高麗神社の高麗とは中国の東北部から朝鮮半島にかけて、約七百年間(BC37年頃~668年)に栄えた大きな国で、唐と新羅によって滅ぼされたとされる。「日本書紀」においては天智天皇五年(666年)10月に高句麗から遣いがやってきたと記されており、その中に「玄武若光」という名が見られる。
高麗人は豪勇で騎馬民族としての性格を有し、高度な技術を持っていたとされる。天智天皇の御代の遥か以前から高句麗の文化は日本に伝来していたと考えられていて、まず越前若狭湾から近江に入り、次第に東進して武蔵野方面まで伝わったと考えられる。この間にも高麗人は各地に定着し、それぞれの地で日本人と融合し、大陸の優れた文化を伝えていった。
祖国を失い多くの高句麗の王族や文化人が日本へと渡り、各地に散っていったさなか、霊亀二年」(716年)武蔵国に高麗郡が置かれることとなる。乙巳の変以降、中央集権国家を目指す大和朝廷にしても、滅んだ友好隣国を受け入れたものの、京に近い領地をあてがう余裕はなかったのだろう。当時の関東は未開の地であり、「駿河」「甲斐」「相模」「上総」「下総」「常陸」「下野」にいた1799人の「高麗人」を武蔵国の丘陵地に集め、「高麗郡」として開拓していったという。
その統治者こそ現在の高麗神社に祀られる「高麗王若光」である。