「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの教育:今年の年間ベストセラー書籍のランクで考えたこと

2018年12月02日 | 教育

 今年の年間ベストセラー書籍のランクが出ていました。年末になると、今年を振り返り、十大ニュース・流行語大賞などのランクなども、新聞の紙面を賑わします。これらは、気の競る師走の風物詩でもあります。


 今年の書籍ベストセラーの中で、小学4年生の娘に買ってあげた本が、数冊載っていました。1位の「漫画 君たちはどう生きるか」と、3位「ざんねんな生き物事典」、6位「続 ざんねんな生き物事典」です。

 1937(昭和12)年に刊行された吉野源三郎の歴史的名著を、2017年に羽賀翔一が初の漫画化した本が、「漫画 君たちはどう生きるか」です。たぶん、子どもがこの本を手に取って購入を決めたというよりは、親が読ませたくて子どもに買ってあげた本だったのでしょう。





 ある意味で、子ども向け哲学書でもある本が、今年売れたのにはやはり理由があると思います。親もそして将来を生きる子どもにも、激変する世の中をどう生きていったらよいのか、迷うことが多いはずです。急速に進化する人工知能(AI)により、職種も働き方も変化することが予想されます。そうした時代に、よく考えて自分の未来を選択してほしいという親の希望が、このランクで読み取れます。

 子ども向けの哲学書と言えば、上の子どもが読んだ「ソフィーの世界」を思い出します。1995年に出版された本は、とても分厚かったように思います。それでも、小学生の子が根気よく読んでいました。阪神淡路大震災地下鉄サリン事件があった年です。この本もベストセラーとなったはずですが、生きていくうえで、しっかりとした考えが欲しいという親の反映でもあったでしょう。



 ざんねんな生き物事典は、生き物の裏話を集めた本ですが、生き物の多様性や思ったよりも不器用に不完全に生きていることを私たちに教えてくれます。生きていくうえで残念な生態があっても、健気に生きている生き物に愛着を感じることでしょう。画像の「わけあって絶滅しました」という本も、売れています。やはりこれらの本も、今の時代を反映した本だと思われます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:子どもの人権に係わる思い出

2018年11月21日 | 教育

 子どもの人権に係わる問題が、学校現場や一般社会で今でも絶える事がありません。もう三十年近く前に、国連において採択された「子どもの権利条約」が、子どもの人権に対する見方のエポックだったと思われます。今日綴る出来事は、それよりも遥か以前の私が中学1年の時の忘れ得ぬ思い出です。

 その当時の学校現場では、今ほど子どもの人権に対する配慮は無かったと思います。教師の生徒に対する殴る蹴るなどは、日常茶飯事でした。そうした出来事を見聞きしても、教師からそうした行為を受ける生徒の方が問題だとされた時代でした。

 理科の教師にTという教師がいました。指導には熱心でしたが、つい手が出てしまうこともある人でした。この教師の授業中、ある生徒に茶化すような言い方で注意を与えました。その言葉の中に、その子の人権に係わる言い回しが含まれていたように思います。その生徒は、私とは同じ小学校出身で、かつ4年から6年まで同じ組でした。今思えば、ちょっと学習障害があったような生徒でした。

 その茶化すような言い方を聞いた同じクラスのKという生徒が、そのTという教師に向かって、言い方を訂正しその生徒に謝るように要求しました。たぶん、その教師の次に驚いたのは、私だったと思います。Kという生徒は、異なる地域からその中学に入学した生徒だったので、茶化された生徒を守る役割は、小学校時代同級でおまけにクラス委員でもあった私自身だろうと思いました。Kの勇気と見識に、私は圧倒された思い出です。

 Kとは、親友として高校まで一緒でした。Kは大学教員となり、今では国立大学の学長となっています。おまけに彼の大学は、国立の新構想教育大学であり、学校教育に関する理論的・実践的な教育研究を推進する場です。教師は、生徒の人権に対する認識をしっかりと持っていなければならないことを、Kは中学1年にして認知していたのでした。驚くべきことです。蛇足になりますが、注意を受けたこの生徒は、中学を卒業して働き始め、何年か後に海水浴場で溺死したことを知りました。今でも愛嬌のある顔が思い浮かびます。

 今年は、スポーツ界で様々な問題が起きた年でした。学校においても、部活動に係る指導現場で、まだまだ古い慣習から抜け出せずに問題が起きています。今一度、子どもの人権・子どもの権利をしっかりと認識して教育現場に携わりたいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:訴訟「大声の叱責で5歳児がPTSD」が逆転敗訴確定

2018年10月02日 | 教育

 最近ネットで報道されたことを読んで感じたことを、今日は綴ります。その報道とは、以下の内容です。『埼玉県深谷市が管理する施設で開かれた秋祭りでボランティアに怒られ、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したとして、女児(9)が市に約190万円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第3小法廷(戸倉三郎裁判長)は、女児の上告を受理しない決定をした。女児の逆転敗訴とした2審東京高裁判決が確定した。決定は25日付。4裁判官全員一致の結論。』

 『1審東京地裁判決は「男性に大声で注意され、口論を見たためにPTSDを発症した」として男性の過失を認め、使用者責任に基づいて市に約20万円の支払いを命じた。一方、2審は「景品の駄菓子を勝手に取ろうとした女児を注意したのは社会通念上、全く正当」と指摘。「親として謝罪すべきなのに、道理に反して男性に謝罪を求め、警察に通報するなどした」とし、女児の請求を退けた。』

 簡単に言うと、秋祭りのボランティアの老人が、問題行動をした女児(5歳児)を大声で叱ったことに対して、その親が女児がPTSDを発症したとして損害賠償を求めた訴訟に対して、逆転敗訴を最高裁が確定したということです。多くの方は、妥当な判決だと感じたことでしょう。なぜなら、判決理由と同様な感想を持った方が多いと予想されるからです。

 地域社会の子どもたちに対する見守りや教育力の低減が、社会問題として語られている現状を考えれば、この訴訟が勝訴という決定になったなら、そうした風潮を増長することになると考えられます。そうした意味でも、妥当な判決だったといえるでしょう。
子どもの権利・子供の安全という理由で、地域社会があえて子どもに対する接点を減らしていると考えられます。後から問題が生じないように、見て見ぬふりをするということでしょう。


 ただし、子どもに対するしかり方には、注意が必要であるという教訓も、この出来事は示しています。一般の老人が、子どもに対する的確な接し方を理解しているかと言えば、それは無理なことかもしれません。ただ、常に子供と接する親や教育者は、しっかりと認識する必要があります。今の社会状況を反映した新たな親と子の関係が未だに確立されていないと私は感じています。同様に、子どもと教師の関係も模索状態だと思われます。パワハラが問題になっている現状を考えれば、一層慎重な対応が必要でしょう。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育・娘と見たこの夏の映画・ポケモン映画「みんなの物語」・ジュラシック・ワールド/炎の王国・インクレディブル・ファミリー・未来のミライ・ペンギン・ハイウェイ

