器は、陶磁器通が好む奥の深い焼き物といえるでしょう。
 

現在の吉川水城の作陶は、どのような状況なのでしょうか。

吉川水城は、体が弱いとかつて聞いたことがありますが、器用で技量の確かな作家と私は考えています。

今後も個性的な作陶に期待し、注目していきたいと思います。

 
吉川水城 略歴

 1941年 東京都に生まれ、神奈川県小田原市にて育つ
 1960年 東京藝術大学に入学
        藤本能道・浅野陽・田村耕一各先生に師事
 1966年 東京芸術大学大学院陶芸専攻科終了
        田村耕一先生の紹介により栃木県窯業指導
        所に技師として入所 
        第6回伝統工藝新作展にて奨励賞受賞
 1967年 栃木県展にて佳作賞受賞
 1969年 栃木県益子町北郷谷に築窯 
 1976年 日本工芸会正会員となる
 1984年 伝統工芸新作展監査委員(同89年・04年)
 2004年 第5回益子陶芸展審査員(同06年)
 現  在  日本橋三越・大阪高島屋・東武百貨店・
        寛土里などにて個展開催 

 

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マッキーの現代陶芸入門講座(33)…伊藤東彦の布目技法の陶芸

2011年10月09日 | 陶芸



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陶器表面が布目になっていて、マティエールが独特な焼物を作り続けている作家、伊藤東彦を今日は取り上げます。

伊藤東彦と言えば、今では布目技法の陶芸家ですが、かつて彼が若かった頃、八木一夫を中心に新しい陶芸表現を目指した走泥社の影響を受けた焼物を製作していました。

今でもトルソ花器や陶壁画などに、その名残を見ることができます。


ぐい呑 1990年 日本橋三越)

布目とは、型作りの焼物を作るときに、型と粘土の間に敷いた布の跡が陶器表面に残り、その肌合いが陶器の趣になることから行われてきた技法です。

この技法を現代陶芸に活用し、新たな解釈と方向性を見出した作家が、伊藤東彦です。

しかし、単に布目技法だけ研鑽しただけでは、無論今の伊藤東彦は存在しません。

ただ、上の論理と相反するかもしれませんが、一つの技法・方向性をしっかりと見定めて、日々研鑽を積まなければ、その道で人より一歩抜きん出ることなど、出来はしません。

よく『器用貧乏』という言葉を使いますが、それは器用であるがために、一つの事に執着できずに大成しないことを言います。

人生は、「何でいつまでも同じことをやっているの?」と問われるくらいが、良いのかも知れません。


湯呑 1988年 日本橋三越)

彼の作品群を鳥瞰すると、独特の肌触りの布目化粧、その上に描かれる絵付、そして器の形状の三つの要素の個々の進化組み合わせの変遷が見て取れます。

初期の布目作品は、どちらかというと落ち着いた色調の鉄絵が、絵付として用いられています。

それが次第に陶器の形状と絵の題材のマッチングが、鑑賞者に趣を感じさせる作品となりました。

やがて布目の上には、艶やかで琳派調の色絵付が施され、現在に至っています。


徳利 1990年 日本橋三越)

布目化粧の技法を用いながらも主張せず、柔らかく繊細に控えめに使用する作家は、現代陶器には稀ではありません。

しかし、布目を強調して全面に粗く使用している作家は、伊藤東彦を除き極めて少ないと思います。

と言うより、このように布目を陶器の景色として、また焼物の肌合いにまで昇華して使っているのは、この作家だけでしょう。


陶箱 1992年 日本橋三越)

 

この陶箱では、琳派調の絵付と、伝統的な技法がミックスされ、味わい深い作品となっています。

笠間・益子界隈で作陶を続けている東京芸大出身の陶芸家の中では、陶芸歴でも年齢的にも兄貴分であり、また日本工芸会の中心的な陶芸家でもある伊藤東彦ですが、確かな技量をより研ぎ澄まし、老いることなく進化し続けて、陶芸ファンを楽しませてくれることを願っています。

  


伊藤東彦 略歴

1939     福岡県大牟田市に生まれる。
1964 25歳 東京芸術大学美術学部工芸科卒業。
1966 27歳 東京芸術大学大学院陶芸専攻科修了。
         在学中、加藤土師萌、藤本能道に師事。
1968 29歳 松井康成に1年間師事。
1970 31歳 笠間市に築窯。
1973 34歳 第13回伝統工芸新作展に出品。
         第20回日本伝統工芸展出品。
1974 35歳 第21回日本伝統工芸展出品、東京都教育委員会賞受賞。
         日本工芸会正会員となる。
1983 44歳 東京国立近代美術館にて開催「伝統工芸30年の歩み展」
         出品。
         スミソニアン国立自然史博物館開催「今日の日本陶芸」出品。
1984 45歳 第31回日本伝統工芸展出品、朝日新聞社賞受賞。
1999 60歳 紫綬褒章授章。
2001 62歳 茨城陶芸美術館にて「伊藤東彦展」開催。
         

 

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マッキーの現代陶芸入門講座(32)…前田正博の色絵金銀彩の陶芸

2011年09月18日 | 陶芸

 

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今日の焼物は、独特の絵金銀彩磁器芸ファンを魅了する田正博り上げます。

白い磁器の表面をキャンバスに見立て、そこに自由奔放に描いた色絵金銀彩の絵付は、下の画像のように現代美術絵画のようです。

鉄釉陶器で人間国宝になった黒宗麿のチョーク画の陶器想させます。

しかし、陶器の表面を扇面に見立て、そこにチョイ書き風の趣の絵を描いた石黒宗麿に対して、前田正博の絵は相当手の込んだ作品に仕上げられています。

フリーハンドで描いた面白さがあり、幾何学模様も手書きで描き、金銀彩も加えて、現代的な感性を感じる作品となっています。



かつての陶磁器にはなかったティエールは魅力です。

白い磁器の表面に洋絵具で絵付し、それを焼成する行程を繰り返し、独特の肌合いを持った前田正博の焼物が完成します。

しかし実際器として使った場合、磁器の表面に塗られた顔料の安定性は保証できるのか、ちょっと不安にもなります。 


色絵金銀彩酒器 ぐい呑み 1994年
 


色絵金銀彩酒器 ぐい呑み 1994年

上の二つのぐい飲みは、日本橋三越で購入したものですが、色合いから夫婦酒盃として使うことができるでしょう。

磁器の表面に塗られた顔料の安定性について、私には苦々しい経験があります。

芸術院会員でもあった河井誓徳の磁器でできた食籠を三越本店で購入し、それを実際に使用しました。

使った後、その器を洗っているうちに、金彩が器から浮き上がってきたというとんでもない経験が、私にはあります

金銀彩の顔料を、マジックかフェルトペンか何かで、焼成した後の磁器の器の上に塗ったのかと考えてしまうほどで、けっこうな価格のその作品は、棚の奥にしまったまま今はどのような状態になっているか、見る気にもなりません。

話はだいぶずれてしまいましたが、金銀彩は、最後に焼き付けるのだから、良い方に解釈すれば、焼成し忘れたのかもしれません。


色絵金銀彩香炉 1993年

前田正博の師である本能道釉描加彩いう技法を用いた色絵磁器の第一人者でした。

私は藤本能道の陶箱・陶器の茶碗・版画・書画額などかなりの数点を所有していました。

箱や偏壺能道にとって具象画色絵磁器の絵付けにはもってこいの対象でした。

そうした師の作風とは全く異なり、前田正博の作品は、色絵磁器といっても、いわば抽象画またはさまざまな文様の絵付けであり、の形状は全く自由り、その器の全面にこれでもかと彼の世界が絵が描かれます。

