「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの美術:2012年美楽舎忘年会… コレクター 小倉敬一氏 講演

2012年12月13日 | 美術鑑賞



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12月9日、恒例の美学社忘年会と12月例会が、京橋にあるK’sギャラリー(美楽舎事務局)で行われました。

美楽舎は、私がしばらく構想を練って発案し、有志を集め1年間の準備を経て1990年に発足した、我が国でも有数の美術愛好家・コレクターの会です。

とは言うものの、私自身は代表を降りて以来、年に2~3回例会に出席する程度で、残念ながらコレクターとしての活動も現在は休止状態です。

忘年会に先立ち行われた12月例会は、コレクターの小倉敬一氏をお招きして、「私のコレクション」と題して講演していただきました。

コレクターの集まりである美楽舎の会員の中には、小倉氏を知っている方もいて、全員が興味津々といった様子で聞き入っていました。






コレクションを始めるきっかけになった美術品との出会い、そしてコレクションのイロハを教わった画廊主や先輩コレクターとの語らい、そしてコレクションの方向性を決定づける作品との出会い、こうしたことは、多くのコレクターに共通した経験であろうと思います。

小倉氏は、「家に飾る絵は、心安らぐ世界がなければならない。」という考えを持って、作品を集めてきたそうです。

そうしたポリシーで収集した結果、長谷川潾二郎清宮質文の作品群は、日本で有数の個人コレクションとして知られるようになりました。

また、小倉氏はかつてあった現代画廊主の洲之内 徹氏が著した『絵のなかの散歩』新潮社、『気まぐれ美術館』新潮社、『帰りたい風景 気まぐれ美術館』新潮社、『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』新潮社などを愛読し、コレクションの参考にしていると語っていました。

現代画廊主の洲之内 徹氏の評価は、賛否両論があり、その人物像も死して後も様々に語られています。

この洲之内 徹氏は、画廊主であるにもかかわらず、気に入った作品は売らずに私蔵し、氏の死後それらの作品は「洲之内コレクション」として、宮城県美術館に一括収蔵され一般に公開されています。

そのコレクションに含まれる作品は、「買えなければ盗んでも自分のものにしたくなるような絵」と表現するほど氏が惚れ込んだ美術品であることが、随筆「気まぐれ美術館」に書かれています。

ちょっと過激な表現ですが、そこまで対象の絵に惚れ込まない限り、納得のいくコレクションを形成することはできず、したがってこの心情は多くのコレクターに共通したものだと思います。

(無論、本当に美術品を盗もうと考えるコレクターは、稀でしょうが・・・)


(小倉氏のコレクション展の図録)

小倉氏は、銀座の画廊「ミウラ・アーツ」でコレクション展を数回開催し、多くの人に収集した作品を展示し公開していますが、そうした行為はコレクションの質が高いという前提は無論のこと、コレクターとしては大切な行為だと思います。

なぜなら、真のコレクターは権威や流行に左右されずに、自分の目(審美眼)を頼りにコレクションする人が多く、したがって形作られたコレクションを世に問うてみることが、自分の主張をより明確にする機会となるからです。

美楽舎でも、毎年1回会員の「マイコレクション展」を行い、また昨年からは「ACT ART COM」アートフェアに参加て、会員が収集した作品を展示し、各人の美に対するこだわりや主張を、美術を愛好する人たちに観て頂いています。


(図録の挨拶の言葉)


長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう)の猫の絵は、NHKの日曜美術館でも紹介され、多くの方にその名が知られるようになりました。

長谷川 潾二郎の代表作であるこの猫の絵も、「洲之内コレクション」として宮城県美術館に収蔵されています。

小倉氏のコレクションの中核をなす作品が、この長谷川 潾二郎の絵画であり、情熱を込めて集めた極めて寡作な作家の貴重な作品群は、後世に残すべきコレクションとなっています。


(長谷川 潾二郎 「アネモネ」)


(長谷川 潾二郎 「木の実」)

小倉氏の作品のもう一つの核をなすものが、版画家清宮質文(せいみや・なおぶみ 1917~1991)の作品です。

沈黙の版画家といわれた清宮質文の作品は、静寂と詩的な叙情性と、そして祈りが感じられます。

生前よりも、死後評価が高まった作家であり、そうした意味で長谷川 潾二郎と一脈通じる点があるようです。
 

(清宮質文「むかしのはなし」)


(清宮質文「夕」)

小倉氏は、かつて収集してきた作品の多くを売って、より質の高い作品収集の原資とするとともに、コレクションの量よりも質を重視する姿勢を貫いているようでした。

ここに取り上げた画像は、氏のコレクション展図録から載せたものですが、この他に野口謙蔵・南城一夫・菅野圭介・今西中通・吉岡憲などの作品が載っています。

大変興味深かった小倉氏の講演の後、恒例の忘年会をギャラリーを会場に行いました。

同じ趣味を持つ仲間ですから、その会話は尽きず、二次会を近くの中華料理屋に移し、アルコールに酔ったのか、美術を愛するが故の熱気なのか、熱い熱い会話で例年にない初冬の寒さを吹き飛ばす宴でした。

その後、多くの会員は、三次会へと足を運びましたが、私とS氏はここでみんなと別れ帰宅の途につきました。

あるときは握手するほど共鳴し、またある時は色をなして反論する、
それぞれの主張に対する共感と激論が、
ともすると独り善がりになりがちなコレクターたちにとって、
良い刺激になっていることは確かです。


<小倉敬一氏 略歴>

埼玉県羽生市 生まれ
埼玉県職員として勤務の傍らコレクション
ミウラ・アーツ(銀座)でO氏コレクション展を4回開催
NPO法人あーとわの会会員、梅野記念絵画館友の会会員

<主なコレクション>

物故作家:長谷川潾二郎、清宮質文、長谷川利行、野口謙蔵、南城一夫 等
若手作家:石居麻耶、柏田彩子、小高里枝子、関根直子 等


K’sギャラリー(美楽舎事務局)

東京都中央区京橋3-9-2プラザ京橋ビル3F
地下鉄の京橋駅、宝町駅から徒歩1、2分
参加の方  K’s Gallery 内  増田まで
Tel :03-5159-0809  Fax :03-5579-9004
メール:kgallery@eagle.ocn.ne.jp

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マッキーの美術鑑賞:飯縄寺を中心に『波の伊八』の彫刻を訪ねて

2012年05月29日 | 美術鑑賞



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昨年の4月、美楽舎の例会にお招きし、『波の伊八』の彫刻に関する講演を、飯縄寺の住職・村田浩田氏にしていただいた。

ただ、参考資料及びネットで検索した画像で見るだけでは、『波の伊八』の彫刻の真価はわからない。

その時以来、私は『波の伊八』の実物の彫刻をみたいと思っていたが、この度美楽舎5月例会に参加し、千葉県いすみ市の飯縄寺と行元寺にある『波の伊八』の彫刻を鑑賞することができた。

今回の例会企画は、N氏とK氏だが、K氏が飯縄寺の住職・村田氏の高校の先輩という間柄から、飯縄寺では特別な計らいで貴重な経験ができた。

昨年の村田氏の講演については、以下のブログを参考にしていただきたい。

今回のブログでは、これ以上紙面が長くなるのを避けるため割愛した「飯縄寺縁起」および「波の伊八」の略歴について、参考になると思う。

マッキーの美術鑑賞:『波の伊八』の彫刻がある飯縄寺住職 村田浩田氏講演


5月27日(日)、東京駅前に午前8時に集合し、会員10名が車2台に分乗して上総いすみ市に向けて出発。

まず初めの目的地は、いすみ市荻原にある東頭山・行元寺(とうずさん・ぎょうがんじ)だった。



駐車場からしばらく切通しの参道を歩くと、木々の新緑に囲まれて、その朱色がいっそう艶やかに感じる山門が建っていた。

東頭山・行元寺は、849年慈覚大師により開山され、徳川家の庇護により興隆したという。




天台宗では、東国初の寺ということで、行元寺は山号を東頭山と称している。

この寺の見所は、波の伊八作の欄間・本堂欄間を彫った高松又八の作品五楽院等髄の「土岐の鷹」杉戸絵である。



本堂に入ると、正面の本尊を祀る古い構築物を囲むように増築された部分は、最近修復されて建立当時の極彩色の彫り物で飾られている。

それらの欄間彫刻は、彫物大工高松又八の作品である。

徳川家公儀彫物師であった高松又八の作品は、彫物の出来以上に、豪華絢爛な岩絵具による極彩色に目を引かれる。



次に案内の方に導かれ、生活の場の雰囲気を感じる本堂脇の書院へ向かう。

田の字型に配置された部屋を仕切るふすまの上の欄間に、波の伊八の彫刻はあった。

あくまでも書院のスケールの欄間は、一般家庭のスケールに近い。

無垢のケヤキに彫られた波濤と、その上に浮かぶように彫られた宝珠

限られた欄間のスペースを最大限に活かすように、伊八の波は躍動的に彫られている。

潮の流れは、活き活きとした精緻な多くの曲線で表現され、今まさに砕け散ろうとする波頭は生き物のように変化する。

その伊八の波は、九十九里の荒波を写実的に彫ったものだが、それは3.11の如く人生に降りかかる荒波のようでもあり、またその波濤に浮かぶ宝珠は、永遠の安寧を願うかのようである。

伊八の欄間から下へ目を移すと、部屋を間仕切る杉戸には、堤等琳の弟子である五楽院等髄「土岐の鷹」が、板絵として描かれている。

等髄と葛飾北斎が共に堤等琳に絵を学んだことを勘案すると、北斎が同派のこれらの作品を見るために上総の国を周遊する折、この寺を訪れたことは間違いない。

そして、偶然に伊八の彫刻に出会い、その波の表現方法や構図に影響を受け、葛飾北斎の名作、富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』の、印象的な構図が誕生したと考えられる。



本堂を出るとその前に、葉書の名の元祖で、別名「手紙の木」と呼ばれる「たらようの木」(もちのき科)が生えている。

最後に寺の案内の方が、「葉書」に寺の名を書いて、幼児にプレゼントしてくれた。



行元寺を後にして、地元の方がお勧めする料理屋で、昼食を取る。

あじたたき丼・いわし丼・天丼・いくら丼が各自の前に運ばれ、談笑しながら美味しくいただいた。



食事後、今日のメインの目的地である、市内岬町和泉にある飯縄寺(いづなでら)へと向かう。

最近葺き替えられた室町期様式の茅葺屋根の山門(仁王門)は、寄棟造の屋根形状が緩やかに曲線を描き、その暖かいフォルムで訪問者を迎えてくれる。



飯縄寺住職の村田浩田氏の案内で、寺の見所を解説していただきながら巡った。

飯縄寺は、山門から本堂へ直線的に延びる参道で境内は左右分けられ、その参道に対し垂直に目に見えない結界により、空間が宗教上の濃淡に区切られ、各エリアに本堂・庫裡・鐘楼・池などがすっきりと配置されている。