2018年08月26日 | 教育

 今回載せた映画は、あくまでも小学4年生を中心に考えて、この夏に封切られた映画からチョイスしたものです。評価は、私自身が感じた個人的な見解です。あえて、映画の内容の詳細は述べません。映画は、読書と異なり受動的な行為ですが、それでも子供に与える影響は大きいと思います。参考にしていただければと思います。



ポケモン映画「みんなの物語」】

 たぶん小学4年生の娘がこの夏に最も見たい映画が、このポケモンの映画でしょう。ただ、私は全くポケモンには興味が無いので、見ているうちに毎回眠気が襲う映画なのですが。大人がポケモンゴーに夢中になって交通事故を起こすなど、ちょっと変な世の中だと思っています。

 人々が風と共に暮らす街フウラシティでは、1年に1度だけ開催される“風祭り”が行われていた。風祭りに参加していたサトシとピカチュウが、5人の仲間たちと出会う。それぞれが悩みを抱え、パートナーのポケモンと一歩を踏み出せない中、みんなが出会うことで、運命の歯車が動き出す・・・。

 毎回のことですが、友達やポケモンとの友情で、問題を解決し成長していく物語です。そうした点では、教育的な映画だと思います。




【ジュラシック・ワールド/炎の王国】

 “恐竜”に 巨匠・スティーヴン・スピルバーグが命をふきこみ、かつて誰も観た事がなかったリアルでスリリングな映像体験に世界中の人々が心を躍らせ、映画史に偉大な足跡を残した『ジュラシック・パーク』シリーズシリーズ14年ぶりの新作として2015年に公開され、記録的な大ヒットとなった「ジュラシック・ワールド」の続編。テーマパーク「ジュラシック・ワールド」を有したイスラ・ヌブラル島に、火山の大噴火の兆候が表れ、恐竜たちの生死を自然に委ねるか、あるいは危険を冒してでも救い出すか、人間たちは判断を迫られていた。そんな中、恐竜行動学のエキスパートのオーウェンはテーマパークの運営責任者だったクレアとともに、恐竜たちを救うべく行動を開始するが、その矢先に島の火山で大噴火が発生する。恐竜と心を通わせるオーウェンを演じるクリス・プラット、クレア役のブラウス・ダラス・ハワードらメインキャストが続投。

 圧倒的な迫力を感じる恐竜の画像も、見慣れるとかつてほど感動を感じません。主題とも思える、人間の遺伝子操作の是非や人間が他の生命を制御することの問題に対して、訴える力があったのかということが重要になってくると思います。単なる娯楽以上の作品として、完成されているかが作品の優劣となるのですが、その点に関しては疑問符が残ります。

 ゴジラもそうですが、人類が行ってきた行為により、思わぬしっぺ返しに合うというストーリーです。何作も見続けると、やはり飽きてくるのは仕方ないことでしょう。もっと、内容的に工夫すべきではないでしょうか。




【インクレディブル・ファミリー】

 第77回アカデミー長編アニメ映画賞を受賞したディズニー/ピクサーの大ヒット作「Mr.インクレディブル」の14年ぶりとなる続編。スーパーパワーを持つボブたち家族は平凡な日常を送っていたが、ある出来事をきっかけに、母ヘレンがイラスティガールとしてヒーロー活動をすることに。多忙になった彼女の代わりに家事と育児を任されたボブは、底知れない能力を秘める息子ジャック・ジャックの世話に悪戦苦闘。そんな中、新たな敵が家族の前に立ちはだかる。

 アメリカ人は、こうした特別な力を持ったヒーローが大好きなのだと思います。単純に楽しめる映画だと思います。悪と戦うヒーローと、家族愛の物語です。

 credibleが信用できる確かなという意味で、そこにinという否定の接頭語が付いた言葉で、途方もないさまとか信じられないほどであるさまという意味になります。従って、「インクレディブル・ファミリー」とは、信じがたいほど途方もない家族といった意味でしょう。家族が、特別な能力を発揮して悪を懲らしめる、そして家族が協力し合う家族愛も込められた映画となっています。




【未来のミライ】

 どうも前評判ほど感動する映画ではありませんでした。
甘えん坊の4歳の男児くんちゃんと、未来からやってきた成長した妹ミライの2人が繰り広げる不思議な冒険を通して、さまざまな家族の愛のかたちを描いた映画です。ただし、あまり主題が伝わってこないところがあります。

 もっと辛辣な以下のような意見もあります。『細田監督が「普通の中流家庭」として提示している風景は、どれも一部のアッパー層だけが楽しめる暮らしであり、共感しづらいのである。それは、細田監督のせいというよりも、日本が貧しくなったせいかもしれない。子どもを2人持って人口を維持することがぜいたくになる社会など、どう考えても異常だ。夫婦が共働きで子ども2人を育てる姿に共感できないくらい日本は貧しくなり、中流社会は消えてしまったのだから。』

 日本の根幹の家庭が、以上のような意見からも、変質してきているために、監督が意図した家庭環境に共感できないことで、作品の評価が低くなっているというものです。無論のこと、そうした社会情勢も理解したうえで、作品を作り上げる必要があります。

 題名の妹・「未来のミライ」の果たす役割が不鮮明で、主題がぼけてしまっています。ただ、自分の存在が、生命のチェーンのように、先祖の様々な努力の上に成り立っているという考え方は、納得出来るものでした。




【ペンギン・ハイウェイ】

 私にとって、この夏に観た映画で最も印象に残る映画でした。映画を観終えた後の印象としては、「思い出のマーニー」と似ています
。夢のような不思議な体験の後の、充実感と喪失感が入り乱れた感情。「夜は短し歩けよ乙女」「有頂天家族」などで人気の作家・森見登美彦による日本SF大賞を受賞した小説をアニメーション映画化したものです。

 「ペンギン・ハイウェイ」の文庫本を、予め読んでいましたので、物語の流れは知っていました。小説にかなり忠実に描かれた映画でした。映画もそうですが、小説もなかなか不思議な気分にさせる作品です。最後の喪失感が、長く尾を引く作品となっています。

 映画を見た後、私の文庫本を娘も読み始めました。文字も小さく4年生には、この本どうなんだろうと思いましたが、主人公が自分と同じ4年生であることも刺激になっているのか、飽きずに読み終えました。

 娘と同じ小学4年生が、不思議なひと夏の体験により、少年から少しずつ成長していく物語でもあります。とても理知的な能力を備えた少年が、理性的にも感情的にも処理しきれない体験をします。その少年は、経験したことや考えたことを理詰めで理解し、ノートに記録していきます。そうした行為も、微笑ましく感じました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:話題の映画「万引き家族」を観て

2018年06月28日 | 教育

 第71回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、日本映画としては1997年の「うなぎ」以来21年ぶりとなる、最高賞のパルムドールを受賞した話題作「万引き家族」を、小学4年生の娘と観ました。この映画は、興行的にも成功を収めているようです。



