「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの人生論:自分の命と引き替えに

2013年03月06日 | 人生論



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前回のブログでも記したように、春一番を吹かせる原因となった日本海側の低気圧は、北上して北海道に暴風雪の猛威をふるいました。

産経新聞の報道でその概要を紹介しましょう。

「新たに1人の死亡が確認され、2日からの道内の暴風雪による死者は計9人になった。9人の命を奪った今回の暴風雪は、強風によって雪が巻き上げられ視界が奪われる『ホワイトアウト』という現象が起きた可能性があるという。

北海道湧別(ゆうべつ)町で暴風雪の中、凍死した同町の漁師、岡田幹男さん(53)は、長女の夏音(なつね)さん(9)の体の下に両手を回し、娘の体を守るような状態で発見されたことが4日、分かった。夏音さんは低体温症だが命に別条はない。父親が10時間以上も暴風雪から守り、体温で温めたことが娘の命を救った。」



自然は時として、私たちの想像を絶するほどの猛威をふるいます。

そうした中に置かれた者は、為す術もなく、ただ耐えて祈る他は無い状況に、追い込まれることもあるでしょう。

絶体絶命の状態の中で、自分以上に守らなければならない者が脇にいた場合、人はどう行動するのか、今回の事件は、私にそんなことを考えさせました。

助かった娘さんの父親である岡田幹男さんは、一寸先も見えない暴風雪の中で、進むべき方向を完全に見失い、偶然に見つけた建物の脇に二人寄り添って、自然の猛威が過ぎ去るのを待った方が賢明だと、その時判断したのでしょう。

そして、その前途が厳しいと悟ったとき、自分の命を賭して我が娘を守ろうとしたことが、状況からうかがえます。

痛みを伴うほどの暴風雪と寒さの中で、その痛みと寒さの意識が薄らいでいく時、この父親はただただ神に祈ることしかできなかったと考えられます。

「私の命と引き替えに、私の娘の命をお救い下さい!」

数日前、東京・吉祥寺で、わずかばかりの金銭を奪うために、二人の少年により、若い女性が刺殺されました。

そんな、悪魔のような存在にもなれる人間は、また、今回の出来事のように天使のように純粋な存在にもなれます。

人間性とは、なんと幅の広い、とらえ所のない存在なのでしょう。

今回の場合、もう少し早く天候が回復するか、救助が素早くできたなら、父子ともに助かることが可能だったでしょう。

それがかなわぬ状況で、娘さんの命が救われたのは、不幸中の幸いと言う他ありません。

ただし、この出来事を、父親が命を賭して我が娘を救った美談として残すのではなく、このような自然災害時の緊急救援体制について、議論を深め体制を整備することに役立てるべきでしょう。


私はふと考える時があります。

私がこの世に存在しているのは、私達の遥か先祖であった単細胞生物だった頃から、際限のない命のバトンのリレーが行われてきた結果だということを。

私達を形作るDNAは、過去から未来へ、命のチェーンが結ばれるように、私達をコントロールしているようにも感じられます。

今回の出来事で私は、この父親の娘に対する無償の愛や人間の理性的な側面を感じるだけではなく、このような命の継承という生き物の本能をも考えてしまいました。


この事故は、数年前の出来事を、私に思い起こさせました。

興味ある方は、ご覧下さい。

マッキーの人生論:子を守る母の愛は、筆舌に尽くしがたいほど大きい!



近くの公園では、椿の花が満開でした。

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マッキーの人生論:『元大阪市助役の弁護士、いまダウン症の娘と生きる』

2009年07月20日 | 人生論
かつて彼女の波乱の半生を書いた著作が出版されたとき、「こんな人もいるのか。」と、心に強く印象として残った人…「大平 光代」さんの記事が、最近朝日新聞のコラムで取り上げられているのが、私の目に留まりました。


彼女の波乱に満ちた半生を知って以来、私は事あるごとに、『どんな逆境にあっても、才能ある者、意欲ある者は、必ず這い上がってくる』という確信めいたものを、この人の生き方から感じたものでした。



今日は、私の散歩道で出会った、花木や木の実です


この著作は実際に購入して読んではいませんが、おおよその彼女の履歴は、以下のようなものです。

《この人は、いじめが原因で14才の時に自殺を図る。そして非行に走り、16歳で暴力団組長と結婚、そして離婚した。29歳で司法試験に合格し、少年事件の弁護士になった。9年前に、その波乱の人生を書いた著作で、『苦しみは長く続かない。生き抜いて欲しい』と少年らに呼びかけた。》

…そうした苦渋を乗り越えて、活躍する弁護士になった人でした。


また、現在の司法試験改革が進められたとき、そのディメリットとして、こうした苦労人…世の中の辛酸をなめた人が弁護士になることが、極めて困難になるのではないかといった危惧を、私は感じました。



私の散歩道でであった花木


ここからは、今回の記事を読んで、この女性に関して私が初めて知る、その後の彼女に起きた出来事です。

《この女性は、その後大阪市の市政改革に挑んだものの、議員らの抵抗にあい、大阪市助役を05年に辞任しました。その直後、弁護士である現在の夫と結婚。誕生した娘の悠(はるか)ちゃんは、染色体が通常より1本多いダウン症でした。》


