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「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの現代陶芸入門講座(21)…金重家と山本家の備前焼

2008年10月08日 | 陶芸
今日は、備前焼の代表的な作家を輩出している、『金重家一門と山本家一門』の作家の作品を紹介し、私の感想を述べたいと思います。

備前焼についての入門解説は、私のブログ2008.06.13『現代陶芸の教養が身に付く入門講座(15)…藤原 雄のぐい呑み・徳利』をご覧ください。

その他、2008.9.12現代陶芸の教養が身に付く入門講座(19)…森陶岳と隠崎 隆一の備前焼
を参考にしてください。




金重陶陽(かねしげとうよう)の備前一輪花入

1896年(明治29年)1月3日 ~ 1967年(昭和42年)11月6日)
桃山備前の研究に取り組み、陶土・窯の構造・窯詰め・焼成法の創意工夫に努めた。
こうした幾多の工夫の末、窯変を人為的に作ることに成功し、桃山風備前を現代に甦らせた。
現在の備前焼隆盛の基礎を築き、「備前焼中興の祖」と称せられている。
1952 56歳で備前焼重要無形文化財(人間国宝)に認定される。
川喜田半泥子、北大路魯山人、イサム・ノグチらと親交があり、芸術的影響を受けた。



陶芸図鑑の表紙になった作品(85年・黒田陶苑)
焼き上がりはややおとなしいが、金重陶陽らしい、風格のある作品


陶陽は、備前興隆の礎を作るとともに、金重家から多くの陶芸家を輩出するきっかけも作りました。

現在の備前焼の中では、金重家が注目すべき作家を最も多く輩出していることは間違いありません。



陶陽箱書き



金重陶陽の長男・金重道明(みちあき)の伊部酒呑

1934~1995年・岡山県重要無形文化財保持者。金重陶陽賞や日本陶磁協会賞



備前としては、上がりがおとなしい作品 荒い粘土が変化を出している



道明箱書き



金重陶陽の三男・金重晃介(こうすけ)の備前茶碗

1943年生まれ・日本陶磁協会賞・山陽新聞賞など多数受賞・抽象的な造形作品が魅力



自然釉・灰釉の変化が景色になっている作品



晃介箱書き



金重晃介(こうすけ)の備前平向付



上がりがとても良く、実際に料理を盛りつけると、その良さが分かる



私が料理した、乾燥ワラビを使った料理を盛りつけたところ



晃介箱書き



金重陶陽の弟・金重素山(そざん)の伊部初釜湯呑

1909~1995年・岡山県重要無形文化財保持者。茶陶の第一人者



『左馬』…諸説あるが、縁起の良いものとして、初釜の時に焼く習慣がある
兄陶陽が偉大すぎて損をしているように思うが、その力量は確かである


【ちょと面白い『左馬』の由来】

1.「うま」を逆から読むと「まう(舞う)」…舞はおめでたい席で催される事から、招福の印として使われた。

2.「馬」の字の下の部分が財布のきんちゃくの形をしているので、入ったお金が散逸しない事から、富のシンボルとして使われた。

3.お客さんを馬に乗せて連れてきた案内人が、馬の口輪をとって左側に立ち案内したことを「お客さんを連れてくる=商売繁盛」としたことから使われた。

この様に、福を招く、めでたい商売繁盛の守り駒として『左馬』は使われました。

焼物では、作品が無事に焼けるように、新しく築いた窯での初めての窯焚き(初窯)の成功を願って、左馬を描いた物を焼くようになったそうです。 



素山箱書き



金重素山の長男・金重 愫(まこと)備前湯飲み

1945年生まれ・茶の湯の造形展奨励賞など、多数受賞



ゴマがほど良く付き、日常使ったら楽しい湯呑



愫箱書き



山本陶秀(とうしゅう)備前徳利

1906~1994年・人間国宝 「ろくろの名人」「茶入れの陶秀」



陶秀の作品は、端正なフォルム、確かな力量を感じる作品が多い



陶秀箱書き



山本陶秀(とうしゅう)備前ぐい呑み



上がりも渋い。 職人気質を感じる



陶秀箱書き



山本陶秀の長男・山本雄一の備前茶入れ

1935年生まれ・岡山県重要無形文化財保持者



陶芸家としての力量はあるのだが…



雄一箱書き



山本陶秀の四男・山本出備前徳利

1944年生まれ・茶の湯の造形展田部美術館大賞



なかなか現代的な感覚を持っている陶芸家である



出箱書き



山本出備前ビアカップ



縁の部分が彩色してある備前のビアカップ


夏は、備前のビアマグを冷蔵庫で冷やして、その中にビールを注ぎぐいっと呑む!
ビールを美味しく味わう一つの方法!



備前焼は、その素朴な風合いが魅力で、登り窯で焼成される時の窯変が面白い。
まさに『炎芸術』に相応しい焼き物です。

まずは、自分の好みに焼成された酒器を一点お持ちになり、実際に使ってその作品を味わうと良いでしょう。

出来れば、窯物ではなく、まずは若手の手ごろな価格の作家物を購入することをお薦めします。





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マッキーの現代陶芸入門講座(20)…林正太郎・玉置保夫・安藤日出武の志野焼

2008年09月25日 | 陶芸



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志野焼の代表的な作家は、鈴木蔵・加藤孝造・若尾利貞の三人をまず挙げることができます。


その三人に実力的には負けず劣らない作家として、今日紹介する林正太郎・玉置保夫・安藤日出武がいます。

いずれの作家も、人気だけではなく、それぞれの持ち味を生かした作陶を行なっています。

以上の六人の作品を見慣れた人は、ぐい呑み一つを目の前に置かれれば、その作家名を即座に答えることができますj。

たぶん陶器を見慣れない人は、それらの作家が作った作品が、同じ志野焼に見えてしまうことでしょう。

しかし、焼物を趣味にする人たちには、それぞれの作家の作品の形体・焼成・色合い・肌合いなどから、明確に違った作品として区別することができます。



林正太朗 志野ぐい呑み



うっとりするような綺麗な志野のぐい呑みです。

さまざまな点でバランスがとれた、力量jを感じる作品です。




林正太朗 赤志野ぐい呑み



こちらは、赤志野のぐい呑みで、緋色とシロのバランスが綺麗な作品です。





林正太朗 赤志野湯呑



この作品は、私は好きなのですが、志野の釉薬の掛かり具合に好みの差が出るかも知れません。

焼成の炎を連想させる緋色と白のバランス、全体に大胆な釉薬の割れ(梅花皮・かいらぎと呼んで良いのだろう)がこの作品の特徴である。




林正太朗 志野湯呑



大ぶりでおとなしい志野の湯呑みですが、長く日常使っても飽きのこない作品です。



〔林正太郎 主な陶歴〕

昭和46年 朝日陶芸展知事賞受賞
昭和47年 日本伝統工芸展初入選 朝日陶芸展優秀賞受賞
昭和48年 朝日陶芸展 '73賞受賞
昭和49年 中日新聞社新人賞受賞
平成5年 「加藤幸兵衛賞」受賞
平成14年 土岐市無形文化財に認定




安藤日出武 志野ぐい呑み



この作家は、陶芸ファンに人気があります。

個性が光る志野のぐい呑みです。





〔安藤日出武 主な陶歴〕

昭和39年 日本伝統工芸展初入選 以来数回入選
昭和45年 朝日陶芸展知事賞受賞
昭和46年 日本陶芸展初入選 以来数回入選
昭和48年 中日国際陶芸展初入選 以来数回入選
平成2年 第8回 加藤幸兵衛賞受賞
平成10年 多治見市無形文化財に認定
平成15年 岐阜県重要無形文化財に認定




玉置保夫 赤志野ぐい呑み



志野釉の掛かり具合に、好みの差が出る作品でしょう。





玉置保夫 鼠志野湯呑



この作家の湯飲みは、大変使いやすくお薦め!