 映画の完成度や密度は、前評判よりも低かったように思います。ただ、取り扱っている家族・親子関係・子供の葛藤と成長など、現代的な問題を取り扱っていることと、経済格差・子供の貧困など単に日本だけの問題ではなく、世界的な問題を取り扱っている点は、話題を喚起する映画でしょう。経済的に成功した日本においても、貧困とそれに伴う生活水準など、外国人の目から見ても新鮮で興味をそそる内容でした。



 ただ、そうした内容を映画の中で分かり易く昇華できたかと言えば、私には満足できるほど成功しているとは思えません。この映画の中で、皆でごった煮風の鍋料理を食べている場面がありました。そんなごった煮風の映画になっていて、主題がぼけてしまっているようにも感じました。映画が終わった後の、周囲の観客の感想も、そんな風に伝わってきました。けれども、おばあさん役の樹木希林亜紀役の松岡茉優息子祥太役の城桧吏妻・信代役の安藤サクラ日雇い労働者の父・治役のリリー・フランキー
どの演技がとても良かったと思います。ただ、子どもが観るには、問題ある部分もありますので注意が必要です。この映画は、疑似的な家族の崩壊の端緒を作った息子祥太が、成長していく物語でもあると思います。



 さて、若干この映画の否定的な感想を述べましたが、家族の在り方、子どもに対する虐待などが、最近の出来事で話題となりました。そうした出来事を踏まえて、多くの方がこの映画を契機に、考えることは意味ある事だと思います。

 是枝監督は「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」と語り、日本社会の保守化や、それにともなって巻き起こった歴史修正主義の動きに対して警鐘を鳴らしました。



 そうした意味で、為政者である総理大臣の安倍晋三には、目障り・耳障りな映画に映ったことでしょう。この映画で取り上げられた様々な問題は、現在の政治と不可分なものと思われます。したがって、この映画は現在の政治批判の側面も否定できません。

 かつて日本人が持っていた美徳は、どこへ行ってしまったのでしょう。是枝監督が述べた共同体文化の崩壊・家族の崩壊」が急速に顕在化してきた日本社会は、はたして人々にとって住みよい世の中と言えるでしょうか。



 広義的には社会にとって、狭義的には家庭にとって、大切なこと・幸福なこととは何だろうか。そんなことを、私はこの映画を契機に考えました。この映画は、社会全体に波紋のように静かに確実に、そうした疑問を拡散させています。

(画像は、パンクレットを撮ったものです。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:小学3年生の娘と見た「映画ドラえもん のび太の宝島」「リメンバー・ミー」「ちはやふる -結び-」

2018年04月01日 | 教育

 春休み前、子ども向けの映画が封切られます。今日はその中で、小学3年生の娘と見に行った映画について綴ろうと思います。娯楽の支出費用で言えば、映画鑑賞は比較的安価な行為だと思います。私の場合、自分が見たい映画というよりも、小学3年生を主体として考えた映画を、最近は見ることが多くなりました。それでも、そうした映画の中で、大人でも印象に残る映画もあります。場合によっては、ワンパターンのストーリーに、ついうとうとしてしまう映画もあります。子どもと共通した話題を提供してくれるというのも、親子で行く映画鑑賞の重要な要素だと思います。


【映画ドラえもん のび太の宝島】

 ドラえもん人気は、驚くほど長い! ドラえもんは、多くの子どもに、様々な影響を与えた存在だと思います。私がドラえもんを初めて知ったのも、教室の生徒が得意になって私に教えてくれたからでした。その子は、開成中学に合格し、今では中年の域に達してしまいました。

 その子が熱っぽく語ったドラえもんは、今でも子どもたちのヒーローなのでしょう。のび太とその友達との友情が、ドラえもんの奇抜なアイテムとともに、ストーリーの中心となります。

 今回の映画も、夢と冒険がいっぱい詰まった宝箱のようで、子ども向けの映画としては、とても良くできていると感じました。ドラえもんの映画は、教育的配慮がなされているという印象を受けます。そう言った意味で、安心して観られる映画と言えるでしょう。


【リメンバー・ミー】


 音楽を優先して家族を捨てた父に対して、その家族は長い間、音楽をタブー視して過ごしてきました。けれども、この物語の終盤で、実は音楽が家族を繋いでいたことを、その家族は知ることとなります。家族愛と絆がテーマの映画でした。主人公の少年が、死者の世界に旅立つストーリーは、鎌倉物語を連想させます。

 自分のやりたいことと家族の絆の狭間で悩む少年の心情が描かれています。また、先祖を忘れず敬う風習も、日本と同様にこの物語の舞台となっているメキシコにもあるのだなと思いました。

 死者の世界にいる人たちは、自分と親しかった人たちの心から自分が忘れ去られるとき、死者の世界からも消えてしまうということを、この少年は知ります。一般的に、人間には二つの死があると言われています、一つは、体の死。二つ目は、人々の心から忘れ去られるという存在の死。「リメンバー・ミー」とは、「私を忘れないで!」あるいは「私を思い出して!」といった意味ですが、人々の心から忘れ去られるという二つ目の死を恐れた言葉なのかもしれません。





【ちはやふるー結びー】

 映画が封切られる前に、テレビで放映されたせいでしょうか、珍しくアニメでないこの映画を見たいと、小学3年生の娘が言いました。青春を競技かるたにかける面々の情熱、競技かるたの迫力、淡い恋心、そうしたものに興味を持ったようでした。元々は、少女漫画であった「ちはやふる」を映画化した三作目の作品です。

 帰ってきてから、小倉百人一首の中で、映画に出て来た以下の和歌を含む数首を,音読しながら
覚えていました。古語であることと恋の歌なので、小学生には難しいかもしれません。もっと分かり易く有名な和歌があるのですが、この二首が、映画のかるたの勝負に関わっていたことで、興味を示したのです。


しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

(他人には気付かれないように耐え忍んできたけれど、顔色に出てしまっているのだ。私の恋は。「恋の物思いをしているのですか」と他人が問うほどまで。平兼盛

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

(恋をしているという私の噂が早くも立ってしまったのだよ。他人に知られないように思いはじめていたのに。壬生忠見

 以上の二首は、天徳4年(960年)に村上天皇の御前で行われた歌合で、「恋」を題として優劣を競った歌です。しかも、この歌合の最後の勝負、いわばエース対決として戦った歌であり、判者の藤原実頼も優劣つけがたく、持(引き分け)にしようとしました。しかし、天皇が「しのぶれど」と口ずさまれたことから勝敗は決し、兼盛の勝ちとなったそうです。同じ歌合で、この二首が対決し、「しのぶれど」の方に軍配が上がったことについて、娘はとても興味を示しました。

 毎年、下の画像の朱色の建物の近江神宮において、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦、そして今回の映画の高校選手権などが行われます。それは、近江神宮の祭神が天智天皇であり、小倉百人一首の第一首目の歌を詠んだ天智天皇にちなんで、こうした行事が行われているということです。

