イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

当麻寺を通して「こころはどうして元気になるか?」を考える(新春の旅 4)

2017-03-09 | 旅・雑記帳

 3年前の春。早朝に大阪のアベノハルカスからの素晴らしい眺望から二上山をみつけ、一人旅であったので、その日のうちに二上山の麓の当麻寺に行き、お寺の方に教えてもらって二上山の頂まで行ってしまった。

 

 万葉集で有名な大津皇子の悲劇が当時こころに浮かび、情動の思うがままの旅になってしまったのだ。

 今回は奈良のお水取りとかキトラ古墳など誘惑もあったが、3年前の当麻寺訪問の時の白鳳の弥勒菩薩が忘れられなかったこと、さらに中将姫ゆかりの中之坊に前回寄れなかったことで、当麻寺に再訪した。

 当麻寺は私にとって、とても重層的な意味合いを持っていて、現地でのアースフィーリングは何とも言えないものであった。何か一生の宿題をもらうようでもある。

 周辺は、太古は奈良盆地が湖であり、二上山周辺が火山で噴火し湖の水が流れた場所と松本清張氏は何かの本に書かれていた。近くには黒曜石と同様に縄文時代貴重であったサヌカイトが産出する。

 また、この周辺は難波と大和を結ぶ街道や関もあり、交通の上でも大切なところのようだ。壬申の乱で、この地で多くの血が流されたのも理由があるようだ。

 大津皇子や大伯皇女のことは、このブログでも書いたこともあるが、今回は中之坊でお庭を観たり、寺宝を拝見したりし、中将姫のことで頭がいっぱいになった。

 中将姫は、藤原四兄弟の一人藤原豊成の娘であるが、幼くして生母が亡くなり、権力闘争からか、継母から多くの災難を受ける。そして15歳で出家するのだが、29歳で無くなるまでに、蓮から繊維をとり染織し當麻曼荼羅(国宝)を製作したという言い伝えがある。

 私は、最近縄文時代の研究で、カラムシという梅雨のころに繁茂する草の茎から、繊維をとり、糸を作るワークショップに参加した。実に大変な作業であったが、中将姫が蓮から素晴らしい曼荼羅を織りなしたことに感動を覚えた。その作業の意味はなんだったのだろう。

 さて、今の世の中は、身体の健康に殆どの人が関心を寄せ、身体の健康のために運動をしたり、ダイエットをしたりして元気になっていく人が多い。しかしながら、こころの健康はどうだろうか。恐らく、30年前の身体の健康と同じように、多くの人は、そういった知恵の存在すら気が付かない。しかし、U先生から生き甲斐の心理学を学んでいくと、そういった心のシェイプアップというか・・・何かあるように思えてならない。

 中将姫の蓮から曼荼羅をつくるという話なども、こころのシェイプアップの一つの事例ではないかと秘かに思っている。

 こうした、こころのシェイプアップの最たるものは何だろうか。昔から伝わる物語などは、そうした知恵に溢れていたりするのではないか。温故知新である。

 5月に「新宿勉強会」を開催する予定であるが、それまでに、こうしたこころの仕組みの研究を深めたい。

新春の旅 4

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女帝を生む時代を飛鳥の南端で考える・・・(新春の旅 3)

2017-03-07 | 旅・雑記帳

 若いころ何回か飛鳥を訪れたが、お決まりのコースで猿石や亀石などを見て、日本にこのような文化があったことに驚嘆した。それから何十年かして飛鳥を何回も訪れるようになったが、不思議なほど猿石などの現物を見に行くことはなかった。

 しかし、この半年、比較宗教学や比較文化を熟慮しつつ臨床心理学を学ぶ「生き甲斐の心理学」のU先生の関心は、女帝の時代の東アジアの状況に及ぶようになり、私も持統天皇と同時代の唐の則天武后や新羅の善徳女王に関心をもつようになった。