本堂・山門以外に、最近修復された鐘楼は、四面に彫刻が施され一見に値する構築物である。



参道の突き当たりに、こぢんまりとしているが銅葺き入母屋の威厳ある本堂が静かに佇んでいる。

この本堂に施された彫刻はすべて伊八作品で、まず唐破風下の風雨に耐えた彫刻群が見事である。

正面には、烏天狗と大天狗の面が掲げられ、飯縄信仰により飯縄大権現が、本尊として祀られている。

また、このお寺は、大同3年(808年)に慈覚大師(円仁)が開いたと伝えられ、不動明王も本尊として祀られているので、神仏習合の寺であることが理解できよう。




今回は住職の計らいで、本堂内の彫刻群の撮影許可と、一般には公開していない本堂内奥の本尊安置場所に立ち入ることができ、中で本尊の解説と平成の大修理の際に見つかった天井画などの説明を受けた。

この寺のトピックとしては、護摩焚きの煤で図柄が判別できない状態になっていた秋月等琳(三代目堤等琳)作の天井画の修復が始まったことだろう。

行元寺の堤等琳の
弟子の五楽院等髄が描いた「土岐の鷹」の板絵、それに今回修復が始まった飯縄寺にある北斎と等髄の絵の師匠・等琳の本堂天井画などの存在を合わせ考えれば、北斎がこの地で多くの伊八作品を見て、躍動感ある「波」やその構図に影響を受けたという仮説は、真実の可能性が高い。

では、特別に撮影を許可された、本堂の伊八の彫刻を、画像を参考にしながら紹介しよう。



伊八壮年期の最高傑作とされる三面の結界欄間の中央には「天狗と牛若丸」、左右には「波と飛龍」を、見上げるようにして鑑賞できる。

その規模は、一般的な欄間の概念をはるかに超えた広がりと奥行きを備え、見る者を圧倒する。





この地には、牛若丸伝説が口伝され、それを題材に伊八は「天狗と牛若丸」を彫ったようだ。

その伝説とは、京の鞍馬山で大天狗から武術を学んだとされる牛若丸が、その大天狗から「奥州に向かうなら、飯縄寺を訪ねるが良い」と教わり、後の義経は、奥州に下る途中、この地に立ち寄ったというものだ。

寺社建築独特の天井の重層した組物(出組)に合わせるように、左右の「波と飛龍」の欄間形状は台形をしている。

その制約を受けたスペースを上手く活かしながら、自在にうねる波濤と、その上でダイナミックに躍動する龍は、流石に波の伊八と言われるだけに、中央の彫刻(天狗と牛若丸)に負けず劣らず素晴らしい出来栄えである。



また、左右の欄間の波濤は立体的で変化に富み、龍との構図的な変化も様式化しておらず独創的で、同様に独特なパースペクティブを用いた北斎が、伊八の作品に興味を抱いたとしても何ら不思議ではない。

それら三面の結界欄間の彫刻には、建立当時の彩色が薄く残っている。

欄間彫刻と言っても家庭や書院の欄間の規模を越え、一木から掘り出された3面の彫刻は、かなりの奥行きを感じ、装飾的欄間作品と言うよりも、一つの独立した彫刻作品として、人びとを圧倒する秀作である。







彫刻に、特に日本の寺院の装飾彫刻に興味のない方でも、充分に楽しめる伊八の彫刻作品群であることは確かであり、私たちが見学中も若い人たちのグループが境内を散策していた。



本堂の伊八の作品を鑑賞した後、庫裡に招かれお茶をいただきながら、寺宝の大太刀天海和尚の真筆の書を拝見した。

天海和尚は、一般的に徳川家康に重用された怪僧というイメージが定着しているが、いつかそのことについて研究してみたいと思わせる人物である。

また、飯縄寺は神仏混淆の寺であり、本地垂迹説に拠る神道信仰と仏教信仰の神仏習合についても、とても興味深く、ぜひ近いうちに調べてみたいと思う。



庫裡の濡れ縁から境内を眺めると、そこには心が安らぐ空間が広がる。

かつて神社仏閣は、人々の信仰の場であるだけでなく、やすらぎの場であり、出会いの場であり、血縁・地縁の絆を確認するといった機能があった。

こうした人びとの心と生活の拠り所としての役割を果たすために、その機能を演出する装置・仕掛けが、特に地元と密接に結びついた神社仏閣には存在するようだ。 





波の伊八が彫った作品群を充分に堪能した後、飯縄寺を辞し、私たちは近くの太東崎へ向かった。

芸術作品の鑑賞は、五感を存分に働かせ、注意深く見つめるためにかなり疲れる。

箱根卯木が咲く太東崎から、遙かに続く
青い海原や、なだらかに続く九十九里浜の海岸線の眺めは、美術品に接して緊張し興奮した神経を和らげてくれる。



飯縄寺では、一般観覧者と異なり特別に細部に亘り鑑賞できたことは、
「波の伊八」の彫刻の神髄に迫る貴重な体験であり、
江戸時代興隆した欄間彫刻芸術を知る得難い機会だった。




 

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マッキーの美術鑑賞:横浜美術館「松井冬子展」(美楽舎例会)

2012年02月24日 | 美術鑑賞

 

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趣味を共有する者にとっては、そのジャンルで常識と思われることが、実は多くの人には全く知られていないことに、時として驚かされます。

例えば、日本画に興味のある者にとっては、好き嫌いは別として、文化勲章受章者で芸大学長を務めた「平山郁夫」を知らない者はいません。

テレビに出る機会が多く、シルクロードでも馴染みのあるこの日本画大家さえ、一般の方が知らないというのも稀ではないことを、私は経験で知っています。

ましてや、新進気鋭の女流日本画家の名など、自分が考えている以上に、世の中では無名と言って良いでしょう。

ところが、今日紹介する作家は、どういった理由で選ばれたかは知りませんが、国民的なイベントであるNHK紅白歌合戦の審査員として、昨年の大晦日の夜、日本全国にその画像が放映されました。

注意深くご覧の方でしたら、一般の方には無名の画家ですが、「松井冬子」という日本画家がブレイクしていることを、初めてこの時知ったことでしょう。

2月11日(祝日)、今月の美楽舎の例会は、横浜美術館で開催されている「松井冬子展」鑑賞でした。



久しぶりに桜木町駅前に降り立ち、横浜美術館へ向かいました。



駅前のランドマークプラザは、多くの人で賑わっていました。



ランドマークプラザとクィーンズスクエアの広場に設置された巨大なモニュメントは、最上壽之氏の『モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー 』という作品です。



静かな佇まいを見せる横浜美術館。



美術館エントランスの「松井冬子展」紹介のプレート。



建物の中に入ると、チケット売り場には、長い行列ができていました。

絵の鑑賞後、作家のトークショーに参加する予定でしたが、開演2時間前にも拘らず定員近くの人が並んでいるという事で、長時間並ぶことを嫌い、講演を聞くことは止めました。

チケットを買う長い行列も、また講演会を聞くための行列も、この作家の持つ話題性が理由であることは確かです。

列に並んだどれだけの人が、日本画に興味があり、その知識を持っているかは、いささか疑問です。

言い換えれば、そうした人たちに足を運ばせ列ばせるほどの魅力と話題性が、この作家にはあるといえます。

ひところ、「美し過ぎる~」という言い回しが、その職種にそぐわないほどの美人といった意味でよく使われましたが、この作家にはそうした形容が巷ではなされているようです。



「松井冬子展」のカタログ3000円を購入しましたので、それを参考にしてこの作家についてお話しましょう。



作家の趣味なのか、画廊の方針なのか、若手日本画家としてはかなり作品の発表機会を限定していて、したがって一般の方はその絵を見たことがない方も多いばかりか、その作家の名さえほとんど知られていないと思われます。



「松井冬子」は、現段階においては、ごく限られた玄人肌の美術愛好家に、熱狂的に支持されている作家といえます。



美楽舎の会員にも、作品を持っている方がいて、今回の個展にも作品を出品されていました。



ダミアン・ハースト、多賀新を連想してしまった私ですが、これだけおどろおどろしい世界を躊躇無く描く女流日本画家は、今までいなかったと思います。

はっきり言って、巷にあふれる漫画の一部を切りとったような絵を見せられ、これが現代美術だと豪語されても、また考えられない金額でその作品がオークションで取引され評価されているとしても、私などはまったくインパクトを受けたことも、ましてや感動したこともありません。

そうした戯画的絵画がもてはやされると、同じような傾向の作品が巷にあふれかえり、私などは空しささえ感じていました。

そうした流れと異なり、彼女の作品は古典的技法を用いて絹本に描かれ、絵によっては仏画のような色調の作品も見受けられます。

絹本とは、生糸で平織りされた布のことで、その上に絵を描く絹本着色日本画の技法を、この作家は多く用います。

巨匠の軸装の作品を、より人気のある額装に仕立て直してしまう時代にあって、彼女の作品は絹本に描かれるだけではなく軸装も多く、したがって厚塗りは禁物の描き方になります。

また、絹本の特長を生かすことにより、紙よりぼかしが綺麗に出ると言われていますが、彼女の作品もぼかしを効果的に用いています。

今の絵画の方向性と逆行するような手法や仕立てを用いながら、ダミアン・ハーストの作品をを想起させる、ある意味で現代的で奇抜な作品群から、個性的で野心的な作家の意図を感じ取ることができます。

もしもこのような古典的手法で絹本に花鳥風月を彼女が描いたなら、単なる過去の絵画の模倣と思われたことでしょう。



この作家は、肉体の痛みや精神的な苦悩、そしてその先にある死を、あまりにもさりげなく日常的に表現しています。

意図的に表現しているとすれば、悪趣味とも思えるし、自分の分身として作品を制作しているとすれば、あまりにも病的な印象を受けます。

この若い作家に、ここまで描き切る情念と衝動を与えるエネルギー供給源は、いったい何でしょう。

そう思わせてしまう、この作家の極めて個性的で独創的な内面の世界が、見る人により好悪が明確に分かれる作品群を紡ぎ出していることは確かでしょう。

そうは言うものの、長年日本画をコレクションし、絹本の作品も収集し鑑賞してきたものとして、実はかなり好感を持って今回の個展を鑑賞しました。

ただし、ちょっと疑問が残る点もあることを、付け加えておきたいと思います。

この作家が、仔牛の腑分けしたものを写生して、その内臓に美しささえ感じたと述べていますが、それを見て吐き気をもよおす人や、嫌悪感を感じる人もいるように、平均値はあるでしょうが、さまざまな感情が湧き起こるはずです。

彼女の博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」でも分かるとおり、この作家は「痛覚」を作品のモチーフとしていることは確かです。

「仮想現実的である現代的な生き方にリアリティの欠如があるのは、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚などの、身体の著しい退化を感じているからだと思います。そこで、直接的ですが、何がもっとも人体にとって現実的かと考えた時に、触覚である「痛み」は下等感覚であるがゆえにリアリティを呼び起こす最短距離であると。「痛覚」は現実的な自己確認のための手段だと思います。」と、彼女は語っています。

