旧騎西町の玉敷神社は延喜式内社の古社と知られ、大己貴命を主祭神として奉斎し明治維新後は郡中の総鎮守として騎西領四十八か村の氏神であった。
文武天皇の大宝三年(703)多治比真人三宅麿(たじひのまひとみやけまろ)が東山道鎮撫使として武蔵国に下った際創建したと伝わる。以来現在地より北方の正能村に鎮座していたが、天正二年(1574)上杉謙信公の関東侵攻に際に兵火にかかり、社殿、宝物等を消失している。
これは関東の戦国史における覇権争いにおいて避けては通れないところであって、当時騎西城は忍城の仕城として機能していたことに起因する。忍城主成田長泰は関東の争乱に身を置きながら、小田原北条と上杉との間でどちらに着くか揺れ動いている。永禄四年(1561)成田が小田原に与すとなったとたん、難攻不落の忍城に代わり、騎西城を謙信は攻めている。なぜなら騎西城城主小田助三郎は成田長泰の実弟だったからに他ならない。上杉の城攻めは凄惨を極め「関八洲古戦録」によれば女子供の逃げ惑う姿は「目も当てられぬ有様也」と記されているという。(高鳥邦仁先生「歴史周訪ヒストリア」より)
こうした歴史があってかつては越後からの商人は玉敷神社へのお参りを遠慮したとも伝わる。
徳川時代に入りかつての根古屋村(加須市)から騎西城の大手門前に遷座され、1627年頃には現在の地に移されている。
近郷では神社の社宝である獅子頭を借りて五穀豊穣と家内安全を祈願する信仰が残っている。氏子区内だけでなくお獅子様を借りに来る区域は南北埼玉郡、北葛飾、大里、県外群馬茨城にまで及ぶという。
国の重要無形文化財に指定されている神楽は400年以上の歴史を持つという。江戸神楽の原型を伝える舞で年四回祭礼において神楽殿で奉納される。
また紫陽花の名所としても知られ玉敷公園の神苑には樹齢400年の大藤を誇り大勢の花見客を迎える。
美しい金色の銀杏は樹齢500年を超える2本の銘木でこの大銀杏が色づくと麦撒きを知らせる季節となる。
久伊豆神社の総本社として名高い玉敷神社であるが、「玉敷」の由来について國學院大學の学長を務めた元宮司河野省三先生の見解を社務所前の案内文で掲載されているので転記させていただきます。
「玉敷」とは「玉を敷いたような美しい場所」を差し、社号としては当社しか冠していない。
昔「騎西」は「私市」と記していた。敏達天皇の御代(西暦577年頃)この周辺が皇后の御料地である「私市」(きさきいち)として定められ、開拓が進んだことに由来するという。「敏達天皇」は「淳中倉太珠敷天皇」(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)と申し上げ、その住まいを「幸玉宮」と称する御所であったことから「玉敷」の御名をもって社号としたのだろう。また騎西の地名も「私市」「きさきいち」⇒キサイチ⇒「きさい」となったと考えられる。
この武蔵国の中ほど、地域開拓に縁り深い天皇の御名を頂いた尊い社号をいまに伝える玉敷神社。兵火に係るともその御神徳を今も多くの人々へ授けている。
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