 さらに、最近の古代の考古学者の関心が日本だけでなく東アジア等世界に及んでいる状況も、業界の方からお聴きし、拍車がかかったようだ。私も縄文小説を書いて、縄文時代でも同時代の世界の影響を強く考えざるを得なかったこともある。

 さて、3月1日の活動を振り返ってみたい。この日は、図らずも女帝を妄想する日になった。草壁皇子の墓の次に訪れたのは、壺阪寺であった。

   

   

 

 入り口の近くの講堂に足を踏み入れて驚いた、そこには約500体のお雛様と平安時代の古い仏像が織りなす曼荼羅の世界があった。壷阪寺の創建は持統天皇の亡くなった翌年と言われている。日本で初めて火葬されたという持統天皇は、私は仏教を大切に考えていたと思う。それゆえに壺阪寺と持統天皇は何か関係があると私は思っている。

 壺阪ではは創建後飛鳥の南端といったらよい、この地で栄えるのだが明治の廃仏毀釈のときに廃寺になったそうだ。そして、天智天皇の御陵を北限に、平城京、藤原京、天武天皇・持統天皇の御陵、文武天皇御陵や今話題のキトラ古墳、そして壺阪寺と聖なる南北のラインに乗っている。

 聖なるラインとは北極星を意識した南北のラインである。天皇という言葉と関係が深いかもしれない。この発想は一説によると則天武后が考えたとも言われ、日本でも天武・持統天皇の時から使われ始める。もちろん原型は新石器時代にあると思われるが・・・

 壺阪寺まで来たので、車ですぐの高取城も寄ってみた。高取城は植村氏とも関係が深く、城壁に古墳の石が使われたり、猿石のような石も飛鳥からもってきて魔除けに使われたとも言われていて興味深かい。しかし、城址の近くは人通りも無く、次の看板には驚いて逃げたくなった(笑)。殆ど通行禁止と言っているようだ。

  今は冬なので、勇気を出して行ってみた。

    

山科の北限の天智天皇陵はこのところ何回か訪れアースフィーリングを楽しんだが、この高取町の南限の地も感じるところが大きかった。

次に、飛鳥駅の近くの欽明天皇陵と吉備姫王(吉備内親王ではなく、女帝の皇極天皇の母と言われる)の陵に行き、猿石と再会した。

   

 心理学の世界では、アニマとアニムスといった概念が登場する。興味深い概念であるが、この7世紀の東アジア。不思議なことに女帝、それも最強とも言ってよい女帝が東アジアにつぎつぎと登場する。隋を破った唐の太宗は貞観の治で有名だが、その後を受けて女帝の則天武后が実権を握る。日本でも持統天皇は余り目立たないようであるが、壬申の乱で勝利した天武天皇の後、南海地震などで大変な時期を持統天皇が実権を握り治める。それはほぼ則天武后の時代だ。それにより日本でも唐と同じような律令制が完成する。また半島でも三国を善徳女王を輩出した新羅が統一し、唐との戦いで勝つ。これにより、日本も唐に白村江で敗戦したにも関わらず、唐の支配から独立していくことができたようだ。ちなみに藤原京は新羅の当時の首都・慶州に似ているとも言われている。

 この時代には、百済と高句麗が東アジアで消えていく。どちらも女帝を輩出しなかった国である。男性と女性の本質は・・・生き残るための叡智と関係が深いかもしれない。それは何なのだろう。

新春の旅 3

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草壁皇子に会いに行く!(新春の旅 2)

2017-03-05 | 旅・雑記帳

 3月1日の早朝、やっと草壁皇子の古墳に出会えた。昨年、推古天皇陵や孝徳天皇陵、牽牛子塚古墳(斉明天皇の御陵と言われている)に行けたものの、草壁皇子の御陵といわれている束明神古墳にはたどり着けなかったからだ。

 今回は、ネットでしっかりと調べて、近くの公民館に車を止めて行った。束明神古墳はこちら・・といった標識がいくつかあり、それに従ってやっと見つけた。古墳は春日神社の長い階段を上ったところ、春日神社境内にあった。

    

  