 タイトルの『ちはやふる』は小倉百人一首の撰歌「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」に由来しており、原作者の末次由紀は本作についてインタビューで「“勢いの強いさま”という“ちはやふる”の本当の意味を、主人公が知り表現していく物語なのだと思う」と発言しているそうです。ただ、一般的に「ちはやぶる」は、神の枕詞として用いられる言葉です。

 私は、この映画を観ながら百人一首などの日本的な伝統を、誇らしく感じました。千年もの間、人々の心の中で受け継がれてきた歌が、日本にはあるということを。また、歌人にとっても、自分が詠んだ歌を、千百年後の現代の小学3年生が、必死で覚えようとしていることを知ったなら、さぞうれしく感じるだろうと思いながら、本を音読しているを聞いていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:今年も公立中学で中3数学補習指導スタート

2017年10月07日 | 教育



 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
ブログ人気投票にクリックいただけると幸いです。

 10月7日(土)、今年も公立中学校で中学3年生の数学補習指導がスタートしました。毎週土曜日の午前中に100分の数学補習を行います。かつて私は、江東区の教育委員会と提携して、公立の小中学校で本科の学習指導を7年間行いました。そのことが理由で、現在も公立中学校で、このように教えています。

 この学校補習指導の主体は、江東区の第三砂町中学校「三砂中 支援の会」で、地域が学校を支えるという主旨で、様々な活動を行っています。この中学校の科目選択授業を指導していたことから、この会から声が掛かって、毎年10月から2月まで「中3の数学補習」を指導しています。この「三砂中 支援の会」は、その活動が評価され、昨年度「文部科学大臣賞」を受賞しました。これは、立学校と地域との関係の一つの在り方を提示しています。

 三砂中の3年生の中で、この補習を希望する生徒を対象に学習指導します。毎年、十名前後の生徒が参加します。同じ学校でも、その年により参加する生徒の雰囲気や学力が異なることは、面白いことです。今年は、各生徒の学力状況を、担当する数学教師から予め聞き取ってから、指導を行いました。今年の生徒は、例年に無く学力上位者が参加しているようです。これからの指導が楽しみです。

 使う教材は、比較的基本的な項目別まとめ問題集・入試問題を集めた若干応用的な問題プリント・公立高校入試で出題された一行題のプリントの三種類です。その年の参加者の学力により、重点的に指導する教材が変わります。各項目の重要事項や間違えやすいポイントなどを板書で説明し、演習形式で個別にチェックして指導します。今年の参加者は12名ですので、個別の指導が可能です。各自の課題が分かるように、親身に指導したいと思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:有害な外野の雑音

2017年04月01日 | 教育


 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
ブログ人気投票にクリックいただけると幸いです!

 個人が、多数の人に向けて自分の考えを発信できるようになると、クレイマーの存在が問題となります。教育に関することでも、知識が無い人が、指導に関してクレームを発信することも多くなりました。そうした点でも、学校教師にとって、大変な時代になったといえるでしょう。

 また、学術経験者という立場にある者が、教育現場にいい加減な注文をするといったことも増えました。その結果、文部科学省の指導方針がぶれるといったことも起きています。「聖徳太子」「鎖国」など、方針が示された途端に修正が入るなどは、そうした例の一つでしょう。

 ところで、脳科学者と名乗っている茂木 健一郎が、コメントした内容に、黙認できない問題があることを今回綴りたいと思います。この人物は、科学者というよりは、バラエティ番組に頻繁に出ているタレントといった方が正確です。医学部出身でもないのに、何で脳科学者なのか?また、茂木 健一郎悪質な脱税行為を行い問題となった人物でもあります。私は、以前から如何わしい人物と感じて、彼の考えには懐疑的な見方をしてきました。現場の教師は、こうした人物のクレームに惑わされる必要はありません。

 まず、茂木 健一郎が指摘した問題点を載せましょう。・・・・・・『昨日、小学校の算数のテストで、「3.9+5.1=9.0」と書いたら、減点されたというツイートが流れてきて、とてもびっくりした。これははっきり言って一種の子どもに対する「虐待」である。』

 そのままにして置くと、小数点以下に0が残る筆算や問題は多くあります。上の例だけではなく、小数の掛け算、単位の変換などでも、そうしたことが起きます。例えば、2300mをkmに変換するとき、2300の小数点を左へ3つ移動させ、筆算は行いません。すると2300m=2.300kmとなりますが、小数点以下の0は意味がないので、とる必要があります。同様に、茂木 健一郎が指摘した「3.9+5.1=9.0」についても、小数点以下の0に意味はないので、取る必要があります。それに、9.0の表記をそのままにした場合、少数第二位で四捨五入した概数と受け取られます。

 逆に、温度計を読み取る時には、目盛りの1/10まで目分量で読み取るルールになっています。すると、ちょうど気温が20度だった場合は、20℃ではなく、20.0℃と表記する必要があります。20℃と表記した場合、何らかの都合で目盛りの数値だけ読んで、19.5℃以上20.5℃未満の示度を、およそで読み取ったことになります。この時の小数点以下の0は、そうした意味で必要な0です。

 小学4年で学習する「およその数」についても同様なことが言えます。「19.95を小数第一位までのおよその数で表す」場合、少数第二位の数を四捨五入します。すると切り上げられて、ちょうど20となってしまいます。ですが、この時の小数第一位の0は、省いてはいけません。答えは、20.0と表す必要があります。およその数で20と表した場合、小数第一位を四捨五入した値で、元の数の範囲は19.5以上20.5未満となります。ですが、20.0と表記すると、少数第二位で四捨五入した数値で、元の数の範囲は、19.95以上20,05未満となり、その表す数の範囲が異なってきます。

 このように小学生に対して、小数点以下の0が必要なのか不必要なのかをしっかりと指導する必要が教師にはあります。そうした基本的な考えを指導する場合、3.9+5.1=9.0」に○を付ける教師こそ問題があり、✖を付けて減点することには意味があります。

 また、茂木 健一郎は、こうも指摘しています。・・・・・・かけ算の順序、足し算の順序、という「問題」があって、2x3=6は正解だが、3x2=6は不正解、同じように2+3=5は正解だが、3+2=5は不正解、という「世界」があるのだという。詳細はアホらしいので書かないが、もし興味がある方は検索してみて欲しい。』

 この指摘も、上記の例と同様に、現場教師の努力を無視した的外れの指摘といえます。小学校の算数において、答えが合っていればよいという指導は、好ましくありません。結果ではなく考える過程を重要視して、自分がどのように考えて答えを出したのか、論理的に説明できることが重要です。その考え方を記す手段として、式を表記するという指導法をとる場合、私はそうした指導を肯定的に捉えています。無論、掛け算やたし算には交換の法則が成り立ちますので、計算上では自在に数値を交換して行うのが一般的です。この点に関して興味ある方は、以下のブログを参考にご覧ください。

マッキーの教育:考え方を式にしっかりと表記することが算数の学力を高める

 茂木 健一郎のえげつない所は、そうした現場教師の努力を、全く無視して「アホらしい」などという言葉を使って語っている点と、子どもに対する「虐待」などという表記を行い、恫喝するような記述をしている点です。茂木 健一郎は、以上のことを考慮すれば、全くノー科学者と言って差し支えない、屈折した性格の人物と言えるでしょう。