玉置保夫 志野湯呑



この湯飲みは薄手で軽い志野焼の作品です。

独特な筒状の形状も安定感があり、日常使うのに適しています。





玉置保夫 志野湯呑(5個組)



日常使うために購入した赤志野の湯飲みです。

上の志野の湯のみと形状は同じですが、全体に厚みがあり、使い易い作品です。




夏は、アイスコーヒーを入れて飲むと、肌触りも良く美味しく頂けます。

冷たい飲み物でも、ガラス製よりは陶器の口触りは独特で、その美味しさを引き立てるでしょう。



〔玉置保夫 主な陶歴〕

昭和43年 日本工芸会正会員となる
昭和52年 東海伝統工芸展最高賞受賞
昭和60年 東海伝統工芸展受賞 以後招待出品となる 審査員
昭和61年 第1回国際陶磁器フェスティバル審査員特別賞受賞
平成3年 岐阜県芸術文化活動等特別奨励受賞
平成14年 多治見市無形文化財に認定
平成20年 岐阜県重要無形文化財に認定



志野焼の温もりは、これから寒くなっていく季節に、湯飲みにまた酒器に適した焼き物です。

お気に入りの志野焼のぐい呑みに日本酒を注ぎ、
その熱燗を思いにふけりながら
独酌で呑むのも趣があります。


志野焼について、以下のブログを参考にご覧ください。

マッキーの現代陶芸入門講座(23)…堀一郎の志野焼(2008年11月14日

マッキーの現代陶芸入門講座(22)…鈴木蔵・加藤孝造・若尾利貞の志野焼(2008年10月24日

マッキーの現代陶芸入門講座(14)…荒川 豊蔵のぐい呑み

マッキーの現代陶芸入門講座(8)…鈴木蔵の志野ぐい呑み


マッキーの現代陶芸入門講座(19)…森陶岳と隠崎 隆一の備前焼

2008年09月12日 | 陶芸
今回のブログでは、現代備前焼の作家の中で特に人気のある、『森陶岳と隠崎 隆一』の2人を取り上げます。

備前焼についての入門解説は、私のブログ「入門講座(15)藤原雄」をご覧ください。


森陶岳と隠崎 隆一は、同じ備前焼でも作陶の方向性が大きく異なっています。

森陶岳は、古備前に執着し、その魅力に迫る焼き物を作るために、大窯主義とでも言う作陶方針を持って、エネルギッシュに活動している陶芸家です。

それに比べて、隠崎隆一は、現代的で彼独特のフォルムを追求した、造形的な備前焼を信条としています。


森陶岳

1985年、私が本格的に焼き物のコレクションを始めた年に、森陶岳は寒風の地に、室町様式で半地下直炎式の全長53メートルの大窯を築き焼成を始めました。



森陶岳ぐい呑み(86年・黒田陶苑)


箱書き


1969年森陶岳は、日本陶磁協会賞を受賞し、私もその力量を評価していました。
しかし、その当時私は、大窯でしか焼けない大きな壺を前にした喜色満面の森陶岳に対し、ちょっと違和感を持って見つめていました。

なんで大窯なのか? 寒風大窯(53メートル)の焼成以来、私はその大窯主義に疑問を持っていました。
焼き物の焼成は、その作家の力量と異なる、いわば神の御手によってなせる技ではないのか。
だとすると、そこを強調しすぎることは、焼成以前の陶芸家の果たす技術や努力を軽視してしまうことにならないのか。


森陶岳湯飲み


箱書き


しかし以前私は、彼の作品をかなりの数、所有していましたが、その作品の質の高さに改めてその力量を認めていました。

その後、森陶岳の大窯主義は、止まるところを知らず、ついには今年2008年8月、全長85メートルの直炎式登り窯「寒風(さぶかぜ)新大窯」を完成させ、火入れ式を行っています。



森陶岳湯飲み


徹底して古備前にこだわると、大窯の焼成が必要不可欠だという彼の信念は、やはり本当なのかも知れません。
彼の力量に加え、鬼に金棒とでも形容したらよいのか、この巨大登り窯によって、一体どういう焼き物がこれから出来るのでしょうか?


巨大登り窯による焼成は、様々な準備段階を経て2011年に行われるそうで、延べ900人を動員し、窯焚きに3カ月、10トントラックで400台分の薪を使って行われ、その窯の中には大小合わせ数千もの作品が入るそうです。

巨大大窯の完成によって、森陶岳は、備前の焼成過程からして、他の作家が追従出来ない、未踏の領域に足を踏み入れることになりました。
森陶岳は、もしかすると、空前絶後のスケールの陶芸家かも知れません。


『窯が焚きあがった時点で、窯には神が宿るので、どんな焚き方をしても本質は変わらないと私は思っています。窯では神の意思以外のものは現れません。結果は全て神の力によるものなのです。人間は相対的なものですが、窯は絶対的なものだと考えています。』

大窯による焼成を、森陶岳はこのように述べています。


【森陶岳履歴】
1937年、備前市伊部に、窯元六姓の家系・森秀次の長男として生まれる。
59年、岡山大学特設美術科を卒業。兵庫県の中学校で美術教師を務める。
62年、岡山に戻り陶芸の道に入る。
63年、日本伝統工芸展で初入選。
66年、日本工芸会正会員。
69年、日本陶磁協会賞を受賞。
96年、岡山県重要無形文化財保持者。
2002年、備前焼作家として初めて、日本陶磁協会金賞を受賞。
2006年、芸術文化やスポーツの分野での業績を評価する、紫綬褒章受賞。



隠崎隆一



隠崎隆一オブジェ


80年代後半から頭角を現し、あっという間にブレイクした備前陶芸家です。

フォルムが個性的なオブジェや花器は、実際に室内に飾ると、その現代的な作家の感性が伝わってきて、とても良い作品に仕上がっていると思います。



備前花入


しかし、ぐい呑みや徳利などは、その独特な形が災いしてか、またその主張が強すぎてか、使い勝手があまり良くありません。
備前特有の素朴な風合いを、その先鋭的なフォルムと融合できたら、この作家はもう一段飛躍できるでしょう。



ぐい呑み



四方皿


鉄製の枠に、四方皿(よほうざら)をくくりつけたオブジェを、三越本店での個展の時に購入しましたが、今は枠を処分して、大きく分厚い四方皿が10枚残っています。

この上に、にぎり寿司などのっけて食べたら、さぞ美味しかろうと思います。



箱書き



箱書き


【隠崎隆一履歴】
1950年、長崎県に生まれる。大阪芸術大学卒業。
75年、グラフィックデザイナーから転身し、岩本修一、伊勢崎淳に師事する。
85年、独立。
90年、日本工芸会正会員に。
88年、92年の茶の湯の造形展で大賞を受賞。
その他の受賞歴:日本陶磁協会賞、MOA岡田茂吉賞優秀賞、一水会陶芸展一水会賞ほか。




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マッキーの現代陶芸入門講座(18)…坂田泥華と吉賀大眉のぐい呑みと湯飲み

2008年07月11日 | 陶芸
今日の陶芸入門の作家は、萩焼の重鎮として活躍した14代坂田泥華(さかたでいか)と吉賀大眉(よしがたいび)です。

14代坂田泥華は、大正4年、萩焼の御用窯であった深川窯(山口県長門市)の由緒ある窯元の14代目を昭和25年襲名。
昭和47年には、萩焼に独自の作域を確立したとして県指定無形文化財保持者に認定。
昭和56年紫綬褒章を受賞。
日本工芸会を中心に、作家活動を行っています。


泥華のぐい呑み(1986年)

その作風は、萩焼の伝統をふまえて、おおらかな印象を受けます。特に茶陶にその秀作が多いようです。
人間国宝が、日本の伝統工芸の保護・保存・継承といった側面があるとすれば、この作家こそ、それに相応しい人であるように思います。


泥華の湯飲み(1986年)

同じ工芸会の三輪休雪に対して、少し目立たない存在であったのか、また職人気質が災いしているのかは分かりませんが、もっと評価されても良いのではないかと思います。


泥華の片口の形のぐい呑み(1986年)

深川萩には、現在では坂倉新兵衛(さかくらしんべえ)・坂田泥華(さかたでいか)・田原陶兵衛(たはらとうべえ)・新庄助右衛門(しんじょうすけえもん)の四窯があります。

最後に、極めて残念なのは、泥華を継ぐご子息の坂田慶造氏を、亡くされたことです。
「泥華窯」が、現在どの様に運営されているのか、私は知りません。


珍しいスライド式の箱・箱書き



もう一人の作家、吉賀大眉は、大正4年 山口県萩市生まれました。
昭和13年 東京美術学校(現・東京芸大)彫塑科を卒業。
昭和30年 第11回日展北斗賞受賞
昭和46年 目本芸術院賞受賞
昭和57年 日本芸術院会員
昭和60年 日本陶磁協会金賞受賞
平成2年  文化功労者受章
平成3年  死去


大眉のぐい呑み(1988年)

以上のように、日展系を代表する萩焼作家として、出世コースを順調に歩んだ作家です。
卯の班釉(瀬戸地方で用いられる白色不透明のなだれ釉)の一種の釉薬と思われる、その発色が独特で、一目でこの作家の作品は判別できます。


大眉の湯飲み(1988年)

吉賀大眉の代表作が一堂に展示してある「吉賀大眉記念館」が、萩市にあります。
萩焼の展示施設として、唯一の総合美術館だそうです。
敷地内にある萩焼窯元泉流山大眉窯で、蹴轆轤(けろくろ)による作業風景と登り窯も見学でき、ギャラリーでショッピングも楽しめるとのこと。

吉賀大眉記念館 住所 〒758-0011 萩市椿東4481番地 TEL0838-26-5180


箱書き

ご子息の、吉賀将夫さんも、日展で活躍されています。


吉賀将夫さんの茶碗(1987年)

萩焼の詳細は、私のブログ「三輪休雪」で、述べましたので、参考にしてください。
萩焼は、「一楽・二萩・三唐津」と呼ばれるように、茶陶の分野で高く評価され発展してきました。

「萩の七化(ば)け」と呼ばれる萩焼は、使い込むほどに、味わいが出てくる焼き物です。
逆にコレクションを使ってしまうと、その跡が残るわけで、一生作品をお持ちになるなら、どうぞ使って楽しむことをお勧めします。