【ダウン症】

ダウン症候群とは、22対の常染色体のうち21番以外の染色体は全て正常な2本組(ダイソミー)だが、21番染色体だけは3本組(トリソミー)になっていることによって発症する、先天性の疾患群。ダウン症とも呼ばれる。多くは第1減数分裂時の不分離によって生じるが、まれに第2減数分裂時におこる場合がある。転座型を除いて誰にでも起こり得る。現在のところ根本的(医学的)な治療法・治療薬はないが、早期からの『療育』により社会生活への適応性を向上させ得る。 かつては蒙古症と呼ばれていたが、現在ではこの呼称は不適切とされている。



カリンの実


人生、山あり谷あり。それでもその人の棺桶の蓋が閉じられる時、プラスとマイナスを計算するとプラマイ0となる。

これが一般的な人の人生であると。


しかし『プラマイ0論』からかけ離れ、神が存在するなら、どうしてこの人だけに、不幸を背負わせるのかと、同情を感じるほど一身に不幸を背負っている人が、時に存在することも事実である。

神が存在するなら、そうした試練に耐えられる人に、極めて重い十字架を背負わせることがあるように、私には思われる。

人間の持つ強さを試すように、あるいは人間の持っている強さを周囲の人々に啓示するように、神は選ばれし特定の人に、人生の深淵を覗かせるのだろうか。


マイカーで、お気軽に海抜の高い展望台に至って、周囲の眺望を楽しむこともできる時代ではあるけれど、汗水流して自分の足で山の頂に立った者のみに、大自然は真の悠久の尊厳を垣間見せてくれる。

だから、人生の奥深さ、生命の尊さ、自然の寛容さ、そうしたものを彼女はこの世に生きた証として、人一倍感じることができる…プラス思考で考えれば、そういう人生を送る人なのかも知れない。

客観的に見て、彼女に起きた不条理な出来事に、私は同情の念を禁じ得ないが、彼女はそんな情緒に流されずに、「標準と比べる周囲の目に負けないで」と、今度は障害を持つ子や親を応援しているとのこと。



ヤマナシの実


彼女は現在、弁護士業をほぼ休み、子育てに専念しているそうです。

兵庫県の山中に引っ越して、恵まれた自然の中で、日々の我が子の成長を喜びながら、娘を相手に暮らしているそうです。

「悩んだって、変わらへん。悠は悠のペースで育って、色んなことができるようになった。今日一日でできたことを喜ばんと。」

…彼女の言葉である。




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マッキーの人生論:刑事一代『平塚八兵衛の昭和事件史』

2009年06月06日 | 人生論
テレビ朝日開局50周年記念のドラマスペシャルで、昭和の鬼刑事『平塚八兵衛』を主人公とするドラマが、6月20日・21日二夜連続で放映される予定です。

『吉展ちゃん事件』『帝銀事件』など、昭和に生きた人たちにとって、忘れ難い事件の解決に心血を注いだ、知る人ぞ知る昭和の名刑事『平塚八兵衛』の話です。

この原作は、サンケイ新聞に連載されたものが、昭和50年に単行本として刊行され、その30年後の平成16年に新潮社から新潮文庫としてリバイバルされ、再び日の目を浴びた著書名『刑事一代』です。





この本の著者である佐々木嘉信さんとは、実はだいぶ以前からの知り合いで、産経新聞の現職およびO.Bを中心とする「山酒会」でも、以前はご一緒して山に登りました。

かなり前のこととなりますが、鳳凰三山を縦走することとなり、山酒会のメンバーと出かけ、大混雑の鳳凰小屋で宿泊しました。

無論、山酒会ですから、山の後は酒・酒・酒…。

その夜は、すし詰め状態の山小屋で、しこたま酒を飲んだ隣の佐々木さんの酒臭い吐息とイビキを耳に受けながら、時折夜中に起こされたことを想い出します。



サイン入りの進呈本


新潮文庫に収められている『刑事一代』・平塚八兵衛の昭和事件史は、定価700円で書店に並んでいますので、興味ある方はぜひお読みになってください。

この時代を共有した人の、だれもが記憶している、昭和史に残る事件を、一般の方が知り得ない捜査現場の視点から、興味深く書かれた書籍です。

また、犯罪を犯した者と、そしてその真実を追究する名刑事との人間模様。

職人芸とも言われる職業意識、一途な男の生き方、そして生臭い功名心。


『ただきれい事では済まされない、そうしたデカ人生の果てに、彼自身はこの世をどの様に捉えたのか。』


この書籍の中で、戦後最大の誘拐事件と言われる吉展ちゃん事件…私も小学生でしたのでの良く記憶しています…その犯人小原保の郷里を、平塚刑事が訪ねるくだりがあります。
(以下、一部ポイントになる部分だけ抜粋。)

人間には根っからの悪党はいねえよ。なんかのきっかけで、根性がひん曲がっちまうのさ。
小原だってそうだ。…

それにしても一族から、あんなホシを出すと、苦労ってものはなみたいていじゃねえ。事件が解決してから、ヤツの兄弟がオレの家へ来てな。「これからどうしたらいいか」って、相談なんだよ。…

…兄嫁さんの話にも泣かされたよ。『世間さまに恩返ししなけりゃ、いけねえ。ちっとでも、なんかのたしにすんべかと思って、ひまなときは、針仕事やってんだ」ってな。夏の間、着られなくなった洋服やらを洗っといてな、冬の農閑期に娘さんと一緒にバラして、雑巾づくりをするのだとよ。
…村の年寄りにゃ、ただで縫い物をしたり、たいへんな気のつかいようだ。…