 ところで小学校において、分数計算で、以前は答えを帯分数で表記していたのを、中学生と同様に仮分数表記が小学生算数でも認められました。私自身、中学生になって仮分数表記で良いのだと知っても、しばらくはその答えが気になったことを今でも覚えています。この変更にも、小学生の現状を理解しない者の指摘が加味されたのだろうと、私は考えています。

 最終的な答えを帯分数にしてきた意味は、出した答えが妥当かどうか見積もる手段にすることができること。また、約分し忘れなどもチェックし易くなります。そして、仮分数・帯分数の変換の練習にもなります。無論、割り算の練習にもなります。こうした、小学生の学習上の特性を考えれば、あえて帯分数で答えを出すという指導は、意味の無い指導ではありませんでした。この変更には、現場を理解していないのに知ったような素振りを見せる茂木 健一郎のようなクレーマーが介在した可能性があります。外野の雑音が、実際に悪影響を与えた例と言えます。

 保育園の現場で、子どもたちの指導に合う様々な教材を手作りしているのを見て、感動を覚えたことがありました。また、小学校の現場でも、教師たちが様々な工夫を行っているのを知っています。けれども、何故か中学校・高校と進むと、現場では学力下位層に対する指導の工夫が少ないように感じます。閻魔帳を片手に、出来ないのはお前たちの努力が足りないからだ!・・・・・・そうしたスタンスを感じます。私は、塾での学習指導以外に、教育委員会と提携し、7年間小学校と中学校の本科授業を担当しました。その経験から感じたことです。

 小学校で指導している児童全員に対して、基本をしっかりとマスターさせようとする努力や工夫は、賞賛されこそすれ非難されるものではありません。アホらしい」という言葉は、茂木 健一郎自身にお返ししておきたい。ネトウヨの如き茂木 健一郎のような輩の誹謗中傷に負けないで、小学校の教師は、自信を持ってしっかりと指導していただきたいと私は考えます。

 具体的にこうした雑音を排除するためには、教師間で指導情報の共有が一層必要となります。ただ、保護者からの質問には、的確に親身に応答する必要があります。そうした教師の煩雑な仕事が増加していることを、多くの人たちが理解を示す必要もあります。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:栃木県高校春山登山研修事故で思ったこと

2017年03月28日 | 教育

 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
ブログ人気投票にクリックいただけると幸いです!

 27日、栃木・那須町のスキー場で雪崩が発生し、高校生ら8人が死亡するという痛ましい事故が起きました。事故当時、栃木県内の7つの高校の生徒と教師らが、春山登山の研修を行っていて、死傷した生徒らは、ゲレンデを外れた林の付近で、雪崩に巻き込まれました。

 当日は、予定されていた登山を中止し、ラッセルの訓練に切り替えたそうです。責任者である教師は、天候を考慮し、かつ有意義な登山研修になるように配慮したつもりだったのでしょう。けれども、今回のような死亡事故を起こしてしまえば、務上過失致死傷の疑いで捜査されることとなってしまいます。

 生徒及び保護者側にとっては、今回の訓練がそんなに危険なことであるとの認識は無かったでしょう。長年続いている登山訓練でしたから、事故に遭遇するなどは想像できなかったでしょう。しかし、八甲田山雪中行軍と同様に、生徒は教師の指示に従って行動しなければなりません。状況判断は、指導教師の責任において行われなければなりません。

 参加してくれた生徒たちに、有意義な登山訓練を行おうとすれば、当日テントをたたみ、そのまま下山することは選択肢としては考えずらかったことでした。たっぷり降った新雪を見れば、登山中止は当然ですが、その代わりにラッセルの貴重な体験ができると判断したのでしょう。

 樹林帯で訓練を行っていたのは、頭の中で雪崩を想定したからなのかもしれません。登山には、突然の落雷や落石など、不可抗力の出来事も起きます。もしも私が今回の指導教師だったら、同様の判断をしたかもしれないと思うと、ぞっとする悲惨な事故でした。

 高校山岳部は、基本的には冬山が禁止されているはずです。私が高校生の時、ワンゲルに入っていましたが、やはり冬山は禁止でした。けれども春山に登り、たっぷり残った残雪上で、ピッケルを使った滑落防止の訓練なども行いました。

 高校のワンゲルで、引率指導教師が、雪の表面が解けて固まった摺り鉦状態の斜面を滑落して、背中全面に痛々しい擦り傷を負ってしまったことがありました。経験豊富な指導者でさえ、こうした事故があるのです。また、ルートファインディングに失敗して、予定よりかなり遅く帰宅した時に、両親が真っ青な顔をして私を出迎えましたが、親は計画が変更されたことでさえ、とても心配していたことを知りました。登山は経験を積んで、その経験を判断の材料にできるようにすることが重要です。

 情熱ある指導教師の心情は、とてもよく分かります。貴重な経験をする場合、往々にしてリスクを伴います。そのリスクを自分だけが負う場合と、他の人にも背負わせる場合では、話は異なります。この事故が無ければ、天候次第ではこの時期でも冬山の厳しさを克服しなければならないことや、チームワークを組んでラッセルに汗をかく充実感を、この登山研修で経験できた生徒たちでした。

 けれども、事故が起きてしまえば、指導者はその責任を負わなければなりません。今回の一番のポイントは、雪崩注意報が出ていた状況での訓練だったことです。そこをどう判定されるのか、難しいところです。最後に、今回の事故で犠牲になった方々の冥福をお祈りいたします。ぜひ、今回の事故を今後に役立ててほしいと願っています。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:映画「この世界の片隅に」を観て

2017年02月06日 | 教育

  

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
ブログ人気投票にクリックいただけると幸いです!

 インターネット上で一般の人から制作費を調達するクラウドファンディングで、3,374名のサポーターから39,121,920円の資金を集めて完成した『この世界の片隅に』は、第40回日本アカデミー賞・第90回キネマ旬報ベスト・テン第1位など、評価を受けてヒットしています。



 「君の名は」が、興行的には圧倒的に成功を収めています。評価が高い『この世界の片隅に』に興味があり、小学2年生と2月5日(日)観に行きました。

マッキーの教育:『君の名は』

 戦前の動乱期、広島と呉で過ごした「すずさん」の日常が描かれた映画でした。戦争の惨禍を主題とした映画は多いのですが、あえてどこにでもいそうな一人の女性の日常を克明に描いた映画でした。戦前を知っている世代の人達は無論のこと、昭和時代を生きた団塊世代たちも、昭和の匂いが一杯の画像に心を奪われることでしょう。

 有無を言わせずに、人生を左右した戦争。風化しつつある先の大戦の惨禍を語り継ぐ必要はあります。そうした意味でも、この映画は多くの人に観てもらったらよいと思います。「天災は忘れた頃にやってくる」と言われていますが、災害の多寡は防災と密接に関連していますので、「天災は忘れるからこそやってくる」とも言えるでしょう。災害をできるだけ少なくするには、防災意識が重要です。人災である戦争は、猶更のことです。先人が苦しんだ経験を、私たちは肌身で感じ取ることが重要です。特に最近はきな臭い話が多いご時世であることを考慮すれば、戦禍を語り継ぐ重要性は増しています。