陶芸作品は、美術品として鑑賞するだけではなく、日常生活の中で用いることも出来る器物でもあります。
実際使ってみて、初めて分かる作品の良さもあります。
しかし使うことにより、劣化したり破損したりする危険もあります。
さて、お気に入りのコレクションを使うのか、飾り棚の中にしまい込んでおくのかは、あなたの考え次第です。


興味ある方は、次のブログも参考にご覧下さい。

マッキーの現代陶芸入門講座…萩焼・坂田泥華さん死去



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マッキーの現代陶芸入門講座(17)…大樋 長左衛門の焼き物

2008年07月04日 | 陶芸
二十年も前のことだったろうか。

家族はすでに寝ている深夜、仕事から帰って、疲れた体を椅子にあずけるように座る。

ふと、抹茶を頂きたくなって、一人お茶を点てる。

茶碗は、大樋焼・大樋長左衛門(おおひ ちょうざえもん)。
その飴釉の茶碗の中で、深緑の抹茶が、鮮やかな色彩のコントラストを見せる。

「あー。」

何とも言えない感動がこみ上げてきた。


大樋長左衛門の飴釉茶碗

日頃余り気にしないことが、ある時突然心にしみるほど感じ入ることがあります。

私はその時、大樋長左衛門の茶碗の中の、ほんのわずかな量の抹茶の中に、深山のエメラルドグリーンに彩色された湖を見ていたように思います。

仕事に忙殺された私の体と頭脳が、一服の抹茶で癒され、心が落ち着いたのです。


十代大樋の落款


箱書き

今日の作家は、大樋焼・十代大樋長左衛門です。
茶陶の世界では、無論知らない人はいない、有名陶芸家です。

私が、最初に購入したぐい呑みの箱書きには、まだ「大樋年朗」の銘が書かれていました。


年朗銘の、ぐい呑み


年朗・箱書き

その後、大樋焼では、「長左衛門」が2人存在するなど、訴訟沙汰になる出来事が起きます。

簡単にこのゴタゴタを解説すると、大樋焼本家本元に対し、血縁のない現在の「大樋長左衛門」が、実力で本家の名跡「長左衛門」の使用を勝ち取ったと言うことです。

やはり、実力がある作家でも、茶陶の世界では、過去から続く伝統的な名跡は、喉から手が出るほど欲しいものらしい。

現在では、大樋焼本家筋は、「九代目大樋勘兵衛(かんべえ)」を名乗り、そうしたことで大樋焼には、2つの窯元が相争う事態になって現在に至っています。


長左衛門のぐい呑み

ちょと折角のお茶が不味くなりそうな話はその位にして、本題に戻りたいと思います。

現在の十代大樋長左衛門は、1927年に、九代長左衛門の長男として生まれました。
1949年、東京美術学校(現東京芸大)卒業。
1958年、日本陶磁協会賞を受賞。日展を中心に活動を行いました。
1990年、金沢大学教授に就任。
1999年、日本芸術院会員就任。
2000年、金沢学院大学美術文化学部長に就任。
2004年、文化功労者の顕彰を受けました。

このように見てくると、この作家は、作家活動の他、美術団体世話役・大学等の教育者など、幅広く活動を行っていることが分かります。


長左衛門 箱書き

石川県金沢市は、加賀百万石の城下町として、歴史を感じさせる文化を、現在も育んでいる町です。
この石川県というと、九谷焼、輪島塗等の優れた伝統工芸を思い描くことが出来ます。

大樋焼は、寛文6年(1666年)加賀藩の茶道奉行として裏千家四代、千宗室仙叟(せんそう)が五代藩主前田綱紀(つなのり)候の命により招かれた際、京都在住の楽一入の門人、土師長左衛門を金沢に同道した事より始まります。
長左衛門は金沢東郊の大樋村に最良の土を見い出し、仙叟の好みの茶器を焼成、以来340年余、十代にわたる大樋焼の祖となりました。


長左衛門の湯飲み

大樋焼の最大の特徴は、「大樋飴釉(あめゆう)」といわれる飴色の釉薬です。
これは初代長左衛門が始めたものですが、当初、京の楽家から黒と赤を使用することを禁じられたからだということです。
大樋焼の土は地元の物を使用しますが、大樋の土は鉄分を多く含み、飴釉の発色に適していると言われています。

大樋焼は、一般的な楽茶碗と同様に、手びねりで作られます。
その温もりを手に感じながら、お茶を頂くのも、心が落ち着き、良いものです。
私の教室では、正月に行われる中学受験生の「正月特訓」の年明けの初日授業日に、「長左衛門」などの器を使って、抹茶を点てて生徒達に振る舞っています。




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マッキーの現代陶芸入門講座(16)…金城次郎 琉球陶器の魅力

2008年06月27日 | 陶芸



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沖縄の焼き物「壺屋焼」(つぼややき)は、日本の陶芸の中でも異色の焼き物です。


南国の強い日差しと、潮の香りを含む浜辺の風を感じる陶器。
琉球の焼き物には、中国や朝鮮などの影響だけではなく、東南アジアなど南方の土着的な焼物の雰囲気を漂わせ、異国の陶器のようです。
今日の陶芸家金城次郎の陶器は、個性的でバナキュラーで力強い線彫りが魅力となっています。

昭和初期、日本では民芸運動が盛んでしたが、その中心人物の「柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司」などの人たちが、沖縄の壺屋焼や染織などの工芸に強い関心を寄せました。
また沖縄の作家達も、そうした民芸運動の人たちから指導を受けるとともに、その思想的影響を受けたようです。


金城次郎の魚紋抱瓶(だちびん)

金城次郎は、1912年沖縄に生まれ、13歳で新垣栄徳の製陶所に入門し、壺屋製陶に従事します。
1946年、那覇市壺屋に築窯し、民芸運動の指導者とも交流しながら、壺屋焼の発展に努めました。


濱田庄司の湯飲み…民芸運動の中心人物。素朴で力強い独自の作風を作り上げた。


濱田庄司箱書き
1955年 人間国宝に認定。1968年文化勲章受賞。

戦後、壺屋焼復興に、新垣栄三郎、小橋川永昌とともに「壺屋三人男」として活躍しました。
人口が急激に増加した那覇では、壺屋近辺に窯場が原因とされる公害問題が発生しました。
金城次郎は、伝統的な登り窯による焼成を求めて、1972年沖縄が日本本土に復帰した年に、読谷村(よみたんそん)に移住します。

1985年に、「琉球陶器」の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
2004年、92歳で没。


金城次郎の魚紋カラカラ(徳利)

金城次郎は、人間国宝に認定された後も、自らを陶工あるいは職人と呼び、頑固に「用の美」を追求し続け、「ひたすら壺屋に従い、時代に流されることはなかった」そうです。


金城次郎の魚紋湯飲み

金城次郎の作品を多数持っている、知る人ぞ知るコレクターをご存じでしょうか。
そう、筑紫哲也さんです。
その筑紫さんの金城次郎の紹介文の中に、こんな文章が載っていました。

「《人間国宝》を観にそこを訪れる人は気を付けたがよい。しばしば裸足で、小学生のような帽子をかぶり、粗末な作業姿のおじいさんがいて、「次郎さんはどこですか」と訊ねられると「あっち」とあらぬ方角を指されることがある。」

このエピソードこそ、金城次郎その人を良く物語っているように思います。


金城次郎箱書き


本来、箱書きなど不要と考えていたのか、箱書きの文字が統一されていない
上の箱書きが新しいと思います。桐箱も人間国宝指定後は、立派になりました。

以前にも指摘したとおり、陶芸部門の人間国宝に認定された方は、ほぼ間違いなく伝統工芸会の会員と考えて良いでしょう。
しかし、民芸の流れをくむ人間国宝に認定された陶芸家は、例外的に工芸会の会員ではありません。


芹沢介(せりざわけいすけ)…型絵染で人間国宝に認定された民芸運動の作家


芹沢介シール

金城次郎も、そうした大きな団体には所属して無く、「琉球陶器」として人間国宝認定されましたが、やはり民芸の系譜に属する作家と見て良いと思います。


金城次郎の魚紋筆筒

最後に、沖縄(琉球)の焼き物について、簡単に述べておきましょう。

焼物のことを沖縄の方言で「ヤチムン」といい、その製法から赤焼、素焼、上焼に大別されます。
荒焼は水がめ、みそがめ、酒がめなど大きなものを指し、上焼は線彫り、施釉、絵付けを施すもので、食器、花器、茶碗、急須、カラカラなどを指します。

上に掲載した抱瓶(だちびん)は、携帯用の酒瓶の一種です。腰のカーブに合わせて形が三日月型になっています。
カラカラ(徳利)、チューカー(急須)、厨子がめ(骨壺)、シーサー(唐獅子)なども、南国の開放的な雰囲気と、土着的な意匠が魅力となっています。

17世紀に各地の窯元が現在の壺屋に続一され、壺屋焼として独自の陶器を作り出して現在に至っています。

これらの作品を眺めていると、いつの日か、酒を満たした抱瓶に紐を通して肩にかけ、麦藁帽子をかぶり、南国沖縄の浜辺の木陰に腰を下ろし、次郎さんの湯飲みをぐい呑みにして、海原を眺めながら、潮の香りを肴に一杯やってみたいと思い始めました。



