皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

まさか自分が

2019-10-17 22:07:00 | 生活

 さる10月12日猛烈な勢力を保った台風19号が日本列島を襲いました。数日前から気象庁より最大限の警戒を要する旨の情報が発信され、観測史上最大の台風上陸であると知らされていました。勤務する店舗も前日から営業時間の短縮を発表し、12日当日は更に営業時間が短くなり、昼12時には閉店となりました。従業員の安全確保はもちろんの事、台風通過時に店舗を開けた際の対応は困難を極めたと思います。私自身も自分の担当部署を締め、翌日の最低限の準備をし、午後2時過ぎには自宅にたどり着くことができました。

流通サービス、販売店各社の対応は様々で、前日に一日休業を発表した大手もあれば、台風接近のさなか、ぎりぎりまで通常営業していた店舗もあります。特にCVにおいては帰宅途中ほとんどの店舗が開いていたようです。従業員に聴いてみると、オーナがいるのでやっていますとも聞きました。24時間365日営業の店舗においては閉店する手順もあまり機会がなく、また物流が動いてしまっているため、納品を待つ必要もあり、閉店する作業負荷もあるせいか、閉めるに閉められないような様子も見られました。(私見です)

地震の時と同様で、災害前後にはGSが混雑します。緊急時の移動手段に車を使う人がほとんどだからです。

午後三時を過ぎたころから、かなり雨脚も激しくなり、荒川の水位が危険水位となり、気象庁からも大雨特別警報が発令されました。それに伴って携帯電話には市からの警戒レベル情報が伝達され、警戒レベル4以上が発令され、市内の中学校、さらには小学校まで避難所の開設がされたことが伝わりました。半世紀近くこの土地で暮らしてきた中で、避難勧告、指示が具体的に出されたのは初めてのことです。

 これまで避難所への避難というとTVの画面で見る世界のことで、自分の実生活においてこうした事態が実際に起こっていることにあまり実感が湧きませんでした。また自分の中での心配事といえば、何より自宅脇の神社の社殿が風雨で損傷しないかとのことがかなりの割合を占めていました。自宅にいれば自分や家族は大丈夫だろうという、潜在意識が働いていました。

 そこに警笛を鳴らしたのが目の前にいる妻でした。TVやメールでこれだけ危険を知らせる状況なのに、避難しないという選択肢はないという考えでした。避難所での居心地の悪さ、なんとなく自宅が安心という根拠のない自信ははこの主張で吹き飛び、とにかく必要なものだけ持って最寄りの小学校へと避難することにしました。ただやはり慌てていたのか、移動する車に乗る際、同行する母が庭で転んでしまいました。子供と妻だけ先に車で出発し、母は汚れてしまった服を着替えてから、落ち着いてもう一台の車で避難しました。

弱者という言葉は適切ではありませんが、実際に有事に移動するにあたっては高齢者はその移動手段に関わらず、弱者となりうると痛感しました。危険を回避するための移動で命を落としたり、怪我をしたのでは本末転倒です。

 

 

避難先の小学校では体育館が耐震工事のため改修工事中で、一階の図書室や図工室が開放されました。避難世帯は約30軒、避難者数100名弱であったと思います。市職員の誘導の元、各部屋で持参した毛布やシートに座ってそれぞれの家庭が静かに時間を過ごしていました。足の不自由な高齢世帯向けに床の上に畳を敷いて対応していました。私も毛布の上に横になっていましたが、やはり固く冷たい床の上では背中も痛み不自由ではありました。但しかなりの暴風雨であったのにもかかわらず、鉄筋造りの校舎内においては風雨の音もさえぎられ、安心感はありました。時間はありましたので、図書室内の本を拝借し読んでいると、過去の中央小学校記念刊があり、現在の教育委員会幹部の方と私の小学校4年の担任の先生がかつての同僚であったことが分かり、30年以上もタイムスリップをしたようでなんとも不思議な感覚でした。

9時を過ぎたころからか、いよいよ利根川の水位も危険との情報からか2階へと移動することになりました。子供や若い世帯はすぐに行動できますが、移動に苦慮する高齢世帯も勿論いらっしゃいます。但し河川氾濫の恐れがある以上、避難所の運営としては2階へ退避は致し方ない事です。

移動の際、使っていた畳の移動、一階の片付けなど若い男性中心に避難者が協力して作業しました。感心したのは施設管理者である小学校の校長先生が避難所である学校へ駆けつけ、市職員と共に避難所運営に携わっていたことです。校長先生のご自宅がどちらか伺うことができませんでしたが、激しい風雨の中ご自宅を後回しにして、避難所の指揮にあたることはなかなかできることではないと思います。

避難者の皆さんは世代の近い地区ごとにまとまって落ち着いて過ごしていました。台風通過が早く、深夜には雨も上がったため、一晩泊まることなく自宅に戻ることができました。

実際の問題として

避難者が増大して施設に収容しきれない場合、どう対応するのか。全戸避難の場合受け入れ不可能なのは明白。(他地区では実際に避難所がいっぱいで休めないところが出たそうです)

避難が長期化して物資が滞った場合、どうするのか。

といった課題が見受けられました。多くの方はこれまでの通り自宅で待機し災害を回避できたわけですので、あくまで自分の身は自分の判断で守るのが基本です。

 自助、共助、公助といいますが、今回の避難を通じて批判ではなくより良い提言がなされて、今後に生かされることを願っています。

 

 


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