そういった意味で、器の形状とその表面に描かれる色絵の世界のコラボレーションを、作家も鑑賞者も楽しむことができます。

象嵌による多彩な文様と器の形状で陶芸ファンを魅了した加守田章二・和太守卑良と、そういった点で前田正博は一脈通じるものがあります。


色絵金銀彩筒 1991年

 第五十六回の日本伝統工芸展において、日本工芸会総裁賞を受賞した「色絵銀彩角鉢は、落ち着いた伝統的な形状と色彩が特色です。

その作風は、今後の彼の方向性を示すものなのか、又は日本工芸会での評価確立のためなのかは、私には分かりません。

しかしこの受賞後、その評価も当然に加味されて、今年2011年前田正博は日本陶磁協会賞を受賞し、現代陶芸に確固たる足跡を残すこととなりました。

伝統回帰の作風は、彼の作品のもう一つの側面を表しているとともに、日本工芸会の有力会員として、次なる目標は「色絵磁器の人間国宝」ということになるのでしょうか。


色絵金銀彩輪花鉢 1992年
 

色絵磁器の世界に、新風を巻き起こした前田正博は、個性的で現代的な感覚の作品群を世に送り出し、最近は陶芸家としては珍しく東京・六本木に工房を構えて活動しています。

確かに現代陶芸は、気釜やガス釜を使用すれば、登り窯と違って都心でも作陶できるのも事実です。

東京六本木で作られる前田正博の現代陶芸は、酒場のライティングに染まることなく、後世に残る陶芸作品を生み出し続けることができるか、今後も期待していきたいと思います。

 
 

前田正博 略歴

1948年 京都府久美浜町に生まれる
1973年 日本陶芸展入選
1975年 東京藝術大学大学院工芸科陶芸専攻終了
日本伝統工芸展入選
1983年 今日の日本陶芸展(スミソニアン博物館/ワシントン)
ヴィクトリア&アルバート美術館/ロンドン)
1988年 日本伝統工芸展日本工芸会奨励賞受賞
1998年 伝統工芸新作展奨励賞受賞
2005年 第一回菊池ビエンナーレ展優秀賞受賞
東京・六本木に工房を移転、六本木磁器クラブ開催
第56回日本伝統工芸展 日本工芸会総裁賞受賞
2010年 第17回MOA岡田茂吉賞展 MOA美術館賞受賞
2011年 日本陶磁協会賞受賞
日本工芸会正会員

 

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マッキーの現代陶芸入門講座(31)…伊志良光の染付・釉裏紅の焼き物

2011年09月07日 | 陶芸



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白磁に染付の技法を使い、花器・酒器・食器などを制作して、陶芸ファンにも人気のある伊志良光(いしら あきら)さんを、今日は取り上げます。

私自身、伊志良光さんの作品は、以下のようにかなりの数を所有しています。

食器は焼き物では雑器に分類されますが、日常の生活の中で良い焼き物を使うことは、日常生活を豊かにする一つの方法です。

釉裏紅徳利2個 1986
釉裏紅酒盃6個  1986
湯呑3個 1990
湯呑4個 1992

染付葡萄文組皿 食器 1986
染付山水文組皿 食器 1986
染付葡萄四十雀文皿 皿 1986

染付葡萄四十雀文花瓶 花器 1986
釉裏紅葡萄四十雀文花瓶 花器 1986
釉裏紅染付小楢四十雀文花瓶 花器 1986
染付葡萄四十雀文角瓶 花器 1986
筆立て 文具 1989
陶板 飾り皿1992



(釉裏紅の酒盃・・・この形を馬上盃と呼びます)

 湯呑みや酒器などは、最も手ごろに焼き物を楽しむことができるので、自分のお気に入りの作家を見つけて、その作家の作品を実際に使ってみることをお薦めします。

白磁に染付を施した磁器他に、釉裏紅の絵付もこの作家の魅力の一つです。

家にも、染付の食器があるよ、とうい方も多いと思いますが、多くは印判と言って、職人による手書きでない場合が多いと思います。

しかし、年代物の印判による染付になると、絵柄により人気が有るのですが、職人による筆遣いが白磁の器に微妙な変化を作る手書きの染付にはかなわないと思います。 

 

【釉裏紅】
ゆうりこうと読みますが、この漢字の通り釉薬の下に紅色に発色した文様が描かれている技法です。
かつて楠部弥一
の回顧展で、彼の釉裏紅の作品を見たことがありましたが、とても綺麗に発色していて、魅了させられたことを覚えています。
細かく言うと釉裏紅とは、釉下に銅化合物の顔料を使って元炎焼成すると、赤く発色する銅の性質によって、透明釉の下に紅色の文様を浮かび上がらせる技法です。

 

 【染付】
白色の素地に呉須やコバルト顔料で下絵付
をして、その上に釉薬を掛けて焼成したものを染付といいます。
呉須が還元焼成で青色を呈し、白地に青色の文様となります。
中国では青花・釉裏青とも言われている焼き物です。
呉須とは、酸化コバルトを主成分とし鉄・マンガン・ニッケルなどを含み、還元炎により藍青色ないし紫青色に発色する鉱物質の顔料のことです。


一般的に染付は、白磁の上に描かれますが、陶器の上に描く染付をご存知でしょうか。

陶器の上に白土を塗り、その白い素地の上に絵付けをした染付があります。

陶胎染付(とうたいそめつけ)と言い、日本においても18世紀前半、波佐見町百貫窯をはじめ広く陶胎染付の日常食器碗が作られたと言われています。

胎土と釉薬の収縮率の差が大きいのか、釉に貫入が入り、独特の風合いを見せます。

話は少し変わりますが、青磁の焼き物にも、磁器ではなく陶器の青磁があります。

伊志良光の食器は、実際に使っていますが、下の大きな染付の大皿にオードブルなどを盛り付け食卓に出すと、とても華やいで見えます。

本来、陶磁器は、飾り棚などに陳列しておくだけではなく、実際に使って楽しむことにより、本当の作品の味わいや鑑賞ができるのです。

しかし、破損の危険性は常に伴いますが。

だいぶ以前になりますが、伊志良さんの窯場を、代表をしていた美学社(現美楽舎)の仲間と訪問し、お話しを伺ったことがありました。

大変な人気作家であり東京芸大の学長も務め人間国宝でもあった故藤本能道の、釉描加彩による色絵磁器の魅力とは異なる、弟子の伊志良さんの作品に、私はその後の可能性に期待を寄せていました。

奥の深い染付・釉裏紅の技法を進化させ、後世に残る伊志良作品を生み出していくことを、今後も期待したいと思います。


伊志良 光 (いしら あきら)略歴

 南足柄市在住。
昭和16年(1941)、神奈川県鎌倉に生まれる。
昭和40年(1965)、東京芸術大学工芸科陶芸講座卒。
師事:藤本能道、浅野陽、田村耕一
愛媛県砥部町梅野精陶所入社。
昭和45年(1970)、東京芸術大学陶芸講座副手
伝統工芸展入選。
昭和47年(1972)、東京芸術大学陶芸講座退職
昭和49年(1974)、日本工芸会正会員。


 

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マッキーの現代陶芸入門講座(30)…萩焼・波多野善蔵と兼田昌尚のぐい呑と湯呑

2010年10月20日 | 陶芸
今日は、私が評価している2人の萩焼作家のぐい呑と湯呑についてお話ししましょう。

二十数年ほど前、湯呑みやぐい呑みを集中的にコレクションしたことがありました。

その中で、日常使いやすいと感じる湯呑みを作っている作家として、波多野善蔵(はたのぜんぞう)と兼田昌尚(かねだまさなお)の二名の萩焼作家を、今日は紹介します。


萩焼は、陶器の中でもざっくりとした陶土を使っていて、多くの作品は手に持った感触が比較的軽く、熱伝導率が小さい印象を受けます。

そうした利点を生かして、抹茶茶碗や湯呑み、ぐい飲みなどの焼き物として、広く使われています。

萩焼の胎土は、焼成されると微細な空隙ができるよで、浸透性のある陶器が多いのも事実です。

唐津焼の器にもかなり浸透性のある作品があり、米のとぎ汁を使って水漏れを防止したことがあります。


そうした理由で、萩焼は熱伝導率が小さく、また使いこなしていると手に馴染み、次第に色合いも変化します。

それが、「萩の七化け」「萩の七変化」と呼ばれる所以ともなっています。

従って、かなり高価な人間国宝級の萩焼の作品は、それを使うことを躊躇することになります。

こうした焼き物を、大事に棚に陳列して鑑賞用の陶器とするか、破損や劣化の危険性を認識しつつも、実際に使って楽しむ焼き物とするか、その判断は所有者の考え次第です。


萩焼の作家の作品については、以下のブログでも取り上げましたので、興味ある方はご覧下さい。

マッキーの現代陶芸入門講座(29)…萩焼・坂田泥華さん死去

マッキーの現代陶芸入門講座(24)…坂倉新兵衛と田原陶兵衛と坂高麗左衛門の萩焼

マッキーの現代陶芸入門講座(18)…坂田泥華と吉賀大眉のぐい呑みと湯飲み

マッキーの現代陶芸入門講座(5)…三輪休雪のぐい呑み



波多野善蔵 萩湯呑(1986)


