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連載「ベースボールと戦争」①二つの「墓標」

2009年08月20日 | Baseball/MLB

(東京ドーム敷地内にある「鎮魂の碑」)

 1945年(昭和20年)5月11日。鹿児島県の鹿屋基地から9機の零式戦闘機が南の海に向かって飛び立った。その3時間後、隊長機から発信された「敵艦見ユ」の無電を最後に9機の機影は途絶え、二度と見つかることはなかった。
 この「第五筑波隊」の2番機に搭乗していたのは、佐賀県出身の海軍少尉・石丸進一(当時22歳)だった。石丸はそのわずか2年前まで、職業野球・名古屋軍(現中日ドラゴンズ)のエースとして活躍し、入団3年目の43年には20勝をあげ、10月2日には大和(イーグルス-黒鷲軍の後身。同年公式戦終了後解散)を相手に戦前のプロ野球で最後となるノーヒットノーランを達成するなど、将来を大いに嘱望される存在だった。


 日中戦争から太平洋戦争へと続いた「15年戦争」で、輝かしい未来や可能性を絶たれた野球人は、石丸だけではなかった。日本の近代化とともにアメリカから伝えられ、国民的娯楽(ナショナル・パスタイム)へと普及・発展したベースボールそのものも、1945年8月15日の終戦まで、国家権力や戦争に翻弄され続けてきた歴史を持つ。
 東京ドームの敷地内に「鎮魂の碑」がある。1945年、当時の鈴木龍二セ・リーグ会長や、石丸の兄で同じ名古屋軍の内野手だった藤吉氏らが発起人となり、日中戦争や第二次世界大戦で戦死したプロ野球選手たちの霊を慰めるために建立されたものだ。
 石丸を含め、「鎮魂の碑」に名前が刻まれた戦没野球人は69名を数える。そのなかにはプロ野球草創期の大投手で、現在「沢村賞」にその名を残す沢村栄治(巨人)や、ライバルだった景浦将(大阪タイガース)の名前もある。
 また、同じ東京ドーム内にある野球体育博物館には「戦没野球人モニュメント」が飾られており、こちらは、戦死した中等野球、大学野球、社会人野球選手を追悼するため、2005年11月に設置された。1939年夏の甲子園大会で5試合連続完封、準決勝と決勝で連続ノーヒットノーランを演じ、昨年野球殿堂入りを果たした嶋清一(海草中―明大)など、春夏の甲子園大会、東京六大学、東都、旧関西六大学など主要大学野球リーグ、都市対抗野球で活躍したアマチュア選手172名の名前が記されている。

 戦火に散った野球人たちの最期を伝えるエピソードは、いたましいものばかりだ。
 3度の兵役に服した沢村は、中国戦線で銃撃を受け左手貫通の重傷を負い、また軍隊内の手榴弾投げ競争にたびたび駆り出された結果肩を痛め、全盛期の速球を失った。そして3度目の召集を受けて乗り組んだ輸送船が台湾沖で撃沈され、44年12月2日、27歳の若さで帰らぬ人となった。現在の松坂大輔(レッドソックス)より2歳近く若い年齢だった。

 フィリピンに送られた景浦の最期は、辛うじて生還した戦友の口から遺族に伝えられている。マラリアに感染して高熱にうなされていたにもかかわらず、それを押して食料調達のためジャングルに向かい、そのまま永遠に消息を絶った。

 巨人で強肩堅守の名捕手として大活躍し、戦後野球殿堂入りを果たした吉原正喜は、ビルマに派遣され、日本軍によるもっとも無謀な作戦であるインパール作戦に従軍し、絶望的な飢餓に苦しめられた末、米軍に包囲され、所属隊もろとも手榴弾で集団自決に追い込まれたといわれている。25歳の若さだった。

 「15年戦争」では、一般市民と兵士あわせて約300万人もの人々が尊い命を落としている。戦没野球人たちも、そうした犠牲の一端との解釈もあるだろう。
 しかし彼らが戦場で犠牲となった背景には、太平洋戦争中前後の「敵性競技」視を含め、ベースボールが明治維新直後に日本に伝来して以来、日本人の心をとらえたその「魅力」ゆえに、国家権力やその迎合者から常に受け続けた圧力や迫害の歴史があったのだ(つづく)。
 

参考資料「プロ野球選手謎とロマン」(大道文著)ほか

 

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