マッキーの現代陶芸入門講座(15)…藤原 雄のぐい呑み・徳利

2008年06月13日 | 陶芸

今回の作品は、備前焼の作家として生前大変人気のあった、藤原雄のぐい呑みと徳利です。

多分どなたの家にも、花瓶や食器そしてぐい呑みなどの備前焼が、おありのことと思います。

備前焼の良さは、その発祥が古代の須恵器に遡ると言われているだけに、素朴な力強さを感じる所でしょうか。そして、基本は無釉薬の焼締陶器ですので、そのフォルムと、炎芸術とも言うべき炎による様々な窯変が、備前焼の魅力となっています。



胡麻の掛かった雄のぐい呑み


雄の作品は、この人の人柄を表しているのか、おおらかでゆったりした印象を受けます。私は、この作家は決して職人的な技量のある人であったと思いません。四方皿(よほうざら)の上に、ヘラで描いた文様などは、どちらかというと稚拙な印象さえ受けます。しかし、そんなことには無頓着なように、精力的に多くの作品を残しています。

陶芸家の中で、「ユウさん」と言えば藤原雄のことで、一般の陶芸愛好家の中では、圧倒的な人気作家だったと思います。



こちらは、少しおとなしい雄のぐい呑み


藤原雄は、1932年後に備前焼で人間国宝となる藤原啓の長男として、現在の備前市に生まれました。

1951年明治大学文学部に入学し、文芸部に所属し短編などを誌上に発表するなど、文学青年として、学生生活を送りました。

大学卒業後、みすず書房に入社するものの、父啓の病気看護のため、郷里岡山に帰ります。

小山富士夫の勧めで父啓に師事し、備前焼を学び始めます。

1958年日本伝統工芸展に初入選。以降伝統工芸展を中心に、作家活動を展開。

1996年備前焼で重要無形文化財(人間国宝)に指定される。父啓も人間国宝に指定されており、二代続けての人間国宝となりました。

2001年69歳で死去。体調がすぐれないと聞いていましたが、早すぎた死でした。



藤原啓の緋襷(ひだすき)のぐい呑み


藤原啓も雄も、青年時代を文学青年として過ごし、焼き物を最初から目指したわけではありません。多分そうしたことが、この2人に共通した、おおらかなゆったりした作風を生み出していると考えられます。


 備前焼は瀬戸・常滑・丹波・信楽・越前とともに、日本を代表する六古窯の一つに数えられています。

鎌倉時代後期に、酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれ、現在では「古備前」として珍重されています。

室町後期には、備前市の伊部(いんべ)で大窯が築かれ、その産地の地名をとって「伊部焼」とも呼ばれています。

森・金重は、その時代からの窯元で、今でもこの系譜に続く作家が活躍しています。

備前焼の焼成は、約1300度の高温で2週間も炊き続けることによって行われます。作品の出来不出来が、この焼成によって左右される、まさに炎芸術と言っても良いでしょう。(ただ、経験を積むと、結構計算して窯変を作り出す事もできると聞いたこともありますが、その辺の所はよく分かりません。)

ぜひ、作家物で自分の気に入ったぐい呑みを一点購入し、晩酌などでその陶器の肌触りを楽しみながら、一杯やってみてください   酒の肴は、ぐい呑みに合わせ、質素な物で十分

また、備前焼のビアマグを冷蔵庫の中で、キンキンに冷やしておいて、そこにビールを流し込むと、陶器表面の微細な凹凸によって作り出されるアワがたまりません   これからの季節、どうぞおためし下さい



啓の箱書き


 備前焼の、窯変の種類は、知っておいた方がよいので、まとめてみました 

胡麻(ごま)…窯焚の最中に、薪の灰が融けて生地にくっ付く事によりできる模様。

緋襷(ひだすき)…藁を巻き鞘などに詰め直接火の当たらない場所で焼くことによって、生地全体は白く、藁のあった部分は赤い模様になる。

牡丹餅(ぼたもち)…焼成時に作品の上にぐい呑みなどを置くことで、該当部分が白くなる。そのカタチが牡丹餅のようになることからこの名がつけられた。

桟切り(さんぎり)…窯床においてある作品が灰に埋もれたとき、火が直接当たらないのに加え、空気の流れが悪くなりいぶし焼(還元焼成)になるために生じる窯変。ネズミ色・暗灰色・青色などがあります。

青備前(あおびぜん)…通常の備前焼締めは酸化焔であるが、還元焔になることで青くなる。青備前は窯中で空気があたらない箇所で焼成されると出来る。



雄の徳利



箱書き


 最後に備前焼で記憶しておくべき物故および現存作家を紹介しておきましょう 

まず筆頭は、金重陶陽。現在の備前興隆の礎を築いた巨匠です。備前焼で人間国宝になりました。備前焼で人間国宝に指定された作家は、金重陶陽の他に藤原啓・山本陶秀・藤原雄・伊勢崎淳で、計5人です。

山本陶秀は、茶入れの陶秀とも呼ばれ、職人肌の人でした。私も茶入れ、鶴首の花器、茶碗など、陶秀の作品を数点持っていました。

唯一、これらの作家で縁のなかったのは、伊勢崎淳です。伝統的な技法を踏襲しながら、現代的感覚を取り入れた作品が評価を受けているそうです。

現存の備前焼作家の中で、ダントツの力量を感じさせる作家は、私にとって 森陶岳 です。精力的に活動をしていましたが、最近はどうしているのでしょうか 

他には、陶陽の弟の金重素山、金重道明、浦上善次、伊勢崎満、金重晃介、金重まこと、山本出、山本雄一、各見政峰、各見飛出記、岡田輝、星正成、柴岡紘一、今最も人気がある隠崎隆一、小西陶蔵、好本宗峯などを挙げることが出来るでしょう。


1988年 黒田陶苑

かつて、この作家の花器・茶器・食器など、かなりの点数を所有していました。

今、手元にある作品は小品のみですが、この人のおおらかさが表れた心温まる陶芸が、この作家の持ち味です。





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マッキーの現代陶芸入門講座(14)…荒川 豊蔵のぐい呑み

2008年05月30日 | 陶芸
今日の作品は、荒川豊蔵の志野のぐい呑みです。

荒川豊蔵の作品は、落ち着きのある、また奇をてらわず、風格を感じさせる作風です。

彼は、桃山時代に興隆した美濃焼を再興し、志野・黄瀬戸・瀬戸黒の技術を現代に蘇らせた陶芸史上に大きな足跡を残した巨匠です。多くの陶芸家にその影響を与え、自らも様々な著名な窯場を訪問し作陶しています。



荒川豊蔵の志野酒盃


このぐい呑みは、1987年に黒田陶苑で購入したもので、二重箱に納められています。

志野焼としては、志野釉の掛具合が薄く、その分陶器表面の変化が特徴的で、梅花皮(かいらぎ)風の景色が見られます。器の中に、『斗出庵』(荒川豊蔵の号)の『斗』という文字が刻まれています。

彼が、上手くできた作品に、『斗』の文字を刻んだとも言われているけれど? 
まてよ、どうして焼ける前に作品の出来の善し悪しが分かったのだろう?
斗出庵の号は、文化勲章受賞後の1972年頃より用いているので、このぐい呑みは、晩年の円熟期に作った作品と言うことになります。

豊蔵のぐい呑みは、かなりの数を見ていますが、この作品は彼のぐい呑の中でも最もできの良い作品の一つではないかと思います。

大ぶりで、ゆったりしたフォルム、器の表面に薄くかかった釉薬の変化。お酒をこの器に入れて手に持ったら、さぞ美味く感じられるであろうぐい呑みです。



器の中の『斗』の文字


荒川豊蔵は。1894年岐阜県土岐郡多治見町(現・多治見市)に生まれました。

宮永東山の京都・東山窯の工場長を務めたのち、昭和2年『北大路魯山人の北鎌倉・星岡窯』の窯場主任として作陶を続けます。

その後、桃山時代に焼かれた志野茶碗に興味を抱き、岐阜県可児市久々利大萱の牟田洞古窯跡で『志野茶碗銘玉川』と同じ志野筍絵陶片を発見します。

1930年のこの発見は、それまでは瀬戸で焼かれていたと思われていた志野や瀬戸黒などが、実は美濃の産であったことを実証しました。

1933年郷里に戻り、陶片を発見した大萱に穴窯を築き、桃山時代の美濃焼再興に情熱を傾けます。

1946年多治見・虎渓山永保寺所有の山を借り、『水月窯』を築きます。
(水月窯は、長男武夫に譲られ、主に食器類を焼いて現在に至っています。)



水月窯 紅白梅湯呑(1986年)


1955年「志野焼」「瀬戸黒」の2つにおいて、で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

1971年文化勲章受賞(同日に文化功労者として顕彰)

1985年8月11日死去(享年91)



豊蔵の箱書き


荒川豊蔵の生涯で、私は三つの点に注目しています。

【一つ目は、北大路魯山人との出会い】

日本の現代陶芸、もっと言うと現代の文化に多大な影響を与えた、北大路魯山人の下で作陶したことが、どのように荒川豊蔵の生涯に影響を与えたのか。美に対する比類なき感性を持った天才・魯山人が収集した古今東西の名品を、豊蔵はきっと目にしたに違いありません。

