皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

戦艦「三笠」③~日露戦争の経過

2019-10-09 22:30:42 | 史跡をめぐり

ロシアは満州に駐留した軍隊を撤退させるどころか、旅順、大連の防備を固め朝鮮半島に対する野望をあらわにしてきました。朝鮮半島は日本の安全保障上最重要地帯であり、ロシアに対し満州での権益を認めるとして粘り強く交渉しましたが、極めて不誠実な回答を繰返しさらに兵力を増強したことから、日本は明治三十七年(1904)ロシアとの国交断絶を通告し、日露戦争が勃発します。

 

日露戦争に勝利するためには日本海周辺の制海権を確保し、満州で戦う陸軍への補給物資を安全に確保することが肝要で、そのため旅順方面のロシア太平洋艦隊を先制攻撃する必要がありました。

 仁川冲海戦ではロシア旅順艦隊に大きな被害を与える一方、緒戦における旅順口閉塞作戦では、ロシア艦隊の航路を断つことに失敗します。

同年8月10日旅順口から出撃してきた旅順艦隊を確認した連合艦隊は、その背後に回って砲撃しますが、旅順艦隊もウラジオストックを目指して南下し激しい砲撃戦となります。ロシア旗艦「ツエザレウィッチ」号は被弾し航行不能となり多くのロシア艦は旅順港に引き返します。一方「三笠」にも敵の砲撃が集中し、敵弾により海軍少佐伏見宮博恭王殿下が負傷、戦死者33名の大きな被害を受けました。(黄海海戦)

 一等巡洋艦3隻を主力とするウラジオ艦隊は、対馬沖周辺、また津軽海峡を抜けて伊豆諸海域まで出没し輸送船などを拿捕、撃沈し大きな脅威となっていました。対馬東方海域を哨戒中の第二艦隊は8月14日南下するウラジオ艦隊を捕捉、5時間に及ぶ砲撃船の末「リューリック」号を撃沈し、ウラジオ艦隊を撃滅しました。(蔚山沖海戦)

明治三十七年(1904)10月ロジェストウエンスキー中将を指揮官とする(ロシア)第二太平洋艦は苦戦を強いられている旅順艦隊を支援するためバルト海リバウ港を出発しアフリカ西岸沿いを廻って大西洋を南下します。翌明治38年(1905)に入ってインド洋を東航しベトナムを経由し、日本海へと向かいます。またロシア政府は旅順艦隊が連合艦隊に壊滅させられたことを知って、増援のため旧式軍艦5隻を基幹とする第三太平洋艦隊を編成しスエズ運河を通ってベトナムで石炭などを補給し、第二艦隊と合流します。

このロジェストウエンスキー中将率いる第二、第三艦隊を総称し、出発地のバルト海に因んで日本側は「バルチック艦隊」と呼びました。

ロシアの旅順艦隊、ウラジオ艦隊を壊滅し、制海権を握った連合艦隊は呉、佐世保などに帰還し被弾の修復を図って弾薬を補給し、再度海洋へと戻ります。バルチック艦隊のシンガポール経過を知った日本艦隊は計画に沿ってウラジオストック沖に機雷を沈め、対馬沖に哨戒艦を配備し、バルチック艦隊を待ち受けます。

5月27日五島列島西方海域を哨戒していた仮装巡視艦「信濃丸」は海上はるかに東航する白灯を発見。バルチック艦隊に随伴する病院船と判明し、連合艦隊に「敵艦隊見ユ」の警報を発信します。警報を受信した巡洋艦「和泉」はバルチック艦隊後方9キロで接触を保ち、進路、速度、陣形などの情報を刻々と連合艦隊へと報告します。

 連合艦隊は「敵艦隊見ユルトノ警報二接シ連合艦隊ハ直チニ出動コレヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ波タカシ」

の電報を発信し沖の島北方に進出します。当日天候はかすみ、視界は十分ではありませんでしたが、「和泉」の報告により敵情を詳しくつかんでいたとされます。一方のバルチック艦隊は接触する「和泉」を発見し陣形を戦闘隊形として航行していました。正午に至りウラジオストックに向かうべく北北東に進路を変え水雷攻撃の危険があると判断し、ロジェストウエンスキー中将は4隻による横隊列の進行を指示します。しかし隊形を変更後後続艦が進路を誤ったためロシア艦隊は2列縦隊となって、乱れた隊形のまま待ち構える連合艦隊へと突っ込んでいくことになりました。

短い電文に当時の戦況をよんだ「本日天気晴朗ナレドモ波タカシ」。この一文は銘文として語り継がれています。起案したのは連合艦隊主任参謀秋山真之でありました。

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