 ただ、戦中を中心に描いた映画でちょっと救われる点は、「すずさん」が苦境にある中で苦悶しながらも、懸命に前向きに生きている姿でした。交通ルールを順守して歩道を歩いている時でさえ、或いは突然の天災(地震・火山噴火・落雷など)で、人生を終わらせたり人生の岐路に立たされることが多いように感じています。けれども、どんな時でも前向きに生きることは、心構えとしては大切です。

「この世界の片隅に」の概略

『この世界の片隅に』(このせかいのかたすみに)は、こうの史代による日本の漫画作品。『漫画アクション』(双葉社)にて2007年1月23日号 - 2009年1月20日号まで連載。単行本は同社より上・中・下巻の形式と、前編・後編の形式で発売。

2011年8月5日に日本テレビ系列でドラマ化された。また、2016年11月12日より片渕須直監督による同名の劇場アニメーション映画が全国公開された。

映画化作品「夕凪の街 桜の国」の第2弾ともいうべき本作。戦中の広島県の軍都、呉を舞台にした家族ドラマ。主人公、すずは広島市から呉へ嫁ぎ、新しい家族、新しい街、新しい世界に戸惑う。しかし、一日一日を確かに健気に生きていく……。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:かわいそうなだけの子でない

2016年10月21日 | 教育

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 
ブログ人気投票にクリックいただけると幸いです

 祭り装束で屈託のない笑顔を浮かべる少女の写真。青森県黒石市で行われた「黒石よされ」祭り写真コンテストで最高賞を獲得した作品です。ここまでの話であれば、この写真と少女は、地方の町おこしに一役買ったのだろうという感想が残るだけです。



 ところが、この写真が撮られた10日後、この少女は駅のホームから列車に飛び込んで亡くなったそうです。遺書に、「二度といじめたりしないでください」と記した、いじめを苦にした自殺でした。

 青森市の男性が偶然撮影したこの写真に対して、実行委は遺族の了解を得た上で市長賞に内定したのだそうです。たぶん選考の過程で、被写体の少女が、いじめによる自殺をしたことが判明した後、様々な議論の末に、受賞を決定したのだろうと推測できます。

 「黒石よされ」の祭りをアピールし、多くの人に参加してもらおうという趣旨のフォトコンテストだったはずです。したがって、不特定多数の人に観てもらう写真として妥当かどうか、様々な意見があったはずです。私が選考担当なら、この事実を把握した段階で、この作品を除外したと思います。

 自殺した少女の写真を使うことは、祭りを盛り上げる話題になるよりは、いじめや自殺の方に、観た人の関心が行ってしまうのは当然でしょう。ただ、遺族の了解を得た後、実行委メンバーの一部や市長が「賞の趣旨になじまない」などと反対し、一旦は授与を取りやめたのだそうです。

 高樋市長が一転授賞を決めた理由は、遺族が写真と実名を公表したため、伏せる必要がなくなったからとのことでした。それも、ある意味納得のいく理由だと私は思いました。写真を公表すれば、その子のプライバシーや遺族に対する詮索など、コンテストの趣旨に合わない点が、世間の話題となってしまうからです。

 ただし、選考の過程で、そうしたプライバシーをも含めて、少女の遺族と話し合いを密にできたなら、こうした混乱は起きなかったはずです。この話題が公になると、感情的な批判が・・・これこそがいじめと共通した心理なのだが・・・主催者側に寄せられているそうですが、どっちに転んでも同様な反応があった事例だと私には思えます。

 「かわいそうなだけの子でない」という遺族の少女に対する想いを優先すれば、祭りで手踊りを披露した楽しそうな少女の姿を、生き生きと描写したこの写真の受賞と公表は当然とも言えます。祭りを盛り上げ観光にも役立てたいというフォトコンテストの趣旨は、この際引っ込めて判断すべきだったようです。

 どんなに笑顔を見せていても、心の奥底に耐えきれない苦しみを抱えている子どもたちがいる。保護者も教育者も子どもの言動や悩みを感知する能力を高める努力をすべきです。いじめを行っている子には、それが悪質な犯罪であることをしっかりと認識させる必要があります。いじめや悩みを抱えた子どもの一次的な避難場所を作ってあげることも大切です。いじめに負けない生きる力を子どもたちに身に付けさせることも、現代において最も大切なことかもしれません。・・・この写真を見ながら、いくつもの思いが次々と私の頭に浮かんできます。

 「かわいそうなだけの子でない!」・・・亡くなった子に対する親の切ない心情が伝わってくる言葉です。いじめが理由で自分の命を絶つ子どもを無くすために、大人は掛け声だけではなく、具体的な行動で示さなければなりません。

 かつてのブログで、いじめの問題について取り上げました。、関心のある方はご覧ください。

マッキーの教育論:いじめ問題について考える(1)

マッキーの教育論:いじめ問題について考える(2)


マッキーの教育論:いじめ問題について考える(3)


マッキーの教育論:いじめ問題について考える(4)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:『君の名は』

2016年10月18日 | 教育

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 
ブログ人気投票にクリックいただけると幸いです!

 「君の名は」・・・この言葉を聞いて、脚本家・菊田一夫の代表作で、「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」と言われたあの伝説的なラジオドラマを思い出す人は、ちょっと高齢な方が多いはずです。

 今日取り上げる『君の名は』は、新海誠監督の長編アニメーション映画のことで、私は小学2年生と一緒にこの映画を観ました。小学2年生に、「『君の名は』の映画を観に行く?」と問えば、「『青空エール』と同じくらいヒットしている映画でしょう!」という応えが返ってきました。教室の小学高学年に問えば、「『言の葉の庭』の新海誠の新作映画でしょ。」という反応。小学生でも知っているのか。


 16日、スペインのシッチェス映画祭で、アニメーション作品部門の最優秀長編作品賞を受賞したという報道がありました。この映画祭は、ポルト国際映画祭(ポルトガル)、ブリュッセル・ファンタスティック国際映画祭(ベルギー)と並び、ファンタジー・ホラー・アニメーションに特化した国際映画祭なのだそうです。

 小学2年生は、新海誠監督の「言の葉の庭」を、だいぶ前のことですが、私のスマホで観たことがありました。この監督の作品は、青春期の少年少女揺れる恋愛感情を、詩情豊かに描くことに成功しているように思います。今、青春真っただ中の人たちは、その甘酸っぱいラブストーリーに惹かれ、年を重ねた人たちは、ふと映像に昔を重ね合わせる、そんな映画の見方をしているのでしょう。



 映画「君の名は」は、田舎に住む高校生の三葉と、東京に住む男子高校生のが、あるタイミングで心が入れ替わってしまうというストーリーです。これは、大林宜彦監督の「転校生」を連想させます。また、1200年ぶりに地球に接近した彗星の核が分裂して、その一部が地球に降り注ぐという架空の出来事も、この映画の重要な要素となっています。