この作家は、自分の作品に対して、さまざまな語彙を用いて意味付けしていますが、知覚神経としての視覚によって覚醒されるものは、直接的に感覚神経に作用させた痛みでない以上、各自の頭脳にある個々の世界のフィルターを通して呼び起こされるものに他なりません。

したがって、内蔵・死体・幽霊などのおどろおどろしい世界をストレートに表現することが、痛覚を劇的に刺激しうるとは断定できません

そうした外面的・表面的な物質の形態や有り様のもう一つ奥底にある何か、宇宙の質量の多くを占めるダークマターの如く見えずとも隠然と存在して、我々の感情を覚醒させる何か、日本画でも傑作とされる作品には、そうしたものが描かれています

私は近美で、ある日本画の巨匠の絵を見ていた時、突如周囲の空気が動き始め、風の音さえ聞こえ出すという、絵画と私とが現実の三次元の世界を超越して一体になったように錯覚した経験があります。


この若手日本画家が、古典的な日本画の技法を武器に、新たな日本画の可能性を追求して欲しいと願っています。



【 松井冬子 略歴 】

1974年 静岡県森町出身
1994年 女子美術短期大学造形科絵画専攻 卒業
2002年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻 卒業
2004年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程日本画専攻 修了
2007年 東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻日本画研究領域 修了
博士号(美術)取得
博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」

◆ 個展

2004年 「レスポワール新人選抜 松井冬子展」銀座スルガ台画廊、東京
2005年 「松井冬子展」成山画廊、東京
2007年 「松井冬子 Narcissus」成山画廊、東京
2008年 「松井冬子展」平野美術館、静岡
2009年 「松井冬子 下図展」成山画廊、東京
2010年 「松井冬子」ギャルリー・ダエン、パリ、フランス
2011年 「松井冬子 東日本大震災 被災地支援オークション」成山画廊、東京
2011年 「松井冬子展—世界中の子と友達になれる」横浜美術館、神奈川




 【美楽舎】
私が発案し、美術を愛好する仲間と美術関連の仕事をしている人たちを集め、1年間の準備研究期間を経て、「美学社」として1990年に発足した、「美術愛好者・コレクター・美術関連業務者などの美術親睦団体」が、現在の「美楽舎」です。
美術愛好家一人では実施が困難な、美術館学芸員、美術作家、大学研究者、コレクターを招きお話を伺ったり、アトリエ訪問を実施するなど、毎月多岐にわたる美術関連の例会を実施し、会員の美術に対する理解を深めています。
美楽舎は、美術愛好家・コレクターの団体として、日本有数の歴史と活動歴があり、現在では一目置かれる存在となっています。
私が初代の代表をしていた頃、私自身も30代の半ばを過ぎた程度の年令で、会員の年令も30代・40代が中心でしたが、現在の会員の平均年令は高くなりつつあり、より多くの若手の入会が望まれています。
美術愛好家は、誰でも入会できますので、興味ある方は下記の事務局にお問い合せ下さい。

【美楽舎 事務局】
東京都中央区京橋3-9-2プラザ京橋ビル3F K’s Gallery内
Tel:03-5159-0809
Fax:03-5579-9004
Mail:info@bigakusya.com
ホームページ:http://bigakusya.com/

 

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マッキーの美術:2011年美楽舎忘年会…矢島新さんの講演

2011年12月11日 | 美術鑑賞



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12月4日(日)、私が所属する美術愛好家の団体「美楽舎」の12月例会と忘年会があり参加した。

12月例会は、「日本美術のオリジナリティ -素朴とわびー」と題して、跡見学園女子大学教授・矢島新先生の講演であった。

矢島氏は、日本における素朴な文字や絵の氾濫、マンガやゆるキャラの興隆などから考えれば、「素朴さを愛するという事は、日本文化の根幹に関わる問題ではないか。」と問題提起をする。

矢島氏によれば、素朴とは「人為の完璧を求め過ぎないおおらかな態度」と言うほどの意味で用い、西洋絵画のアンリ・ルソーを代表とする素朴派や、アンフォルメルの先駆者ジャン・デュビュッフェが提唱したアール・ブリュット(生の芸術)すなわちアウトサイダー・アートとは一線を隔す。



ところで日本文化は、古くから中国文明の影響を受け、そこから多くを移入してきたことは、自明である。

中国文明の美意識は、完璧を追求するリアリズム、モニュメンタルな表現、そして精緻極まる完成度であり、そうした厳格で重厚な造形に接した日本の王朝貴族らは、その中国文明の特質に、「きつ過ぎると感じたのかもしれない」と、矢島氏は指摘している。

そういった意味で、天平文化を代表する薬師寺三尊像や興福寺阿修羅像などは、はたして日本の美意識を代表する美術品かと、矢島氏は疑問を呈する。


(奈良・東大寺戒壇院の広目天立像)

矢島氏は、長年渋谷にある松濤美術館の学芸員をされ「素朴美の系譜」(2008~2009年)や、美楽舎会員の鈴木忠男さんのコレクションも展示された「江戸の幟旗」などの企画がある。

絵画においても、北宋の画家である郭熙(かくき)の山水画「早春図」を代表とする精緻な表現は、日本に受け入れられず、非リアリズムに持ち味を感じる絵画が日本では描かれ始める。



その例として、室町時代に登場した素朴な絵画スタイルを挙げ、長谷寺縁起、玉垂宮縁起、つきしま、かるかや、那智参詣曼荼羅、富士参詣曼荼羅などを列挙している。

人の技術により自然を完璧にコントロールしようとした造形としての唐物に対し、日本人により見出された「わび」を備えた高麗茶碗、また意図された「わび」を具現化した利休や織部の茶碗などは、絵画における素朴志向と一脈通じるものがあると彼は述べている。

次に室町時代の素朴スタイルを受け継ぐ絵画として、大津絵を挙げている。

また、素朴に通ずる雅として光琳・乾山を挙げ、意図した素朴として与謝蕪村の俳画を指摘している。




(蕪村の峨嵋露頂図巻)

与謝蕪村の絵画について、ブログに取り上げ論じたので、興味ある方はご覧頂きたい。

対決「巨匠たちの日本美術」…その3「池大雅と与謝蕪村」(2)

対決「巨匠たちの日本美術」を観て…その3「池大雅と与謝蕪村」(1)




素朴絵の範疇に入り、自己表現を前面に出したものとして、描きたいものを描きたいように描いた白隠の禅画と、心象風景を率直に表現した浦上玉堂の南画を挙げることができる。



明治の近代化は西洋化とほぼ同義であるが、西洋ではその頃、リアリズムを脱却して、自己表現の為に「素朴」に近づいた時代であった。

しかし、日本人は最先端のモダンアートではなく、古典的リアリズムの習得を目指したと、矢島氏は指摘する。

同時代の印象派を代表するモネと、本格的な油絵技法を習得した高橋由一を対比して話された。



大正時代に入ると、伝統回帰と南画的表現の復興といった流れが起きた。

その例として、萬鉄五郎や岸田劉生の晩年の南画が挙げられる。

また、自己表現のメディアとして、創作版画家の川上澄生・谷中安規・棟方志功を列挙している。

そして、器物に完成度以外の価値を見出した民芸運動の指導者の柳宗悦を、素朴回帰の例として挙げている。

以下は、民芸の流れを汲む陶芸家で人間国宝となった二人の陶芸家について述べたブログなので、参考にご覧頂きたい。

マッキーの現代陶芸入門講座(12)…島岡 達三の湯飲み・ぐい呑み

マッキーの現代陶芸入門講座(16)…金城次郎 琉球陶器の魅力



(丹波の古陶)

さて、今回は「素朴とわび」という日本美術を語る上でキーワードとなる言葉を切り口として、矢島新氏に日本美術の流れを語っていただいた。

新しい視点で過去の出来事を読み取るとき、多少異論はあるだろうが、私にとっては興味深く楽しい一時であった。

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マッキーの美術鑑賞:『波の伊八』の彫刻がある飯縄寺住職 村田浩田氏講演

2011年05月26日 | 美術鑑賞



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5月15日(日)、 山菜採りに山に登った帰り、銀座の画廊「Live&Moris」で行われた美楽舎例会に、山登り姿で参加しました。

今月の例会は、現代美術が主流になりつつある美楽舎例会としては珍しく、会員の片岡さんの企画で、千葉県いすみ市にある天台宗飯縄寺住職・村田浩田氏を招き、お話しを伺いました。 

村田浩田氏は、今年1月2日、NHKで放映された葛飾北斎の版画「神奈川沖浪裏」を、彼が描くにの参考にしたと言われる「波の伊八」の彫刻のある寺の住職です。 

今回の例会で行われた講話のポイントは、以下のようなことでした。

(1)住職を務める天台宗飯縄寺の縁起について

(2)寺に彫刻がある、江戸時代の彫刻師「波の伊八」について

(3)寺と縁の深い、江戸初期の僧・天海について

(4)神仏習合について 

 今回のブログでは、上記のうちの(1)と(2)について、まとめておきたいと思います。 

 

【住職を務める天台宗飯縄寺の縁起について】 

天台宗飯縄寺(いづなでら)は、808年慈覚大師円仁の草創 

江戸時代には幕府の知恵袋・天海とも縁があり、16世紀後半に土岐氏によりご本尊の飯縄大権現を頂き、現在の飯縄寺となりました。

 飯縄(いづな)の由来は、信州戸隠の霊山の一つである飯縄山(飯綱山)の神である飯縄天狗を、武運長久の神として拝み、土岐氏も信仰していたことによります。 

すなわち、飯縄寺は天台宗の仏教寺院であり、土着的な天狗を神と仰ぐ、神仏習合の寺でもあります。 

権現(ごんげん)は日本の神の神号の一つで、日本の神々は仏教の仏が仮の姿で現れたものであるという本地垂迹思想に基づいた神号です。 

という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを文字で示しています。 

 ちなみに、元和3年(1617)2月21日、徳川家康は東照大権現の神号を朝廷から受けました。 

寺のご本尊の飯縄大権現は、天狗の御影で、防火・海上安全・商売繁盛・厄除けなどの御利益があるとされています。 

【江戸時代の彫刻師「波の伊八」について】 

今開催されている、江戸東京博物館の特別展五百羅漢増上寺秘蔵の仏画幕末の絵師狩野一信展など、江戸時代美術の再評価が続いています。 

画家では、辻 惟雄の『奇想の系譜』等で、岩佐又兵衛狩野山雪伊藤若冲曽我蕭白長沢蘆雪歌川国芳をとりあげ、再評価の口火を切りました。 

彫刻においても、日本(越後)のミケランジェロと称される石川雲蝶が、最近人々の注目を集めました。 

同様に、彫刻に興味ある人たちの間で「波の伊八」と呼ばれた「武志伊八郎伸由」(初代伊八)の彫刻が、静かなブームとなっているようです。 

特に、『波の伊八』の彫刻が、葛飾北斎による連作錦絵『富嶽三十六景』中の傑作『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』の構図に、影響を与えたと言われていることが、ブームに拍車をかけている要因にもなっています。 