一介の陶工にすぎなかった豊蔵は、そうした経験の中で、美に対する感性が養われていったと考えられます。あの気むずかし屋の魯山人の下で働く大変さはあったことでしょうが、その後の豊蔵の才能を開花させる契機になったことは、間違いないことでしょう。

魯山人が鎌倉に造った星岡窯において、豊蔵が制作した器は、プロデュースした魯山人の手で、「ロの字」が付けられ、現在魯山人の作品として、流通しているのでしょうか。

私は、北大路魯山人の作品集図録に掲載されている、共箱の草文鼠志野の大きな皿を所持していました。多分その作品も、荒川豊蔵が主に手がけ、白く抜けた草の文様を魯山人がちょいと描いたと考えられます。魯山人に鼠志野の大皿を作成する技術はなかったと思います。

それにしても、豊蔵が独立した後も、孤高の天才・魯山人との交流が続いた事実は、いかに豊蔵が人間的に包容力があったかを、示していると思います。

ところで、人気マンガ「美味しんぼ」の山岡士郎の父・海原雄山のモデルは、北大路魯山人とされています。


      
豊蔵の書画「志野水指の図」額装・シールの号は斗出庵(1986年・日本橋三越)


【二つ目は、陶片発掘の経緯】

豊蔵の生きた時代、全国の古窯が発掘され、その陶片を元に、桃山期を中心とする陶器制作技術の復興ともいうべき、大きな流れがあったように思います。

日本の現代陶芸は、かつて人類が到達したことのないような、ハイレベルな様々な技術が百花繚乱し、空前絶後の陶芸文化を生み出しています。

私たちを楽しませてくれる、こうした状況は、陶片発掘と言う、地道な先達の努力の上に成立していると考えて良いでしょう。

陶芸の一つの頂点と思われる桃山期の様々な技術は、時と共に廃れてしまっていました。そうした技術を、時空を越えて現代に蘇らせ、現代陶芸を飛躍的に発展させた原動力が、川喜多半泥子、北大路魯山人、荒川豊蔵、中里太郎衛門 (十二代)、金重陶陽、西岡小十などの、陶片から過去の技術を学ぼうとした人たちでした。

昭和5年、魯山人が星岡窯の作品展を名古屋松坂屋で開いた時、その滞在先近くの古美術店に、桃山陶器『志野筍絵茶碗 銘 玉川』があることを知り、北大路魯山人と荒川豊蔵の2人は、その秘蔵の作品を見せてもらいます。

豊蔵は、その時に、その茶碗の高台のハマコロ(茶碗をサヤに入れて焼くとき、サヤと茶碗の高台が焼きついてしまわないように間にはさむ土の輪の跡)の色に注目し、それが瀬戸で焼かれたものではなく、美濃で焼かれたのではないかと直感しました。

その後、豊蔵は、美濃の大萱で、ゆずはだで緋色の小さな筍が一本描いてある、志野焼きの陶片を発見します。美濃でのこの桃山陶器の陶片発掘は、『桃山の陶器は瀬戸で焼かれた』というそれまでの定説を覆す重要な発見となりました。

       
唐九郎の書「東西」額装・号は「一ム」(1986年・黒田陶苑)


【三つ目は、同時代に生きた加藤唐九郎との関係】

豊蔵と同年代に、桃山陶器の再現に努力した天才的陶芸家・加藤唐九郎が、瀬戸で活躍しています。

私が子供の頃、焼き物作家の名前として、一般の人でも加藤唐九郎の名前は、別格の存在として知られていました。

どういった経緯で、私自身小学生の頃からその名前を知っていたのかは、分かりませんが、偉大な芸術家として、記憶されていました。

唐九郎は、1952年織部焼の技術で人間国宝に指定されます。しかし、あの有名な『永仁の壺事件』により、その指定が後に取り消されるといった、不名誉な処遇を彼は受けることになります。

この唐九郎と豊蔵は、お互いをどのように見ていたのか、興味の湧くところです。

私が子供の頃から知っているほど話題性があり、マスコミ受けする唐九郎に対して、私も陶芸に興味を持ってからその名を知った豊蔵は、どちらかというとマイペースで黙々と桃山陶器の復元に努力を傾けた人だったのでしょう。

地理的にも近く、同じ方向の作陶を手掛けているこの2人が、親密な交際をしても良い筈なのに、余りそうした交流の話は聞きません。この事実は、逆に言えば、いかにお互いが、相手の作陶成果を気にしていたのかを、物語っているように思えてなりません。

この時代を代表する巨匠、豊蔵と唐九郎。歴史のフィルターを通って、後世に残っていくのは、どちらの作家の作品でしょうか。


       
唐九郎の書「無」軸装・箱書き(1986年・黒田陶苑)


【補足】

陶芸家で、文化勲章を受章している作家は、板谷波山・富本憲吉・濱田庄司・荒川豊蔵・楠部彌一・浅蔵五十吉・青木龍山です。

人間国宝→文化勲章の流れで、受賞しているのは、富本憲吉・濱田庄司・荒川豊蔵の3人で、帝展・日展→芸術院会員(帝国美術院会員)→文化勲章の流れは、板谷波山・楠部彌一・浅蔵五十吉・青木龍山の4人です。陶芸分野で、日展を圧倒している日本工芸会系の人間国宝の文勲が少ないのが気にかかります。またもっと問題なのは、団体に属さない陶芸家は、どちらのコースにも進めないのが実情だということです。

国が芸術家に与える評価の基準は、悪しき因習を引きずるのではなく、または団体の圧力に影響するものであってはなりません。様々な思惑が渦巻く小さな器の中で、決められた流れに合わせて、芸術家を評価するのではなく、だれもが違和感を覚えることのないような、真に客観的な芸術的評価をしてもらいたいと、私は常々思っています。皆さんはどうお考えでしょうか。




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マッキーの現代陶芸入門講座(13)…西岡 小十の湯飲み・ぐい呑み

2008年05月23日 | 陶芸

現代陶芸家の中で、無冠の巨匠と言って良い存在が、西岡小十でしょう。唐津焼の作家として、その力量はだれもが認めるところであるのに、なぜか人間国宝指定どころか、陶磁協会賞さえ受賞していないとは?

今回の作品はその人、西岡小十のぐい呑みと湯飲みです。

小十は大正6(1917)年、唐津に生まれました。小山富士夫と出会い、桃山時代の唐津焼を復元し、その技術を習得する道に、西岡小十は踏み出していきます。平成18年(2006)に八十九才で没。小山の援助を得て衣干山に築いた小次郎窯の呼び名から、小十と号しました。



小十の絵唐津ぐい呑み(92年黒田陶苑)


中里無庵亡き後、当然唐津焼の人間国宝は、西岡小十を除いていないと思っていました。西岡小十が、人間国宝に指定されなかったことで、唐津焼の人間国宝指定は、当分あり得ないことでしょう。



朝鮮唐津ぐい呑み(87年黒田陶苑)


人間国宝については諸説があり、西岡小十が、師である小山冨士夫の推挙打診を固辞したと言う話もあります。また、私の持っている現代陶芸を代表する作家の作品集などにも、小十が掲載されていないところを見ると、あえてそうしたものを拒否しているように思います。

河井寛次郎や北大路魯山人そして板谷波山など、何人かの陶芸家が、人間国宝推挙を断っている例があります。しかし、この3人のように中央で活躍した巨匠でなかった西岡小十の推挙固辞は、彼の作品を大切に後世に残すと言った点において、大きなマイナスとなったと思います。



絵唐津湯飲み(湯飲みの縁は、皮鯨となっています。87年黒田陶苑)


小十は、小次郎窯で斑唐津・朝鮮唐津・絵唐津・彫唐津・絵斑唐津・梅華皮唐津などの古唐津を復元して、瞬く間に唐津を代表する作家となりました。

鬼板を使い文様を描いた絵唐津の筆さばきは、並の陶芸家でないことを示しています。また小十の書画は、荒川豊蔵の影響を受け、陶芸家のものとしては、極めて上手い。私自身、小十の書を一幅持っています。



小十 箱書き


小十 箱書き


小十は、日本工芸会や日展などの団体には属さずに活動しました。陶芸ファン以外、一般にはその名前は知られていなかったように思います。自分の作品、まさに自分の分身・子供のような存在である作品を、より多くの人たちに知って欲しいという欲望はなかったのだろうか?作家として、もっと商業ベースに乗って、活動を行っても良かったのではないかと、私は思います。



小十に大きな影響を与えた、小山冨士夫 信楽ぐい呑み(87年黒田陶苑)


古山子(小山富士夫) 箱書き


唐津焼の作家として、記憶にとどめておきたい物故を含めた作家を載せて起きます。

まず、十二代中里太郎右衛門、のちの中里無庵です。古唐津の伝統を復興した唐津焼の巨匠。唐津焼の人間国宝に指定されました。

その子供の、十三代中里太郎右衛門。そしてその弟の、中里重利と中里隆。下になるに従って、自由な創作活動を行っているように感じます。

外には、徳沢守俊、藤ノ木土平などが挙げられます。



西岡小十の絵唐津茶碗(1986年 黒田陶苑)