波多野善蔵の作品は、記録によればぐい呑み2点・湯呑み5点、兼田昌尚の作品は、ぐい呑み2点、湯呑み2点あるはずです。

ただ、今回箱を見つけた点数は、波多野善蔵4点・兼田昌尚3点でしたが、破損したのかどこかに隠れているのか不明です。



波多野善蔵 萩湯呑(1987)


波多野善造の湯呑みは、とても使い易い。

日頃使う湯呑みは、萩焼や志野焼が趣があります。

磁器の湯呑みは、お客様用として清潔に見えて良いのですが、自宅用・マイカップの湯呑みは、是非陶器の器を使ってみることをお薦めします。

萩焼は、一見壊れやすい印象を受けますが、乱暴な使い方さえしなければ、永~く使えます。



波多野善蔵 萩ぐい呑(1987)


一概に萩焼と言っても、釉薬の種類やかけ方によって、だいぶ印象が異なります。

萩焼の基本的な釉薬である透明な土灰釉ではなく、特に地肌が見えなくなるほど、藁を焼いた灰を混ぜた藁灰釉と呼ばれる白い釉薬をかけた萩焼があります。

この藁灰釉と呼ばれる白い釉薬を施した萩焼は、比較的新しい萩焼と私は考えていました。

しかし「李勺光たちが日本に来た頃には、朝鮮に藁灰を使った釉薬はなかったが、萩焼には当時から藁灰を使った形跡がある」と、林屋晴三が述べているという文章を読み、かなり古くから萩焼に白い釉薬が使われていたことを知りまいた。

余談になりますが、日本橋三越本店美術部のかつての私の担当が、林屋さんと言い、林屋晴三さんの甥御さんでした。



波多野善蔵湯呑み(1989年)


私の趣味としては、藁を混ぜた土壁でも見るかのような素朴な味わいがある萩焼が好きです。

低火度の焼成のせいでしょうか、萩焼は土物の焼き物の風趣がよく表現できる陶器であると思います。



波多野善蔵 萩茶碗「朝がすみ」(1986)


20年以上前、私が三十代の頃、上の写真の波多野善蔵の萩茶碗と、山本陶秀の備前茶碗の銘を、東大寺元管長の清水公照さんにお願いしして付けてもらったことがありました。

しばらく茶碗を鑑賞した後、墨で銘を箱書きされました。

「若いのに、茶碗が趣味とは珍しいね。」とおっしゃって、気さくにお話ししていただいたことを、この茶碗を見る度に想い出します。



清水 公照(しみず こうしょう)箱書き:銘「春がすみ」


ちなみに、すでに手元にはない山本陶秀の備前茶碗の銘は、『長沙』でした。

備前の侘び錆びた茶碗の色が、その頃シルクロードブームだったせいでしょうか、その色合いが長沙を連想するとおっしゃりながら、その銘をお書きになりました。



波多野善蔵 箱書き

山口県指定無形文化財である波多野善蔵氏は、実は唐津生まれで、唐津焼の中里無庵とその御子息と幼少より親交があったそうです。

萩焼と唐津焼の人的交流は、他の作家にもあり、地理的な側面の他に、何か特別なものがあるように感じます。

しかし、波多野善蔵においては、何故か唐津焼の影響はさほど私には感じられません。

しいてあげるなら、次に解説する私が持っている兼田昌尚の三十代の作品の方が、唐津焼の影響を感じます。




兼田昌尚 萩ぐい呑(1989)


この時期の兼田昌尚の作品は、手捻り風の趣のある作品を作っていました。

釉薬の掛け方は、朝鮮唐津風と言ってもよいでしょう。



兼田昌尚 萩ぐい呑(1989)


最近の兼田昌尚の作品は、その手捻りから発展して、粘土のかたまりをくりぬいて作る技法「刳貫技法」を用いた作品を作っています。

その作品を実際には手にとって鑑賞したことがないので、はっきりとした評価はできませんが、独自の道を歩んでいるようです。



兼田昌尚湯呑み(1986年)


この湯呑みは、一般的な萩焼の胎土よりも黒みがあり、そこに白泥を化粧掛けした粉引風の出来具合になっています。

兼田昌尚の最近作の中に、三輪家の影響を多分に受けたと思われるものが見受けられます。

雪のように白い釉薬 「休雪白」が分厚く大胆に施された焼き物は、本来の萩焼の良さを殺している面もあり、ほどほどにしておいたほうが無難だと、私は思います。

かつて、三輪龍作の初咲茶碗なども、私は持っていましたが、このたっぷり掛かった白い藁灰釉を上手く使いこなせるのは、三輪家の人以外なかなか難しいように思います。



兼田昌尚 箱書き



【波多野善蔵 陶歴】 

昭和十七年  佐賀県唐津市に生まれる
昭和四十七年 山口県美術展知事賞
昭和四十八年 日展入選(三回)
昭和四十九年 現代工芸展入選(三回)、九州・山口陶磁展第一位(二回)、山口県美術展文部大臣奨励賞
昭和五十二年 第二十四回日本伝統工芸展初入選
昭和五十四年 日本工芸展入選(以後連続入選)
昭和五十六年 第二十八回日本伝統工芸展、日本工芸会奨励賞受賞
昭和五十七年 山口県芸術文化振興奨励賞受賞
昭和六十一年 田部美術館「茶の湯造形」展優秀賞
平成二年   明日への茶道美術公募展入選
平成四年   「日本の陶芸〈今)100選展」出品。山口県選奨を受ける
平成九年   日本陶磁の秀作アジア巡回展
平成十三年  日本伝統工芸展入選(二十四回)
平成十四年  山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定
高島屋 三越 大丸 さいか屋等で個展
現在 日本工芸会正会員



【兼田昌尚 陶歴】

1953年 七代兼田三左衛門の長男として萩市に生れる
1977年 東京教育大学教育学部芸術学科彫塑専攻卒業
1979年 筑波大学大学院芸術研究科彫塑専攻終了 父三左衛門につき作陶を始める
1985年 日本工芸会正会員となる(’91同退会)
1996年 山口県芸術文化振興奨励賞
2004年 山口県文化功労賞2005年 八代 天寵山窯就任
2006年 八代天寵山窯就任記念「陶’06」日本橋三越 他
その他入選受賞多数ブルックリン美術館・サンフランシスコ美術館・横浜総合美術館など作品収蔵



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マッキーの現代陶芸入門講座(29)…萩焼・坂田泥華さん死去

2010年03月10日 | 陶芸
自分がかつて書いたブログの記事の閲覧数が、突然増えることがあります。

季節が巡ってくると、かならず増える記事もあります。

しかし、そうした季節に関わりなく急に閲覧数が増える場合もありますが、その記事に載せた人物に関する、最近の出来事が主な理由のことが多いようです。


以前現代陶芸入門に関するブログで、『坂田泥華』を取り上げましたが、最近その検索が急に増えました。

ネットで調べると、先月2月24日に14代『坂田泥華』が、94歳でお亡くなりになっていることが分かりました。

萩焼の重鎮・坂田泥華については、以下のブログで紹介しましたので参考にしてください。

マッキーの現代陶芸入門講座(18)…坂田泥華と吉賀大眉のぐい呑みと湯飲み


萩焼の人間国宝『三輪壽雪』(十一代三輪休雪)も100歳ですので、陶芸家は長生きするようです。

新しい挑戦を続ける三輪家に対して、どちらかというと職人気質の泥華さんでしたが、茶陶ではその使いやすさから大変人気がありました。


私は、表千家14代家元『而妙斎』(じみょうさい )が銘を入れた『千代の友』という坂田泥華の井戸茶碗を持っています。




坂田泥華の井戸茶碗(1986年・日本橋三越本店)