 

 

波の伊八(なみのいはち)は、宝暦元年(1751)に生まれ文政7年(1824)年に亡くなっています。

安房国長狭郡下打墨村(現・千葉県鴨川市打墨)に生まれ、多くの彫刻師が競うなか、「関東に行ったら波を彫るな」と言わしめた人物が、初代伊八こと武志伊八郎信由です。

伊八は、下打墨村で代々名主を務めた武志家の5代目として生まれ、
10
歳の時から彫刻を始め、躍動感と立体感溢れる横波を初めて彫り以来作風を確立しました。

飯縄寺の現在の本堂は、天明4年(1784年)から寛政9年(1797年)にかけて再建され、その彫刻は全て伊八の作品で、伊八40代の約10年を費やして完成させました。

建物正面向拝の龍・象頭・獅子頭など数多く残され、特に内陣の結界欄間三点は、伊八壮年期の傑作とされています。 

また、飯縄寺の本堂天井画の墨絵「龍」は、平成の大修理の際に、煤に被われた天井から奇跡的に発見されたものです。

「秋月等琳」の銘があり、「雪山」の落款から、葛飾北斎の師匠であり雪舟流の踏襲者であった三代目堤等琳の作品であることが判明しました。

北斎は、記録によると房総方面を旅したことが知られていますが、その時に彼の師匠の作品を見るために飯縄寺に立ち寄ったことも考えられます。

葛飾北斎が版画「神奈川沖浪裏」の構図を考えるときに、すでにその当時名が知れていた「波の伊八」の彫刻からインスピレーションを受けたとしても、不思議ではない関係があったわけです。

通風や採光のために設置された欄間に彫刻をほどこした欄間彫刻は、日本間の装飾として、寺院・神社・ 書院造りに始まり、桃山時代から江戸時代中期に至る間に発達しました。 

特に江戸時代中期には、建築様式として欄間を飾る彫刻が流行し、多くの彫刻師が作品を残しています。

  

彫刻作品は立体ですので、見る方向や光の当たり具合によって、同じ作品でも日々異なる印象を受けます。 

欄間彫刻は、欄間という限定された空間に壮大な世界を彫り込み、季節や時間で異なる光線を受けながら、彫刻そのものと、その陰影と遠近感で、見る人たちにさまざまな感動と思索を与える装置として機能していたのでしょう。
 

ぜひ機会を得て、実物の伊八作の彫刻を拝見したいと思いました。 



 
『飯縄寺』:千葉県いすみ市岬町和泉2935-1  

『exhibit LIVE & Moris gallery』:東京都中央区銀座8-10-7東成ビルBF 


この例会の翌年、実際に美楽舎例会として飯縄寺を訪れ、波の伊八の彫刻作品を鑑賞した時の下記のブログを、興味ある方は御覧ください。

マッキーの美術鑑賞:飯縄寺を中心に『波の伊八』の彫刻を訪ねて

 

 

 

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マッキーの美術鑑賞:シャガール『ロシア・アヴァンギャルドとの出会い』展

2010年09月24日 | 美術鑑賞
10月11日まで上野の東京芸大の美術館で開催されているシャガール展を、9月23日(秋分の日)に観に出かけました。

今回のシャガール展は、『ロシア・アヴァンギャルドとの出会い~交錯する夢と前衛~』と銘打って、シャガールをロシア美術史上の系譜に位置づける企画です。

出展された作品は、パリのポンピドー・センターの収蔵品で、シャガールの初期から晩年までの絵画・素描・版画に加え、同時代のロシアの前衛芸術家(ロシア・アヴァンギャルド)たちの作品も展示されています。



シャガール展の図録・表紙絵は、1954年作の『日曜日』


シャガール…この芸術家は、日本人に好まれる人気画家と言えます。

小さな子どもが、自分の描きたいものを時間も空間も制約を受けずに楽しく描いた絵と、シャガールの夢の世界を描いたような絵に、共通したものを感じるからかも知れません。


私が今まで感じてきたシャガールの印象を端的に言えば、その色彩の美しさ・幻想的に描かれた構図、そして夢のような遠近法の倒置に特徴があると思っていました。

しかし、シャガール自身と彼の絵の底流に流れるロシアの大地とロシアのアヴァンギャルドとの交流を、今回のシャガール展で感じ取ることができた点で、貴重な美術鑑賞ができました。



ロシアのアバンギャルド・ナターリヤ・ゴンチャローワ(1911年)


シャガールは、1887年現ベラルーシ共和国のヴィテブスクで、ユダヤ人の息子として生まれています。

図録巻末の年譜を見ると、この同じ年、デュシャンとル・コルビュジェが生まれています。

今回のタイトルの文脈は、この生誕の地の人々や家々の風景や家畜たちをシャガールの原風景として捉え、ロシアのアバンギャルドの人たちからの影響がシャガールの創作活動の源流となって晩年まで影響を与えたということを重視して、ロシアの作家の中にシャガールを位置づける試みです。

シャガールは、ミハイル・ラリオーノフ、ナターリヤ・ゴンチャローワなどロシアの前衛作家(ロシア・アヴァンギャルド)の影響を受けつつ、年代を追って作品を観ていくと、明らかにファン・ゴッホ(印象派)、ゴーギャン((ポスト)印象派)、セザンヌ((ポスト)印象派)、マティス(フォービズム)、キュービズム(ピカソ・ブラック)などの影響を受けていることが分かります。

この時代のさまざまな芸術の潮流に影響されながらも、シャガールがロシアのバナキュラーなアイデンティティを失わずに、彼独自の絵画が形成されていく軌跡を、この企画展で垣間見ることができました。



立体派の風景(1918~1919年)


シャガールのパリ時代初期の大作「ロシアとロバとその他のものに」は、彼にとってもエポックといってよい作品ではなかったかと思います。

その絵は、ロシアのバナキュラーな雰囲気を持ち、そして独特の構図や色使いなどが、彼のその後の絵の展開を暗示させるようです。



ロシアとロバとその他のものに(1911年)


1940年前後から、私たちがシャガールに抱く雰囲気を持った作品群を、数多く製作しているように思います。

1944年、最愛の妻ベラが亡命先のアメリカで急逝し、その悲しみの中、1945年に1933年に描いた「サーカスの人々」を二つに分割し、左半分を描き直した作品が下の「彼女を巡って」です。

左に顔が反転して描かれている人物はシャガール本人で、右にベラが涙を流す姿で描かれています。

そして、中央にはヴィテブスクの町並みを映し出した水晶球が描かれ、シャガールとベラの望郷の念がひしひしと伝わってきます。



彼女を巡って(1945年)



1933年に描かれた『サーカスの人々』の左半分を元に『彼女を巡って』は描かれた


「家族の顕現」もかつて描かれた作品を、かなり手直しをして完成されています。

左に画家自身を描き、その背後に追憶の家族や最愛のベラを描き、その足元には月夜の故郷ヴィテブスクの町並みが描かれています。

絵の中に、時空を越えて、彼の愛する対象を彼の周囲にちりばめた作品と言えます。



家族の顕現(1935~1947年)…シャガールはかつて描いた絵を、何年も後まで手を加え、時には異なる作品としている


1966年から1967年、ニューヨークにあるリンカーン・センターのメトロポリタン歌劇場の演目であるモーツアルトの『魔笛』の装飾と衣装などの舞台芸術をシャガールが担当しました。

今回、その時にシャガールがデッサンした素描が展示されていて、タブローとは異なる活き活きとした作品として、目を楽しませてくれます。



シャガールが担当した歌劇モーツアルトの『魔笛』の素描


二十数年前、金鈴画廊の岡田さんから購入したシャガールのリトグラフ「魔笛Ⅰ」を、私は自宅の廊下に飾っています。

エディションとサインが入ったリトグラフで、このシャガールの版画を目にしながら生活しているので、シャガールは私にとって身近に感じる作家の一人です。



自宅に飾られているシャガールのリトグラフ『魔笛Ⅰ』



シャガールのサイン
シャガールのリトグラフには、エディションやサインが入っていない挿画やポスターが出回っています。
それらはかなり部数を刷っているので、購入する場合は注意が必要です。


今回のシャガール展で実際にその作品を間近に観て、シャガールの魅力はまずその色使い、その彩色のすばらしさであることが再確認できました。

反対色を対比させる大胆な色使いと、単純化された簡潔な構図や遠近法の倒置が、シャガールの絵の特徴といえます。

またシャガールの絵には、シャガール本人や親しい人たちが登場し、重層的で神秘的な空間が絵の中に広がっているように私は感じます。

後世に残り、且つ芸術史上に影響を与えた芸術家に共通する、一目見てその作家と判るアイデンティティが、シャガールの絵にはあります。




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マッキーの美術鑑賞:院展日本画家國司華子さんの個展

2010年08月07日 | 美術鑑賞

「ギャラリー須知」で開かれていた個展で、久しぶりに國司華子(くにしはなこ)さんの作品を鑑賞しました。

会期は7月17日(土)まででしたが、ぜひ作品を拝見したいと思いつつ、伺ったのは会期の最終日でした。

教室のある人形町の隣駅の茅場町駅近くにある画廊に、授業のある教室に昼には戻る為に、画廊が開く11過ぎに訪れました。

「ギャラリー須知」は、開廊して間もない画廊です。

画廊が入っているビルは、建てられてからかなりの歳月を経て、その経年劣化が良い方向に働いたこじんまりとした建物でした。

年季の入ったビルに開廊する画廊が結構ありますが、レトロなビルであることが、対照的に白を基調とした美術画廊の内部を、結果的に強調する効果があります。



個展会場のギャラリー須知
中央区日本橋茅場鳥2ー17-13 第二井上ビル2階


画廊に入ると、ネコをモチーフとした國司さんの絵が10点近く壁面に飾られていました。

久々に國司作品を拝見しましたが、ここ十年ほど、國司さんはネコを好んで絵のモチーフとして取り上げていることを知りました。

90年代の女性を中心とした國司作品を見慣れていた私は、始めは違和感を覚えました。

しかし、並べられた猫の絵をしばらく眺めているうちに、懐かしさがこみ上げてきました。



國司華子画集「ネコココ―猫、此処」…求龍堂より


90年代の初め、私は美学社(現在の美楽舎)を中心に、美術愛好家を集めてさまざまな活動を行っていました。

ちょうどその頃、國司華子さんは1990年の院展に初入選し、注目を集め始めた頃でした。

1991年の個展で、私は國司さんの作品を購入しました。

この個展では、コレクターの集まりである美学社の会員の多くが争って個展会場に出かけ、國司さんの作品を購入しました。

私は仕事の都合で、だいぶ遅くなって画廊に出向きましたが、ほとんどの作品が売れていて、入手ができないのかと心配したことを思い出します。

初日にしてごく僅かしか残っていなかった作品の一つが、私が購入した、そして画集に掲載されている「今日コノ頃PartⅡ」でした。



「今日コノ頃PartⅡ」


國司さんに案内されその変形20号の作品の前に立って、作品について少し本人と話をしたことを覚えています。

「作家の思い入れと、コレクターの見方は、少し違っているようですね。」、國司さんはこの作品を前に、そんなことを私に話しました。


國司さんは、東京芸大の平山教室出身で院展に所属する日本画家ですが、その作品はさまざまな絵画から影響を受けていると思われます。

この作家の優れている点は、そうした過去から受け継ぐ遺産を、自分なりに消化して、それを自分の個性としていることです。

主題となる対象以外に、その背景にかなりのエネルギーをかけていて、対象と背景のせめぎ合いと緊張感が、作品に独特の印象を醸し出しています。



國司華子画集「カ・タ・コ・ト」…求龍堂より


かつて、日経アートという雑誌がありましたが、その紙面にコレクターとして何がしかの金額(300万ほどの予算を想定したものだったと思います)でコレクションするなら、どんな作品をコレクションをするかという企画がありました。