唐津焼について、簡単にまとめておきたいと思います。

他の多くの窯場同様に、唐津焼は豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に連れ帰った陶工たちによって始められました。当時画期的な技術として、「蹴轆轤」と「登り窯」がそれら陶工によって日本にもたらされました。

安土桃山時代に茶道が流行したことから発展し、「1楽2萩3唐津」と呼ばれるほどわび茶碗として定着。やきもののことを、東では「セトモノ」、西では「カラツモノ」と呼ぶほど、多くの人々に使われ親しまれました。

しかし江戸時代中期以降、茶陶を焼く御用窯を除き衰退しました。燃料の薪の濫伐による山野の荒廃や、伊万里等の磁器物に押されたというのが原因でした。明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退し、多くの窯元が廃窯となりました。

その後、人間国宝中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、唐津焼の再興に成功。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな陶器作りが試みられています。



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マッキーの現代陶芸入門講座(12)…島岡 達三の湯飲み・ぐい呑み

2008年05月16日 | 陶芸
ある程度美術に関心のある方は、「民芸」という言葉の意味を知っていることでしょう。

今日の作品は、「民芸」の陶芸家、島岡達三の湯飲みとぐい呑みです。



縄文象嵌赤絵ぐい呑み


島岡達三は、1919年東京に生まれ、柳宗悦の民芸の思想に影響を受けて、作陶を決意した陶芸家です。

東京工芸大学(現東京工業大学)で学び、在学中に益子の濱田庄司を訪れ、卒業後弟子として修行を積みます。

1994年、日本陶磁協会金賞を受賞し、名実とも現代「民芸」の旗手として、評価を受けました。

1996年、民芸陶器(縄文象嵌)で、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。

2007年12月、88歳で没。 …実は、つい最近まで亡くなられたことを、私は知りませんでした。



縄文象嵌ぐい呑み


島岡達三は、一般に巨匠濱田庄司(第一回人間国宝指定・文化勲章受章)の弟子というイメージが大きく、またその作風が縄文象嵌(ぞうがん)一筋ということもあって、人間国宝ではありますが、地味な存在だったように思います。



縄文象嵌湯飲み



それから、島岡達三は、日本工芸会や日展などの大きな団体の公募展に出品していないので、広く一般の人に名前が知られていなかったように思います。

以前にも指摘したように、陶芸部門で人間国宝に指定されるには、基本的には日本工芸会の所属であること、各地域の窯場を代表する技術保持者であること、加えて陶芸分野において新たな技術を極めた作家であることなどが挙げられるでしょう。

しかし、こと民芸に関わる陶芸家として人間国宝に指定されたかつての作家は、濱田庄司・金城次郎を挙げることが出来ますが、いずれも工芸会の会員ではありません。



灰釉ぐい呑み


島岡達三といえば、縄文象嵌。この独自な手法は、学校で使う古代土器の複製を依頼されて、縄文土器の手法を研究したことから出発したそうです。また、彼の父親が組紐師であったことも、組紐を転がして文様を付けることに役立ったようです。

島岡達三の縄文象嵌は、縄文式土器の文様付けと李氏朝鮮時代の象嵌技法の三島手を融合させた独自の技法です。陶器表面の文様は、組紐を転がしてできた縄目に、白土を埋め込んで作り出します。



塩釉のぐい呑み


島岡達三の「塩釉のぐい呑み」や「灰被りのぐい呑み」は、上がりがとても良く、窯変の面白さが魅力です。

いずれも彼の作品は、その人柄を反映するように、てらいのない落ち着いた佇まいを見せます。本来は、日常使う器として、生活の中に置いて鑑賞するように、彼の作品はできているのでしょう。



島岡達三箱書き


「民芸」について、少し触れておきたいと思います。
私が生まれ育った頃、すでに「民芸」は、一般的な言葉として、あふれていたように思います。しかし、その言葉は、本来の意味を離れ、主に観光地などで見かけるお土産用の「民芸品」に、成り下がっていました。




青釉黒流描大鉢 濱田庄司 1956年(日本民芸館図録抜粋)



現在、主に語られる「民芸」という言葉は、「民芸品」からイメージされる、かなり薄っぺらな意味でしか、一般の人には語られなくなっているようです。それは、「民芸運動」の硬直化という、運動主体の衰退が大きいと思います。しかし、現代美術であふれかえる今、改めてこの「民芸」の意味を咀嚼してみるのも、意味あることではないでしょうか。



阿修羅の柵 (観音経曼荼羅)棟方志功 1938年(日本民芸館図録抜粋)


この言葉を創り、民芸運動を展開した柳宗悦の語った本来の「民芸」の意味を、学生時代に知ったとき、ある種の感動が胸にあふれてくるのを感じたことを、今でも覚えています。

「民芸」とは、無名の職人達が、民衆の日常生活のために作った実用品を指す言葉です。柳宗悦は、それまで顧みられることのなかったそれら実用品の中に、芸術家が作り出す作品に、勝るとも劣らない美を発見しました。

柳宗悦は、無名の工人が作った日用雑器の中に、生活の中の美・実用器物の美・「用の美」を見つけ、それらを収集し「日本民芸館」を設立しました。

「日本民芸館」の所在地
東京都目黒区駒場4-3-33
京王電鉄井の頭線駒場東大前駅下車徒歩5分
開館時間 午前10時~午後5時 月曜休館



風の字文のれん木綿地型絵染(芹沢介美術工芸館図録抜粋)


代表的な、民芸の作家は、(陶芸家)バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司、富本憲吉、金城次郎、(木工家)黒田辰秋、(染織家)芹沢介、(版画家)棟方志功など、錚々たるメンバーが挙げられます。



島岡達三個展図録抜粋



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マッキーの現代陶芸入門講座(11)…松井 康成の湯飲み・ぐい呑み

2008年05月09日 | 陶芸
著名な陶芸家の作品で、これほど一般の方の好き嫌いが大きいものは少ないでしょう。

陶芸ファンは、その作品が生み出される技術を十分に理解していますので、また違った見方ができます。

私自身も、どちらかというと、この作家の落ち着いた色彩の作品の方が、好みです。



練上嘯裂湯飲み


今回の作品は、練上の嘯裂(しょうれつ)と言う技法を使った、湯飲みと酒盃です。湯飲みは、色調も落ち着いていて、表面の亀裂の肌触りも良く、実際に普段使用していて、愛着の湧く作品です。



練上嘯裂茜酒呑


この作品を作った松井康成(まついこうせい)は、1927年長野県に生まれました。1952年明治大学文学部を卒業し、1957年30歳で茨城県笠間市の浄土宗月崇寺住職となりました。1959年頃に廃窯となっていた山門下の窯を再興し、中国や日本の古陶磁器の研究に励むとともに、1967年に田村耕一に師事します。

松井康成は、中国・宋代磁州窯に流れをくむ練上手(ねりあげて)の技法を研究し、この練り上げの技法に、独自の表現技法を駆使して、新たな視点で現代的な作品を創作しました。



練上玻璃光壺 (工芸会図録借用)


1969年第9回伝統工芸新作展に「練上手大鉢」を初出品し奨励賞を受賞し、1971年には日本伝統工芸展日本工芸総裁賞、1974年には日本陶磁協会賞を受賞し、陶芸家として、その力量を世に認められました。

松井康成の作品は、線模様に代表される初期の練上作品に始まり、ロクロで内側から膨らませ表面に亀裂を誘う「嘯裂(しょうれつ)」から、磁器に近い土の組成と硬質な輝きを特徴とする晩年の「玻璃光(はりこう)」に至るまで、多彩な展開を見せました。



練上嘯裂酒呑


1993年「練上手」で重要無形文化財保持者に認定され、2003年に死去。

この作家の練上手の作品の変幻自在な文様は、比類の無いように思います。多彩な色彩感覚に、お坊さんの感性かも知れない(外にも練上手の技法を使うお坊さんの陶芸家がおられる)、と思ったこともありますが、実に個性的な作品群です。

日本工芸会の作家の人たちに、松井康成は、練上手の技法を研修したりしていますので、プロの作家の方に対しても、その技術の高さが認められていたようです。

その作品に対し、好き嫌いがあるかも知れませんが、一つの技法をとことん追求したその作陶姿勢は、評価に値することだと、私は考えています。作陶技術を追求した先に、松井康成独自の全く新しい陶芸世界を構築した、たぐいまれな作家だったと思います。



松井康成の箱書き



松井康成の練上茶碗(1992年 日本橋三越本店)


練上手としては、初めての作品になりますので、その技法について、簡単に説明しておきます。

 2種類以上の色土(土に少量で鮮やかな色を発色する呈色剤(金属粉)を混ぜて、同根異色の粘土を作成)を使い、いろいろに重ね合わせ、断面にできる模様を薄く切ります。そうして細工したものを、そのまま器に成形する技法を総称して、「練上」または「練上手」と言います。

練上は、組み上げた模様を崩さないように成形する必要があります。また、乾燥や焼成中に、切れを起こしやすく、そのため、成形には細心の注意が必要とされ、陶芸技法の中でも、非常に手間のかかるものと言われています。