茶碗の高台


この坂田泥華の井戸茶碗は、かれこれ二十数年前に購入したものですが、とても使いやすい茶碗です。

萩焼は、使うほどに手に馴染み、色合いも優れたものになります。

しかし、そうだからこそ、高価な作品は、なかなか使えないと言ってもよいでしょう。

大事に飾っておくか、破損や色合いの変化を覚悟して日常使うか、その人の考え次第です。

萩の湯呑みは、大変使い勝手がよく、波多野善蔵や兼田昌尚などの作品を、私は日常使っています。

日常使っている作家物の湯呑みやぐい呑みの中には、破損してしまった物もあり、作家物を使う喜びと破損の危険は、常に隣り合わせです。



坂田泥華の箱書き



表千家14代家元『而妙斎』箱書き…銘『千代の友』



『三千家』について

三千家(さんせんけ)とは、茶道の流派のうち、表千家・裏千家・武者小路千家を総していう呼び名です。

表千家三代元伯宗旦の三男江岑宗左が家督を継承し不審菴表千家となり、宗旦の隠居所を四男仙叟宗室が継ぎ今日庵裏千家となり、さらに一度養子に出ていた次男一翁宗守が千家に戻り官休庵武者小路千家を称し、三千家が成立。

現代においては、裏千家と表千家は三笠宮家及び細川・近衞家を通してつながっており、日本における代表的な閨閥の一つと言ってよいと思います




井戸茶碗【いどちゃわん】について

高麗(こうらい)茶碗の一種で、李朝初期の朝鮮慶尚南道の産といわれ、室町末~桃山期に日本にもたらされました。

天正年間ころには、中国産の唐物茶碗をしのぎ、その評価は抹茶(まっちゃ)茶碗の最高位に置かれました。

大井戸(名物手)・青井戸・小井戸・井戸脇などの種類があり、井戸型という共通の形で、胴の荒いロクロ目、総釉、井戸釉と言われる枇杷(ビワ)色の釉薬などが特徴です。

井戸の名については、諸説有りますが、見込みが深いからつけられたという説もありますが、これは奈良興福寺の寺臣、井戸氏所持の茶碗が当時名高く、これから起こったものという説が一般的です。

井戸の名の起こりであるこの茶碗は、のちに筒井順慶に伝わって、深めで高台が高いので筒井の筒茶碗といわれ、井戸の中の名碗となっています。



ところで、14代坂田泥華は、当初13代を名乗っていましたが、文献を調べた結果14代と分かり、後に14代を名乗るようになりました。

したがって、13代と14代の坂田泥華は同一人物です。

また、ご子息の坂田慶造さんは、2004年5月に54歳の若さでお亡くなりになり、贈り名として15代坂田泥華を襲名させて、自身は以降坂田泥珠(でいじゅ)と改号しました。


萩焼の名家『坂 高麗左衛門』は、坂窯の当主を襲名する跡継ぎがいなく、また『坂田泥華』は現在どの様になっているのか、私は知りません。

陶芸の窯元は、伝統工芸的な色彩が強く、技術の伝承という側面があります。

単なる芸術家ではなく、そうした伝統の上に、個性を発揮する必要がありました。

少子化の時代、こうした伝統を継承する名家にとって、跡継ぎ問題は、頭の痛い重要事項となっていると推察されます。



萩焼については、坂田泥華の他に、以下のブログで紹介していますので、参考にしてください。

マッキーの現代陶芸入門講座(5)…三輪休雪のぐい呑み

マッキーの現代陶芸入門講座(24)…坂倉新兵衛と田原陶兵衛と坂高麗左衛門の萩焼



最後に地元の山口新聞の訃報記事を載せておきます。

『萩焼を代表する作家で、山口県指定無形文化財保持者の坂田泥珠(さかた・でいじゅ)さん=14代泥華(でいか)=が24日午前8時9分、肺炎のため長門市の病院で死去した。94歳だった。自宅は長門市深川湯本1423、葬儀は26日午後1時から同市深川湯本1074の大寧寺で。喪主は妻和喜(わき)さん。

1915年、萩焼深川窯13代坂田泥華の長男として生まれ、33年父に師事して家業に入った。36年に出征し、復員した46年から作陶に打ち込んだ。50年に14代泥華を襲名。茶器の井戸茶碗を追求、独自の作風は「泥華井戸」と呼ばれた。日本工芸会理事も務めた。

2004年、亡くなった長男慶造さんに15代泥華を追贈、天耳庵泥珠を名乗った。』




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マッキーの現代陶芸入門講座(28)…高内秀剛の陶芸

2009年10月13日 | 陶芸
高内秀剛は、益子で作陶している力量のある陶芸家です。

特に、この作家の織部の器は、その大胆さ、土着的な雰囲気が魅力となっています。

高内秀剛(本来はひでたけと読むが、「たかうちしゅうごう」と一般的には呼んでいる)のダイナミックな造形と焼成は、独特の現代感覚を感じます。



《高内秀剛のぐい呑み》


高内秀剛の織部のぐい呑み(1993年 日本橋三越)


 織部焼は、安土桃山時代の古田織部がその名の由来で、その斬新な意匠は、現代的な印象を与えます。

 今回のぐい呑みは、緑の釉薬(織部釉)を掛け分け、余白に鉄絵の紋様が施された典型的な織部焼です。

緑釉と余白のバランスがきれいな、熱燗がおいしく感じられる作品です。




志野ぐい呑み(1993年 日本橋三越)


この志野のぐい呑みは、発色からすると志野というよりも紅志野と言ってよく、おとなしい作品ではあるけれども、高内秀剛らしく釉薬を掛け分けて変化を持たせた作品です。

ぐい呑みの形状を若干変化させ、釉薬のかかった部分と土肌を見せた部分を対比させ変化を持たせたぐい呑みです。

この作家は、酒器に秀作が多いように思います。



高内秀剛箱書き



箱書き



《高内秀剛の織部鉢》


高内秀剛の織部の鉢
(1991年 日本橋高島屋)

大胆な造形と織部の文様が作家の力量を感じる作品。



箱書き


《織部焼き》

織部焼(おりべやき)は、桃山時代の天正年間(1573年-1592年)、千利休の弟子であった大名茶人、古田織部の指導で創始されました。

織部焼は、神谷宗湛が「ヒズミ候也。ヘウゲモノ也」と評したように、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く生み出しました。

どうした時代背景があったのか、現代美術もびっくりする斬新な意匠が特徴となっています。

桃山時代は、果てし無い陶芸の技術革新の一つの到達点を示したと、私は考えています。

釉薬の色になどにより青織部、赤織部、黒織部、志野織部などがあります。

桃山時代に、瀬戸黒影響を受けた織部黒、鼠志野から窓絵をあしらった黒織部や青織部、そして黄瀬戸からは総織部と、さまざまな技術を組み合わせて陶芸様式の革新が行われました。

織部焼の特徴は、大胆で斬新なデザインにもありますが、南蛮風の絵や幾何学的な文様、また当時流行した染織柄の『辻が花の意匠』などの影響も見られます。






実際に冷ややっこを盛りつけた織部の鉢。

…美味しさを引き立てている。



《高内秀剛の茶碗》


高内秀剛の黒織部茶碗
(1991年 日本橋高島屋)


造形的には大胆な茶碗です。

織部の茶碗は、多くがシンメトリーを嫌い、左右非対称の沓茶碗が特徴です。

高内秀剛の黒織部の茶碗は、筒型の形状で、高内秀剛独特の黒織部となっています。

高内秀剛の作品群を眺めると、現代織部の名手であることが分かるでしょう。

ただ高内秀剛の茶碗は、陶器としてはとても面白い作品ですが、お茶の世界に馴染むかは別の問題。

家では、あまり使ったことのない茶碗ですが、覚悟を決めて今度使ってみようと思います。



箱書き



箱書き


高内秀剛…いつの間にか人気作家も、かなりの年になってしまいました。

陶芸ファンに、根強い人気を誇る作家です。


これから晩年と言って良い時期にさしかかりますが
焼き物作りの完成期に、高内秀剛は
さてどの様な作品を私たちに見せてくれるのでしょうか。



私はこの高内秀剛に、大いに期待している一人です。



《高内秀剛陶歴》

1937年 東京に生まれる
1968年 栃木県益子町に築窯
1969年 初窯
1972年 日本伝統工芸展に入選
1973年 日本陶芸展に入選
1980年 ヴァロリス国際ヴィエンナーレに出品
      ヴァロリス文化芸術協会賞を受賞
1989年 栃木県文化奨励賞を受賞
1992年 NHK主催 日本の陶芸「今」百選展に出品
      (パリ三越エトワール)
1996年~NHKやきもの探訪展に出品
      (日本橋高島屋ほか)
2000年 [うつわをみる 暮らしに息づく工芸]展に出品
      (東京国立近代美術館工芸展)
2003年 [現代日本の陶芸 受容と受信]展に出品
      (戸板学園主催 東京都庭園美術館)


