皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

熊谷市 久下神社

2019-10-21 20:17:33 | 神社と歴史

 熊谷市南西部、荒川土手に沿って集落を成す久下地区。行田駅から近く、近年では医療機関もまとまって立地し、市境を超えて行き来することも多い。「久下」の地名についてはいくつか説があり、律令期に郡司が置かれ、その家から「郡家」こおりのみやけ、ぐうけ、くげと変化した説や、「崩漬」(くずしづけ⇒くけ)即ち荒川の堤から水が出て決壊したことから名づけられた説などがある。

神社勧請の由来は古く鎌倉時代前まで遡る。『吾妻鏡』建久三年(1192)の条に「武蔵国熊谷久下境相論事也」として将軍源頼朝の前において、武将熊谷直実と、その一族である久下直光が領地の境界争いをしたことが記されている。当地はその久下直光の在所で、当時三嶋神社を深く崇敬して鎮守として領地内に二つの三島社を創建したという。

 中山道近くにあったものは内三島、荒川の近くにあったものを外三島として祀り、現在当地に残るのは内三島の方だという。寛永六年(1639)伊奈備前守忠治は久下新川先から小八林至る新しい川を開削し、この地で新川河岸が開かれると、江戸との廻船が盛んとなり大いに栄えた。当時は忍藩の領地であり藩の財政に大きく貢献する河岸は重要視され江戸との距離も適当であったため、堤の中に多くの人々が住むようになった。明治となって新川村が誕生し、外三島社は新川村の村社として祀られるようになった。一方内三島の方も中山道に沿って栄えた旧来の久下村の鎮守であったことから久下村の村社となり明治四三年に村内の無各社を合祀して社名も久下神社と改めている。

 

時代が進んで新川村が度重なる水害で人が住まなくなっても、外三島社はその鳥居だけは姿を残したという。実際に現在の荒川堤のすぐ脇、行田市との境に建つ集合住宅(マンション)脇には現在も其の鳥居の姿を見ることができる。治水や土地開発が進んで、村そのものがなくなってもの神社の一部が残っているのだ。鳥居の向きも南向きではなく当時の村の様子を表している。

久下神社と改めた前の三島社の扁額も境内に残っている。

鎌倉時代が始まる際において多くの東国武士が頼朝に参じて京に上り、武功を立てるためにまさに命がけで平家と戦った際、途中頼朝旗揚げの地、伊豆三嶋神社に戦勝祈願している。東国武士にとって非常に崇敬が深かったのである。

境内はその水難の歴史を物語るように高い石の土台の上に築かれている。隣接する久下小学校は地区の避難所となっており、神社前は消防団の分署が配置され、地区の防災拠点である。

明治二十二年に新川村と合併し新たな久下村が成立した。久下村はその後昭和十六年に熊谷市に編入されている。

久下は中山道に沿った農業地帯であるが街道筋では商工業者も多く、その中でも久下鍛冶の名で知られた鍛冶職人がいて、近世武蔵の鍛冶を代表するものとして知られるところという。天明六年(1786)の「久下村鍛冶先祖代々申伝覚書」が残っており、治承四年(1180)久下直光が鎌倉から国安という鍛冶を招いたことから始まり、以降代々忍城のご用鍛冶を務めたという。

境内に立派な忠魂碑が残っている。帝国在郷軍人会久下村分会とあり、揮毫は陸軍大将福島安正。

律令期から開け、鎌倉時代に勧請され、江戸の交易で栄え、近代の歴史までをを今に伝える多くの史跡が残されている。

 


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