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「日本書紀」が語る人間の「業」~黒岩重吾小説の魅力

2006年02月08日 | えとせとら
(黒岩重吾「天の川の太陽」上・下巻 中公文庫)

私は時折、時代小説を読む。作家によって多くの作品を読破した人もいれば、まったく手に取ったこともない作家もいる。司馬遼太郎作品は相当数読んでいるし、池波正太郎も「鬼平」はかなり読み進んでいる。逆に藤沢周平作品はまだ読んだことがなく、早乙女貢は彼の人間性じたいがきらいなのでまったく読む気がしない

時代小説の中で異色なのは、「古代」にスポットを当てた黒岩重吾の作品群だろう。もともとは直木賞受賞作である「背徳のメス」など社会派推理小説の大家として名をはせた人だが、少年期を奈良県で過ごした経験などもあって、70年代から多くの時代小説を手がけるようになった。
なかでも中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の兄弟の確執と、天智の死後、その遺児・大友皇子と大海人との間で勃発した古代最大の内乱「壬申の乱」をテーマにした「天の川の太陽」は、時代小説という範疇にとどまらず、日本文学史上屈指の傑作と言えるだろう。

明治以降の大日本帝国政府は、天皇を神格化し、すべての国民に服従を強いたわけだが、結局それが破綻したのは、単にアメリカとの戦争に敗れたからではなく、まず天皇を神格化することじたいが、明治以降終戦まで日本の政治を牛耳った為政者やごく一部の特権階級の利権を守るための方便に過ぎず、子供でも大人でも「賢かった」国民の多くは敗戦前にそれを見抜いていたこと(しかしながら、軍隊と官憲を使った暴力・恐怖支配の徹底でそれに異を唱えることは許されなかった)、そして何よりも、官製の国史である「日本書記」にも、この中大兄・大海人兄弟の確執のように、「人間の業」そのものを物語るようなエピソードが満載されていたからである。つまり古代天皇制政権じたいが君主が「人間」であることを認めていたわけだ。

「天の川の太陽」はもちろん小説ではあるが、黒岩氏は「日本書紀」をはじめとする多くの資料から豊かな推理やイマジネーションをめぐらして、天智・天武兄弟や、額田王、鸕野讃良皇女(持統天皇)、皇極女帝、中臣鎌足など周辺の人々の人物像を生き生きと描き出し、壬申の乱に至るまでの経緯などをリアルに描き出している
黒岩氏はこの作品以外にも、天智・天武時代の前後にあたる時代を生きた推古天皇、聖徳太子、蘇我入鹿、有間皇子、大津皇子を主人公にした作品群を発表している。それを時代の順番に読み直してみるのも面白いだろう。もちろんそれらの人物像は黒岩氏のイメージから生まれたものではあるが、元になったのは「古事記」「日本書紀」をはじめとする膨大な古代資料であり、そうした資料は黒岩氏の豊かなイマジネーションをかきたてるだけの内容にあふれていたともいえるだろう。私は天皇や皇族を敬う人たちの考え方を基本的には尊重するが、しかし同時にそうした人たちには、あくまでも皇族・王族と呼ばれる人は、われわれと同じ「人間」であり、われわれと違うのは「立場」だけに過ぎないということを認識して欲しい。そのためにも「記紀」をはじめとする古代資料は、上質の解説文がついているものにぜひ目を通してもらいたいものだ。

ちなみに、天智・天武の兄弟は、それが専制君主制の体制のために作られたものとはいえ、日本の歴史で初めて法による政治・社会の支配、すなわち「法治国家」を実現させた人物でもある。日本という国が、政権は藤原氏、院政、武士政権、藩閥、軍閥支配、そして民主国家へと変化しながらも「日本」であり続けたのは、「万世一系」の血統によるものではなく、一千年以上の法治国家としての歴史が連綿と続いてきたからなのだ。日本人が真に誇るべきなのは、そういう面ではないのだろうか。


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