《個展》

日本橋三越店 銀座彩壷堂 ギャラリー上田
寛土里 大阪なんば高島屋 名古屋松坂屋 西武高輪会
宇都宮東武
日本工芸会正会員
駒沢女子大学空間造形学科教授 




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マッキーの現代陶芸入門講座(27)…田村耕一の鉄絵陶芸

2009年09月27日 | 陶芸
伝統的技法と作家の個性や独自性を焼き物で表現した田村耕一は、私の好きな作家の一人です。

かつて花器・茶碗・蓋物(陶箱)など彼の作品を、私は数多くコレクションしましたが、今は小品が残っているのみです。

彼の初期の作品は、鉄釉が中心で素朴で土着的な、どちらかというと地味な雰囲気の作品が多かったのですが、後年辰砂釉と青磁釉を使い、色彩的にも艶やかになりました。



《田村耕一のぐい呑み》



田村耕一 椿の鉄絵ぐい呑み

このぐい呑みは、白泥の上薬のかけ分けが絶妙で、そこに椿を絵付けした作品です。

形と絵付けがマッチした暖かみのある作品です。



田村耕一のぐい呑み(1986年 日本橋三越本店)






田村耕一箱書き…幼い子どものような字、清水卯一と双璧か?


同時代に、芸大の教授として、藤本能道がいましたが、私はこの2人が好対照な作品と人柄だったと思います。

鉄釉で描く大胆な筆さばきによる田村耕一の作品群は、現代的な絵画を見るようにも感じられます。

鉄絵の特色である、大胆で土着的で簡素な文様は、たいへん魅力的です。

技術と個性の融和、そして人間味ある温かい作品が、彼の持ち味でした。



《田村耕一の湯呑み》



田村耕一の湯呑み(1986年 黒田陶苑)

…暖かみのある作品で、実際に日常使っていました。

ホタルブクロは、田村耕一にとって、トレードマークと言って良いモチーフです。



箱書き


田村耕一は、鉄絵の技術で重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されました。

田村耕一は、一見地味な鉄絵の花器や食器から、晩年の色鮮やかな味わい深い作品まで、数多くの作品を残しました。

鉄絵とは異なりますが、鉄釉で人間国宝に認定された陶芸家として、石黒宗麿と清水卯一と原清がいます。



《鉄絵とは》

鉄絵(てつえ)とは、鉄分を含む顔料を用い、筆で文様を描く技法をいいます。

鉄分を含む顔料は広い地域で産出するため入手しやすく、鬼板(おにいた)、水打(みずう)ちなどの名でよばれます。

中国では磁器の創始とともにはじまり、もっとも普遍的な絵付け技法として広く行われました。

とくに、宋時代から元時代にかけて、民衆の日用の器を焼いた磁州窯(じしゅうよう)において、すぐれた作品が作られました。


鉄絵の技法は朝鮮、ベトナム、タイ、そして日本にも伝えられました。

朝鮮では高麗(こうらい)時代に鉄絵で文様を描いた青磁が作られ、朝鮮時代の鉄絵粉青(ふんせい)は鶏龍山(けいりゅうざん)の名で親しまれています。

また、白磁に鉄絵具で文様を描く技法は、鉄砂(てっしゃ)とよばれています。

日本では銹絵(さびえ)とよばれ、志野(しの)や織部(おりべ)にも鉄絵の装飾が施されています。

志野の鉄絵は、長石釉を上に掛けるので、唐津ほど文様がはっきりと現れず、釉薬を通して見える文様が味わいを出しています。

唐津は朝鮮の粉青沙器鉄絵や白磁鉄絵の系統に連なると考えられ、志野は化粧土の上の鉄絵であり、唐津は磁胎です。

陶胎に直接絵付けした絵唐津は、技法的には李朝の白磁鉄絵に近く、化粧土の上に鉄絵と銅緑彩を施した二彩唐津は、粉青沙器鉄絵に近い。


コバルト顔料を用いて白磁に藍色の文様をあらわす染付(そめつけ)(青花(せいか))のような細密な描写はみられないものの、量産品ゆえの勢いのある筆づかいや、民窯ならではのユーモラスな表現には独特の魅力があります。



《田村耕一のジョッキ》



釉薬の流し掛け風のジョッキ
(1986年 日本橋三越)



陶器に青磁釉薬を施し麦の穂をあしらったジョッキ
(1986年 日本橋三越)

(注)磁器物の青磁と、陶器に青磁釉薬を施した青磁の二種類があります



《青磁釉について》

青磁を造るために素地に施す釉のこと。

殷時代後期の灰釉に工夫をしたものが青磁釉の始まりで、1200度以上で焼成される高火度釉で、植物灰を主成分とし、酸化第二鉄(弁柄 ベンガラ)を含有する。

ボディ(胎)から釉に拡散する鉄の寄与がある場合もある。

理論的に考えれば、還元炎で焼成すれば、原料の酸化第二鉄が還元され酸化第一鉄ができ、青~緑を発色した透明ガラスになる。

還元の完全さによって、黄色がかった緑から、空色まで発色が大きく変化する。

すなわち酸化炎で焼成し、鉄イオンが薄茶色や淡い黄色に発色した青磁釉は、米色青磁と呼ばれる。

現在では石灰バリウム釉を基礎釉とし、珪酸鉄を着色剤として使用することで澄んだ青色を得ることができるが、本来の青磁は厚がけした灰釉である。


理論通りに上手く焼成できず、発色の不安定さや焼成した器の歩留まりの悪さなど、思い通りの青磁の発色を得ることはとても難しいと、複数の青磁作家から聞いたことがあります。



箱書き


田村耕一は、一貫して人柄を表すような素朴な鉄絵を得意とし、心温まるような作品群を残した希有な陶芸家でした。

私も期待し、注目していたこの作家が、円熟味を増してきた68才で亡くなられたことは、まことに残念でした。



《田村耕一陶歴》

栃木県佐野市に生まれ、同地で歿。

1941年東京美術学校図案科を卒業ののち、大阪府商業学校教諭として赴任。

1946年京都・松風研究所に入り冨本憲吉に学ぶ。

1948年郷里の赤見窯の初窯より参加、栃木県芸術祭にて芸術祭賞を受け浜田庄司の目に留まる。

1950年栃木県窯業指導技官となり、1953年自邸に登窯を築く。酸化鉄を用いて釉下に文様をあらわす鉄絵を得意とし、また青磁銅彩など磁器においても独自の発想にて新境地を切り拓いた。

1958年日本陶磁協会賞

1960,61年日本伝統工芸展奨励賞を受賞。翌62年日本工芸会正会員となる。

1967年イスタンブール国際陶芸展グランプリ金賞を受ける。

1977年東京芸術大学教授(のち名誉教授)

1986年鉄絵にて重要無形文化財保持者に認定。

1987年1月3日逝去。




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マッキーの現代陶芸入門講座(26)…佐伯守美の陶芸・新たな地平を求めて

2009年04月15日 | 陶芸

佐伯守美(さえき もりよし)この作家は、私にとって思い入れの大きい陶芸家です。

この現代陶芸入門講座も26回目となりますが、この作家のことを書こうとすると、なかなか筆が進まない、それくらい佐伯守美は、私にとっては特別な存在です。

この作家との出会いは、多くの作家と同様に、陶芸の収集を本格的に始めた25年ほど前に遡ります。

銀座黒田陶苑に福島さんと言う方が勤務されていた頃、その方から佐伯さんの作品を見せてもらったのが初めての出会いでした。

福島さんは、黒田陶苑の金看板を背負って、全国の陶芸家を回っていたので、ある意味では現代陶芸に関して、その当時最も情報通だった方でした。



練上象嵌ぐい呑み(1986年)