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マッキーの現代陶芸入門講座(10)…清水 卯一の湯飲み

2008年04月23日 | 陶芸
今回の作品は、私にとって「田村耕一」と並び、身近に感じる陶芸家「清水卯一」の湯飲みです。たぶん、そうした印象は、作品からにじみ出てくる人間性に起因するのでしょう。



淡青釉湯呑(87年・京王)


清水卯一は、1926年京都生まれの陶芸家です。14歳で石黒宗麿に師事し、翌年京都市の国立陶磁器試験所に伝習生として入所し、17歳で京都市立工業試験所窯業部助手となり、陶芸の研鑽に励みました。

戦後、宇野三吾を中心に結成された前衛を目指す四耕会に参加、そして木村盛和らと緑陶会を結成、また清水六和、森野嘉光らとともに京都陶芸家クラブ結成にも参加の傍ら、この間に、様々な展覧会で受賞を重ね、その才能を発揮していきます。

また、海外での評価も高く、ブリュッセル・プラハ・イスタンブール等の陶芸展でグランプリに輝くなど、日本を代表する陶芸家として、認知されました。

1970年に京都から琵琶湖畔の滋賀県志賀町に蓬莱窯(ほうらいよう)を築き、以降この蓬莱山の土を活かして、青白磁に近い蓬莱磁・鉄燿といった作品を生み出していきました。

1977年に、「日本陶磁協会金賞」を受賞。1985年、「鉄釉陶器」の技術により「重要無形文化財保持者」に認定されました。2004年、78歳で死去。



鉄耀白流湯呑(88・黒田陶宛)


清水卯一…この陶芸家は、現代陶芸家の中で、様々な公募展で、最も多くの受賞歴を持った作家の一人であると思います。

この作家の青磁には、光に当てると宝石のように輝く、亀甲貫入の入ったシャープなフォルムの青磁茶碗があります。

また、信じがたいほど薄手に作られ、そのフォルムのシャープさに驚嘆する蓬莱鉄耀茶碗(油滴天目の一種と言って良いでしょう)などは、現代陶芸家の中でも、最も技術的にすぐれた作家であることを、認識させるのに十分な力量を感じさせます。



蓬莱鉄文湯呑(90・日本橋三越)


しかし、彼の作品の中には、量的に多く作られているせいかは分かりませんが、卯一のシャープな技量を感じさせない作品も見受けられます。平凡な作品にだけ接している方は、ともするとこの作家の力量を見損なう危険もあります。

また、人間国宝に認定された頃から、鉄耀花器の上に、たっぷりとした白い釉薬を掛け分け、その釉薬を指かヘラで掻き落として文字を描く作品を、数多く制作しました。



参考資料:工芸会図録より抜粋


この作品群は、たぶん多くの陶芸ファンにとって、美術的評価および好き嫌いが分かれるものと思われます。

清水卯一は、最も充実した作陶が可能な時期に至って、なぜか師事した石黒宗麿の影響、たとえば鉄絵斑文や彩釉チョーク描などの作品の影響を受けたかのような、陶器表面に、文人趣味とでもいう、文字を掻き落とす作品にどうして没頭したのだろうと言う疑問が、私には湧いてきます。

清水卯一は、陶芸の技術の先にあるもの、その魅惑的な世界に、足を踏み入れたかったのではないでしょうか。

かつて、私は前記した卯一の作品群を所有していました。その力量に心服していた故に、清水卯一には、最期までその技術的な探求を続けて欲しかったと、私は考えています。卓越した技術のその先に、未踏の境地があったのではないか、そんな思いがするほど、この作家の技量はずば抜けていたのです。



参考資料:蓬莱鉄耀茶碗(図録より抜粋・私が所有していたものは、もっと薄手でシャープでした)


彼の箱書きの文字は、どちらかというと稚拙な筆使いで書かれていて、晩年まで上達したとは思えません。

技術的に最高水準まで到達した清水卯一に、ミスマッチな子供が書いたような箱書きの文字。そこに私は、この作家の温かい人間性を感じ、好感を持ちます。



清水卯一の箱書き


鉄釉陶器は、今回の作品が初めてなので、簡単に鉄釉について、まとめておきます。

鉄釉(てつゆう)は、鉄(酸化鉄)を呈色剤(ていしょくざい)とする釉の総称です。その釉薬をかけて、高火度焼成(しょうせい)したものを、鉄釉陶器と呼びます。釉中の鉄分量によって、1パーセント程度では薄い黄色《黄釉(おうゆう)という》を呈し、5パーセント程度で褐色《飴(あめ)釉という》となり、10パーセントほどで黒褐色となり、それを超えるとチョコレート色の被膜を生じ、いわゆる柿色《柿(かき)釉という》になります。

また日本では、曜変・油滴・玳皮盞天目を愛好してきた歴史の中で、大正・昭和初期に、鉄釉を天目釉という習慣ができたと言われています。

 鉄釉以外でも、鉄は様々な役割を果たしています。青磁(せいじ)釉もその代表的な一つで、釉の中の酸化第二鉄が還元炎(かんげんえん)を受けて酸化第一鉄に変化して、緑色を帯びます。この様に見てくると、釉薬の世界は、まさに無機物の化学反応の世界なのだと思います。



前記の青磁や蓬莱鉄耀茶碗に比べ、ゆったりした人間性を感じさせる


かつて鉄釉で人間国宝に認定された陶芸家が3人います。それは、石黒宗麿と清水卯一と原清です。

これら3人は、師弟関係にあり、日本工芸会の中でも、きわめて狭い範囲で、鉄釉陶器における人間国宝が認定されていることになります。

この中では、私自身縁が薄かった作家は、原清です。若くして注目を集めたものの、追求してきた領域が目立たなかったせいか、一般にはいまいち人気がなかったように思います。それでも、鉄釉の分野においては、その技量を認められ清水卯一亡き後、人間国宝に指定されました。

それから、鉄に関連して、鉄釉ではないですが、鉄絵で人間国宝になった田村耕一も忘れてはならない陶芸家でしょう。暖かみのある心和む作風で、人々を魅了しました。



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マッキーの現代陶芸入門講座(9)…楠部彌一の青磁双魚盃

2008年04月11日 | 陶芸



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 春の嵐やら、しばらくぐずついた天候が続いた東京。今日は、久しぶりに快晴で、暑くもなく寒くもない、清々しい日和です。今日の作品は、そんな季節にぴったりの酒盃です。



 上の画像の酒器は、楠部彌一の青磁双魚盃です。86年に、新宿小田急で購入した作品です。陶芸の作品は、大手百貨店が、プライスリーダーで、日本橋三越・高島屋が、その代表と言えるでしょう。物故作家に強いデパートは、以前は新宿の京王・小田急で、しっかりとした作品を販売していました。そうした作品に強い店員がいたからで、最近は出かけてないので保証はできませんが。



 楠部彌一は、1897年に京都で生まれ、京都市立陶磁器試験場に学びました。23才の若さで、「赤土社」を結成し、陶芸革新運動を展開します。その後30歳頃から、帝展・文展・日展を中心に受賞を重ね、幅広く活動します。1962年に、日本芸術院会員となり、78年に文化勲章を受章し、82年に87歳で死去。

 私は、かつて回顧展などで、彼の作品の全貌を知ることができました。特に注目すべきものは、彼が独自に創案した「彩延」でしょう。「彩延」とは、色土を表面に凹凸ができるほど、厚く塗っていく技法です。楠部彌一の彩延の作品は、伝統にとらわれない斬新なデザインで、爽やかで格調高い作品に仕上がっています。現在でも「彩延」は、彼の作品の中で最も価格を含め、評価が高いものです。

 もう一つ、楠部彌一の作品で、魅力を感じるのは、釉裏紅を使った作品です。白磁の上に、きれいに発色した釉裏紅の作品も、この人の持ち味として、格調の高い作品となっています。今回の作品は、私が持っている酒盃の中でも、数少ない二重箱の作品です。



 作品の大きさを測ってみると、W53mm、H28mmほどの小振りな作品です。酒盃の内側に、双魚が、青磁の釉薬から浮き出して、泳いでいます。



 双魚は、磁器の焼き物ではよく見かけるモチーフです。この作品の双魚は、立体的に盛り上がってできています。小振りで、きれいな色合いに発色した青磁の酒杯の中に、元気に双魚が泳いでいるこの作品も、やはり格調の高い、今日の日和にぴったりの爽やかな作品です。


「昭和十年之作也」という、箱書き(裏)


マッキーの現代陶芸入門講座(8)…鈴木蔵の志野ぐい呑み

2008年03月31日 | 陶芸
今回の志野のぐい呑みは、鈴木蔵の作品です。



鈴木蔵の志野ぐい呑み


蔵の作品の中では、ちょっと小振りでおとなしい作品ですが、発色も良く、ぐい飲みの内側の底の釉の下に、鈴木蔵のぐい飲みでは珍しく、鬼板(おにいた)で書いた「香」という文字が浮き上がっています。

鈴木蔵(おさむ)、鈴木治(おさむ)と同姓・同名(訓読みが同じ)なので、一般的に陶芸ファンは、鈴木蔵を「すずきくらさん」、鈴木治を「すずきはるさん」と呼んでいます。