小原はたしか四十六年の十二月二十三日に処刑されたんだ。……処刑の日、宮城刑務所から電話があってな、看守から、「真人間になったから平塚さんによろしく」って伝言だった。…

ヤツの墓は実家から、七、八百メートルの小高い丘の上にあるんだ。…「小原家之墓」って立派な墓碑があるんだが、そこには埋葬されねえで、すぐわきに土盛りをしただけだ。…土盛りの墓に花と線香をあげたんだが、手を合わせるのも忘れちまったよ。胸をグッと突かれたようでな。オレが落とさなかったら、こんなことにゃ、ならなかったかもしんねえ…。…いろんな気持ちがまじってな。わかんめえよ。あんたらには、この気持ち。



雨上がりに咲く最後のツツジ


平塚八兵衛が警察官になった動機というのが、また面白いと思います。

旧制中学を終えてぶらぶらしていたときに、不良仲間とけんかして、相手を袋だたきにしてしまい、戦前の「オイコラ警官」にこっぴどくやられてしまう。

彼は、その奴らを見返すために「日本一の警官」になることを決意したのでした。

彼は、退職するまで「花の捜査一課」の刑事として、無試験で警視まで上り詰め、吉展ちゃん事件解決で警察功績章・帝銀事件で警察功労章を受章しますが、在職中に両章を受けたのは、警察史上平塚八兵衛だけだという。



河川敷で高齢者が育てている花


平塚八兵衛は、功なり名を遂げた人生でもあったけれども、人間の醜さや狡猾さを見続けた人生だったとも言えます。

凶悪事件をおこした、生身の犯罪者と接しても、「人間には根っからの悪党はいねえよ」という述懐が救われる思いです。

凶悪事件は、それが解決しようとも、東野 圭吾「手紙」のように、多くの人のその後の人生に、多大な影響を与え続けるものであることも、よく分かります。


またこの書籍と関連して、最近の出来事で、私が関心を寄せたことは、栃木県足利市で1990年に女児が殺害された「足利事件」のことです。

DNA鑑定の新事実により、無実であることが確実になった、受刑者・菅家利和さんは、無期懲役の刑執行が停止され6月4日釈放されました。

「刑務所に入っていると気持ちがどんよりしていたが、けさは気持ちがすごく明るいです。空も全然違います」と笑顔で語ったそうです。

こんな誤認捜査は絶対あってはならないことですが、世の中の一面を思い知らされる出来事として、考えさせられました。



河川敷の花壇の花


今回のドラマでは、主人公平塚八兵衛を演じるのは、俳優・渡辺謙

また、原作者佐々木嘉信さんも、原作者の権利として、ちょい役で一瞬画面に出るそうです。


私も、楽しみに拝見しようと思います。(土曜日は、授業なんだけれど!)




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マッキーの人生論:筑紫哲也さんの死去で考えたこと

2008年11月08日 | 人生論
ジャーナリストであり、TBSの『NEWS23』のニュースキャスターを務めた筑紫哲也さんが、11月7日に肺ガンのためお亡くなりになりました。


仕事柄(見たくとも、授業中ですから!)、ゴールデンタイムの娯楽番組を含め、テレビを最も見ない部類に属する私は、夜遅いニュース番組はよく見てきました。

もっとも最近は、その時間帯のテレビも見ずに、ニュースはもっぱら携帯でインターネットに接続して、通勤途中で見ることが多くなりました。


筑紫さんは、テレビという媒体を使って、実に多くの人たちに、影響を与えてきた人だったと思います。

ジャーナリストとして批判的精神を忘れず、政治的権力に対してジャーナリズムの持つチェック機能をしっかり果たしてきたと思います。

それに対して、左寄りだといった多少の批判はあったでしょうが、私はそのようには考えていません。

NEWS23の中で、あえて自身の論評を強調するコーナーとして「多事争論」がありましたが、私の目には、それさえも「多事正論」に思えました。

彼も、これだけ広範囲に影響力を持つに至れば、彼の真の考えの何%を「多事争論」で述べていたのか?





私のブログに、彼は1回だけ登場したことがあります。

それは、琉球陶器の人間国宝であった金城次郎について解説したときでした。

彼は、金城次郎の有数のコレクターでした。

思うに彼は、若い頃米軍統治下の沖縄を取材し、その後も沖縄を終生のテーマとして関わりを持ってきたことから、金城次郎という琉球の土着的な陶芸家に心引かれたのだと思います。



金城次郎の抱瓶(だちびん)…酒を入れて携帯する焼き物


彼は、ジャーナリストとして、膨大な知識と経験を、彼の頭脳の中に蓄積してきたに違いありません。

ある意味で天才と呼んでいい人が亡くなられると、その習得に多大な労苦を伴った知識・教養が、コンピュータのスイッチが切られるように、いとも簡単に消えてしまうこと…、もっと厄介なのは、二度とスイッチをONに出来ないことに、私はやるせなさを感じます。

死の恐怖とは、そこにあるのかも知れません。

そして、偉大な人の死去は、彼が影響を与えた世界に、ぽっかりと大きな虚空を作り出すように感じます。

しかし、彼の死をよくよく考えてみると、彼自身の魂は来世に旅立つも、一般の人の死とは異なり、彼が主張してきた理念は、人々の中に生き続けているのは確かです。


ご冥福をお祈りします。



ウメバチソウ




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マッキーの人生論:私のブログランクの前後にいた『おばさんのブログ』炎上!