そこで、紙面の見開きを使い、私のコレクション哲学を語り、具体的なコレクション例を紹介したことがありました。

その紙面の中で、私は数人の作家の一人として國司華子さんを取り上げ、若手日本画家作品のコレクションを薦めたことがありました。

その後、國司さんとは、美学社の例会で、おそらくは福島県立美術館を訪問したときだったと記憶していますが、ご一緒して日帰りの旅を楽しんだことがありました。


國司さんの作品は、90年代に多く描いた女性像も、またここ十年間のネコの作品も、その独特のマティエールに特徴があるとおもいます。

垂らし込み、大胆な刷毛目、金銀箔の使用などの日本画の技法を駆使し、またその一方日本画らしからぬフレスコ画風のマティエールを感じる人肌など、さまざまな技法の展開が画面上でなされているように思います。



國司華子画集「カ・タ・コ・ト」…求龍堂より


私にとって、國司華子さんの作品を見たときの最初の強い印象は、実はそこに描かれている女性の目でした。

決して男性にとって性的に魅力的な女性では無いけれども、気になる存在の女性が描かれています。

90年代の女性像と、ここ十年のネコの作品を眺めると、ある共通点があることに私は気付きます。

それは、いずれも「目」が口ほどにものを言っていることです。

ネコの特徴はさまざまありますが、ネコにとって「ネコの目」はさまざま慣用句があるように、印象的です。

ネコは、かわいく振舞いますが、犬と異なり決して人間に媚びない野生の本能を失っていません。

そして、闇夜の中でさえ機能する独特な目を持っています。

「ゲテモノ」と揶揄された個性的な作品群を生み出した片岡球子ほどではないですが、鑑賞する側に媚びない点は國司華子さんも同様で、その特質はネコのそうした性質と共鳴する点があるようです。

絵から受ける印象というものは、作家自身が発する何かであり、それ以外の何物でもないと思います。



國司華子画集「ネコココ―猫、此処」…求龍堂より


國司華子さんの作品は、まず主題である対象で、私の目を引き付け、次に丹念に仕立てられた背景が、主題である対象の背後に目を向けさせます。

國司さんの絵は、見る者に想像を喚起させ絵画の中の「空間」に思いを馳せる、そうしたイリュージョンが存在すとも言えます。

今回の個展の作品を鑑賞して、かつての國司さんの作品よりも色の使い方が大胆になったという印象を受けます。

自由気ままなネコを表現するのに、そうした多彩な色遣いは効果的に働いているようです。



サインをいただいた國司さんの画集


近年、海外のオークションで、日本人現代美術作家の作品が、極めて高く競り落とされています。

しかし、それらの多くは、いわば日本の漫画・アニメを中心とするサブカルチャーの影響を強く受けた作品が多いという印象を受けます。

ただ、サブカルチャーという語彙を使って現代美術を語ること自体、無意味かも知れませんが。

そうした作品は、海外でオリジナリティのある作品と評価されているようですが、影響を受けたであろうカルチャーで溢れる日本では、必ずしも個性的には映らない(草間弥生さんを除く)のは、私だけでしょうか。


いずれにしろ、日本人がこれから世界で通用する絵画を生み出しうるなら、サブカルチャーを含む広く日本の伝統に根ざした、バナキュラーな精神性のある作品ということになると、私は考えます。

そうした観点で私なりに國司華子さんを評価すれば、これからも楽しみにその創作活動を注目していくに値する作家であることは確かです。



國司華子画集「ネコココ―猫、此処」…求龍堂より


國司と言う苗字を見て、何か思いあたる人は、長州出身の方か、歴史に興味のある方でしょう。

幕末に、蛤御門の変を引き起こした長州に対して、長州討伐の勅命が出たときに、長州征伐を回避するために切腹した三家老の一人、国司信濃の直系が実は國司華子さんです。




國司華子 プロフィール

1989年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程日本画専攻修了
1990年 有芽の会 [有楽町アートフォーラム] 以降1992年まで出品
院展 初入選 [東京都美術館] 以後毎年出品
1991年 春の院展 初入選 [日本橋三越]
有芽の会 [有楽町アートフォーラム] 全国更正保護婦人連盟会長賞受賞
1993年 有芽の会 [有楽町アートフォーラム] 法務大臣賞受賞
1994年 菅 楯彦大賞展[倉吉博物館] 同'96年
有芽の会 [有楽町アートフォーラム] 同'94年
1995年 第80回院展 奨励賞受賞 [東京都美術館]
個展『一期一会』[新生堂]
1996年 東京日本画新鋭選抜展 [大三島美術館]
1997年 第5回国際コンテンポラリーアートフェスティバル(NICAF)
1998年 回顧個展 [山口市立クリエイティブスペース赤れんが]
1999年 第84回院展 奨励賞受賞[東京都美術館]
NICAF'99国際コンテンポラリーアートフェスティバル [東京国際フォーラム]
個展『花鳥風月』[京都蔵丘洞画廊]
個展 [渋谷西武美術画廊]
2000年 春の院展 奨励賞受賞
個展『Byobu』[佐藤美術館]
2001年 東京日本画新鋭選抜展 特別賞受賞 [大三島美術館]
第86回院展 奨励賞受賞 [東京都美術館]
N.Y.個展『Screens and Paintings』[RADIO HOUSE GALLERY]
2002年 春の院展 春季展賞受賞
2003年 画集『カ・タ・コ・ト』求龍堂より出版
2005年 第90回院展日本美術院賞 受賞(大観賞)/天心記念茨城賞 受賞
2006年 第91回院展 奨励賞受賞
画集『ネコココ―猫、此処』求龍堂より出版
その他 個展、グループ展多数
現在 日本美術院 特待
   日本美術家連盟会会員

(追伸)2023年現在 東京藝術大学准教授 日本美術院同人


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マッキーの美術鑑賞:日和崎尊夫の木口木版『薔薇刑』

2010年01月29日 | 美術鑑賞
 『木口木版画は、現代ではその制作者を数多く持たない時代であるけれど、自分はこの仕事を、自分なりに発展させたいと考えるのだ。

この作業ではネをあげることが許されないかわり、せっかちな世間のわずらわしい時間にまどわされることもない。 

それは、陽の光りの射してくる前の薄明であり、夜を中心とした黄昏を結ぶ雄弁であるより沈黙を土台としたつぶやきである。

暗い闇の深淵よりさしてくる亀裂の光をビュランは捉えなければならない。

陸では森林が良く、海では深海が良い。青空よりも宇宙の彼方がなお良いと思う。

それは木口木版画に使われるツゲやツバキの木の密な年輪が要求する材質のせいでもあるし、これら樹木の記憶がビュランを握る手によって呼びさまされるのであるかもしれない。

暗闇の中から光で何物かを取り出すこと、それは過去と未来を結ぶ手立てかも知れない。

もしそうでなくて何百年か先の世界を予言することができるかもしれない。

それを私はねがう。』

……日和崎尊夫の文章より抜粋




薔薇刑の表紙


1986年に、金鈴画廊の岡田さんから購入した日和崎尊夫の木口木版の版画集「薔薇刑」を今日は紹介します。

1960年代、駒井哲郎、池田満寿夫とともに現代版画の旗手として頭角を現した日和崎尊夫は、五百数十点の木口木版の作品を遺し、1992年に50歳の若さで亡くなりました。



薔薇魚







樹木


木を輪切りにして繊維の詰まった堅い面を版に、刃先の鋭いビュランで彫り込む木口木版技法は18世紀にイギリスで始まりました。

その精緻な表現が書物の挿画としてさかんに用いられましたが、その後の写真製版にとってかわられ急速に衰微してしまいます。

廃れていた木口木版画技法を独学で身につけ現代に蘇らせ、『闇を刻む詩人』とも言われる日和崎尊夫は、詩画集や版画集も多く手がけました。














そのまま刷れば、黒一色の世界となる木口に、その暗闇から微細な線で紡ぎ出す日和崎尊夫の木口木版の世界は、長い長い年月の果てに形成された年輪のように、凝縮された美しさを私に感じさせます。

その世界は、日和崎自身の心の中の世界であり、また芸術家の鋭い感性で見つめたこの世の姿なのかも知れません。

鋭いビュランを使い堅い木口に緻密に線を刻む作業は、彼を精神的に極限状態に追い込むこともあったでしょう。

彼の版画は、私に微笑みかけてはくれない。

微細に切り込んだ白い線の背景にある、暗黒の世界が持つ不安や恐れや無常の上に漂う、現世の危うさ を私に語りかけてくるようです。



薔薇刑



寓話



凝視


木版画は、木を彫って版を作る技法で、版画技法としては最も古いものです。

また、木版の技法には二つあり、一つは木の幹を縦に切り、木目が水平に出るように挽いた木の板を彫って版木とする、最も一般的な版画技法の『板目木版』がまずあります。

棟方志功の版画や浮世絵などがその例で、主に日本で発達した技法です。



『花』一部拡大図


もう一つは、堅い木の幹を輪切りにして、その堅い中心部を使い版木を作る今回紹介した『木口木版』の技法があります。

木口木版はイギリスで生まれ発達し、木口の版木はとても硬いため彫刻刀は使えず、銅版画の道具であるビュランを使って彫ります。

木口木版は板目木版とくらべて精巧で密度の高い彫版が可能ですが、現在においては少数派の技法となっています。


また木版画には、輪郭線を彫り残して輪郭線にインクがつく陽刻法と、輪郭線を彫ることにより輪郭線にはインクがつかない陰刻法があり、ほとんどの木版画はその二つの技法を駆使して版を刻むことになります。



『海』一部拡大図


この時期、私は版画に興味を持ち、萩原英雄「赤の幻想」「石の花(赤)」、山中現、中山正、黒田茂樹、斉藤清、井上公三、畦地梅太郎、中林忠良、相笠昌義、浜田知明、野田哲也、多賀新、木下恵介、東谷武美、北川民次、香月泰男、芹沢介、アイオーなどの作品を集めました。