練上象嵌ぐい呑み(1986年)



練上象嵌湯呑(1986年)



練上象嵌徳利(1986年)
茶碗や酒器は、陶器として、極めて難しい!
その奥深さは、計り知れない!
手に持ったときの何か…数値的に割り出せない何かが、そこにある


陶芸の見方に関しては、福島さんと私は、異なる部分もありましたから、作品に対する評価に対しては、共通ではありませんでした。

しかし、現場で鍛えた福島さんの作家観などは、並の美術評論家よりは、はるかに傾聴に値するものでした。



最初に目にしたこの作家の作品は、佐伯さんが作った樹木文の花器の最も初期の作品です。

象嵌した樹木文と、異なる陶土を表面上に練り込んだような風景は、技術的に試行錯誤の作品で、その完成度はまだ高くありませんでした。



最も初期の練上象嵌樹木文壺(1985年)


樹木文は、下手をすると壁紙風になってしまうので、どういった変遷をたどるのか興味も感じました。

彼の象嵌樹木文は、始めエミールガレやドームなど、アール・ヌーボー様式の作家を私に連想させました。

この件について、後々彼に直接私の印象を述べたことがありましたが、肯定も否定もしませんでしたので、彼自身も多少意識していたのではないかと推測されます。



ビアマグ(1988年)



練上象嵌ビアマグ(1988年)
グラスで発砲するビールを楽しむのも良いが、お気に入りの陶器製ビアマグで飲むビールも格別です…どうぞお試しを!



練上象嵌冷酒入れ1989年)



佐伯さんのビアマグと食器に盛ったキャベツのおひたし



陶器表面に、具象を表現するとき、絵筆ならかなり微細な表現が出来るのですが、彼が使った象嵌は、そこまで細かな表現が出来ないので、一歩間違えると樹木の文様に成り果てる危険も感じました。

この危険な綱渡りを、今後どの様に展開していくのか、疑問も感じながら注目していました。

そうした期待に違わずに、佐伯さんは、背景の処理に泥彩を用い、独自で高度な象嵌技術を駆使して、高いレベルの作品群を制作しているように思います。



象嵌樹木文蓋もの(1989年)



蓋もの



蓋もの


彼が、芸大で非常勤講師をしている30代の頃のこと、彼が始めて第28回伝統工芸新作展(1988年)で奨励賞を受賞した、彼にとっても記念すべき作品を、私は買い求めました。



伝統工芸新作展(1988年)で奨励賞を受賞した『白掻落山帰来文鉢』
この作品で、私は、この作家の力量を改めて感じ取ることが出来ました



奨励賞受賞作品解説



箱書き



また、私が代表を務めていた美術愛好家の団体・美学社(現在の美楽舎)の例会として、平成2年に陶芸家「田村耕一回顧展」ならぴに「佐伯守美展」を見学し、佐伯さんに解説して頂きました。

それから平成5年には、やはり美学社の例会として、佐伯さんの窯場を、かなりの数の会員とバスを使って訪問し、先生を交えて懇談会を行いました。

また、彼の代表作である『白掻落山帰来文鉢』の写真撮りのために、私の自宅に佐伯さんに作品を取りに来て頂いたこともありました。



佐伯さんの皿・雑器の制作も上手い(1989年)



佐伯さんの皿・味のある作品(1990年)
実際に、私の作った料理を盛りつけて楽しんでいます



実は、ここ十年以上、彼の個展を含めて、実際の作品を観ることも、作家本人にお会いすることもありませんでした。

手元にある佐伯さんの作品をあらためて眺めると、技量の確かな陶芸家であることを感じるとともに、私の兄貴分の年齢であリ、今年還暦を迎える人間味のある佐伯守美を想い出します。

東京芸大の卒業制作でサロン・ド・プランタン賞を受賞し、大学院修了制作が東京藝術大学資料館買上となるなど、順調な陶芸家人生をスタートさせた佐伯守美は、その後日本工芸会で活躍しています。

そうした活躍を見て、ある業者は、将来『~に推挙されること間違いなし』と言って、作品を売っているようですが、こうした行為は、作家にとって良い影響はありません。

たとえ大きな器の作家だと確信しても、推測を商売上で公言すべきではなく、またそれはフライングというもので、慎むべき行為です。



練上象嵌花瓶(1988年)



灰釉茶碗(1993年)


美術作品を鑑賞することは、その作品の作者に思いを馳せることにもなります。

ましてや、作品を自分のお金で買った人は、その作品だけではなく、その作家に思い入れがあるはずです。

佐伯さんが、今後も独自の作風を進化させて、陶芸家として、かつての巨匠が到達した新たな境地に至ること を、私は確信しています。



かなり大きな練上象嵌花入(1992年)




練上象嵌花入・詩情が感じられる象嵌樹木文




佐伯守美陶歴

1949年 彫刻家佐伯留守夫の長男として生まれる
1975年 東京藝術大学院修了、「掻落し芙蓉文大皿」芸大資料館買上げ
1978年 栃木県芸術祭工芸部門芸術祭賞受賞
1987年 東京藝術大学非常勤講師となる(~2001年)
1988年 第28回伝統工芸新作展奨励賞受賞  国際陶芸展優秀賞受賞
1989年 栃木県文化奨励賞受賞
1990年 マロニエ文化賞受賞
1991年 第31回伝統工芸新作展「練込象嵌樹林文扁壺」東京都教育委員会賞受賞
2001年 文星芸術大学非常勤講師となる
2002年 「象嵌釉彩樹林文扁壺」宮内庁買上  第4回益子陶芸展審査員特別賞受賞
2004年 大滝村北海道陶芸展金賞受賞  第66回 一水会陶芸展 一水会賞受賞




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マッキーの現代陶芸入門講座(25)…鬼才・肥沼美智雄の陶芸

2009年01月25日 | 陶芸
肥沼美智雄(こいぬまみちお)は、一般の方にはあまり知られていない陶芸家ですが、異色の作家として、一部の陶芸ファンには根強い人気を誇る孤高の陶芸家です。

小品を含めて、私もこの作家の作品を数多く所有し、実際に家の中に展示して楽しんでいます。

肥沼美智雄の作品は、銀座黒田陶苑の福島さんから、1985年に下の一輪花生を購入したのが初めでした。





極めて高い温度で焼きしめられた陶器は、硬質で金属のように感じられます。

暗く沈んだ色調、作品によっては炎によってただれた陶器表面、そうした印象を包含する独特のフォルム。

感情を押し殺したような彼の作品は、ある時は、歴史のフィルターを通って現代に蘇った、古代の作品のように感じることがあります。





また、ある時は、現代建築にマッチするほど、その陶器は未来的な形状を示します。

こうした陶器は、独特な作家の人生なくして作り得ない、極めて個性的で優れた作品だと思います。

そう言った意味で、この作家は、現代陶芸界の鬼才と呼んで差し支えないと思います。





しかし、バブルが崩壊して以降、この作家の活動を、私は事細かには知りません。

出来ることなら、周りのすべてに媚びることなく、我が道を行く独特の感性で、陶芸家としての一生を全うして欲しい作家です。

売れることを狙った作品ではなく、自分の個性的な人生を、その作品に投影するような創作活動を望みたい。

そうすれば、必ずや再評価されて、希有な存在の作家として記憶されていくことでしょう。



兜をモチーフに作られた陶器



陶器の表面に、唐草模様が象嵌で施されています
これらの作品は、大手町画廊で購入したものです



この作品は銀座黒田陶苑で買い求めたもの
落語の三遊亭円歌師匠も店内にいて、この作品についてお話ししたことを楽しく想い出します



安定しているので、いつも実際使っています
彼の作品は、艶やかさはないが、飽きの来ない存在感があります



蕗文鉢…この作品も実際使うと、なかなか風情を感じます



陶硯



筆置き…これも実際に使っていると愛着の湧く作品



香合



水盤…写真よりも実際の作品は、趣があります



文鎮…机の上に置いて実際使っています
中にオモリが封入されています



造形的には面白いが、実際の使用となると…
二重箱の茶碗…二重箱とは、その当時人気作家として、彼にも驕りがあったように思います


私が代表をしていた美術愛好家の集まり美学社(現在の美楽舎)で、かつて肥沼さんの窯場訪問を企画した時期がありました。

どういった経緯で実施しなかったか失念しましたが、今でも活躍してほしい作家であることに変わりありません。


【肥沼美智雄略歴】

栃木県益子町在住

1936年生まれ 東京都青梅市出身
    大阪大学経済学部、
    早稲田大学政経学部中退
1970 栃木県益子町に築窯し独立する
1974 北関東美術展で優秀賞受賞
1975 東京銀座・黒田陶苑にて個展開催
1976 東京・西武百貨店池袋店にて個展
1984 東京大手町・大手町画廊にて個展開催
1991 栃木県マロニエ文化賞受賞
1994 現代工芸藤野屋にて個展開催