2008年10月01日 | 人生論
私のブログランキングの前後にいつもいた、『日教組の何が悪いのよ』のおばちゃんのブログが、一気にブレイクしました。

誰しもが気づくことですが、辞任した中山国土交通大臣(罷免すべき)の発言の反響によるものであろうと、私は思いました。

久々に、この方のブログを開くと、何ともいたたまれない後味の悪い思いに駆られながら、そのブログとその反響を読み、閉じました。

このおばちゃんを非難する側も擁護する側も、極めて感情的な主張が並んでいました。

私は、いずれの主張についても、私の意見を述べる気にはなれませんし、他人のブログを評価する事もしたくはありませんが、この現象をもっと違った観点で考えさせられました。

そのことを、今日の私のブログで、述べたいと思います。




個人の言葉が、瞬く間に世界に向けて発信される凄さ。

どんなに、声高に自分の考えを叫んでも、周辺の人にしか届かなかったほんのちょっと昔。

薄暗い部屋で一人わびしく暮らす孤独な青年の思いが、ネットを通して瞬く間に広い世間に伝わっていく。

連帯を求めて、日々ネットに向かう孤独な者たち。



ネットを使った体制批判を恐れる、共産主義国家の指導者たち。

あるいは、若年者の不満・鬱憤のガス抜きとしてのネットの機能を、上手く使いこなす自由主義国家の権力者たち。



匿名の名の下に、言葉の殴り合いにヒートし傷つけ合う弱者たち。

ネット上で、炎上する感情と感情の争いを、火事場見物する日和見主義者たち。



現実の世界に目を向ければ、財界の提言という欺瞞に満ちた横やりに、言いなりの政治家たち。

経済在っての暮らしと言いつつ、国民の血税で飯の種をまいてもらった企業経営者たちよ…若年派遣労働者の希望を奪ってまでして得た、その利益はどこに消えたのか。



不正があれば、現場の職員が処分され、本来その責任を負うべき立場の者たちよ…厚顔無恥も度を超してはいないか。

政治のコントロールを失い、己らの使命と国民に対する忠誠を忘却した官僚たちよ…自己増殖する組織という魔物に寄生し、その代償としてなぜ自らの魂を売り渡してしまったのか。

不況でも強いと人気の公務員よ…公僕という責務を、どこに置き忘れてしまったのか。



不満は連帯できず、地の底で蠢き鬱積し、出口を求めて徘徊する。

権力によって虐げられた者は、より絶対的な権力を無意識のうちに希求する。



一瞬、私には聞こえたような気がする。

かつて老人が聞いた、封印されたはずの、あの忌まわしい靴音を。

歴史は、繰り返す。


そう、忘れてはならない。


いつか来た道を。





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マッキーの人生論:子を守る母の愛は、筆舌に尽くしがたいほど大きい!

2008年05月21日 | 人生論
自分を犠牲にしてまで、子を守る。

鳥類でも、羽が傷ついた真似をして、子から外敵の目を反らそうとする親鳥の行為が知られています。ましてや、ほ乳類では、命を賭して子を守ろうと、襲ってきた相手に果敢に挑む親の行動も、多くの方が知っていることでしょう。



虹の女神イリスに由来すると言う花色の豊富なアイリスの花
(花言葉は、使命・愛・あなたを大切にします)


「赤ちゃん、もし生き延びてくれているのなら、私があなたを愛していたことを絶対忘れないで…」

これは、中国四川大地震での出来事です。冷たくなった母親の手にあった携帯電話のメールに残された彼女の赤ちゃんへの、これは「最期のメール」でした。

母親に守られるように、母の体のすき間に生き延びていた赤ちゃん。母親は、倒壊した建物に圧迫されて、遺体で発見されました。

建物にはさまれた自分の体のほんのわずかなすき間に、呼吸をする生後3~4ヶ月の我が子に向かって、「この子だけは、生き延びて欲しい」という、最期を悟った母親の心情がこのメールから伝わってきます。

そしてこの母親が、自分の痛みをも忘れ、母親を失うわが子の行く末を思う切なさが、胸を打ちます。それでも、あなたは、生き延びて、どんなに私に愛されていたのか、そのことを支えに、たくましく生きていって欲しい。そんな、母親の願いがひしひしと伝わってきて、涙無くして、このニュースを読むことは、私にはできませんでした。

「忘れないで!」それは自分に向けられた慰めの言葉なんかじゃ決してない。

全てのことをしてあげなければ生きていけない乳飲み子を、一人残して死んでゆくその辛さの中で、必死に携帯のボタンを押し続けた彼女が伝えたかったことは……。

「あなたは一人なんかじゃ決してないんですよ。わたしが、いつまでも見守っていてあげますからね。そのことを絶対に忘れないで!」と言うこを、このメールを理解できる年頃になった我が子に、語りかけたかったのだと、私は思います。

こうした母親の我が子に対する思いが、天に通じて、彼女の乳飲み子が無事に救い出されたのだと、思えてなりません。

母の願いを忘れずに、この子がたくましく成長していくことを願わずにはいられません。


誰かが植えた野に咲くアイリス


もう一点、このニュースを読んで考えたことがあります。

もしも、もっと迅速な救援体制が整ったのなら、この母子共に助かっていたかも知れない。そうすれば、この母親は、生きた自らの目で、この子が成長した姿を見ることが出来たかも知れない。だから、このニュースを、単に「感動の物語」としてだけで、語ってはいけないと思います。