又、日本版画協会が出した、『東京百景』(東京の風景を主題に1年に10作家、10年で計10集100人の作品を収録)も購入。







寓意






現代の木口木版作家としては、柄澤 齎、小林 敬生、平野 明、齋藤 修などを挙げることが出来ます。

木口木版の微細な線を刻む緻密な作業は、手の器用な日本人に適した版画とも言え、今後の若い作家に期待したい。



【日和崎尊夫略歴】

1941年高知県に生まれる。
1963年武蔵野美術学校西洋画科を卒業する。同年日本美術家連盟の版画工房で畦地梅太郎の講習会を受講し、木版画をはじめる。
1964年恩地孝四郎の著書を通じて木口木版に関心を持ち、木口版画をはじめる。
1966年日本版画協会新人賞、翌年日本版画協会賞を受賞する。
1968年ごろ『老子』、『法華経』から仏教哲学の概念である「カルパ」(43億2000万年という超時間)を知り、以降〈KALPA〉の連作を中心に「永遠」をモチーフとする。
1969年フィレンツェ国際版画ビエンナーレ金賞を受賞、国際的な注目を集める。
1974年から75年にかけて文化庁在外研修員としてヨーロッパに滞在する。
1977年木口木版画家の会[鑿の会]結成に参加。
1991年山口源大賞を受賞
1992年没する。

黒地に点刻した白い形が浮び上る密度の濃い作品で知られ、日本の現代版画に木口木版の地位を確立した先駆者。




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マッキーの美術:美楽舎忘年会…現代アートのチアリーダー・山口裕美さんの講演

2009年12月22日 | 美術鑑賞
12月13日(日)、恒例の美楽舎(美術愛好家の団体)の例会および忘年会が、青山の彩画廊でありました。

忘年会に先立ち、12月の例会は『現代アートのチアリーダー・山口裕美さん』の講演が予定されていていました。

山口さんについては、朝日新聞のコラムなどを読んで知っていましたので、その講演は興味がありました。


山口裕美さんのプロフィール

アートプロデューサー。「現代アートのチアリーダー」として、現代アートの応援団を作るべくウェブページ、トウキョウトラッシュを主宰。

アーティスト支援NPO法人「芸術振興市民の会」(CLA)理事。e AT金沢99総合プロデューサー。

学校法人KIDI学園顧問。著書に「トウキョウトラッシュ・ウェブ・ザ・ブック」(美術出版社)がある。

現在は東急電鉄のラジオ、FMサルースのパーソナリティーも務めている。





美楽舎での山口裕美さんの講演は、前回は私は参加していませんが2回目となり、今回の内容は『最近の仕事』と『53回ヴェネチアビエンナーレ報告』でした。

『現代アートのチアリーダー』を自任しているだけあって、山口裕美さんはエネルギー溢れる才色兼備の女性。


『最近の仕事』の中で、『掛川現代アートプロジェクト』の話は、今回の講演の中では特に面白い内容でした。

このプロジェクトは掛川城の隣にある二の丸美術館と二の丸茶室を会場に、お茶会に使える道具を1つずつ、ゲストのアーティストがつくっていくというもの。



梅の花が咲く素晴らしい掛川城のすぐ隣の二の丸美術館と二の丸茶室が会場
『夜の美術館と現代アート茶会―和魂洋才』がタイトル 
開催時間は、なんと18:20~20:45(美術館→茶室)
《企画・プロデュース:山口裕美》



中村ケンゴとアクリル職人の俵藤ひでとさんのコラボで、棗(抹茶を入れる蓋物容器)を制作。




二の丸美術の木下コレクションの贅をつくした根付の数々





山口裕美さんの53回ヴェネチアビエンナーレ報告概要

現代美術の世界的な祭典。

「ビエンナーレ」とは「隔年」という意味のイタリア語で、同様な芸術祭の多くが「ビエンナーレ」や「トリエンナーレ」などとイタリア語で名付けられているのは、ヴェネチア・ビエンナーレが範とされていることによるもの。

6月7日から11月22日まで開催される今回のビエンナーレのテーマは「Making Worlds(世界を創る)」。

世界のアーティストを集める主催者による企画展示部門会場(アルセナーレ)と、国別パビリオンで自国を代表する気鋭のアーティストを送り込んで出展させる形式の会場(ジャルディーニ)があり、更に街中にも幾つも展示会場が設けられました。


国別参加部門の金獅子賞が贈られたのは、アメリカ館。

企画展示部門の金獅子賞は、ドイツのトビアス・レーベルガー。ジャルディーニ地区にある旧イタリア館に新設したカフェの空間。

今回の日本館展示は、やなぎみわ氏が提案する「Windswept Women: 老少女劇団」と題されたインスタレーションでした。


総合ディレクターのバーンバウム氏は、「アート作品は単に物や製品というだけでなく、世界観を象徴している。世界を構築する1つの方法と見なすこともできる」と説明しており、展示も従来の博物館スタイルではなく、スタジオや研究所といった、製造過程や創造・訓練の現場に寄り添った形を目指した。


「アートの言語に革命を起こした」として、故ジョン・レノン(John Lennon)さんの妻で芸術家のオノ・ヨーコさん(76)が、今年の生涯業績部門の金獅子賞を受賞。


(ヴェネチア・ビエンナーレへの出品者には、過去、セザンヌ、ピカソ、マティス、ジョーンズ、リキテンスタイン、ラウシェンバーグらが名を連ねています。日本のこれまでの主な参加者には、藤田嗣治、横山大観、岡本太郎、棟方志功らがいます。)






講演を聞く前におおよその彼女の仕事内容や考え方を知るために、2冊の著書を購入。








当日は、その本を持参して、山口裕美さんにサインをいただきました。


講演後、山口裕美さんも参加して恒例の美楽舎忘年会で盛り上がり、今年最後の例会を締めくくりました。



《現代美術とは・草原 真知子》
意味不明な『現代美術』を端的に表現した分かり易い文章なので、早稲田大学教授・草原 真知子さんの文章を掲載します。

現代美術(Contemporary art)とは一般に、1960年代もしくは70年代から現在までのアートを指す。では現在制作されているアート作品はすべて現代美術かというと、そういうわけではない。19世紀末から20世紀前半にかけて近代美術(Modern art)が築いた基盤の上に発展し、その後の価値観の多様化を反映するのが現代美術だ。

近代社会の成立につれてアートの意味や方法も変革を遂げ、印象派や抽象絵画などを含む近代美術が、今日の美術の概念をつくりあげてきた。しかしモダニズムの終焉とともに、時代を画するような大きな物語は消滅し、20世紀後半の芸術は、何でもありの百花繚乱状態に突入した。

多様化はアートの方法にもおよぶ。写真や映画やビデオ、ミクストメディア、インスタレーション、パフォーマンス、アースワークス、ナノアート、スペースアート。現代美術はミクロの世界から宇宙まで、あらゆる素材や手法を包みこんで今の時代を輪切り(厚切り!?)にする大きな枠組みだ。

(メディアアート)

一方、アートの主題が人間の本質や感覚、あるいは自然や社会との関わりである以上、そこには時代を超えた共通のテーマが見てとれる。メディアアートの根底にあるのは、道具を使い、コミュニケーションする存在としての人間に着目し、そうした媒体(メディア)の意味を問い、あるいはその可能性を拡張する、飽くなき興味や表現への欲求だろう。

この普遍的な欲求が現代のメディア技術と出会ったところに生じるのが、今日のメディアアートだ。それは現代美術のひとつのジャンルだが、科学、工学、ポップカルチャー、メディア論などとの連続性という特徴のために、拡張する現代美術のなかでも最もエッジの部分にあって、アートとその外の領域の攪拌(かくはん)に一役買っている。

メディアアートとは、手法よりむしろスタンスの問題である。同じくメディア技術を用い、あるいはメディアに言及しながらもメディアアートとは言わない作品や作家は少なくない。それも現代美術の多様性の一端である。





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 マッキーの美術:日本画家・平山郁夫さん死去

2009年12月04日 | 美術鑑賞
日本画に関心のない方にも知られていた、日本画家の巨匠・平山郁夫さんが12月2日に亡くなられました。

突然の印象を受けるその死去は、マスコミに大きく取り上げられ、人気作家だったことを改めて認識しました。

美術愛好家としては、当然知っていると思っている人気作家を、意外にも一般の人は知らないと言ったことは、往々にしてあることです。

しかし、平山郁夫さんは芸術分野以外にも頻繁にマスコミに登場していましたので、今回のマスコミの報道はかなりの有名人扱いでした。

概して日本画家は長命な方が多く、記憶に新しい方では、同じ院展の片岡球子・小倉遊亀・ 奥村土牛などは、100歳を超えるまで作家活動を行っていました。

平山郁夫さんの79歳でのご逝去は、少し早すぎた印象を受けます。



ずいぶん前のこと、NHK趣味講座の絵画入門で、平山郁夫さんが講師として解説されていたのを、私は楽しみに拝見していました。

調べてみると、この絵画入門講座は、昭和58年10月から昭和59年3月まで放映されていたようです。

その頃から、私は趣味で美術品を収集し始めましたが、その中で日本画もかなり研究しました。

日本画の大きな公募展としては、院展・日展・創画展の三つがあり、以前は毎年必ず見に行きました。



平山郁夫のリトグラフ(サイン・エディション付)


院展・日本美術院は、日展に対して在野の団体ですが、岡倉天心の理念を受け継いで、横山大観・安田靫彦・奥村土牛・小倉遊亀などが指導的立場となり日本画をリードしてきました。

その理事長として平山郁夫さんは活躍し、その門下生の多くが院展の同人となり、院展に隠然たる勢力を築き上げてきました。


ところで現代日本画は、国内を中心に作品が流通している極めて閉鎖的な特殊な環境にあります。

グローバル化する美術市場において、日本画を取り巻く状況は厳しさを増しているように感じます。

日本画を集めていたコレクター層でも、世界的に評価の高まっている奈良美智・村上隆・草間彌生などの活躍もあって、現代アートにも関心を持つ方が増えました。

また、美術作品のオークションも活発となり、海外の作家を購入することも、さほど難しいことではなくなりました。

そうした状況の中で、日本画の世界もますます自由な発想で創作活動が行われることが望まれます。



平山さんのリトグラフを8点ほど所有していましたが、今は3点を残すのみ


平山郁夫さんの作品は、被爆体験を根底にし、祈りや仏教をモチーフとした作品が多く、またその延長線上で出会ったシルクロードを題材とした作品を数多く手掛けています。

日頃日本画に関心のない方でも、『シルクロードと平山郁夫』を関連づけて知っている方が多いのではないかと思います。

また、アジアの遺跡・文化財の保護・保存にも強い関心を持ち活動されました。

藤本能道(いつかこのブログで取り上げます)の後、東京藝術大学学長になり、その後二度にわたって学長を勤め、教育・文化の分野で活躍され、文化勲章を受章しました。



平山郁夫のサイン


エディション

(版画は、作家のサインとエディションが画面下に記入されます)


