
(2002年に日本の野球殿堂入りを果たしたアイク生原氏)
野茂英雄の現役引退表明のニュースに対し、多くの後輩日本人メジャーリーガーたちから感謝のコメントが寄せられていた。私も当Blogをはじめさまざまな機会で語ってきたことだが、こうしてメジャーリーグについて文章を書き、マイクの前で話すことなどを生業とするようになれたのも、野茂の存在があったればこそである。彼の出現は日本におけるメジャーリーグを、限られたマニアの楽しみから、新聞の一面やテレビニュースのトップ項目、そして日本人の日常会話のレベルにまで一気に押し上げた。1995年以来(さらにさかのぼればドラフトで最多入札を受けた1989年のNPBドラフト会議のあの日から)、野茂がベースボールに対して果たしてきたさまざまな貢献は、NPB12球団のオーナーや親会社が束になっても、足元にさえ及ぶものではないだろう。
そんな野茂のメジャーリーグにおける活躍をぜひ見ていただきたかったのは、当Blogや「スポーツナビ」のコラムなどでもたびたびご紹介している、ロサンゼルス・ドジャース球団会長補佐・海外担当を務めていたアイク生原(昭宏)さんである。1992年に病のため55歳の若さでこの世を去ったアイクさんは、自分が生涯を捧げたチームで同胞が大活躍する姿を目の当たりにすることはできなかったが、1988年の秋に行なわれた「日米ベースボールサミット」で講師を務めた折、野球クリニックに参加していた当時新日鉄堺時代の野茂を実際に目にしている。当時、アイクさんが野茂に対してどのような印象を抱かれていたのか、詳しい証言などが伝わっていないのが残念だが、もし野茂のドジャース入団後もアイクさんがご健在であったならば、野茂のメジャーリーグにおける道のりも(もちろんいい方向にだと思うのだが)あるいは違っていたものになっていたかもしれない。
さて、そのアイクさんについて、実は先月の野球文化學會総会の席で、元フジテレビアナウンサーで、日本で唯一、1979年に1シーズン現地からメジャーの実況放送を担当した岩佐徹さんに興味深いエピソードを伺った。このフジテレビの大リーグ中継には、アイクさんもしばしば解説者として出演しており、その出演に至るまでの経緯をお聞きしたのだが、実は当初フジテレビ側が申し出た出演料の額を聞いて、アイクさんの上司だったピーター・オマリー会長が「いくらなんでも……」と、一度は出演のオファーを断っていたという。ところが、アイクさんは「私はその額でもいいからぜひ出演して、メジャーの魅力を日本の視聴者に伝えたい」と直訴し、オマリー会長もその熱意にほだされて、アイクさんの出演が実現したのだという。
詳しい出演料の金額についてはここで紹介するのは差し控えるが、貨幣価値や為替ルートの変遷を差し引いても、「その額でアイクさんが……」と、現在の私の立場が恐縮至極に思えてしまうほどである。
アイクさんがそこまでして祖国に蒔いた種子は、時間はかかったがやがて芽を出し、花開き、野茂英雄をはじめとする果実をメジャーリーグ、そして日本の野球・スポーツ文化に実らせた。ドジャース、あるいはメジャーリーグにおいて直接の接点はなかったアイクさんと野茂だが、二人の間には間違いなく見えない「絆」が存在していたのである。
野茂がユニフォームを脱ぐ決意を表明したいま、私は彼への感謝とともに、天国のアイクさんにも改めて、心からの謝辞を捧げたいと思う。
※「スポーツナビ」に緊急コラム「最高の対戦相手によって輝いた、野茂英雄のメジャー生活」が掲載されました
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/text/200807180005-spnavi.html
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ドジャースと結婚した男―夫・アイク生原の生涯 生原 喜美子 ベースボールマガジン社 このアイテムの詳細を見る |