ミャンマーのサイクロン被災で、国際的な支援を拒否している軍事政権の行いを、皆さんは知っていることでしょう。また、中国においても、国際的な支援を一時拒否していました。

災害時に、支援をする側も、支援を受ける側も、政治的な思惑で動いてはいけない。こうした災害時に、まず優先されるべきことは、人命です。このことを忘れて、政治的決定をした政府は、いつか必ず歴史の中で、断罪されるでしょう。

もしも為政者が、この母親の目で被災者を見ることが出来たら、また被災し救助を求めている人が、そうした決定を下した為政者の親族だったら、本当に国際支援を拒否できるのだろうか。

「人命は、地球より重い。」そうした比喩で語る人命の重さではなく、「この中国四川省の母が子に向けた愛情」の事実をもう一度考えたときに、人命の重さが認識されるように思います。



実家の庭先に咲くテッセンの花



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マッキーの人生論:責任感の大切さ…意識の薄れる中、サイドブレーキを引いた運転手

2008年04月18日 | 人生論
先週、東名高速で大型トラックのタイヤがはずれ、そのタイヤが対向車線に飛び込み、走行中のバスのフロントガラスを直撃するという事故がありました。

その結果、タイヤが直撃したバスの運転手は死亡し、乗客もガラスの破片で数人が怪我を負いました。

亡くなったバスの運転手関谷定男さんは、事故があった4月11日が、57歳の誕生日だったそうです。ご冥福をお祈りいたします。


Tea Break

シャクナゲの花も咲き始めました


この痛ましい事故について、私は考えさせられたことがありました。

高速道路で、対向する大型トラックのタイヤが、反対方向からやってきたバスを直撃したとしたら、タイヤとバスの正面衝突時のエネルギーは、大変大きなものだったはずです。

その結果、タイヤに直撃されたバスの運転手は、直後に瀕死の重傷を負ったに違いありません。

そうだとしたら、コントロールを失ったバスは、二次的な事故を引き起こし、大惨事になりかねなかった状況でした。

しかし、運転手の関屋さんは、薄れていく意識の中で、最後の力を振り絞り、サイドブレーキを引いたのでした。救急隊に運び出されるまで、足はブレーキの上にあったそうです。

この事実は、関屋さんがバスの運転手として、乗客の安全を常日頃から厳格に考えていた、責任感の強い人であったことを示しています。

タイヤの直撃後、さらなる大惨事が起きなかったその理由を、この事故の話をお聞きになった多くの方は、即座に考えたことでしょう。

私もその一人で、関屋さんの命を懸けた責任感ある行為によって、大惨事が防がれたのを知って、感動を覚えました。たぶん多くの人が、そう感じたことと思います。


Tea Break

ソメイヨシノに代わり、八重桜が満開です


この世に生きていれば、周りの家族や知己の助けだけでなく、見知らぬ多くの人の厄介になっています。バスに乗っても、食事をしても、野菜を買っても、ゴミを出しても、生活の隅々まで、それらに関わっている人の行為によって、私たちの生活は成り立っています。

無人島に、一人住んでいるような生活以外は、好むと好まざるとに関わらず、私たちの生活は、多くの人達の行為に依存しているのです。

そう考えれば、各自がその役割を責任を持って担うことにより、世の中はうまく回っていくのだということを、改めて思いました。

不安になるほど、依存する相手の顔が見えない、今日の極めて複雑に重層した社会。その社会全体の、「各自の役割に対する責任の自覚」の総和(シグマ)が、大きいほど、住みよい世の中になるのでしょう。


Tea Break

あっという間に、上着を脱ぎたくなる、ツツジの季節に(今日は、雨降りの一日ですが)


世の中のために多大な貢献があったと、お手盛りの勲章を授与される政治家や官僚達の中に、この運転手のように、市井の人として生きながら、責任を持って自分の仕事を遂行した生き方に比する者が、どれだけいるのだろうか。

そうした憤怒の念を禁じ得ないような、混濁した世の中になってきているように、私は思います。

勝った・負けたの世知辛い世相・そして増殖する自己中やKYな人たち。この方の取った責任ある行為は、みんながもう一度自分の役割と責任を考えてみる必要があることを、教えてくれました。

一方、対向車線を走っていた大型トラックの運転手、およびその管理をしていた会社は、無論利益が出なければ存在できないのは理解できるが、自分たちの日頃の仕事に対する「誇り」と「責任」を忘却してもらっては困る。今回引き起こした事故の責任を十分考え、そして反省してもらいたい。


Tea Break

ピンクの八重桜も見頃です


食の安全・建物の安全・税金の無駄使い・二世や三世の多い政治家の無責任発言・拝金主義・利己主義の蔓延。それらに対して、人々は大きな不安や不満を持っています。そのどれをとっても、それぞれの役割と責任を自覚していないことに起因します。そうした自覚を各自が持ってこそ、安全で住みよい世の中になるという、当たり前のことを、もう一度みんなで再確認するべきでしょう。

私も、自省を忘れずに、自分の仕事を責任もって遂行していこうと考えています。



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マッキーの人生論:散り急ぐ桜の下で、自分のブログを振り返る