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マッキーの現代陶芸入門講座(24)…坂倉新兵衛と田原陶兵衛と坂高麗左衛門の萩焼

2008年12月04日 | 陶芸

今日は、萩焼の窯元の中でも、長い伝統を誇る「坂倉新兵衛」と「田原陶兵衛」と「坂高麗左衛門」の三人を取り上げて、その作品を鑑賞します。

萩焼については、以下の私のブログも参考にご覧頂くと、萩焼の概要がお分かり頂けると思います。

陶芸 / 2008年07月11日
現代陶芸の教養が身に付く入門講座(18)…坂田泥華と吉賀大眉のぐい呑みと湯飲み

陶芸 / 2008年03月07日
人を魅了する陶芸の世界(5)…三輪休雪のぐい呑み


坂倉新兵衛

 1600年はじめ頃に毛利輝元によって、李朝から連れて来られた二人の陶工により、萩焼が始められました。

この二人の陶工のうち弟の李敬は、後で述べる坂高麗左衛門に、兄の李勺光の系譜が、十五代に至る坂倉新兵衛(さかくら しんべえ)です。

当代の十五代坂倉新兵衛は、若干26歳の若さで、十四代死去のため、伝統の窯の当主となりました。

当初は、「新兵衛」の名前は、まるで他人の名前を呼ばれているような感覚であったそうです。

「自分の窯の伝統というよりも、むしろ長い歴史を経て現在に至っている萩焼の歴史を衰退させたり、絶やしてはいけない」

そうした萩焼全体の伝統を認識しながら、萩焼の中興の祖と称えられる『十二代新兵衛』が築き上げた、「新兵衛茶碗」の精神性を、帰郷してからちょうど十年くらい経て、実感として認識できるようになり、作品に力強さが現れてきたと語っています。


15代坂倉新兵衛の萩酒盃



どちらかというと、強い主張のない、おとなしい作風のぐい呑みです。(1986年)





茶陶作家だけあって、とても使いやすい湯呑みです。(1992年)


15代坂倉新兵衛の萩茶碗



この作家の茶碗は、安心して使える、使いやすい作品です。(1986年)


15代坂倉新兵衛の萩茶碗



茶陶作家と言って差し支えない作風で、その堅実さが伝わってきます。
しかし、伝統をふまえながら、もっと個性的な作品に挑戦してもよいのではないかと思います。(1988年)


15代坂倉新兵衛箱書き



15代坂倉新兵衛略歴

昭和47年  東京芸術大学 美術学部 彫刻科卒業
昭和49年  同大学院陶芸専攻修了
昭和53年  十五代 坂倉新兵衛を襲名
昭和59年  日本工芸会正会員
平成元年   山口県芸術文化振興奨励賞
平成5年   ロサンゼルス日米文化会館に於て個展
平成10年  ニューヨークで萩焼き深川窯グループ展
平成11年  明治村茶会にて野点席、立礼席担当及展覧会



田原陶兵衛

毛利輝元によって萩藩御用焼物所が開窯された後、李勺光の家系の三代目にあたる山村平四郎光俊が中心となり、深川の地・現在の長門市三ノ瀬に「三ノ瀬焼物所」を創設します。

1657年に現在の深川三之瀬に創業して以来続いている、田原陶兵衛(たはら とうべえ)は伝統ある名跡です。

深川焼は、さらにそれから約四十年後の元禄六年(一六九三年)には、それまでの御蔵元の直轄支配を離れて、地方庄屋の支配に変わり、民窯としての性格がさらに強くなっていきます。

この深川御用窯は、はじめから自家営業としての販売が認められ、従来とは異なる御用窯が誕生したと言われています。

十三代陶兵衛氏は、平成4年に襲名し、十代陶兵衛の頃から研究を重ねてきた「灰被り」という技法を極め、さらに唐津の中里重利に師事して学んだ「皮くじら」の技法も、萩焼に融合させるなど新たな挑戦もしています。


12代田原陶兵衛萩ぐい呑



出来のよいぐい呑みです。写真にすると、茶碗かぐい呑みか分からなくなるほど、茶碗と相似形です。(1986年)


12代田原陶兵衛萩茶碗



萩焼の表面に、ホタルが光っているように見える斑点がありますが、これは「ほたる」と呼ばれている技法です。
この「ほたる」は、萩焼独特の景色となっていますが、田原陶兵衛の発色は、独特なように思います。(1989年)


12代田原陶兵衛箱書き




田原謙次(13代田原陶兵衛)萩茶碗



当代田原陶兵衛の、襲名前の作品。
全体に、まだかなり若々しさが残っている作品となっています。(1988年)


13代田原陶兵衛略歴

昭和26年、萩に生まれる。父は十二代田原陶兵衛。
昭和48年武蔵野美術大学、
昭和50年同大大学院(師 加藤達美先生)
卒業後、中里重利に師事。
二年間修業ののち、帰郷して作陶をはじめる。
平成4年、十三代陶兵衛襲名。
日本工芸会山口支部展奨励賞受賞。
田部美術館茶の湯の造形展入選。
西日本陶芸美術展入選。
日本工芸会正会員



坂高麗左衛門

坂 高麗左衛門(さか こうらいざえもん)は、山口県萩市の萩焼窯元、坂窯の当主が代々襲名している、陶芸作家としての名跡です。

坂窯は、毛利輝元によって萩に連れてこられ、兄李勺光と共に萩焼を創始した朝鮮人陶工の李敬を初代としており、三輪休雪の三輪窯と共に萩藩の御用窯を務め、萩焼の本流を代々受け継いでいた家柄でした。

しかし、十二代の坂高麗左衛門が2004年7月26日に転落事故による脳挫傷のため突然死去し、以後現在に至るまで坂窯の当主となる者がなく、2008年現在『坂高麗左衛門』の名跡は空位のままとなっています。

その死去は、様々な憶測も巷では流れるほど、突然なものでしたので、萩を代表する名跡「坂 高麗左衛門」を次代に受け継がせる準備も出来ていなかったのでしょう。


12代坂高麗左衛門萩焼酒盃



明らかに、少し堅さが見られ、萩焼を必死になって習得している時期の作品です。(1988年)


12代坂高麗左衛門萩焼湯呑



萩焼伝統技法の「割高台」の湯呑です。ぐい呑みと同様、一生懸命作っているのが感じられる作品。(1986年)


12代坂高麗左衛門箱書き




坂 高麗左衛門略歴

1949東京新宿に生まれる
1978東京芸術大学大学院絵画科第四研究室修了
1983京都工業試験場窯業科陶磁器研修生修了
1984山口県萩にて作陶を始める
1988伝統工芸新作展 NHK山口放送局賞受賞
十二代 坂 高麗左衛門襲名
日本橋三越・高島屋等で個展多数
2004年7月26日没・享年54歳


【追記】
2011年4月、十一代の四女(十二代の義妹)坂純子さんが、十三代高麗左衛門を襲名することになったそうです。女性が坂高麗左衛門の名跡を継承するのは、初めてのことです。



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マッキーの現代陶芸入門講座(23)…堀一郎の志野焼

2008年11月14日 | 陶芸
『堀一郎』…20年ほど前、黒田陶苑におられた福島さんを通して湯呑を買って以来、日本橋高島屋などから、この作家の作品を数多く購入した時期がありました。