宮内庁が認可した御陵ではないが、案内板があり草壁皇子の墓とほぼ認定されていることがわかる。八角形古墳であり、墓石等の状況から殆どそうだとされている。草壁皇子の歯と推察される歯もでている。

天武天皇と持統天皇の子供であり、天武系の血筋で元明天皇と結婚し、文武天皇を産むが28歳で夭折する。束明神という名前が何か思わせぶりなのだが、草壁皇子が残した唯一の歌が万葉集巻第二 110にある。

 日並皇子尊、石川女郎に贈り賜ふ御歌一首

 大名児を(おおなごを)

 彼方野辺に(おちかたのへに)

 刈る草の

 束の間も(つかのあいだも)

 我忘れめや

 石川郎女(いしかわのいらつめ)と大津皇子が交わした有名な万葉集の名歌の陰で、小説などでは三角関係に敗れたかわいそうな草壁皇子といったイメージがあるが、この歌はなんとも深い。一般には歌も大津皇子に劣ると言われているが。

 彼方野辺に・・と遠方の観念的な世界から、刈る草の束の間と現実的な今ここの世界に至る、カメラで焦点を合わせるような感性は何だろう。それは、現実的な石川女郎を通しての神秘の世界のようだ。キーワードは束で、これは短い草壁皇子の命を暗示しているようだ。白村江の唐との戦い、敗戦後の混乱、そして壬申の乱での内戦、そして複雑な政権の中で早逝する。短い生は、大津皇子の死と共に何らかの政治的犠牲者であった可能性を想わせてしまう。

 しかし、その生は短いながら日本の歴史に残した意味は大きい。草壁皇子が居なかったら、持統天皇も天皇になれなかっただろうし、ひょっとしたら壬申の乱の結果も違っていたかもしれない。歴史にもしもは禁物かもしれないが、これまた束の意味を感じてしまう。

 草壁皇子の時代、私の祖先はどうしていたのだろうと妄想する。2の階乗で祖先の数は増えていくのだが、父方の祖先は、どうも瀬戸内海で活躍していたようだ。越智氏と関係が深いようだが、越智は白村江の戦いで奇跡的に生き残った氏族のようだ。2万人の日本(当時は倭国)の船団が壊滅したとき、どのように生き残ったのだろうか。そして、古代の関ケ原の戦いのような壬申の乱のとき、白村江の戦いで殆ど戦力を失った西国の祖先は、草壁皇子をどのように見ていたのだろうか。

 この草壁皇子の墓。物寂しいものを感じた。草壁皇子自体のこともあるが、この墓の歴史も悲しい。明治時代の廃仏毀釈の時代に、草壁皇子の墓との情報が当局に入ったため、村を追われてしまうかもしれないとの村人の不安から、この墓自体を破壊しようとする人もいたようだ。明治という時代は、1000年以上前に作られた草壁皇子の墓にとっても、不思議な時代であったようだ。

そして、束明神古墳はひっそりと今も神社の境内に残されている。草壁皇子の魂は何を伝えようとしているのだろう。

新春の旅 2

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縄文時代の大遺跡が飛騨にあるとは! (新春の旅 1)

2017-03-03 | 旅・雑記帳

  2月28日より3月2日の昨日まで、小旅行に行ってきた。行先は縄文小説を書いているときから訪れたかった、縄文時代の天文台ともいえる飛騨の金山巨石群。さらに、今年のテーマ「持統天皇」に関係する飛鳥南方の壷阪寺と草壁皇子の墓と言われる束明神古墳、さらに天智天皇の時の遺跡として有名な水時計の水落遺跡、前回ゆっくり見られなかった二上山のそばの当麻寺、さらに伊勢神宮と斎宮歴史博物館。小旅行にしては欲張った旅であった(身体は疲れたが心はイキイキ)。