2008年04月05日 | 人生論
昨年11月からブログを始めて、初めて私のブログに対する批判のコメントをいただいた。

昨日、帰り際にこのコメントを読み、1日考えた末に、このコメントと共に、私の考えを述べることとした。

ブログを公にしている以上、そこに書かれていることに対する内容に、私は責任を持とうと思う。

無論、わたしのブログを真剣に読んだ結果としての反論・批判なら、やはりわたしも真剣に考えねばならないだろう。

今日は、ブログを書く曜日ではないが、
そういった意味で、今回来た《コメント》と、
それについての私の考えたこと、
そして今回の本来のテーマの《自分が自分でなくなる》について、
様々な方の言葉を載せておきたい。



老木と桜


《今回のコメント内容》
失礼ですが、このブログ自体も「未熟だ」と思いました。
伊藤さんの作品をなぜ奥様と比べていられるのかわかりませんし(そもそもYAとして書かれたものですよね)、生徒さんが選んだ本は読んでもいないというのは(たしか芥川賞のものですね)、ただの勉強不足ではないですか。
わからない状態のままで何かを言うという、一番不真面目な姿勢を、はからずも生徒さんにさらしてしまっているのは、大人としてどうだろうかと危惧した次第です。
勉学を教える者が、それでよろしいのでしょうか。


《今回のわたしのブログの趣旨》
何度も読み返して、このコメントの一行目の助詞の「も」が、どうしても気になった。

もしかしたら、この方は、私が今回の生徒を「未熟」だと考えて、この文を書いたと思っているのか?

決してそうではない。この子に対する私の評価は、その反対で、小6ながら、いろいろなことを考えている、物事をしっかり考える生徒であると考えている。

次に、作家の評価について、確かに比較はまずかったかも知れない。どこまで自分の考えをブログで述べることができるのか、考えていきたいと思う。

わたしのブログの最初に指針として、「個人攻撃はしない」と言うことも決めたが、政治家や、自分の考えを世に問う作家などは、批評があっても許されるのではないか。

もちろんそういった意味では、ブログなども、批評・批判の対象になるのであろう。

ただ、ブログに書くと言うことは、ある程度文責が明らかであるが、それに対するコメントは、匿名性の批評・批判であるから、どの程度真剣に対応すべきなのか、やはり考えてしまう。

私の前回のブログを良く読んで頂けば分かることではあるが、私が取り上げたのは、「自分が自分でなくなる」というフレーズについてである。

「自分が自分でなくなる」というフレーズについて、小6の生徒の話からスタートして、私なりの考えを述べたのである。

今回のコメントは、耳には痛いが、厳しい目で見れば当たっているとも言え、ブログを公にするものとして、心して今後に役立てていきたいと思う。感謝!



散り始めた満開の桜


コメントに対する答えを書くのは、少し疲れます。

今回の「自分が自分でなくなる」というフレーズ、多くの人が、そのことについて語っています。

出典は、省略させて頂いて(これもどこまで許されることなのだろう?)、興味を感じた部分だけ、掲載します。お読み下さい。



芝桜も満開です


(その1)
解離とは、体験したことが記憶となるプロセスがまとまりを失い、
自己の意識、自我、記憶に混乱する現象です。
極端な場合は、重い精神疾患となり、解離性障害と呼ばれます。
その中には、記憶喪失、自分が自分と感じられなくなる離人症、
多重人格などがあります。

(その2)
「自分が自分でなくなる。まるでもうひとりの自分が、
自分から分離して、自分に指令をだしているような感覚。
まったく別個の自我、資質をもったもうひとりの自分が、
明らかにそこに存在している」
この症状が激化すれば、精神科ではまちがいなく解離性同一障害、
いわゆる多重人格と診断される。
軽度で離人症、分裂症との診断であろうか。
私はこれをあえて、多重感覚とよびたい。
感覚は病でも、心の病気でもない。
人間に本来備わっている本能、
鋭敏にとぎすまされた感覚脳、生物脳なのである。
動物的であればあるほど、この感覚はとぎすまされていく。
とぎすまされた感覚は五感以上の超力を発揮していく。

(その3)
私が一番嫌なこと。
自分が自分でなくなること。
自分の頭で考えなくなること。


Tea break

講習が終わって、木々の芽吹きに気づきました


(その4)
『生物都市』という作品自体が一面的に描いていないように、
自分が自分でなくなること個人の自立性を否定されること自体を
プラスかマイナスのいずれかに評価するのは難しいです。
束縛されるのはいやだなんけど、
あやつられるのはゾクゾクするほど魅力的でもあります。

(その5)
以前の私は、クリスチャンになると
自分が自分でなくなるのではないかと心配していました。
でもそうではなかったのです。
神様は、それぞれの素材を生かして下さる方です。
ちょうど、真っ黒なススが特別の状況におかれて、
神様の御手の中で、輝くダイヤモンドに変わるように、
神様は私達一人一人の素材を生かして、
それをすばらしいものに造り変えて下さるのです。

(その6)
アルツハイマーという病におかされ始めた人は
その初期にどのような恐怖を味わうのだろうか。
今こうしてある自分が、時間とともに知能が退化して
自分でなくなってしまうという事実を知った時の恐怖は
どのようなものなのだろうか。
知能を失っていくということは、
自分が自分でなくなるということなのだろうか。
また、自分が自分でなくなるということは
肉体的な死の恐怖とどのように違うのだろうか。