私の知っている日本画家にも、芸大平山教室出身者が何人かいて、なかなか明瞭に批評できないのですが、美術愛好家・コレクターの人たちの間では、平山さんの画業の評価は賛否分かれる側面を持っています。

しかし一般的に見て、平山郁夫さんは、画家として功なり名を遂げる業績を残しただけではなく、多岐に渉り稀に見るスケールの活動を行った巨匠だったと思います。

ご冥福をお祈りします。 
 



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マッキーの美術鑑賞・野村萬の焼き物と宇野信夫の絵

2009年09月22日 | 美術鑑賞
《狂言師・野村万之丞(現野村萬)の焼き物》



信楽の花器







割と薄手にできた、荒い信楽の土を生かした花生けです。

轆轤を使ったというよりも、手捻りか紐作りといった成形法で作られた、手の温もりが感じられる作品です。

あえて正確な円柱形を廃し、若干歪んだ形態は、手作りの妙味を出しています。

自然釉がかかった部分が景色となり、表面の荒い長石粒が信楽の味わいとなっています。

さすがに芸術を探求している人の作品だけあって、玄人の陶芸家とはひと味異なる趣があり、我が家でもこの花器を使ってよく花を生けています。



箱の表書き



箱裏書き
平成3年(1991年作)
還暦記念 四世野村万之丞となっています
(1991年 日本橋三越本店)



《野村萬略歴》

七世 野村万蔵(のむら まんぞう、1930年(昭和5年)1月10日 - )とは和泉流狂言師。

旧名は、四世野村万之丞。現在は隠居名、野村萬(初代)を名乗る。

本名・野村太良(たろう)。六世野村万蔵の長男として東京都に生まれる。

重要無形文化財保持者(人間国宝)。

(社)日本芸能実演家団体協議会会長。子に故・八世野村万蔵(野村万之丞)、九世野村万蔵(二世野村与十郎)。弟に野村万作、野村四郎、野村万之介。


戦後、弟・万作とともに狂言のみならず現代演劇や前衛演劇に出演するほか、「おしん」や「翔ぶが如く」などテレビドラマにも出演。

その一方で小学校やホールでの公演も重ね、狂言の一般的普及に大きく貢献した。

現在も多くの舞台で活躍し、後進の育成にも力を注いでいる。

2000年(平成12年)に隠居名、野村萬を名乗る。2008年文化功労者。


1994年に出演した大河ドラマ『花の乱』や1997年のNHK朝の連続テレビ小説『あぐり』での好演で、その名が広く知られるようになった二世野村萬斎は、野村萬の弟野村万作の長男です。




《劇作家・宇野信夫の役者絵》



(1988年 日本橋三越本店)

素人の描いた絵の範疇を越えていませんが、歌舞伎作者として、歌舞伎役者に対する強い愛着を感じる絵です。

なかなか我が家では、今まで飾る機会がありませんが、ハレの日、おめでたい日などに飾ってみたいと思います。




「ありし日の六代目をしのびて」信夫筆と記されています。

六代目とは、六代目尾上菊五郎のことであろうと推測されます。

宇野信夫が劇作家としてその地位を確立したのは、この六代目尾上菊五郎のために書いた「巷談宵宮雨」であったからです。






《宇野信夫略歴》

宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年10月28日)は、日本の歌舞伎狂言作者

埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。

父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。

中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。

その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら、貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。

1933年、「ひと夜」でデビュー。1935年、六代目尾上菊五郎のために書いた「巷談宵宮雨」が大当たりし、歌舞伎作者としての地位を確立する。

以後も菊五郎のために歌舞伎世話狂言を書き、戦後は、1953年、二代目中村鴈治郎、中村扇雀(現在の四代目坂田藤十郎)のために、長らく再演されていなかった近松門左衛門の「曽根崎心中」を脚色・演出し、今も宇野版が上演され続けている。

1965年、個人雑誌『宇野信夫戯曲』を創刊、1977年まで続いた。

国立劇場理事を務め、歌舞伎の演出、補綴、監修を多く行い、「昭和の黙阿弥」と称された。

1985年、文化功労者。『宇野信夫戯曲選集』全四巻があるが、ほか、ラジオドラマ、テレビドラマ、時代小説、随筆、落語、言葉に関する本が多数ある。





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 マッキーの美術鑑賞・武者小路実篤の書画

2009年09月09日 | 美術鑑賞
私が子どもの頃、カレンダーや絵はがきなど、形態は様々でしたが、間違いなく各家庭に一枚は有った絵、それが武者小路実篤の書画でした。

今でこそ『相田みつを』など、同じような趣の書が氾濫していますが、当時は武者小路実篤がポピュラーでした。

私の趣味としては、『相田みつを』の説法のような言葉より、武者小路実篤の「ちょっとおめでたい」と言われようが、一途な実直さが表れた書画のほうが好きです。

ただ、武者小路実篤の書画は、最近ほとんど見かけなくなりましたが、私が指導している小学校の教室に、実篤の書画が飾ってあります。




武者小路実篤の書画
(1986年新宿小田急百貨店)
横幅一間ほどの額装
購入以来、教室や自宅にいつも飾られていました


この額装の書には、

「自然はいろいろのものをつくる名人 人間はそれを生かす名人」

と、書かれています。

人間のすばらしさを肯定し、賛美している言葉です。


しかし実は若い頃、このあっけらかんとした白樺派の考え方に、強い違和感を覚えた時期がありました。

若者が、ことごとく物事を否定して考える時代、「ナンセンス!」と叫ぶ若者にとって、このノー天気な人たちの思想にはついていけませんでした。

高橋和巳・吉本隆明・埴谷雄高・大江健三郎・小田実…。

トルストイ曰く、「悩むことも、才能の内だ。」

この言葉が、人生の応援歌のようにこだました頃もありました。



学校の教室に飾られた実篤の額(無論、印刷でしょう)



《武者小路実篤の略歴・武者小路実篤記念館資料より》

武者小路実篤(むしゃこうじ さねあつ/1885~1976年)

明治43年に友人・志賀直哉らと雑誌『白樺』を創刊し、以後、60年余にわたって文学活動を続ける。

小説「おめでたき人」「友情」「愛と死」「真理先生」、戯曲「その妹」「ある青年の夢」などの代表作。

また多くの人生論を著したことで知られ、一貫して人生の賛美、人間愛を語り続けた



書の部分拡大



大正7年には「新しき村」を創設し、理想社会の実現に向けて、実践活動にも取り組む。

また、『白樺』では美術館建設を計画し、昭和11年の欧米旅行では各地の美術館を訪ねるなど、美術にも関心が深く、多く評論を著す。

自らも40歳頃から絵筆をとり、人々に親しまれている独特の画風で、多くの作品を描く。

実篤はその生涯を通じて、文学はもとより、美術、演劇、思想と幅広い分野で活動し、語り尽くせぬ業績を残した。



絵の部分の拡大
「米寿 実篤」と記されています


実篤は若い頃から美術への関心が深く、『白樺』をはじめ数々の雑誌に作品紹介や美術論を執筆し、美術に関する著作が数多くある。

独特の画風で多くの人々に親しまれている実篤が、自ら絵筆をとるようになるのは40歳頃から。

「生命が内に充実するものは美なり」と語る実篤は、一筆一筆心を込めてその美しさを表現することに画家としての喜びを感じていた。

仲間からは「武者」という愛称で呼ばれた。

日本芸術院会員、1951年 文化勲章受章。



【白樺派について】

白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮のひとつ。

また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のこと。


大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。

人間肯定を指向し、自然主義にかわって大正時代の文学の中心となった。


白樺派の主な同人には、作家では武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見、柳宗悦、郡虎彦の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。

武者小路は思想的な中心人物であったと考えられている。

多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。


私の最近のブログに載せた、『私にとって良い先生とはPart2…中学校時代の恩師S先生』『生れ出づる悩み・一房の葡萄』は、白樺派・有島武郎の作品です。




書額シール


調布市武者小路実篤記念館

〒182-0003 東京都調布市若葉町1-8-30




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マッキーの美術:蔡 國華(サイ コッカ)…描くことの喜びを語る

2009年07月26日 | 美術鑑賞
7月5日(日)、中国出身の作家『蔡 國華』の講演会が、美楽舎の例会としてギャラリー日比谷で行われました。

久々に、美術関連の会合に出席しました。

参加者は20名ほどで、できるだけリラックスした雰囲気で作家に語ってもらおうという配慮がされていました。



美楽舎の例会風景
正面が画家:蔡 國華さん
左手が、永井龍之介さん


彼は、いつもスケッチブックを携帯して、『通勤絵速』と称して、電車の中や街角で、極めて短時間に心に感じる人物像を描写しています。

そのスケッチブックを数冊見せて頂きましたが、日々のそうした修練が、彼の画業の底辺を為していると感じました。



回ってきたスケッチブックを見ながら


画家として、描くことの楽しさや充実感があふれたスケッチブックでした。


蔡 國華…この作家の名前とその絵を、私は90年代の初めの頃より知っていましたが、今回本人とお会いして、その作家が予想以上に若いのにまず驚きました。

それから、『画家は、本来そうでなくては。』と思わせる、描く楽しさや大切さを、改めて認識した一日でした。



スケッチブック


参加者の中に、テレビ「開運!なんでも鑑定団」で、近代洋画、日本画鑑定士として出演中の永井画廊の永井龍之介さんも参加されていました。

永井さんは、以前にも美楽舎の例会でトークショーをしていただきましたが、今回は永井画廊で、蔡 國華さんの個展を企画中とのことで参加されたようです。



スケッチブック


このトークショーの後の懇親会にも、永井さんは蔡 國華さんと一緒に参加され、楽しい歓談の宴となりました。



『蔡 國華』画集表紙


中国と日本の美術学校の指導方法や、彼が今まで画家として歩んできた生き方や考え方を話されました。

彼の日々の研鑽や、画家本来の絵に対する情熱は大変なもので、必ずや彼の画業は、後世にも残ると感じました。



『蔡 國華』画集表紙


【蔡 國華 画歴】

1964年 中国上海市生まれ
1985年 上海紡績工業専科学校美術科卒業
1987年 上海交通大学芸術進修班修了
1991年 東京芸術専門学校卒業
1995年 武蔵野美術大学卒業
1997年 武蔵野美術大学大学院修了
1998年 日本現代作家作品展(上海美術館)企画
1999年 オーストラリア移住
2001年 スタジオ・ツァイ オープン(東京)
2003年 東洋気流ー日本現代作家21人展in上海ー企画