 そして入れ替わっている二人の住む世界が、実は数年の時間のずれがあったことも、観ているうちに分かってきます。男と女・住んでいる場所の距離・時間の差異・生と死・・・そうしたどうしようもない隔たりと、自分自身が相手と入れ替わってしまう親近感が交錯する映画でした。

 この映画は、たぶん観る人によって、様々な印象を受けるでしょう。映画を観た後に、雑踏を行き交う人たちも、過去・未来において自分に無縁ではない存在かもしれないと、歩きながら私に思わせる、そんな映画でした。

 小学2年生にとって、ちょっと早いラブストーリーでしたし、入り組んだ展開についていくことができたのか心配でしたが、二人が生きた世界に時間差のあることも分かっていたようです。

 三葉がおばあさんから織り方を習っている色鮮やかな組紐が、「糾える縄の如し」という言葉や運命の赤い糸」を連想させる役割を果たしています。様々に手の込んだ仕掛けが映画の中にちりばめられていますが、最も多くの方が印象的に感じるのは、その映像の精緻な美しさでしょうか。



 「君の名は」の興行収入は、149億円を記録(10月4日現在)しているのだそうです。観客動員数は公開から7週連続1位で、累計1149万人というヒット映画となっていて、世界89カ国・地域での公開が決定しているそうです。今回の映画祭の受賞で、興行収入200億円超えが確実と言われています。

 子ども向けの映画は、子どもとその親が対象となりますが、「君の名は」はアニメーション映画ですが、もっと幅広い層の人たちに観られていることも、ヒットしている理由となるでしょう。この映画の主人公の二人は、互いに最も近い存在と認識しているので、一瞬のすれ違いでさえ、相手を認識できると確信しています。ところが、お互いに惹きつけられているにも拘らず、現実世界に戻ると相手の名さえ忘却してしまいます。この遠近の落差。「君の名は」には、そうした切ない思いが込められています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:科学が役に立つのは100年後かもしれない

2016年10月11日 | 教育

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 
ブログ人気投票にクリックいただけると幸いです!

 2016年のノーベル医学生理学賞を、東京工業大学栄誉教授の大隅良典さんが受賞しました。日本人として、とても嬉しく思いました。私にとって、今まで漠然と知っていた「オートファジー」を詳しく調べる機会となりました。また、大隅さんが語った科学の基礎研究について、日本の現状と問題点を考える契機ともなりました。今日は、大隅さんの言葉を引用しながら、考えたことを整理したいと思います。

 『みんなでよってたかってやる競争が私はあまり好きではない。むしろ、誰もやっていないことを見つける楽しみが研究者を一番支える。』

 『今、科学が役に立つというのが数年後に企業化できることと同義語になっているのは問題。役に立つという言葉がとっても社会を駄目にしている。実際、役に立つのは十年後、百年後かもしれない。』

 『すべての人が成功するわけではないけれど、それがサイエンスのあり方。基礎研究を見守ってくれる社会になってくれたらうれしい。』

 上の言葉は、大隅さんが語った内容の一部です。最近の私たちは、大量の情報に囲まれて生きていますが、それに反して皆が同じような行動や生活を送っているようです。多くの選択肢の中で、どれが正解か分からない場合、差し当たり多数の考えに従う方が無難だという考え方が主流だからです。けれども、多くの人がやっていることではなく、誰もやっていないことを研究対象として成果を出した大隅さんの生き方を、私たちは今一度考える必要があります。

 日本の科学分野を今後も発展させ世界をリードしていくためには、すぐに成果が出て企業が潤う目先の分野に目を向けるだけでは問題があります。もっと長い目で基礎的な科学研究に投資や財源を当てるための、社会の支援と行政の取り組みが必要だという大隅さんの考え方に、私は共感を覚えました。

 ただし、大隅さんが語った内容について、少し違った考え方があることも述べておきます。国家プロジェクトとして、膨大な費用を投資して研究が進んでいるiPS細胞およびES細胞は、大隅さんの考えとは異なる考え方が含まれます。医者としてスタートした京都大学の山中教授が、ノーベル賞を受賞した時に強調した、苦しんでいる患者に少しでも早く研究成果を届けたいという熱意、これも事実だろうと思います。産学連携の典型例として、iPS細胞の研究とその応用を挙げることができます。こうした事実も否定すべきことではありません。

 置かれた傍流の地位にめげることなく、変人と呼ばれようが我が道を信じて研究を続けたら、実はその道が主流派に匹敵する研究分野だったという貴重な例を、今回の大隅さんが示しました。その当時、アカデミックな主流派から、徹底的に批判された印象派の作家たちの作品は、現在驚くほどの価格で取引されています。その反面、当時主流派だった人たちの作品は、いったいどうなったのでしょうか。歴史を振り返れば、そうした皮肉とも思える逆転劇は、枚挙にいとまがないことも事実です。



 
 『私たちは毎日、70~80グラムのたんぱく質を食べているが、たんぱく質を分解してアミノ酸という原料にしている。私たちの体内では300グラムくらいのたんぱく質が作られている。どこから来るかというと、私たちの体内ではたんぱく質が壊れてアミノ酸になって再利用されているのです。』

 大隅さんのノーベル賞受賞理由は、「オートファジー」と呼ばれる仕組みの解明でした。オートファジー (Autophagy) は、autoはギリシャ語の「自分自身」を表す接頭語、phagyは「食べること」の意味があり、細胞内のタンパク質を分解するための一つの仕組みのことです。

 細胞内で不要になったものは、廃棄物になるのではなく、再生産されて新たなたんぱく質になるという、とてもエコなシステムです。私たちが、大量消費・大量廃棄の生活から抜け出ようという現在、自らを形成している細胞内で、既にそうしたシステムが稼働しているとは驚きです。

 『今、なかなか自分の興味を伸ばすことが難しい時代になっている。「あれっ」と思うことが世の中にはたくさんある。そういうことの続きを大事にしてほしい。わかっているような気分になっているが、何もわかっていないことが世の中にはたくさんある。「えっ。何で」ということを大事にする人たち、子どもたちが増えてほしい。』

 大隅さんが述べたこの言葉の内容は、陳腐とも言えるほど指摘され続けています。そのことは、現状がそうした状況にないことを示しています。子どもたちを教える立場にある者こそ、常にそしてしっかりとこの言葉の意味を受け止めて、指導に役立てていかなければなりません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:小学2年生と太巻きと飾り巻きずしを作る

2016年10月01日 | 教育

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 
ブログ人気投票にクリックいただけると幸いです!