Tea break

桜の季節も過ぎようとしています


(その7)
自分が自分でなくなる。自分は今何をやっているんだ?
プライドなんて持っていない。
だが実は人一倍プライドを持っていたりする。
だから自分に「劣等感」を感じる。自分が低く惨めに見えていく。
こんな何も出来ない奴は世の中には「不必要」である。
自分を壊したくなる。人と接触したくない。
部屋で独りになると放心状態になり、何も覚えていない。意識が飛ぶ。
人前でペルソナの被る。偽りの自分を作る。本来の自分が消していく。
ギャップが激しくなる。反動が辛い。
布団という殻にこもる。部屋を暗くする。起きると物に八つ当たりする。
壁が傷だらけだ。頭に瘤ができている。
自分には取り柄はない。
自分より上の実力を持っている人がゴマンといる。
人は死ぬのなら、早めに死にたい。
これから起こる苦痛に遭いたくない。
同じ苦痛なら死の苦しみのみに遭いたい。

(その8)
世の中には、「私が感じたようにあなたも感じろ」と強制する人達がいる。
自分が思ったように行動しなければならない、
自分が感じたように感じなければならない、
自分の分身的な役割を相手にも要求する。
つまり、相手には「ありのままの自分でいてはいけない」と
暗黙的に要求する人達が、世の中に存在するのである。
こうした人に捕まった人達はまさに悲劇である。
自分が自分でなくなる、
自分は相手の思うままに行動しなければ受け入れられない、
こうした状況が、下手すれば永遠に続いてしまうのである。



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マッキーの随想:生徒が書いた、本の中で心に残った言葉「自分が自分で無くなる」

2008年04月04日 | 人生論
今日で、春期講習が終わります。朝7時半に教室に出て、帰りは10時過ぎ。

生徒もかなりハードな授業でしたが、私にとってもハードな授業でした。



授業風景


ところで、昨年小学6年生に、今まで読んだ本の中から、心に残った本を選び、その理由を書かせる課題を出しました。

その課題を書いた一人の生徒の文が、印象的だったので皆さんと共に考えたいと思います。

その生徒は、読書量は多い方で、芥川賞や直木賞・本屋大賞などの最近流行した本は、ほとんど読んでいるようでした。

そのような生徒は例外的ではなく、小学生でも、話題の本を読んでいる生徒は多く、そうした本を親子間で読み回しをしているようです。

平均して女子の読書量は男子に比べ多く、また大人が読むような本も、かなり読んでいます。

男子は、ゲームに時間を取られている分、読書に当てる時間が少なくなっていると思います。

ゲームに狂っている子供のほとんどは男子で、そういった面では明らかに性差が認められます。

一部の男の子に見られる、「発達の未熟さ」や「社会性の欠如」、そして「攻撃性」は、テレビゲームが大きく影響していると、私は考えています。


この話は、またの機会に取り上げるとして、先の生徒の話に戻ります。

その生徒が取り上げた本は、伊藤たかみの「八月の路上に捨てる」でした。

私は、この作者の「ぎぶそん」を読んで、その「軽いのり」がどうも好きになれなくて、あまり良い印象を持っていない作家の一人でした。

奥さんの、直木賞作家の角田光代さんの方が、数段力量が上なのではないかと、私は思います。

その生徒は、この本の中に出てくる、「自分が自分でなくなる」と言う言葉が印象的だったと書いています。

また、「この言葉から、豊かな感情を持つがゆえの人間のおろかさを感じた。この作品は、人間のそういうおろかな部分を良く著していると思う。」と書いています。

残念ながら、私はこの本を読んでいないので、本の内容を論評できる立場では無いのですが、この本は、ある男性の主人公が、結婚した女性と次第に思いがすれ違い始め、離婚に至る、そうしたストーリーのようです。

私がなぜ、ここでこの生徒の書いた文について、書こうと思ったか。

それは、小学生が、「自分が自分で無くなる」という、どちらかというと陳腐な言葉を、印象に残った言葉として、挙げているからです。

私は、この言葉からは、負の側面を強く感じます。

この言葉は、ある悪い行為をしてしまった後、その時の自分を弁護するために使う言葉として、あるいは、願望または逃避として、今の自己を否定してみせる言葉として使うことができます。

自分の人格の変質を、理由にしたり、また願望したりするときの言葉。

私が学生時代に読んだ本の中に、「オオカミは、人の中で育てられても人になることはできない。しかし、人間はオオカミに育てられれば、オオカミのように四つ足で歩き、オオカミのように吠え、オオカミとして生きる。人間性を、何か素晴らしいことのように語るけれど、実は、人間性とは、そうした多様性に他ならない。」と言ったような意味の内容が書かれていました。

動物に対して人間。その人間のすばらしさの象徴としての人間性。

しかしその言葉は、悪魔的にもなり、天使のようにもなれる、そうした人間の持つ可能性の大きさとして考えた方がよいでしょう。

だから、人間はある時は他の動物よりも遙かに劣悪な生き物にもなるし、ある時は他の動物には無い崇高な生き物にもなれるのだと思います。

すると、「自分が自分でなくなる」、仮にそんなことがあっても、実は、お釈迦様の手のひらの上を、転がり回っている、滑稽な自分なのかも知れません。



授業風景


ところで、この文を書いた生徒は、受験勉強をしながら、将来音楽の道に進みたくて、ピアノのレッスンも同時並行でやっていました。

傍目にも、大変だなと感じていましたが、そんな時期、「自分が自分でなくなる」と言う言葉に惹かれたのは、何か分かるような気がします。




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マッキーの人生論:リヤカーマンの生き方について感じたこと