 ちょうど今、自己実現のテーマでブログを書いていたが、その収穫も大きかった。さて、今日はその小旅行の初日の金山巨石群について述べたい。

 早朝に八王子から車で約5時間。下呂温泉から約30分の岩屋ダムのそばに岩屋岩陰遺跡があった。2月28日の11:00に到着したので、閏年を観察できる10:00のスポット光には間に合わなかったが、18年の観察データをもとに作られた「金山巨石群の縄文太陽観測ガイド」の著者の一人のTさんのガイドでみっちりと巨石群を堪能させていただいた。

 この遺跡は、余り知られていない考古天文学で語られる分野であり、世間では殆ど知られていない。しかし、知れば知るほど、青森の三内丸山遺跡以上に縄文の祖先の偉大さを感じることができる画期的なものた。

 その内容は、山奥であるにも関わらず人為的に巨大な巨石を加工・移動して、太陽光や星空から高精度の暦を求められるようになっているだけでなく、観念的なものではなく、身近な生命体と結びつく時間・暦で、恐らく当時の専門家以外の大人や子供が実感でき、生きた知識になるように工夫されているようだった。

 Tさんによると毎年夏の時期になると岩屋で子育てをする蝙蝠は、観測開始してから毎年判で押したように来て同じ数の子供を育てるようだ。もちろん、蝙蝠だけでなく、周辺の多様な森の生命は正確に時間を刻んでもいるのだろう。それゆえに、縄文時代の祖先は冷蔵庫もスマホもない時代に、多様な生命の恩恵を暦を把握することによって得ていたのだろう。何百もある植物の中で、今日が特定の野草が旬であることを知ったり。

 この遺跡の古さは古代天文学の知見から、最後に使われたのが3000年前(縄文晩期)とされているが、それ以上であることは他の遺物等で確実なようだ。それは、エジプトの太陽暦をはじめ今まで知られている古代の暦にひけをとらない。

    

  

 (太陽を観察する場所も加工されて確保してあり、そこから春分や夏至の太陽の位置も正確に読み取ることができる!)

  (有名な縄文の祖先が刻んだ太陽の光の方向を示す線刻と、スポット光の形の目安。形から夏至を決めることができる)

 

  (北斗七星の観測等に使ったと思われる岩に刻まれた世界各地の遺跡と同じ反転した北斗七星の図)

(北極星を観察するために35度の角度の傾斜の岩があるのも凄い)

 

   

 (微妙なスポット光を作るために巨石をどのように移動したり加工したかは不明だが、ちゃんと必要な穴ができている。)

 

(ちょうど2月28日は、祖先も恐らくスポット光から割り出した閏年の判定日であった。閏年が観念的なものでなく、観察してわかるようになっているのは驚きだった。スポット光は四季や二至二分を観測できるようになっている)

 さて、最後にこの遺跡を作った祖先は、いったい何のために作ったのかをご一緒に考えてみたい。私たちもそうだが、短い人生の中で何のために・・・と考えることは大事だ。恐らく遺跡の設計者は地球の一年の周期を正確に知りたいと考えたことは間違いないだろう。それは実用的な意味からすると当時でもあまり役にたたないことだったと思う。数学の整数論の世界が暗号で若干役立っているが、そのほかには今の世の中に営利的には貢献していないのに似ている。しかし、真理を探究することは人間の持つ不思議な傾向であり、それ自体は尊いことだ。

 美の世界の探究もあったように思う。冬至の太陽が沈む様は私にとっては感動を覚える世界だが、飛騨の山中でこのような巨石を通して太陽や星空を見ることは大きな意味があると思う。固定した視座から清々しい太陽の光をみて幸福を感じることもあると思う。

 さらに、暦は部族が生き残るための衣食住に関係する大事な情報ともいえる。従って、特定の人の道楽ではなく、子孫に伝える教育や社会の構成員への教育も兼ね備えてなければならない。この遺跡は、複数の岩から観測が多角的にできるようになっていて、冗長かもしれないが、あらゆる人や動植物にやさしいようにできている。なにか、村の切れ者というより、偉大な知恵をもった年寄りのような、善そのものの存在のようだ。

 以上のように真善美の面から考えても、この遺跡は素晴らしいと思う。

新春の旅 1

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