様々な機会に、贈り物として、堀一郎の湯呑を使わせてもらいました。

実際、日頃使っている湯呑の一つが、堀一郎の作品です。

使い始めて20年近く経つのですが、手に馴染んで、私にとっては空気のような存在になった湯呑です。

購入した時期から換算すると、堀一郎が30代の作品が多いのですが、私はその当時、この作家の力量に将来性を感じていました。


それから、いつしか20年経ちましたが、この作家がどのように変遷してきたのか、しばらくの間私は無関心でいました。

もしも、本当にこの作家に天賦の才能があるなら、脂の乗りきった50代、頭角を現してくる時期でしょう。

最近は、公募展には出品していないようですが、広く自分の作品を知ってもらうチャンスとして、そうした機会を利用すべきでしょう。

団体の公募展は、何だかんだとしがらみの多い世界ですが、自分の作品に自信があるのなら、その価値を世に問うてみるのも悪くはないはず。

発表の場が限定されれば、陶磁協会賞を含む社会的な評価に、つながっていかない面もあります。

私が彼の身近にいる存在なら、そうアドバイスするのですが…。



【堀一郎の湯呑】

この人の湯呑は、鈴木蔵の作品のように、硬質で鋭角的に訴えかけてくる印象はなく、炎でじっくりと焼かれた自然な暖かみと、手作りの感触が伝わってきます。

志野釉は、純粋に近い長石釉です。
この釉薬は、志野の各作家によって、その取り扱いが大分異なります。

その白い肌に、柚肌(ピンホールで、欠点でもありますが、茶碗や湯飲みでは景色となっている)・貫入光沢・そして鬼板で書かれたシンプルな文様、そうした全体の印象が、志野焼の善し悪しの決め手の一つになっていると思います。



堀一郎の湯呑(1989年)



堀一郎の湯呑 (1991年)
(高島屋を中心に、30点くらい購入し、今は数点が残っているだけです)



【堀一郎の酒器】

ちょっと、堀一郎の酒器は、趣にかけるように思います。

私の持っている酒器が、彼の30代の作品だからでしょうか。
若さを感じますが、もう少し広がりが欲しい。



堀一郎の鼠志野のぐい呑み



堀一郎の箱書き



堀一郎の徳利



【堀一郎の茶碗】

『一楽 二萩 三唐津』と呼ばれる、茶碗の世界ですが、手掛けている作家の数から考えると、志野はこれらの焼き物に勝るとも劣らないと言うのが現状でしょう。

茶碗は、奥が深いので、もし30代で高い水準の作品が出来たら、その作家は天才でしょう!



堀一郎の志野茶碗(1989年)



堀一郎の鼠志野茶碗(1989年)



堀一郎の箱書き



無論、彼は私のことを知らないでしょうが、いつかお会いしたい作家ではあります。

たぶんお会いしたら、初対面である気がしないのではないかと思います。

いつも私の前にある湯呑…作品は、作家そのものだから。



【堀一郎の略歴】

1952 岐阜県瑞浪市に生まれる
1971 多治見工業高校デザイン科卒業
     加藤孝造に師事
     以後、朝日陶芸展、中日国際陶芸展
     日本伝統工芸展に出品
1984 瑞浪市大湫に穴窯を築く
     公募展を離れ、個展のみで作品を発表
1997 工房を瑞浪市大草に移し穴窯を築く
     全国各地で個展



志野焼について、関連した私のブログは、以下のものがあります。
☆印のブログは、志野についての概略がかいせつしてあります。
参考に、ご覧頂ければ幸です。

2008.10.24
『現代陶芸の教養が身に付く入門講座(22)…鈴木蔵・加藤孝造・若尾利貞の志野焼』

2008.09.25
現代陶芸の教養が身に付く入門講座(20)…林正太郎・玉置保夫・安藤日出武の志野焼

☆2008.05.30
現代陶芸の教養が身に付く入門講座(14)…荒川 豊蔵のぐい呑み

☆2008.03.31
人を魅了する陶芸の世界(8)…鈴木蔵の志野ぐい呑み




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マッキーの現代陶芸入門講座(22)…鈴木蔵・加藤孝造・若尾利貞の志野焼

2008年10月24日 | 陶芸

今日は、志野焼の大家・鈴木蔵・加藤孝造・若尾利貞の3人の作品を取り上げて、私の作品鑑賞を綴ります。

志野焼の入門解説は、以下の私のブログをご覧ください。

人を魅了する陶芸の世界(8)…鈴木蔵の志野ぐい呑み

入門講座(14)…荒川 豊蔵のぐい呑み

入門講座(20)…林正太郎・玉置保夫・安藤日出武の志野焼

『現代陶芸入門講座(23)…堀一郎の志野焼』


鈴木蔵 志野ぐい呑み

昭和9年岐阜県出身・チェコ国際陶芸展グランプリ受賞
日本陶磁協会賞金賞受賞・芸術選奨文部大臣賞受賞
1994年 重要無形文化財保持者(人間国宝)認定   



鈴木蔵のぐい呑みの中でも、最も上がりの良い作品と言えます。日本橋三越で店頭に出品する前に、送られてきた数点の蔵さんのぐい呑みから、2点選んだ内の一点です。
形状・色調・格調三拍子そろった秀作と言ってよく、手に持った存在感は格別です。(1992年・日本橋三越)



ぐい呑みの高台









板目を使った桐箱・蔵の箱は出来が大変良い


鈴木蔵 志野茶碗


色の発色はおとなしいが、手に持った収まりは、見た形状よりも良い



箱書き



加藤孝造 志野ぐい呑み

昭和10年生・岐阜県出身・岐阜県重要無形文化財保持者


加藤孝造の風貌を彷彿させる、ゆったりとした形と色合いの円相を描いたぐい呑み


加藤孝造 志野ぐい呑み



上のぐい呑みよりも、志野釉が薄く掛かった円相のぐい呑みで、
強い個性は感じませんが、手に馴染みやすい落ち着いた作品となっています。これが、彼の持ち味なのかも知れません



加藤孝造の箱書き


【円相について一言】

茶掛け・色紙・焼き物・染め物など身の回りに、この『円相』は多く見かけることができます。

円相とは、円を一筆書きした、極めてシンプルな形象です。
しかし、円相は禅の影響を受け、様々なものを象徴的に描いたものとして、理解されています。

円相は、円窓とも書いて、心を映す窓という意味もあります。
書院造りの円窓も、こうした意味を含めて設置されているのかも知れません。

茫漠とした円相が表出する意味は、それを見る者がその時々に自由に感じたことであり、それがその人にとっての円相の意味なのでしょう。


加藤孝造 志野湯飲み



これは、かなり薄手に作られた絵志野の湯呑です。
志野釉の下から梅の文様が発色した出来の大変良い作品です。これは、釉の下に鬼板で絵付けした上に、志野釉をかけて焼いています。鈴木蔵の志野焼としては極限に近い薄手の湯飲みを持っていましたが、それに次ぐ薄手の作品で、加藤孝造の力量が伝わってくる作品です。



箱書き



加藤孝造 瀬戸黒茶碗 美濃陶芸協会図録抜粋

瀬戸黒茶碗は、鉄釉を施し、焼成中に釉薬が溶けている途中で窯から引き出して急冷させ、漆黒色に発色させます。

瀬戸黒茶碗は、一般的に高台の低い筒茶碗ですが、この茶碗は高台が高めに削り出されています。 

ちなみに、加藤孝造の師である荒川豊蔵は、1955年に志野と瀬戸黒の両方で、重要無形文化財保持者に認定されました。


(追)2010年 瀬戸黒の技法で、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。



若尾利貞 志野ぐい呑み

昭和8年生・岐阜県出身・岐阜県重要無形文化財保持者
日本陶磁協会賞受賞



これはかなり大胆に作られたぐい呑みです。
髭のような文様も、インパクトがあって面白い作品となっています。若尾利貞というと、琳派調の文様の器を想い出す方が多いと思いますが、こうしたざっくりと作られた作品に、彼の力量を感じます。



箱書き



若尾利貞 2005年 松坂屋個展図録より抜粋


現在、志野焼を牽引する代表的な作家は、今回観てきた3人であることは、衆目の一致するところでしょう。

それぞれが、その個性を生かしながら、独自の志野焼を追求していくことが、将来の志野焼の発展のためになることだと思います。

その作陶姿勢を、後から続く若い作家たちは、しっかりと見ているのだから。




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