1989年 近代美術展 <外務大臣賞>
1990年 上野の森美術館大賞展
     国際美術大賞展<特別優秀賞>
1991年 アジア現代美術展<フジテレビジョン賞>
1993年 一線美術展<新人賞>
     国際美術大賞展 <優秀賞>
     国際公募美展<練馬区教育委員会賞>
1994年 多摩秀作美術展 <準大賞>
     一線美術展<新人賞>
     国際美術大賞展 <準大賞>
     第1回アサヒビール外国人留学生美術展<佳作賞>
1995年 一線美術展<会友賞>
     国際美術大賞展 <評論家賞>
1996年 多摩秀作美術展 <佳作賞>
     一線美術展<会友賞>
     国際美術大賞展 <優秀賞>
1997年 安井賞展
     浅井忠記念賞展
     一線美術展<安田火災美術財団奨励賞>
1998年 長野オリンピック国際公募「小さな絵画・大きな輪展」<優秀賞>
1999年 中華民国第9回国際版画素描ビエンナーレ<優秀賞>
2000年 オ-ストラリアWaverley Art Prize
2001年 オ-ストラリアThe Archibald Prize
     中華民国第10回国際版画素描ビエンナーレ<優秀賞>
2002年 第5回人間賛歌大賞展<準大賞>
     第1回利根山光人記念大賞展ビエンナーレ<奨励賞>
2004年 第6回前田寛治大賞展出品<佳作賞受賞>



【美楽舎 18回マイ・コレクション展】

美術愛好家である美楽舎会員の、年1回恒例のコレクション展です。

期間:2009年8月2日~8日

会場:千代田区有楽町1-6-5
ギャラリー日比谷

会員丹さんと、石堂さん2人の『BOCA展』同時開催

~若手コレクターが魅了された若手作家たち~



【美楽舎関連の過去のブログ】


美楽舎忘年会…長谷錦一さんの『梅原龍三郎と安井曾太郎』についてのトークショー (2008年12月22日)


東京都現代美術館 川俣正展「通路」を鑑賞して (2008年02月25日)


年末の風物 (2007年12月25日)




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マッキーの美術鑑賞・谷川俊太郎の父…哲学者・谷川徹三の書と焼き物

2009年03月12日 | 美術鑑賞
この時期になると、私は必ず飾りたくなる書があります。

それは、谷川徹三の書です。

その書には、春の自然の生命力や息吹が、淡々とした筆跡であらわされています。


私ほどの年齢の人であれば、学校の国語の教科書などによく出てくる、馴染みの哲学者でした。

芸術院会員・文化功労者などに選ばれ、当時有数の文化人として、積極的に社会と関わった学者でした。

しかし、現在では大変活躍している詩人・谷川俊太郎の父として、人々に記憶されているように思います。


父は、京都大学哲学科を卒業して、法政大学総長まで歴任したアカデミックな存在でしたが、その子の俊太郎は、学校嫌いで最終学歴は、定時制高校卒業となっています。

しかし、おっとどっこい、この有名な父の子にして、出来の悪い(ある意味で)谷川俊太郎は、父を凌駕するほど、社会的に認知された詩人として、今日様々な分野で活躍してることは周知の通りです。

最近の教科書には、父徹三ではなく、その子の俊太郎の方が遙かによく出てくるように思います。


朝日新聞主催の、さまざまな分野の本の著者が学校を訪れ、出張授業をする「オーサービジット」だったか、NHKの「ようこそ先輩」だったか忘れましたが、この谷川俊太郎が小学校で授業を行っている映像を、テレビで見たことがありました。

生徒が夢中で国語の学習をしている授業風景は、私の記憶に残るもので、授業に生徒を引き込む教師力は、詩人としての才能と、人間的な魅力から来るものでしょう。

教師の指導力とは、その教師の人間力なのだと言うことを、痛感させられる画像でした。



谷川徹三のこの書は、日本橋三越の新春に行われる、恒例の企画である展覧会の1988年出品作です。





槎々牙々老桜樹
忽開華一華両華
三四五華無数華
徹書

直筆のこの詩の意訳を頂いたのですが、紛失してしまいました。
およそ以下のような意味です。

ササガガ ロウオウジュ
コツゼントヒラクハナ イッカリョウカ
サンシゴカ ムスウカ

ごつごつざらざらした幹の、年老いた桜の木に、
忽然と花が開き、一つ二つ花は咲き
三つ四つ五つ、そして無数の華が咲きました。


ベランダに、山椒の小さな木が植えてあり、それが昨年の秋枯れてしまいました。

しかし、最近、枯れたとばっかり思っていたその枝に、なんと新芽が出ているではありませんか。





まさに、朽ち果てたような『槎々牙々老桜樹』に、若々しい華が無数に咲き乱れる様と同様に、自然の生命力を私は感じました。



もう一つ、私は谷川徹三の志野茶碗を持っています。

彼は、文芸・美術・宗教・思想に及ぶ広範な評論活動をおこなう一方、美術・骨董・茶道についても幅広い関心を寄せた人物でした。

特に、宮沢賢治の世界を広く紹介した事でも知られています。

また、毎日新聞主催の日本陶芸展の運営委員を歴任するなど、焼き物について造詣が深かったと思われます。

この彼の志野焼の茶碗は、やはり素人の作品でしかありませんが、哲学者らしい人柄が表れた茶碗だと思います。









谷川徹三略歴(1895―1989)

哲学者。明治28年5月26日愛知県に生まれる。
1922年(大正11)京都帝国大学哲学科を卒業。
28年(昭和3)法政大学文学部哲学科教授。
51年(昭和26)理事、63年総長(65年辞任)を歴任。
その活動は幅広く、世界連邦政府運動、憲法問題研究会、科学者京都会議に加わる。
75年芸術院会員。
宗教的立場は、ゲーテのいっさいのものに神をみる汎神(はんしん)論で、宮沢賢治(けんじ)への傾倒もそこに由来する。
「生涯一書生」をモットーとする。
著書に『感傷と反省』(1925)、『享受と批評』(1930)、『生の哲学』(1947)、『宮沢賢治』(1951)、『人間であること』(1971)などがある。
87年文化功労者に選ばれた。


谷川俊太郎略歴

1931年、東京生まれ。
父親は哲学者の谷川徹三。
18歳頃から詩を書き始め、学校嫌いが激しくなり定時制へ転学。
1950年、豊多摩高校卒業後、大学へは進学しなかった。
その年の暮れに父から詩人の三好達治を紹介され「文学界」で「ネロ他五篇」を発表し、一躍、戦後詩の輝かしい詩人として迎えられた。
1952年6月に第一詩集『20億光年の孤独』を刊行。
その後も多くの詩集をはじめ絵本も作った。
また、スヌーピーのピーナッツシリーズやマザーグースなどの翻訳、映画シナリオ、写真、ビデオなど幅広く活動している。



最後に、名言集に載っていた谷川徹三の言葉を紹介しておきましょう。

学問は満足しようとしない。
しかし経験は満足しようとする。
これが経験の危険である。





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マッキーの美術鑑賞・河東碧梧桐と荻原井泉水の書画+種田山頭火について

2009年01月06日 | 美術鑑賞
2008.10.30.『豚肉・シイタケ・糸コンニャクのしぐれ煮』 で紹介した『種田山頭火』と関連して、新春ですので、今日は『河東碧梧桐』と『荻原井泉水』の書画について、私が所有している作品を紹介しながらお話しします。



『河東碧梧桐』

学校では、自由律俳句と言えば、その代表的な俳人として、河東碧梧桐を習います。

なぜか、この部類の俳句では、山頭火に並んで、碧梧桐の作品が、私にはしっくり心に届きます。


『河東碧梧桐』高浜虚子と並び、正岡子規門下の双璧と賞されていました。

守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子に対して、碧梧桐は季題・定型にこだわることなく,自由に生活感情をうたう新しい傾向の俳句をめざして活動しました。

碧梧桐は、正岡子規の死後、俳句の作風で意見を異にした虚子と激しく対立し、自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動を共にしました。





しかし、井泉水とも考えが合わずに、層雲を去ります。

その後、俳誌『海紅』を主宰するものの、これも中塚一碧楼に譲ってしまいます。

昭和8年還暦を機に俳界から引退し、昭和12年没。享年65歳。





引退については俳句創作への情熱の衰えと、虚子への抗議の意味が込められていたとも言われています。

碧梧桐は、俳句における足跡の評価ばかりでなく、その書において、高い評価を得ています。

しかし碧梧桐の俳句が、果たした役割については、どうであったのか?

俳句の幅を広げた点においては、評価されているのではないでしょうか。



金鈴画廊の岡田さんから購入した作品


【代表的な俳句作品】

春浅き水を渡るや鷺一つ

赤い椿白い椿と落ちにけり

一軒家も過ぎ落葉する風のまゝに行く

曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ




『荻原井泉水』

荻原井泉水は、東京に生まれ、麻布中学の頃より俳句を作り始めます。

第一高等学校を経て、明治41年(1908年)東京帝国大学文学部言語学科卒業。

明治44年(1911年)新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰します。

先に話したように、河東碧梧桐もこの層雲に参加します。

大正3年(1912年)、自由律俳句として層雲より創刊した初の句集『自然の扉』を刊行します。

大正4年(1913年)季語無用を主張し、自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した井泉水と意見を異にした碧梧桐が層雲を去る。





「句の魂」を追求し、種田山頭火や、尾崎放哉ら異色の俳人が層雲に加わります。

印象的・象徴的な自由律により、宗教色の強い求道的な句を作りました。

昭和40年(1965年)日本芸術院会員。

昭和51年5月20日死去。

私の持っている書画は、茶掛け程度の大きさの軸装・共箱で、なかなか趣のある作品です。





【代表的な俳句作品】

空をあゆむ朗朗と月ひとり

枯野に大きなひまわりの花、そこに停車する

尼さま合掌してさようならしてひぐらし

どちら見ても山頭火が歩いた山の秋の雲

陰もあらわに病む母見るも別れか 






『種田山頭火』

極めて幸薄い人生を歩んだように思う種田山頭火です。

幼い頃に母が自殺し、実家は破産し、父も兄も自殺し、妻子と離別し……。

何のために、自分は生きているんだろう?

そうした境涯の中で、行乞放浪の生活を送り、多くの句を残しました。


ふと、山頭火の句を想い出すことが、私にはあります。

『分け入つても分け入つても青い山 』

夏山を登っているときに、必ず脳裏をよぎる句です。

その句に共感しそして実感する…私にとって、この句はそうした作品だからでしょう。


山口県西佐波令村の大地主の出身。
旧制山口中学から早稲田大学文学部に入学するが神経衰弱のため中退。
1911年(明治44年)荻原井泉水の主宰する俳句雑誌『層雲』に寄稿。
1913年(大正2年)井泉水の門下となる。
1916年には、『層雲』の選者に参加。
1924年(大正14年)得度し「耕畝」と名乗る。 
1925年(大正15年)寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行う。
1939年(昭和14年)松山市に移住し「一草庵」を結庵。
翌年、この庵で生涯を閉じた。享年57。

自由律俳句の代表として、同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称される。
山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって生計を立てていたところは似通っている。



印刷した色紙(確か小田急での回顧展)


『種田山頭火の俳句作品』

鴉啼いてわたしも一人

落葉しいて寝るよりほかなく山のうつくしさ

あざみ鮮やかな朝の雨あがり

また見ることもない山が遠ざかる

雨ふるふるさとははだしであるく




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コメント (2)
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