2008年02月27日 | 人生論



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2月も後わずか。コートを脱ぎ捨て、太陽をいっぱいに浴びたい。もうすぐ、春爛漫の季節だ。


(昨年の3月、笹尾根の春の日差しいっぱいの林の小道)

 先頃、リヤカーマンと呼ばれている、植村直己冒険賞を受賞した永瀬忠志さんの「アンデス横断の冒険の旅」を、テレビで偶然拝見しました。その番組を見て私が感じたことを、今日は綴ります。

 人は、どうしてこうした厳しい道を選択するのだろう。山に散った、多くの先鋭的なクライマーがそうであったように、人は時として、生死をかけた困難な道を選択します。安穏とした日常から抜け出し、そこが自分の生きる場所とでも言うかのように、また見えざる糸に手繰り寄せられるように、世界の果ての深淵を歩きます。そうした人の一人が、永瀬忠志なのでしょう。志に忠実と名付けられ、この世に生まれ出て…。

 私は、リヤカーを引いて旅する永瀬さんを、かなり以前から知っていましたが、今回のテレビを拝見するまで、詳しい人物像を知りませんでした。リヤカーマンと同年代の私は、人生の生き方・考え方の一つとして、興味深くその番組を見ました。そのドキュメンタリーの中で、彼が行った言動で、最も私が印象に残った三つの点について少し述べてみたいと思います。

 一つは、「なぜあなたは、リヤカーマンとなって冒険の旅に出ているのか」との質問に、彼はサラリーマンであった時の自分の体験を述べています。

「一日・一週間・一年があっという間に過ぎていく。振り返ると何も思い出せない。」

 仕事に忙殺されて、ふと気が付くと、あっという間に時間だけが過ぎていく。これでよいのだろうか。こうした自分への問いかけは、たぶん誰もがしていることではないでしょうか。

 ところで、フランスの精神病理学者ピエール・ジャネが、人が感じる「時間の長さ」に関して上手い表現をしています。「人間の感じる時間の長さは、幼いころは長く、年をとると短くなる。ある年齢の時間の長さは、大体年齢分の1である。」という法則がそれです。

 簡単に言い換えれば、その人の「年齢」とその人が感じる「時間の長さ」は、常に積が一定で反比例している。その人の「年齢」の逆数が、その人の感じる「時間の長さ」の割合になるというものです。

 もっと具体的に説明すれば、12才の小学6年生と、60才定年のおじさんとが感じる時間の長さは、年齢の比12:60=1:5の逆比、すなわち5:1となります。とすると、6年生の5日間の時間の感覚が、60才のおじさんには、1日にしか感じられないと言うことです。一般の人が感じる時間の長さを、上手く言い当てた法則ではありませんか。


 否応なく流れていく時間、自分の死に向かって確実に時を刻む時間。生まれてからの年月を数える年齢から、自分の最期の時までをカウントダウンする年齢になると、「ジャネの法則」も確実に身にしみて感じられるようになります。

「これで良いのだろうか?」 

 どんなに充実した人生を送っていようとも、どんなに満ち足りた生活をしていても、ふとため息とともに、脳裏をよぎる言葉ではないでしょうか。


 次に、リヤカーマンが、苦難が連続する冒険の旅の最中に、そうした厳しい生き方を選択し、そこから逃避することをしない、またはそこから抜け出すことができない、自分の性(さが)に対して、涙する場面がありました。

 自分の生き方を誇っているわけでもない、無論卑下しているわけでもない。反省しているわけでもない。自分の道として、また自分の居場所として、納得して選択した「冒険の人生」ではあるものの、時としてその辛さに感涙してしまう、「人間リヤカーマン」の姿が、そこにありました。

人は、自分の人生を、自分の意志で選択して、生きているのでしょうか。

 人は人生を選択して生きているようで、実は生まれながらに決められた運命の道を、またはすでに遺伝子に組み込まれたDNAの司令に従って、ただ生きているだけではないか。そんな疑問も、頭の中をよぎりました。


 最後の一つは、アマゾンの奥深く原住民の家庭で、彼は一泊するのですが、その原住民の主人に、「あなたには、家族がいるのか」との問いが、リヤカーマンに投げかけられた場面がありました。

 リヤカーマンは、嬉々として、彼の家族写真を相手に見せるのですが、相手の問いの真意は、「こんな危険な冒険を続けているということは、あなたには扶養する家族がいないのではないですか。」と言うことではなかったでしょうか。文化的とは言い難い、アマゾンの原住民の家長からさえも、一般的な家長の義務を果たさずに、どうして冒険の旅を続けられるのかという、それは当然の疑問として、投げかけられた質問だったはずです。

 私は、リヤカーマンを責めているわけではありません。多分、彼なりに家族の生活を考え、様々の手だてを講じていることでしょう。それでも、家族を持つと、自分の人生を、自分だけのものとして、生きることができません。そこを断ち切って、自分を最も活かす道を選択することは、現実には多くの人には難しいことです。

私には、「リヤカーマン」のような人生を選択することは、できそうにありません。しかし、制約ある中で、自分を活かす道、自分なりの「リヤカーマンの冒険の旅」を見つけたいと願っています。


さて、幾重にも入り組んで、至る所で岐路に行き当たり、

そこには丁寧な案内板さえもない。

しかし、そうした道に足を踏み入れない限り、

自分というものを、自分の真の姿を、

見つけることができないのかもしれない。

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