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石丸進一の「絶筆」は「魂安らかならざる場所」に置かれている

2009年08月15日 | Baseball/MLB

(石丸進一 1922-1945)

 

 石丸進一の名前は、比較的若い野球ファンでもご存じの方が多いのではないだろうか。

  佐賀商卒業後、先にプロ入りしていた兄・藤吉を追うように、1941年、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に入団し、1年目は内野手を務めたあと、兄の復帰に伴い投手に転向して、1942年17勝、43年には20勝をマークし、同年10月には戦前の職業野球で最後となるノーヒットノーランを達成している。

  プロ入りと同時に、徴兵猶予のため東京(当時の名古屋軍はほとんど名古屋で試合を開催せず、球団事務所も東京に置かれていた)の大学夜間部に在籍していたが、43年秋に法文科系大学生の徴兵猶予措置が撤廃されたことにより、「学徒出陣」によって44年春、海軍に入隊。飛行隊に志願し、45年5月、特攻隊の一員として鹿児島・鹿屋基地から飛び立ち、そのまま二度と帰ることはなかった

 現在、東京ドームの構内に建てられている「鎮魂の碑」に名前が刻まれた69人のプロ野球戦死者のうち、唯一特攻隊で亡くなった選手として知られ、その人生はいとこに当たるノンフィクション作家・牛島秀彦氏(故人)の著書「消えた春 名古屋軍投手石丸進一」(刊行時原題)や、映画『人間の翼』などで知られるようになった。

  筑波飛行基地で訓練を受けていた石丸に特攻出撃が命じられ、鹿屋に向かう輸送機に乗り込む前に残した「絶筆」が存在する。基地に残る戦友が差し出したアルバムに万年筆でしたためられたものだ。

 「葉隠精神」「敢闘精神」のあと、石丸は、
 「日本野球ハ、」
 とアルバムにつづった。

 それを見た戦友が、思わず「この期に及んでまだ野球か!」と声を荒げると、石丸はペンを止め、 「オオ、野球じゃ、野球じゃ、オレは野球じゃ!」と叫びながら、集合を告げるサイレンとともに駆け出し、そのまま輸送機に乗り組んでいったという。

  出撃の朝、石丸は戦友を相手に10球のキャッチボールをしたあと、搭乗機に乗り込み、愛用のグラブとボールをあとに残る戦友に託して、そのまま南の空へ飛び立っていった。

  絶筆となった「日本野球ハ、」と、それに続けたかった幻の文章に、石丸がどんな思いを込め、込めたかったか、説明の必要はないと思う。

  石丸をはじめ、戦場に駆り出されたすべての選手たちにとって、野球はかけがえのない「日常」だった。だが、その平和な日常は、国家権力が引き起こした無謀な戦争のために、無残にも破壊された。

  山口県光市での母子殺人事件、近年相次いでいる無差別通り魔殺人事件などは、市民の平穏な「日常」が理不尽な暴力によって破壊された典型だ。それがさらにエスカレートし、国家権力(同士)によって引き起こされるのが「戦争」であり、旧日本軍による近隣諸国への侵略行為、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)、アメリカ軍による広島、長崎への原爆投下、さらには旧日本軍による近隣諸国市民の強制連行・強制労働や、スターリン独裁下のソ連で起きた大粛清、北朝鮮による拉致事件なども、まさに国家権力による「日常の大量破壊」と言える。

 石丸の絶筆には、「日常」を無残に破壊され、前途洋々たる未来も永遠に立たれた無念の思いが込められている。

  だが、このアルバムはいま、そんな彼の思いにおよそふさわしくない場所──靖国神社の展示施設「遊就館」に置かれているのだ。

  私は、この遺品を靖国神社に寄贈した人や、戦没野球人たちの合祀を申し出た人たちを責める気持ちはない。彼らの多くは善意から、あるいは純粋に、無念の思いで戦場に散った選手たちの霊を慰めたかっただけなのだ。国が無宗教の公的な慰霊施設を設立していなかったために、行きついた場所が靖国だった、それだけのことだと思う。ただ、なぜ「野球体育博物館」ではなかったのかとの思いはある。

  しかし、靖国や遊就館は、彼らの霊を慰めたり、無念の思いを次世代に語り継いでいくのにふさわしい場所ではない。

 戦没野球人を含む無数の市民を戦場へと駆り立てた東條英機らが神社本体に合祀されていることはもちろん、遊就館が日本軍国主義体制による侵略戦争や、国民への思想弾圧などを美化・肯定する「靖国史観」のショーケースにほかならないからだ。今は亡き牛島さんがご存命だったら、どれほど怒り、嘆いたことだろうか。

 その光景は、去る8月6日、こともあろうに世界で最初に核兵器が使用された場所で、その犠牲者の霊を追悼し、恒久平和を祈念する日に強行開催された、「ヒロシマの平和を疑う」と題した、核武装や先制攻撃を声高に主張する元自衛隊幕僚長の「神経を疑う」講演会以上に場違いで、大いなる違和感をおぼえずにはいられない。

 石丸が最後の言葉に込めた思いを真に理解できる人間であればあるほど、「遊就館」に飾られている彼の絶筆を見たいとは思わないはずだ。

 

 「仏造って魂入れず」という言葉がある。どんなに立派な、あるいは作られてから年代を経た仏像であっても、寺院や仏壇などしかるべき場所に安置され、僧侶による「開眼供養」が行なわれなければ、それはただの「彫刻」「レプリカ」あるいは「フィギュア」であって、「仏像」ではない。

  いま「ふさわしくない場所」である遊就館に展示された石丸の絶筆も同じだと思う。確かに石丸が生前最後に残した「筆跡」であることは間違いなくても、そこには野球への志半ばにして散った彼の魂は存在しない。いま、もし石丸進一の魂がどこかにあるとすれば、それは彼の若すぎる死や失われた未来を惜しみ、彼を戦場に駆り立てた悪しき国家権力を憎み、再びこの国が戦争を起こさない、戦争に巻き込まれないための、恒久平和を願う人たちの心の中にほかならない。

  石丸進一、名古屋軍投手、背番号「26」。通算成績37勝31敗、防御率1.45。

 1945年5月11日、神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として鹿屋基地を出撃し、永遠に消息を絶つ。享年22歳。

 

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戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯
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1 コメント

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同感です (石原伸一)
2010-08-18 22:30:48
「人間の翼」映画館で三回、テレビで放映された時も、さらにビデオも購入して何回も観ました。最初に観たときは、映画が終わっても涙が止まらず、10分くらい座っていました。石丸君がどんな思いで特攻機に乗って飛び立って行ったのか。戦争の理不尽さ、愚かさ、野球を奪った国家への怒り、それが解れば、靖国神社なんかに飾られたくないでしょう。靖国神社は今、あの戦争を正当化し、平和憲法の改悪、再軍備まで主張しています。平和を希求する石丸君の思いを踏みにじるものです。
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