皆さん知っての通り、鈴木治は「走泥社」の創立メンバーで、八木一夫とともに前衛的な陶芸運動の中心的な存在の陶芸家です。



鈴木蔵箱書き この人の箱は板目を使った立派なものです


鈴木蔵は、1934年生まれで、六十才そこそこで、数多くの優秀な陶芸家が手掛けている「志野」で、人間国宝になった陶芸家です。

「志野」の初代人間国宝は、現代に桃山時代の志野焼を復興させた巨匠荒川豊蔵です。荒川豊蔵の作品は、いつかこのブログで紹介したいと思います。

鈴木蔵は、若くして数々の陶芸展で受賞を重ね、志野の作品において、確かな腕前を評価され続けました。

私は、この作家が、多治見工業高校窯業科を卒業後、釉薬や土の研究をしていた父が勤める、丸幸陶苑試験室に入社したことが、この作家が二十代から頭角を現したことと、密接に関係すると思っています。

また彼は、陶器の焼成に一貫して「ガス窯」を使用していますが、丸幸陶苑試験室で蓄積したデータを、確実に焼き物の制作に活用するためだろうと思います。

釉薬および焼成温度等、豊富なデータをもとに、緻密な作陶を行っていますが、焼き物の目利きであれば、鈴木蔵の作品を見れば、その確かな力量を感じ取ることができることでしょう。





彼の作った湯飲みも私は持っていますが、志野の焼き物としては、限界に近い薄手の素地の作品です。

その湯飲みは、その上に掛けられた長石釉を、波紋状の文様に掻き落としています。

その作品を持ったときに感じる作家の力量は、清水卯一の驚くほど薄手の蓬莱鉄耀茶碗を持ったときに感じるものに匹敵します。

彼は、1982年には日本陶磁協会金賞、1987年には芸術選奨文部大臣賞を獲得し、1994年重要無形文化財「志野」保持者に認定されました。

彼の確かな力量と、豊富なデータに基づいた作陶は、優等生的作品を多く生み出すことは可能でしょう。

しかし、もう一つ突き抜けたもの、そうした作品を円熟期に至ったこの作家に求めたいと、私は感じるのですが。





ブログでは、「志野」の作品は、初めてなので、志野について簡単にまとめておきます。

志野焼は、室町時代の茶人・志野宗心が美濃の陶工に命じて作らせたのが始まりとされています。

千利休(1522~1591)によって茶道が確立された安土桃山時代に、我国で初めて文様が施された白釉陶器として、志野焼の茶碗は、注目を集めました。

しかしその後、古田織部(1544~1616)が茶道に影響を与えていく時期に、緑釉を意匠の基調にした自由奔放な織部焼が生産されると、志野は急速に衰退してしまいました。

現代に至って、それまで瀬戸で焼かれていたと思われていた志野焼が、岐阜県の美濃地方で焼かれていたことを荒川豊蔵が発見し、桃山志野の復興に努め、再び志野焼が現代に蘇りました。

志野焼は、耐火温度が高く、焼き締りが少ない五斗蒔粘土や、もぐさ土という鉄分の少ないやや紫色やピンク色がかった白土を使います。

その素地に、志野釉と呼ばれる長石を砕いて精製した白釉を厚めにかけて焼きます。

釉肌には肌理(きめ)の細かい貫入や、柚肌と呼ばれる小さな孔が多くあり、釉のかかりの少ない釉際や口縁には、緋色の火色と呼ばれる赤みのある景色ができます。





また、志野の最大の特徴は、絵付けがされたと言うことです。これは日本陶器史上画期的なことでした。

たっぷり厚く掛けられた長石釉の白さ、柚子肌の中から浮き上がって見える下絵が、志野の最大の魅力とされています。

志野には、他に絵のない無地志野、鬼板(自然の酸化鉄)と言われる物を水に溶かし、それを素地に化粧がけし長石釉をかけた鼠志野があります。

鼠志野にも無地鼠志野と、化粧がけの後へらで文様を彫り、長石釉をかけることによって、鼠色の素地に白色の象嵌を施したように、白い文様を浮きだたせたものがあります。

そして鬼板の鉄分含有分が少なかったり、化粧がけが薄かったり、その他窯の調子で赤く発色したものは、赤志野と呼ばれています。





最後に「志野」の作家として、記憶すべき人たちを物故も含め列挙しましょう。

志野中興の祖とでも言うべき荒川豊蔵。

荒川豊蔵に師事しその影響を強く受けた作風の加藤 孝造。

鼠志野を得意とし、琳派の影響を受けた装飾的な作風の若尾利貞。

その他、林 正太郎・玉置保夫・安藤日出武・堀一郎等の作家がいます。

堀一郎は、陶芸ブログに最初に登場しました。林 正太郎や玉置保夫の志野の湯飲みは、日常使っていて、とても魅力的です。

また、かの有名な紫匂(むらさきにおい)志野の加藤唐九郎や、北大路魯山人の志野の器やぐい呑みなどは、コレクター垂涎の的と言って良いでしょう。



志野焼について、関連した私のブログは、以下のものがあります。
参考に、ご覧頂ければ幸です。


マッキーの現代陶芸入門講座(23)…堀一郎の志野焼

マッキーの現代陶芸入門講座(22)…鈴木蔵・加藤孝造・若尾利貞の志野焼』

マッキーの現代陶芸入門講座(20)…林正太郎・玉置保夫・安藤日出武の志野焼

マッキーの現代陶芸入門講座(14)…荒川 豊蔵のぐい呑み




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マッキーの現代陶芸入門講座(7)…和太守卑良のぐい呑みと湯呑

2008年03月21日 | 陶芸


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加守田章二は、1983年、私が陶芸に本格的に興味を持ち始めたころ、亡くなりました。


ちょうどその年に、日本工芸会正会員になった、新鋭の陶芸家がいました。

その名は、和太守卑良(わだ もりひろ)です。このぐい呑みは、その作家の作品です。


手捻りで仕上げられた作品の表面に、独創的な文様が象眼されている


和太守卑良は、京都市立美術大学(現京都芸大)で、富本憲吉と出会い、その後茨城県笠間市に移住し築窯し、現在に至っています。

この作家の特徴は、加守田章二を連想させるような、独創的な象眼による文様です。

それが、やはり原始の昔を想記させる、土着的な文様で、緻密で理知的であるにも拘わらず、見るものに、大胆な力強さを感じさせます。


1987年、和太守卑良は、日本陶磁協会賞を受賞し、陶芸家として日本の焼き物の歴史に、名を刻む作家に成長しました。

(注)日本陶磁協会賞とは、毎年社団法人日本陶磁協会が、その年に最も優秀な作家活動を行った陶芸家に贈る賞。特に、陶芸界に大きな足跡残したベテラン作家に対し、日本陶磁協会金賞を授与しています。ちなみに、第一回陶磁協会賞は、清水 卯一と熊倉 順吉です。また、第一回金賞は、八木一夫でした。


釉彩湯呑


彼が、活躍を始めたころ、折しも日本は比類のない好景気にさしかかっていました。バブル景気です。

この作家の、最も大きな個展は、加守田と同様、日本橋高島屋でした。

陶芸のファンの間で、加守田に代わって、熱狂的な注目を集めました。

絵画を扱っていた画廊が、バブルで儲けたお金で、そうした陶芸人気作家の作品を、利殖目的で、百貨店の店員とグルになって、買い漁るようなことを、平然としていた時期でした。

バブル末期、銀座の藤井画廊における和太の個展では、その作品に、とてつもない価格が設定されました。

この力量ある作家は、そうした流れの中で、最もバブリーな作家として、陶芸ファンに記憶されることとなりました。

陶器を、投機の対象としてしまった画廊、そしてそれに踊らされた美術収集家。


この作家の作品を見るたびに、その苦い思い出が、この作家の作品を購入した人のみならず、それに関わった人たちの脳裏をよぎることでしょう。

幸か不幸か、そうした時代に、脂ののりきった活躍を見せた和太守卑良を、私は陶芸家としての力量を高く評価するものの、どうしてもバブルに踊らされた作家として、回想してしまうのです。

ただ、この時代の多くの美術作家は、多かれ少なかれバブルに踊っていました。

ある著名な油の画家は、高騰した自分の作品に、「高くなったんだから、サインを変えなければならないな。」と言ったとか。(号20万が、100万に高騰)無論、芸術的に進歩を見せたわけでは無いのに。


釉彩湯呑


そんな、日本中がどんちゃん騒ぎの時代が過ぎて、今このぐい呑みを前に、できるだけ雑念を振り払い、静かに対峙してみたいと思います。

あの正気の沙汰とは思えないバブルに弄ばれた、新進気鋭の作家・和太も、もうとっくに還暦を超えているのだなあ。

そして、思えば私も結構年を食ったものだと、感慨に耽ってしまいます。

20代で始めた焼き物集めも、もう30年になります。

色々な思いが去来する、和太守卑良の作品です。


函文陶板



箱書き

以下は、関連ブログですので、興味ある方は御覧ください。

マッキーの随想:自分のブログの検索ワードで、初めて知った出来事2008-09-15

マッキーの現代陶芸入門講座(6)…加守田章二の湯飲みと茶碗2008-03-14