 中学2年生の英語の教科書に、寿司が話題の文章が載っていました。寿司には、握り寿司・巻き寿司・ちらし寿司などがあり、巻き寿司にも細巻き・太巻きなどがありますが、家庭では飾り巻きずしがとても人気です。

 そこで、小学2年生の料理として、まず手始めに太巻きを作って巻き寿司の要領をマスターさせ、次に飾り巻きずしに挑戦することとしました。その英語のテキストのコピーを見せて、「こういう巻きずしを作ってみる?」と問いかけると、「うん、作ってみる!」と興味を示す反応。

 まずは、太巻きに挑戦です。出来上がりは、下の画像の通りです。具沢山なちょっと細めの太巻きが出来上がりました。子どもと一緒に作ってみて、小学生低学年の料理として、太巻きはとても良い学習材料だと感じました。



 次は、飾り巻きずしです。ネット上では、様々なレシピが載っていましたが、まずは最も基本的な花びら模様を作ることにしました。とても細い5本の細巻きを花びらにして、その中心におしべとめしべに当たる細巻きを1本作ります。それらを、太巻きの要領で巻いて出来上がりです。



 花びらは、デンブを混ぜたピンクと、鮭フレークを混ぜたオレンジを作りました。花の中心には、カニカマ錦糸卵タクワンを使ってみました。これだけの材料で、2×3=6種類の花びらと中心の組み合わせが可能です。それに、全体の味を引き締めるために、既に出来上がってパックされた、かんぴょうの煮付けとしいたけの煮付けを用いました。

 私自身は、かつて繰り返し太巻きずしを作った経験があります。小学2年生にとって、初挑戦でしたので、まだまだ出来上がりは上手だとは言えませんが、とても楽しんで料理をして、美味しく食べることができました。

 この花びら模様の飾り巻きずしを今度作る時は、花びらと中心の具材をさまざまに変化させれば、まだまだ楽しめそうです。また、もっと慣れてきたら、中心のデザインを、顔や動物や植物などにしたりカラフルにすると、お出かけのお弁当や、おもてなしの料理にもなることでしょう。

 子どもだけではなく、日頃料理をやらないお父さんも参加して、家族総出で飾り巻きずしに挑戦すれば、間違いなく楽しい時間を過ごすことができるでしょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッキーの教育:この夏、小学2年生と観た『ファインディング・ドリー』・『ルドルフとイッパイアッテナ』・『ペット』・『BFG』

2016年09月25日 | 教育

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 
ブログ人気投票にクリックいただけると幸いです!


 この夏に、我が家の小学2年生と観た映画の概要と、私の感想・評価をまとめてみました。無論のこと、同じ映画でも観る方によって評価は違うことを前提にご覧ください。私の評価の観点は、まず自身がその映画を楽しめたかどうか。それから、子ども向けのそれらの映画が、子どもたちの心に届き、面白いだけではなく、いろいろなことを考えさせる契機になったかどうかということです。いつまでも心に残って、内面から子どもたちを暖める映画を良しとしました。

『ファインディング・ドリー』



 『ファインディング・ニモ』の続編として制作された『ファインディング・ドリー』は、家族とは何なのかを教えてくれるアニメーション映画です。ファイティングではなく、ファインディングですから、間違いのないように。見つけるとか探しだすというストーリーから取ったのでしょう。

 前作は、人間に捕われたニモを救出する過程での、家族の絆と友情がテーマでしたが、今回の映画も、ニモとマーリンと共に両親を探す旅の中で、家族愛と友情が主題となっています。

 ミズダコのハンク、ジンベエザメのデスティニー、シロイルカのベイリーなど様々な海の生き物が登場して、ドリーを手助けします。そうした心温まる映画に仕上がっていて、家族で見に出かける映画と言えるでしょう。


『ルドルフとイッパイアッテナ』



 『ルドルフとイッパイアッテナ』は、斉藤洋の児童文学作品をアニメーション映画化した作品です。飼い猫だったルドルフが主人公で、間違って乗ったトラックによって、見知らぬ東京の下町・江戸川区まで来てしまいます。そこで、野良猫のイッパイアッテナと出会い、野良猫として生きていく知恵を学びます。

 イッパイアッテナは、元の飼い主から日本語の読み書きを習っていて、それをルドルフにも教えます。イッパイアッテナの協力を得て、かつて住んでいた場所が岐阜市であることを突き止めます。そして、岐阜市へ帰る方法を考えて、一匹で帰宅する冒険の旅に出ます。

 苦難の末にたどり着いた自宅には、自分とそっくりの黒猫が既に飼われていて、自分の居場所が無くなってしまったことを悟ります。自分が戻ったことを飼い主に告げずに、ルドルフは再び大都会東京に戻る決意をします。

 飼い猫が、飼い主によって如何に翻弄されるかを考えさせます。また、野良猫は野良なりの知恵を働かせて、しぶとく生き抜いていることを子どもたちは感じ取ることができるでしょう。猫の視点で、自分を取り巻く人間と他の動物を描写したアニメ映画で、子どもたちに観てほしい映画に仕上がっています。


『ペット』



 「ミニオンズ」のイルミネーション・エンターテインメントと、ユニバーサル・スタジオの共作長編アニメーション映画です。先に紹介した『ルドルフとイッパイアッテナ』と同様に、人間に飼われたペットたちが引き起こす騒動を描いています。

 「人間が仕事や学校に出かけている間、動物たちはいったい何をしてその一日を過ごしているのか?」・・・そんな疑問に応えるべく、私たち人間の知らないペットたちの生態と、人間から見捨てられた動物たちの葛藤が見ものです。

 『ペット』は、海外では大変ヒットしたそうですが、同様のテーマで描いた日本の映画『ルドルフとイッパイアッテナ』の方が、私には心に残る作品でした。


『BFG』:
ビッグ・フレンドリー・ジャイアント



 『チャーリーとチョコレート工場』などで知られるイギリス児童文学界の巨匠・ロアルド・ダールの「オ・ヤサシ巨人BFG」を原作に、スティーヴン・スピルバーグ監督がディズニー映画として制作したファンタジー・アドベンチャーです。最新のCGを駆使して、夢のような世界を映像化した、とても素晴らしい出来栄えの映画でした。

 ロンドンの児童養護施設で暮らしていたソフィーを、巨人BFGが「巨人の国」に連れ去る所からこの物語は展開します。「なんで私を選んだの…?」という好奇心旺盛な少女ソフィーの問いに、「キミがひとりぼっちだからさ」とBFGが答えます。

 やがてBFGが、心優しい巨人であることをソフィーは知ります。BFGの仕事場には、ドリーム・ジャー(瓶)に詰められた夢の数々が輝いています。BFGはソフィーを、夢が浮遊する幻想的な世界へ連れて行きます。BFGは夢の配達人として、夢を自在に調合して、人間の子どもに夢を届けていたのです。大きな耳で、至る所の子どもの声を聴きながら。

 善と悪、表層の姿と内面の心、勇気と行動力、家族の大切さなどがテーマとなっています。また、スティーヴン・スピルバーグ自身が、映画作品を通して、世界中の子どもたちに夢を届けていることと、BFGの行為が重なる映画でもありました。今回の映画作品の中では、BFGがスケールでも面白さでも一回り優れた
映画でした。家族で一緒に観ることをお勧めする映画です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする